塩留めの太刀


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 塩留めの太刀(しおどめのたち)

太刀
銘 弘□
刃長82.7cm、反り3.6cm
重要文化財
東京国立博物館所蔵(渡辺義介氏寄贈)

  • 銘の「弘」については他に例がなく不明。
  • 上杉家では来国行の作としていたが、刃長二尺七寸三分、小板目肌に映りが鮮やかに現れ、直刃に丁字混じりという作風から現在は備前一文字とみられている。
    文化財登録でも「備前一文字弘(びぜんいちもんじひろ)」としている。
  • 鎬造り、庵棟、腰反り高く踏ん張りがある。中峰猪首峰。鋩子表裏わずかに乱れ込み、先小丸。表裏に棒樋を掻き流す。生ぶ中心、先栗尻。目釘孔1個。

 由来

  • 武田信玄が塩止めされた時に上杉謙信が塩を送ったという「敵に塩を送る」の逸話に登場する太刀
    この塩留めの逸話については諸説あり。後述するように、上杉家ではそもそも信玄ではなく信虎からの贈物であるとする。

 来歴

  • いわゆる塩止めの際に武田家から上杉家へと贈られたという逸話で有名な太刀
  • 武田・北条・今川の甲相駿三国同盟は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで今川義元が敗れるとほころびを見せ始める。
  • 永禄8年(1565年)甲斐の武田信玄は嫡男であった武田義信を廃嫡し、その2年後に自害へ追い込むと、義信の妻であった今川義元の娘(嶺松院)を駿河へ送り返している。
    嶺松院は定恵院の娘で氏真の同母妹にあたる。母の定恵院は武田信虎の長女で、信玄の同母姉。天文6年(1537年)に今川義元の正室となり、今川氏真、嶺松院を産んだ。この定恵院が嫁ぐとき今川家に贈られたのが、後の「義元左文字」である。4年後の天文10年(1541年)武田信虎は娘夫婦に会うために駿河を訪問するが、嫡子晴信(信玄)により帰国を阻止されそのまま駿河にとどまることとなる。定恵院は天文19年(1550年)に32歳で没。その2年後、定恵院の娘である嶺松院はいとこにあたる武田義信と結婚する。
  • この嶺松院の送還により甲駿関係は緊迫し、今川氏真は相模の北条氏康と共に、甲斐への塩止めを行ったという。この時に信玄が年来の敵である謙信に使いを送り、謙信が義によって甲斐に塩を送ったことから「敵に塩を送る」という故事となって今に伝わる。
  • 本刀は、その謝礼として武田信玄が上杉謙信に贈った太刀であるという。
    この塩留めの逸話については諸説あり。後述するように、上杉家ではそもそも信玄ではなく信虎からの贈物であるとする。
     また現代では、上杉謙信は「義」を大切にした武将だとされており、それを示すエピソードの一つとして塩留めの逸話が伝わる。しかし謙信自身は「義」ではなく「筋目」という言葉を使っており、必ずしも現代日本で語られる”義”とは少し異なる意味で用いている。「上杉謙信#「義」の人」の項を参照。
  • 以上がいわゆる「塩止め」のエピソードである。
    この塩止めの逸話が史実かどうか、あるいはこの太刀の贈呈にどういう意図があって当時どういう効果を生んだかなどは、現在となっては伝わっておらずわからない。しかしそれとは関係がなく、数多の刀剣を所持した上杉家でもこの太刀を「上杉家御手選三十五腰」の一つとして特に大切に伝えたということは事実である。
  • この「塩止め」の逸話は「謙信公御年譜」や「武田三代軍記」に書かれており、そこでは謙信が塩の値上げを禁止したという筋になっている。また「山鹿語類」では北条氏康と信長が塩留めをしたとされる。
  • 世に広まったのは頼山陽の「日本外史」の所争不在米塩で、これを元にして明治以降に人口に膾炙したとされている。

    所争不在米塩(争ふ所は米塩に在らず)
     
    信玄国不浜海。仰塩於東海。
    (信玄の国=甲斐は海に面しておらず東海より塩を買い入れていた)
    氏真与北條氏康謀。陰閉其塩。
    (氏真は氏康と謀り、塩を他国に出すのを禁じた)
    甲斐大困。謙信聞之。寄書信玄曰。
    (甲斐は大変困窮した。謙信がこれを聞きつけ信玄に書を送った)
    聞氏康氏真困君以塩。不勇不義。
    (曰く「聞くところによれば氏康と氏真が塩により貴公を困らせているという。これは勇も義も欠いたものである)
    我与公爭、所爭在弓箭、不在米塩。
    (我々と貴公は争ってはいるがそれは弓箭のことであって米塩ではない)
    請自今以往。取塩於我国。多寡唯命。
    (よって今後は我が国の塩を送るが量の多寡は貴公の言いつけ次第である」)
    乃命賈人平價値給之。
    (そして商人に命じて値段を高くせず供給した)






  • ただし、上杉家の刀剣台帳では信玄の父、「武田信虎より贈進」となっている。

    国行 太刀銘ニテ弘ノ一字アリ 刃長二尺七寸三分
    武田信虎ヨリ贈進
    (上杉家御腰物元帳

    信虎から、いつ頃何のために贈られたのかは残されておらず不明。武田信虎は天文10年(1541年)に甲斐を追放されたのち駿河にとどまるが、その後は頻繁に京都や奈良、高野山などを訪れており、将軍足利義輝にも仕候した。永禄3年(1560年)には菊亭晴季に末女を嫁がせたという。信玄が西上作戦の途上で死んだ翌年、天正2年(1574年)には高遠城にも立ち寄っており、勝頼とも対面している。その年3月5日に高遠城で死去した。享年81。行動範囲を考えると甲斐追放後の後半生に贈られた可能性が高く、時期を特定することは難しい。

  • いずれにしろ武田家から上杉家に贈られたものであり、上杉家ではこれを「上杉家御手選三十五腰」の一つとして300年以上大切に伝え続けた。
    三十五腰(26口+推定9口)のうち、武田家との関わりが明確なものとしては本刀しかない。なぜ上杉家が(一般には塩留めの太刀と伝わる)本刀を三十五腰に選んだのかは現在となっては不明だが、上杉家にとってそれだけの価値や意味が本刀にはあったのだということだけは確実に言える。
     例えば同じ外交関係での刀といえば、「徳用守家」もある。江戸期に幕府(徳川家)から何度か返却要請があったようだが上杉家では秘蔵し続けた。しかし三十五腰には徳用守家は入っていない。
  • のち同家から出て、新潟県出身の実業家・渡辺義介氏が入手する。
    渡辺義介(わたなべ ぎすけ)
    渡辺義介は経営者。日本製鐵・八幡製鐵(現・新日鐵住金)社長。

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