本庄正宗
本庄正宗(ほんじょうまさむね)
- 「右馬頭太刀」、「東禅寺正宗」
- 享保名物帳所載
本庄正宗 磨上 長さ弐尺一寸五分半 無代 御物
上杉謙信、景勝兩代の内、侍大将に本庄越前守重長と云者あり、其頃庄内城主を大寶寺と云、其家の侍頭を東禪寺右馬允と申す、然るに越前守庄内の城を責落し安川原と云處に床机に腰掛居たる處、東禪寺右馬允味方の體にて首を提け刀をかたげ来り近々と寄り、重長か兜の鉢を割る、重長手を負ながら右馬允を打留め、右の刀を取る、兜を割たる故か「コボレ」あり、後ち秀次公金十三枚に召上らる秀吉公へ上る、島津兵庫殿拝領、家康公へ上る、御分物にて大納言殿へ進ぜらる、御隠居の砌、家綱公へ上る。
- 明治45年(1912年)刊行の「刀剣と歴史」には次のように記載されている。
拵へは慶長頃の物らしく、頭は角 藍革にて巻掛け大菱、鍔は直径二寸の金なり、目貫は丸に桐の紋、絽塗の鞘にて鐺なし、紫の下緒、笄付、いかにも古雅なる拵へである、総丈二尺一寸五分あり。
- 中心大磨上、目釘孔1つ、無銘。
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由来
- 上杉家の武将本庄繁長が所持したことにちなむ。
本庄越前守繁景は越後の勇将なり。後景勝、上杉十郎憲景が禄を本庄に与へらる。本庄、出羽の庄内大宝寺義興と戦ひ勝て、二男千勝丸に庄内を与へけり。
本庄、最上、義光と出羽の千安が表にて軍しける時、最上の軍敗北せしに、義光の士大将東漸寺右馬頭、口惜き事に思ひ取て返し、首一つ提て越後の兵に紛れ、繁長を目にかけて、「只今敵の大将を討取て候。実検に入れ奉らん」と言て馬に鐙を合せかけ寄りて正宗の刀を以て胄を打つ。明珍の胄なりしかば筋四ツ切削りたり。繁長、右馬頭を切て落し、首に添て景勝に出したり。刀をば本庄に返し与へられしが、後故有て東照宮の御刀となり、本庄正宗といへるは此刀なり。
来歴
東禅寺勝正
- 天正16年(1588年)8月の十五里ヶ原の戦いにおいて、上杉家の武将・本庄繁長が東禅寺城主である東禅寺義長と戦った際の話。
- 東禅寺義長の弟、東禅寺勝正(右馬頭光安とも)が上杉勢のふりをして単身繁長の本陣へ突入し、不意をついて本庄繁長に斬りかかろうと図る。
右馬頭は、数箇度の戦いに、餘多手負ひしが、首一つ取りて掲げ、血刀を振りかたげ、高名仕候間、大将本庄殿へ御目見せんと、味方のふりして、上杉勢の中へ入る
- 途中怪しむものがいたが、味方(越後黒川)のものだと騙したために本庄繁長の装束まで教えてしまう。東禅寺勝正はまんまと本庄に近づき、持っていた首を本庄に投げつけ斬りかかった。しかし逆に本庄繁長と側近達により討ち取られ分捕られてしまう。
時に上杉勢にて咎むる者あり、東禅寺答へて、越後黒川の者にて候といふ、上杉勢誠と心得て、馬上にて、霜色の扇披き遣ひ申され候武者こそは大将繁長にて候と教へければ、東禅寺馬を乗寄せ、敵の大将東禅寺右馬頭を討取ると申し乍ら、歩ませ近づく、繁長實にもと振廻す所へ、持首を、繁長の顔へ打付け、正宗の刀にて、繁長が甲の錣のはづれを切付くる、繁長が𩋙吹返を切割り、左の小耳へ切付くる、繁長心得たりと抜合せ切結ぶを、越後勢大勢馳せ重り、遂に東禅寺は、繁長に討取られ候、其刀を取り、首を見れば東禅寺右馬頭なり
- この時勝正の一撃により、本庄繁長の兜はこめかみから耳の下まで切り取られ、兜が割られたという。
- この時の様子は、如儡子こと斎藤親盛の記した「可笑記」にも載る。
むかしそれがし、ためしのよろひをおどし候はんとて、註文を仕り、おやにみせ候へば、親の申され候は、ためしのよろひはおもき物にて、汝がやうなる小男の用には立がたし。侍の諸道具は、其身々々に相應して取まはし自由なるがよしとて、其ついでにかたられけるは、汝が母かたの舅、東禪寺右馬頭(東禅寺勝正)つねに申されけるは、運は天にあり鎧はむねに有とて、幾度のかせん(合戦)にも、あかねつむぎの羽織のみうちきて、何時も人の眞先をかけ、しんがりをしられけれ共、一代かすで(かすり傷)をもおはず。一とせ出羽國庄内千安合戦(十五里ヶ原の戦い)の時、上杉景勝公の軍大将本庄重長とはせあはせ、勝負をけつする刻、敵大勢なるゆへに、四十三歳にして打死せられぬ。其時、本庄重長も星甲のかたびん二寸ばかり切おとされ、わたがみへ打こまれ、あやうき命いきられぬとうけ給はりしなり。きれたるも道理かな、相州正宗がきたいたる二尺七寸大はゞ物、ぬけば玉ちるばかりなる刀なり。此かたな重長が手にわたり、景勝公へまいり、それより羽柴大閤公へまいり、其後、當御家へまいり、只今は二尺三寸とやらんにすり上られ、紀州大納言公に御座あるよしをうけ給はり及申候。此右馬頭最期のはたらき、出羽越後兩國において、古き侍は多分見きゝおよびしりたる事なれば、子細に書付侍らず。
斎藤親盛の母方の叔父が東禅寺勝正という関係になる。この当時は紀州徳川家にあったことが記されている。本庄繁長──┬本庄顕長 ↑ ├本庄充長 (盟友) └本庄重長(福島城代) ↓ 大宝寺義増─┬大宝寺義氏 └大宝寺義興━━大宝寺義勝(実父は本庄繁長。のち充長) (酒田代官・東禅寺城主) ┌東禅寺義長(前森蔵人) ├東禅寺勝正 └─妹 ├───斎藤親盛(如儡子)──斎藤秋盛(二本松藩士) 斎藤広盛(最上家臣)
本庄繁長
- 分捕った正宗は上杉景勝に献上されたが本庄繁長に下賜された。このころは元所持者である東禅寺右馬頭にちなみ、「右馬頭太刀」と呼ばれたという。
- また元は三尺八寸(三尺三寸、二尺七寸など諸説あり。)あったものを、景勝が二尺五寸に磨上させたという。
越前を呼び懸け、高名致し候といひながら近寄り、其首を本庄に投付けて、東禅寺右馬頭と名謁り、昔が子の三尺八寸の太刀を以て、本庄が直額をわれよ摧けよと二討つ、本庄、勝つて鍪の緒をしめて、首實驗し居たる故、兜は斬割られず、左方の吹返を斬割り、眼尻より頣かけて切付くる、本庄早く側に横たへたる薙刀を追取り、將机を少しも去らずして、右馬頭をはね倒すを脇より立合ひ右馬頭が起上らざる内に惨殺す、本庄は其儘又首實驗そ首帳を認めさせ凱歌の儀式を執行ひ武名世に高し、右馬頭が刀は相州正宗なり、本庄即ち景勝公へ上る、其後、景勝太閤へ進じ遣され、太閤より又権現様へ進ぜられ、今に紀伊頼宣卿に本庄正宗とて之ある由之を承る、寸長しとて今かね二尺五寸に御磨上げなされたりと聞傳へ候
しかし上杉将士書上などによれば、景勝はその場で正宗の刀を本庄繁長に与えている。景勝が磨上たのが事実だとすると、一度景勝に献上され、磨上たあと再度本庄繁長に与えたことになる。または景勝の命により磨上させたという可能性もあるが、本人の佩用刀でもないものを磨上させるのも不思議な話ではある。
羽柴秀次・秀吉
- その後文禄のころに伏見城築城の際に、本庄繁長は上杉家受け持ちの普請奉行として京都に上るが、経費多く困窮し、やむなく羽柴秀次に金130枚(大判13枚)にて譲渡し、さらに秀吉に献上される。また秀吉・島津義弘を経ず、直接家康に献上したとの説もある(庄内物語など)。
文禄の末、伏見御城御普請、天下の諸大名働きしに、景勝より人数普請奉行を差登せ、本庄繁長も其中にて、在伏見なりしが、自ら金銀を遣ひ盡し難儀にて、彼の正宗を拂ひに出したるを、本阿弥見て、出来格好、正宗の作には天下第一なりと申上げ家康公へ判金廿五枚に召上らる。
文禄年間は1596年まで。献上する経緯は諸説ある。
- ただし「庄内物語附録」には、元文4年(1739年)に上杉民部大輔(5代・上杉吉憲)が老中・松平左近将監(松平乗邑か)に送った書付の覚えが載っており、そこでは下記の様に、秀吉にお目見えしたときに献上したのだと記す。
元文四年正月二十一日御老中松平左近將監様へ上杉民部大輔様御留守居被召呼以書付御尋被遊候ニ付其節上杉様より被差上候書付之覺
本庄正宗と申刀本庄越前守所持之道具之由右所持士候ニ由緒書も候哉委曲相尋書付差上可申旨家來本庄彌次郎重長ノ末孫ナリへ相尋候て差上候趣申上候覺
(東禅寺と戦った逸話略)
右之太刀は關白秀吉公高麗陣之節越前守重長御目見ノ砌献上士候由申傳候右通之慥成証文等ニハ無御座候へとも申傳候通書出候由申儀ニ御座候 以上
二月 上杉民部大輔
証文などは無いものの、文禄の役の頃に伏見城を築城していたのは事実であり、本庄繁長がどこ(京なのか大坂なのか名護屋なのか)で御目見得したのかは不明だが、本庄家ではこの様に伝えていたということがわかる。ただしこの説では秀次が登場しない。なおこの時は吉宗(在位:1716-1745)の代である。
島津義弘
- のち島津兵庫頭(島津義弘)が拝領する。島津義弘が拝領したのは、泗川での活躍を賞して秀吉の死後慶長4年(1599年)正月9日に五大老から贈られたものである。
(慶長)四年乙亥
義弘公 忠恒公五大老ノ召ニ應シテ聚楽城ニ登ル正月九日五大老泗川ノ大捷ヲ賞シ 義弘公ニ正宗本庄正宗ト号ス名物也ノ刀ヲ給ヒ、且薩隅二州ニアル處ノ直隷薩州出水高城二郡ノ内薩州加治木郷ノ内石田三成領、細川幽斎領、羽柴對馬領、全ク是ヲ給フ、
同日に島津家久は正四位少将に任ぜられ、「千引長光」を拝領している。
正月三日東照宮、義弘が伏見の邸に渡御ありて帰朝を祝せられ、吉例の物なりとて二次国俊の御刀をたまはる。九日大老連署の書をあたへ、義弘が朝鮮の軍功を賞せられ、薩摩國のうち収公せられし地五万石、及び正宗の刀をさづけらる。これ東照宮の御はからひによるところなり。
(寛政重脩諸家譜)
家康
- 島津義弘はのち徳川家康に献上する。
紀州徳川家
- 駿府御分物として紀州徳川家へと渡る。
- 上に引用した斎藤親盛が記した「可笑記」はこの頃に書かれたものである。斎藤親盛は慶長8年(1603年)生まれ、延宝2年(1674年)没。
将軍家綱
- 寛文7年(1667年)6月1日、紀伊大納言頼宣が隠居の時に、将軍家綱に献上された。
六月朔日紀伊宰相光貞卿襲封を謝して。 備前景安の太刀。 銀千枚。時服五十。 綿五百把獻じ。 致仕大納言頼宣卿より時服二十。 金馬代さゝげられ。 又得物とて本庄正宗の刀。 虚堂墨跡。 茶入(朱衣肩衝) を奉られ。
伝家の宝刀
- 家康は、この本庄正宗を将軍家代譲りの際に必ず世子に伝えるべしと言い残したという。
後に紀伊頼宣卿に進せられしを。 また彼家より獻られ。 今に御寶藏として。歴世遷移の御ときにはまづこの御刀を進らせらるゝ事にて。三種の神器うけわたさるゝごとく。
- ただし、実紀によればそれまで紀伊家にあったため実行されたのは4代以降となる。秀忠が家光に譲ったのは不動国行と江雪正宗、宗三左文字(義元左文字)であり、家光が家綱に伝えた刀は記載がない。
(寛永9年正月 1632年)西城にて大御所(秀忠)御危篤にわたらせ給ふ、不動国行の御太刀、江雪正宗の御太刀、三好宗三左文字の御刀を本城(家光)にゆづらせ給ふ、これ神祖関原、大坂の両陣に帯し給ふ所なり、豊後藤四郎の御さしぞへ、奈良柴といふ茶入、捨子と名付し茶壺、圓悟の墨跡も同じく御譲輿あり
- いつ頃から行われたのかは不明だが、少なくとも4代将軍家綱のときには、正月の具足餅祝の儀に用いられていたとされる。この日、将軍は辰の刻(午前8時)に熨斗目半袴を着用の上で御座の間に出御し、朝廷への年頭の御使を高家に命じ、御太刀一腰、御馬代金三枚を進上させ、さらに伊勢神宮にも御太刀一腰(代金一枚)、御馬代(金一枚)を進上させた後、黒書院に出御し、勝川の具足(歯朶の具足)と本庄正宗とを拝し、溜の間詰め以下の大名、および布衣熨斗目麻裃の家臣を引見し、御具足の御供への餅と御酒を下賜したという。
5代綱吉
- その後延宝8年(1680年)5月家綱が危篤の際に、館林宰相の綱吉を世子とした際に、この本庄正宗と来国光の脇差しを伝えている。
(延寶八年)宰相殿をむかへ奉りて。 二丸にうつらせたまひ。 やがて本城にわたらせたまふ。 御座所にて御對面あり。 御手づからのし進らせられ。 大納言にのぼらせ給ふべまむね面命ありて。 本庄正宗の御刀。 來國光の御さしぞへを進らせ給ふ。 こは御傳家の御寳とぞ聞えし。
かくて御對面あり。 權大納言に任ぜらるべき旨仰出され。東照宮より傳へ給ひし本庄正宗の御刀。 來國光の御さしぞへ進らせ給ふ。御拜受ありて。二丸へ歸らせ給ひて後。
- 以降、本庄正宗と奈良柴の茶入などが代々継嗣の際に譲り渡す道具となった。御腰物台帳にも「御代々御譲」の筆頭に記載されている。
9代家重
- 延亨2年(1745年)9月25日、8代将軍吉宗は世子家重に贈っている。
延享二年九月廿五日本城に移り給へり。(略)大御所より御傳家の本庄正宗の御刀を讓り進らせ給ひ
10代家治
- 宝暦10年(1760年)5月13日、9代将軍家重は10代将軍家治へ贈っている。
五月十三日本城へ移りたまへり(略)父子對面し給ひ。この日又御傳家の御寶本庄正宗の御刀をゆづり進らせ給ひ
将軍家代々
- その後も、家治の薨去により天明6年(1786年)11代将軍家斉へ、天保8年(1837年)4月2日家斉から12代将軍家慶へ、家慶薨去により嘉永6年(1853年)6月13代将軍家定へ、家定薨去により安政5年(1858年)7月14代将軍家茂へ、家茂薨去により慶応2年(1866年)15代将軍慶喜へとそれぞれ譲渡された。
- 明治元年(1868年)7月に、慶喜は後嗣となった田安亀之助(16代家達)へ贈っている。
慶応4年9月8日より明治に改元したが、「慶応4年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用される。
- 以上、記録でわかっている譲渡歴を記す。
- 4代家綱:延宝8年(1680年)館林宰相綱吉(5代将軍)へ
- 8代吉宗:延亨2年(1745年)世子家重へ
- 9代家重:宝暦10年(1760年)世子家治へ
- 10代家治:天明6年(1786年)薨去により家斉へ
- 11代家斉:天保8年(1837年)家慶へ
- 12代家慶:嘉永6年(1853年)薨去により家定へ
- 13代家定:安政5年(1858年)薨去により家茂へ
- 14代家茂:慶応2年(1866年)薨去により慶喜へ
- 15代慶喜:明治元年(1868年)後嗣田安亀之助(16代家達)へ
占領軍による押収
- 徳川宗家第17代徳川家正氏により所蔵されていたが、昭和20年(1945年)12月に占領軍の命令によりすべての刀剣が押収された。この時、「本庄正宗」、「太刀 銘備前長船住長光/嘉元二年十一月」、「太刀 銘 国俊」を含む32口が目白警察署に提出されている。
東京都渋谷区代々木大山町一〇六四
徳川家正
1.提出刀剣
1.国宝 刀 無銘 名物本庄正宗
2.重美 太刀 銘 備前長船住長光
3.重美 太刀 銘 国俊
2.昭和二十年十二月 目白警察署へ提出
3.昭和二十一年一月十八日 同警察より騎兵第七連隊へ提出
部隊責任者
コリーデイバイモ軍曹
- 昭和21年(1946年)1月18日に目白警察署から「騎兵第七連隊 部隊責任者コリーデイバイモ軍曹(Coldy Bimore)」により”強制的に”上記3口の刀剣が持ちだされたという。
Coldy Bimoreは「D. B. Moore (nickname ‘Cole’)」であるとされる。Wikipedia(英語版) ※現在はMasamune項に転送される。Moore氏は1979年に死去。本刀「本庄正宗」については米国内での関心も高く、上記英語版WikipediaのMasamune項でも本刀が最初に並んでいる。遺族に渡っているものと想像されるが、米国内での調査でもインタビューを拒否しているとの情報がある。
- その後、現在まで行方不明。
- 関連項目「赤羽刀」を参照。
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