徳用守家


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 徳用守家(とくようもりいえ)

太刀
銘 守家
号 とくよう
二尺四寸二分四厘
刃長73.3cm
御物

  • 畠田派の祖である備前守家の作。
  • 元身幅一寸七厘。表裏に棒樋をかき流す。鋩子は乱れこんで小丸。中心うぶ、目釘孔1個。佩表に「守家」の二字銘。
  • 徳川家康から贈られた畠田守家作の太刀
Table of Contents

 由来

  • 「徳用」とは健全無比なことからつけた号。
  • 徳川家(松平)にあった頃より「徳用」の名があった。

 来歴

 徳川家

  • 武田信玄は、足利将軍家や本願寺、焼き討ちを受けた天台宗(比叡山)など在京諸勢力の度重なる上洛要請を受けていた。永禄3年(1560年)には今川義元が信長に討たれ、永禄10年(1567年)には甲州への塩留めが行われた結果、甲相駿三国同盟も破綻する。今川旧領である駿河遠江の武田方侵攻により、徳川・北条との間で緊張が走る。その後も信玄は駿河侵攻を続け、永禄12年(1569年)頃までにほぼ掌握に成功する。
  • さらに長年関東で覇権を競った北条氏康が元亀2年(1571年)10月にこの世を去ったことを受け、足利義昭の仲介で実現していた越相同盟は事実上機能していなかったことから、跡を継いだ北条氏政はこれを破棄した上で信玄との再同盟(第二次甲相同盟)締結に至る。こうして周辺状況を整備し終えた信玄は、遂に西上作戦(実際には遠江攻略の完遂と三河侵略か)を決意したとされる。
    元亀3年(1572年)1月、謙信は関東へ出兵するも、武田・北条の同盟軍に阻まれ利根川を挟み対峙する。5月には信玄が調略しておいた越中一向一揆が加賀一向一揆と合流し、日宮城・白鳥城・富山城など越中の上杉方の城を攻略するに伴い、謙信は越中への重なる出陣を余儀なくされ、それは元亀4年(1573年)4月に信玄が病没するまで続いた。
  • 万全の備えを終えた信玄は、遂に元亀3年(1572年)10月3日甲斐を進発して遠江の徳川方諸城を1日で落とし、さらに山県昌景率いる別働隊が三河の柿本城、井平城を落とし本体と合流する。
  • 10月14日、武田・徳川両軍は遠江一言坂において激突し、馬場信春率いる騎馬隊が容赦なく徳川方を撃破、徳川方は浜松城まで撤退するが、武田方は二俣城を包囲、12月19日にはこれを落とし、家康の遠江支配は大きく後退する。
  • その後12月22日には浜松城を無視する形で西方への進軍を続ける武田方の誘いに乗る形で追い掛けた徳川方は、三方ヶ原にて武田方と決戦する形になり、ここでも家康は多くの部下を失い敗退する。家康が有名な「顰像(しかみ像)」を描かせたのはこの三方ヶ原の敗戦後とされる。
    顰像の書かれた時期・理由については近年新説が出されている。
  • 浜名湖北岸刑部村にて越年した信玄は、翌元亀4年(1573年)1月10日に同地を発つと宇利峠から三河へ進入、豊川を渡河、徳川方の三河における属城のひとつである野田城を包囲した。
    信玄がそのまま吉田城・岡崎城などに向かわず、小城に過ぎない野田城にこだわったのか(しかも金山衆を呼び寄せた上で、遠江諸城攻略とは異なり慎重に攻城している)については昔から諸説あるが、長篠城の菅沼氏を圧力をかけて引き入れていたため、補給線の確保としては常識的な侵攻と言える。つまり西上作戦とは言いながら、駿河に続いて遠江と三河を事実上制服する意図が大きかったのではないかと思われる。

 上杉家

  • 元亀4年(1573年)2月6日、家康は信玄の後方となる上杉謙信に対し、助力嘆願のため太刀を贈り同盟を申し出ている。それによれば、権現堂という山伏に書状を持たせたという。※遠州秋葉山の修験先達叶坊光播と、その婿熊谷直包ともいう。

    舊冬就一戰之儀、遠路御飛脚深志之至ニ候、委曲横田半助口才申入候キ、抑信玄至于野田城在陳候、就其参州吉田に相移、尾・濃之衆同陳候、後詰之儀、近日信長出馬之間、此節可討果覺悟候、然者賀州表被蜀御存分之由、尤大慶候、殊ニ向信州可有御出張之旨、急速御手合願望候、尚以使者従是可申述候、恐々謹言
    二月四日 家康
    上椙殿
    (古今消息集)

    新暦之御吉兆、雖事舊候、更以不可有休期候、仍刀一腰守家進覧候、御秘蔵可為畏悦候、委曲権現堂申含候條、可在口上候、恐惶謹言
    二月六日 家康(花押)
    上杉殿
    (上杉文書)

    この時二心無い旨の神文と浜松城の絵図とともに、この守家と馬代とを謙信に贈っている。

    天正元年癸酉春二月上旬、三州徳川家康ヨリ新年ノ祝儀ヲ賀セラレ、使節到來ス、是往歳以來好ミヲ通セラルヽ故ナリ、進物ハ備前良工ノ太刀也、此太刀ハ、代々徳川家ニ傳ハル名劔ニテ、其名を徳用ト號シ、別シテ珍蔵ナレハ、定テ管領ニ於テモ懇篤ニ存セラルヘキ由、念頃ニ申來ル、使价者葉山ノ別當権現堂ナリ

    文中天正元年(1573年)となっているが、天正への改元は7月28日に行われた。

  • 2月10日には野田城落城。しかしその後武田方の動きは停滞し、甲斐に戻ろうとした信玄はそのまま死去した。こうして徳川最大の危機は去った。
  • その後も本刀は上杉家に伝来する。
  • 江戸時代に入って後、徳川家からは返却要請が幾度か出されたが、上杉家では「見当り不申(見当たり申さず)」と申し立てて秘蔵したという。

 御物

  • 明治14年(1881年)10月の明治天皇米沢巡幸のおり、宮内庁より献上の要請を受け、御物となった。

    是の日(10月2日)、行在所に織物其の他の産物竝びに古書畫・古器物等を陳列して天覧に供す、上杉氏傳來の寶器頗る多し、卽ち後奈良天皇賜ふ所の瓜實御剣、正親町天皇賜ふ所の吉光作の短刀、川中島の役謙信が武田信玄を手撃せしと稱せらるゝ備前長光の長刀、其の他刀槍・甲冑・戰袍・軍麾等百數十點あり、齊憲、守家作の刀一口・備前三郎國宗作の短刀一口を獻る、乃ち天覧ありて之れを返付せしめ、東京還幸後上呈すべきことを命じたまふ、他日御紋章附銀盃一組・銅花瓶一對を齊憲に賜ふ
    明治天皇紀)

    既に御物にも三四刀餘程結構なるものがある。其中にも優れて見事なのは、奥羽御巡幸の節、米沢に於て伯爵上杉家より献上になつたトクヨウ守家と云ふ初代作の太刀がある。是は幅重ねとも十分にて、表裏に樋があり、生中心、一つ目釘穴、佩表に「守家造」と三字の大銘が切つてある。其出来口は極く盛んなる頭バチ丁字に蛙子交じり、中程より上みが格別見事で、物打の邉は殆ど鎬を越し、皆焼の如き賑やかなる上々の出来である。是は元徳川家にあつたのを、元亀年中新年の嘉儀に家康公より謙信公に進上した太刀で権現堂と云ふ山伏をして年始状と共に持たしてやつたものである。徳川家は未だ微々たる時で、上杉家は全盛時代ゆゑ、餘程丁重なる文意である。
    (剣話録)

    明治天皇紀」によれば「之れを返付せしめ、東京還幸後上呈すべきことを命じたまふ」となっているが、その後年末まで上呈の記述なし。

    献上は明治10年(1877年)ともいう。それによれば、これを天覧に供したところ大変お気に召され、夜の10時頃上杉斉憲にお召があった。帝がこの守家と備前国宗の短刀をお気に召されているため献上されてはいかがと侍従より話があったため、さっそく献上の手続きをとったという。

    この時、明治天皇が非常な興味を抱かれて一日出発を延期した上に、食事中も席のそばに置き飽きることなく眺められたという話が伝わる。「五虎退吉光」の項を参照


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