宇佐美長光


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宇佐美長光(うさみながみつ)  


長光
宇佐美長光
二尺四寸五分
重要美術品
伊達市教育委員会所蔵

由来  

  • 上杉家の家臣、宇佐美駿河守定行(宇佐美定満)の所持にちなむ。

    重代の備前兼光太刀を定実へ進上す、此の太刀隠れなき大業物にて、殊に大剛の宇佐美が所持なれば、定実悦喜限りなり、宇佐美兼光と号けて秘蔵せらる、

来歴  

足利義政  

  • 元は8代将軍足利義政の所持という。

宇佐美政豊  

  • 寛正元年(1460年)、畠山政長が河内金胎寺城に立て籠もった畠山義就を攻めた際に、越後琵琶城主であった宇佐美左衛門尉政豊も寄手として参戦していた。(嶽山城の戦い)
  • 寛正3年(1462年)落城間近になったとき宇佐美政豊は先頭に進み目覚ましい働きを行ったため、それを賞して将軍義政より備前長光の刀を拝領したという。
    河内金胎寺城は大阪府富田林市にあった城郭。河内・紀伊・越中守護であった畠山持国の後継者を巡って享徳3年(1454年)に発生した畠山氏のお家騒動は、室町幕府の足利義政、管領細川勝元、元侍所頭人山名宗全らを巻き込み一大騒動へと発展する。当初は持国の息子義就と甥の畠山弥三郎(政久)が担ぎ出されるが、弥三郎が死ぬと弟の畠山政長が幕府側に擁立され、追い詰められた畠山義就は河内南部の嶽山城へ籠城した。
     一度は高野山から吉野へと落ち延びた畠山義就だったが、のち細川勝元と袂を分かった山名宗全や斯波義廉の支援を受けて文正元年(1466年)に挙兵・上洛して畠山政長の追い落としを図り、反発した政長が義就と交戦(御霊合戦)したことで、応仁の乱を勃発させた。
    【宇佐美氏系図】 ※諸説あり
    
    宇佐美政豊──祐孝──能登守貞興──左近大夫祐興
     (祐時)       ︙
               能登守定興──越中守孝忠──房忠──駿河守定満(定行)
    

宇佐美孝忠  

  • その後政豊四代の孫越中守孝忠が越後守護上杉家の重臣として武州川越に遠征した際、敵の物見がただ一騎槍持ち一人を連れて進み出た。それを見た孝忠が馬で駆け寄り、拝領の長光で一刀で斬り捨てた。返す刀で槍持ちを払ったところ槍持ちが槍の柄で受けたので、それを切り折った上で、槍持ちの首を向かい歯まで切り下げたという。

    永正元年、房定の子上杉顕定と上杉朝良北条早雲と、武州川越にて一戦の時、越後より顕定加勢として、宇佐美越中守孝忠其子駿河守定行大将にて一万八千にて川越表へ出陣する。度々合戦有。或時斥候の敵一騎鑓持一人連て出るを、越中乗付、敵を切落し、其上に鑓持を切るに、鑓の柄にて請たりしに樫の柄を切落、鑓持の頭を向歯迄切付る。則宇佐美長光也。

宇佐美定満  

  • のち孝忠の孫(一説に子)の駿河守定満(定行)が所持する。

上杉定実  

  • 定満は、永正6年(1509年)に上杉定実を迎えて屋形とすると、長光を献上している。

    主君房能男子なけれは一門の上杉兵庫頭定実を取立大将にし、千坂・斎藤・直江・本庄以下の上杉譜代の兵共を催し、上条の城、本庄・柴田・五泉等の城々に取籠、為景と合戦する。其時重代の長光太刀を定実に進上。

    上杉家臣多中に琵琶嶋の城主宇佐美駿河守定行廿一歳なれ共、度々の戦功其名高し。此度千坂・斎藤・本条・金沢・直江等を催し房能吊合戦を思立、則上杉麁流上条定実を大将に取立刻、宇佐美重代の備前長光太刀を定実に進上。此太刀大わさ物、殊に大剛宇佐美所持なれは定実悦ひ無限。則異名を宇佐美長光と云て秘蔵有し也。

伊達実元  

  • 上杉定実には嗣子がなく、甥に当たる伊達稙宗の三男である時宗丸(後の伊達兵部実元。伊達成実の父)を養子に迎えることになり、天文11年(1542年)、越後上杉家から伊達実元にこの長光が贈られた。

    天文十一年壬寅六日。自越後直江大楽両使。来迎公子五郎殿。贈為重代腰刀宇佐美長光竹雀幕。且賜実一字。約為上杉兵庫頭定実養子。因以六月廿三日発遣。然廿日不意内乱起。終不果

    一ちやけきりのたち、一なかみつ、うさみとのよりのかたな、一よしむねよりのかたな、もりいへとなつけ候、むもん、しやくとう、ちとり、
    大日本古文書. 家わけ 三ノ十(追加) 氏名未詳覚書

    從會津御縁
    寛永十二年正月廿日に書立候也
    眞元様 上杉之御名代相濟、竹雀之御幕紋、長光之御腰物、實之御一字、大樂殿よ申御使者而被遣候、十六年之六月廿三日越後御越候御日取、廿日御父子様御弓矢罷出、無御越候
    大日本古文書. 家わけ 三ノ十(追加) 伊達稙宗同晴宗子女書立

伊達稙宗の母が上杉定実の姉妹(あるいは娘)という関係で、定実から見れば甥あるいは外孫にあたる。天文の乱(1542年~1548年)が起こったことによりこの養子話は結局流れてしまうが、長光と竹に雀紋(上杉笹)は伊達家に伝わった。

いっぽう上杉定実は跡継ぎを得られないまま天文19年(1550年)2月26日に死去、これにより越後上杉氏は断絶した。越後は守護代の長尾景虎が足利義輝に越後国主と認められ、名実ともに戦国大名としての地位を獲得した。※上杉謙信の項参照。なお山内上杉家の家督および関東管領を継ぐのは永禄4年(1561年)閏3月16日。

【山内上杉家】
上杉憲顕─┬憲方─┬憲定──憲基━━憲実─┬憲忠
     │   └房方         ├房顕━━顕定━┳顕実
     │               └周清──憲房 ┗憲房──憲政─┬龍若丸
     │                               ├憲藤
     │                               ├憲重─┬憲国
     │                               ├憲景 └憲武
     │                               ┗政虎(長尾景虎・上杉謙信)
     │【越後上杉家】
     └憲栄━━房方─┬朝方─┬房朝━━房定─┬定昌
             ├頼方 └朝定     ├顕定
             ├憲実(憲基養子)   └房能━━定実
             │
             │【上条上杉家】
             └清方─┬定顕
                 ├房定(房朝養子)
                 └房実─┬定実(房能養子)
                     ├上条定明─┬上条定兼
                     ├上条定憲 └上条頼房
                     └積翠院
                       ├────伊達稙宗──┬伊達晴宗──伊達輝宗──伊達政宗
                      伊達尚宗   │    └伊達実元──伊達成実
                             ├────┬亘理綱宗
                            亘理宗隆娘 └亘理元宗──亘理重宗

仙台伊達家  

  • その後、本刀は伊達実元から伊達宗家の伊達晴宗に献上され、伝来する。金二十枚の折紙がつく。

    乍去母方相伝故、宇佐美長光の太刀と竹に雀の幕は秘蔵するを、兄晴宗所望にて相渡す。是より伊達家に竹に雀を用る由。宇佐美長光の太刀も伊達家に伝り有由。

亘理伊達氏  

  • 明治25年(1892年)、亘理伊達氏14代・伊達邦成は、北海道開拓の功により男爵に叙勲される。この年、亘理伊達家所蔵の安綱金重を献上する代わりに、宇佐美長光を下賜されたという。
  • 昭和15年(1940年)9月27日、重要美術品の指定を受ける。

    太刀 銘長光 北海道有珠郡伊達町 男爵伊達廉夫
    (昭和十五年 文部省告示第五百五十八號)

    伊達廉夫
    伊達廉夫氏は大洲藩主加藤泰秋の六男。亘理伊達氏15代伊達基の婿となり、亘理伊達氏17代。のち有珠郡伊達町第4代町長(1943~1946)。




竹に雀紋  

  • 元々、「竹に雀紋」は六波羅探題が使用した紋で、平氏没落後に藤原氏勧修寺経房が勧修寺家の家紋(勧修寺笹)とした。
    勧修寺経房(藤原・勘解由小路・吉田)は、藤原北家勧修寺流、権右中弁・藤原光房の子。久安6年(1150年)に9歳で従五位下・侍従に任じられ、翌年に兄信方が急死すると代わって7年間伊豆守を遙任するようになる。その後平清盛の知遇を得て平氏政権では実務官僚として頭角を現す。しかし後に鎌倉政権とも繋がり、源頼朝から朝廷や院への要請の多くがこの経房を経由するようになる。これが関東申次の始まりと考えられている。
     この経房の同族で勧修寺流の上杉重房は、5代執権北条時頼により後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が下向し6代将軍に就任する際に、介添え役として鎌倉に供奉し、丹波国何鹿郡上杉庄を賜り、以後上杉氏を称した。
  • 勧修寺重房(上杉重房)を祖とする関東管領の上杉家(山内上杉家、扇谷上杉家)も同様に竹に雀紋を使用する。越後の上杉家もその後裔であるためにこれを用いていた。後に会津若松から米沢に移った後もこれを用いている。
  • それが養嗣子になる際に伊達実元に贈られた後に、雀を柿色に変更した上で伊達宗家でも使うようになった(仙台笹)。分家の伊予国宇和島伊達家も使用しており、こちらは宇和島笹と呼ばれる。
  • さらに、最上義守(義光の父)の娘義姫が伊達輝宗(政宗の父)に嫁いだ際にも伊達家の竹に雀の紋が贈られている。
    もちろん細かな部分で意匠は異なっており、伊達家中では笹の枚数が細かく異なる。伊達宗家の当主は内外52枚で、家族は48枚、一門はこの枚数を超えないと定めてある。亘理家は内外36枚、角田石川家は内外26枚、宮床伊達家は内外30枚、他が内外9枚などと決まっている。




宇佐美定満(うさみさだみつ)  

  • 越後守護上杉定実の配下であった宇佐美房忠の子に生まれる。
  • 定満は、越後守護の上杉氏の一門定実の出身家柄でもある上条上杉家に仕える。天文4年(1535年)に、定実の弟上条定憲と共に上条上杉家の再興を目指して長尾為景と戦ったが、天文5年(1536年)に春日山城下で敗北すると、為景に降伏した。
  • 為景の死後、その子の長尾晴景、そして長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。
  • 永禄年間にはすでに70歳を超えており、老齢で現役から隠退していたといわれる。
  • 17世紀中に紀州藩に仕えた軍学者宇佐美定祐が、当時流行していた武田信玄の軍法と称する甲州流軍学に対抗して上杉謙信の軍法として越後流軍学を唱えた時、自身の先祖と称する「宇佐美駿河守定行」という人物を上杉謙信の軍師にして越後流軍学の祖であると仮託し、架空の軍師宇佐美定行の名が広く知られるようになる。そのモデルはこの宇佐美駿河守定満であると考えられている。


伊達実元(だてさねもと)  

  • 伊達稙宗の子として生まれる。幼名は時宗丸。
  • 亘理伊達氏の祖、伊達成実の父。

上杉定実の養子入り  

  • 母が越後鳥坂城主中条藤資の妹であることから、越後守護上杉定実の養子に入ることになり、定実から一字を拝領して実元と名乗るなど準備が進められた。
    • 長尾為景の没後、中条藤資は伊達稙宗の三男実元を上杉定実の養子に迎え入れ、伊達氏の援助の元で守護権力の復活を図った。
    • 現在伊達氏の家紋として有名な「竹に雀」、名刀「宇佐美貞光」は、共に実元に贈られた引出物である。

天文の乱  

  • しかし、天文11年(1542年)、稙宗が越後に向かう実元に家中の精鋭100騎を随行させようとしていることを知った実元の兄晴宗がこれに反発したことから、父稙宗を西山城に幽閉する。
  • 西山城からの脱出に成功した稙宗は晴宗に対して兵を向け、ここに南奥羽全域を巻き込んだ天文の乱が勃発する。
  • 実元は稙宗方に属して信達地方で奮戦したものの、乱が晴宗方の勝利に終わると実元は晴宗に降伏し赦免された。同時に越後でも入嗣反対派が抗争に勝利したため、実元の上杉氏への入嗣案は立ち消えとなった。

信達地方領主  

  • 乱後に晴宗が米沢城へと居城を遷すと、晴宗の二女を娶って大森城主となった実元が晴宗に代わって信達地方の統治を担うことになった。
  • 天正11年(1583年)、嫡男成実に家督を譲り八丁目城に隠居し棲安斎と号したが、隠居後も引き続き一門の長老として外交・調略に従事し、成実と共にたびたび政宗の苦境を救った。

亘理城主(成実)  

  • 息子成実が慶長7年12月(1603年2月)に亘理郡亘理城主となり、江戸時代を通じて家中最大の24,385石を領し亘理伊達氏と呼ばれた。

北海道伊達市  

  • 伊達家は戊辰戦争において奥羽越列藩同盟の盟主となり、敗北にともない所領を失う。第14代亘理伊達当主伊達邦成は、家中を率いて数度に渡り北海道に移住して現在の伊達市を開拓。「宇佐美長光」も伊達市開拓記念館に所蔵されている。また実兄にあたる伊達邦直は当別町の基礎を築いている。

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