上杉家伝来の刀
上杉家伝来の刀(うえすぎけでんらいのかたな)
- 「上杉家御手選三十五腰」も参照のこと。
「上杉家御手選三十五腰」の名称は広く流布しているものの、近代以前には見られないものとされ、出処がよくわからない。三十五腰ではなく三十六腰とも伝わる。
- ここでは、詳細が判明している刀剣についてまとめる。個別項目があるものの詳細については、それぞれ別項を参照のこと。
Table of Contents |
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概要
- 上杉家関係刀剣の一覧
表中注釈
上杉家1045/1046:「景勝上秘蔵(上杉家文書)」所載
刀剣台帳:「上杉家刀剣台帳」所載
三十五腰:○は確実と見られる26腰、△は推定。
大まかに、太刀・刀、短刀、剣の順に並べ、その中で流派別に並べた。
名前 指定・所蔵 | 上杉家 1045 | 上杉家 1046 | 刀剣 台帳 | 三十五腰 | 備考 |
行平 〔重文(拵)・佐野美術館〕 | 乾4 | △ | 秋草文黒漆太刀拵。銘「豊後国行平作」 | ||
藤林国綱 〔重美〕 | 足利義輝拝領。銘「建長五年鎌倉国綱」か | ||||
姫鶴一文字 〔重文・上杉博物館〕 | ○ | 乾3 | ○ | 「ひめつる」 | |
山鳥毛一文字 〔国宝・個人蔵〕 | ○ | 乾7 | ○ | 「山てうまう」長尾憲景より | |
菊一文字 〔重美・東博〕 | ○ | 乾1 | ○ | 黒漆塗打刀「菊御作」→大正14年皇太子に献上 | |
一文字 〔重美・個人蔵〕 | ○ | 乾11 | 御堂参詣時 | ||
謙信助宗 〔重文・松岬神社〕 | 坤93 | ||||
草間一文字 | ○ | 「くさま一もんし」 | |||
熊田一文字 | |||||
則包 〔個人蔵〕 | ○ | 乾9 | ○ | 黒漆塗打刀「のりかの」 | |
光忠 | ○ | 「ミつたゝ」 | |||
高木長光 〔重文・個人蔵〕 | ○ | 乾8 | ○ | 「たかぎ」 | |
高瀬長光 〔重美・上杉博物館〕 | ○ | 乾50 | ○ | 日光長光か 銘「長船 長光」 | |
日光長光 | ○ | 「日光なかミつ」高瀬長光同物か | |||
新身長光 | ○ | ○ | 「座敷床の間」 | ||
備前長光 | 正親町天皇拝領 | ||||
長光 〔重美・個人蔵〕 | ↓ | 乾6? | ○ | 銘「長光」 久世長光か | |
久世長光 | ○ | 「くセなかみつ」 | |||
長光 〔重美・個人蔵〕 | 乾15? | →買戻し条件付にて日本銀行に売却 | |||
竹俣兼光 | ○ | 「たけ又」鉄砲兼光 | |||
三日月兼光 | ○ | 乾46 | ○ | 「三か月」 | |
波泳ぎ兼光 〔重美〕 | →立花家 | ||||
備前長船元重 〔重文・上杉神社〕 | 無銘。伝長船元重。山内家以来 | ||||
備前長船倫光 〔重文・上杉神社〕 | 伝長船倫光。山内家以来 | ||||
遠近 | ○ | ○ | 「とをちか」 | ||
はばき来 | ○ | 「はばきらい」 | |||
来国俊 〔重美〕 | 乾2 | △ | 足利義輝拝領。谷切か? | ||
唐柏国信 〔重美・個人蔵〕 | ○ | 乾47 | ○ | 長谷部国信 | |
小長谷部 | ○ | 「小はせべ」 | |||
備前国宗 〔重美〕 | ○ | ○ | 乾5? | △ | 「座敷床の間」 |
伝国宗 〔重美・林原美術館〕 | 乾33 | 黒漆塗糸巻太刀・備前三郎国宗 | |||
戒杖刀 〔重美・上杉家〕 | 乾18 | △ | 謙信公御手沢、天文22高野山登山の節、使用。国宗 | ||
典厩割国宗 〔京都井伊美術館〕 | →佐竹義重 | ||||
夢切国宗 | →佐竹義重 | ||||
大垣正宗 〔個人蔵〕 | 坤6 | ○ | 秀忠より定勝拝領 | ||
秋広 | ○ | 「あきひろ」 | |||
足利重代 | ○ | 「あしかゝ十代」 | |||
塩留めの太刀 〔重文・東博〕 | 乾27 | 日本三腰「弘□の太刀」 ※台帳「来国行」 | |||
手掻包行 | |||||
雲生 〔重美・個人蔵〕 | ○ | 乾49 | ○ | 「うんしやう」 | |
般若太刀 〔重文・個人蔵〕 | 乾23 | 毎月十六日大般若経会の般若の太刀。備中青江守次 | |||
守家 | ○ | 乾40 | △ | 「もりいへ」 | |
徳用守家 〔御物〕 | 徳川家康より | ||||
桐紋糸巻太刀 〔重文(拵)・東博〕 | 乾79? | 黄金造太刀 | |||
麻呂の太刀 | 上杉管領家拝領。天国作。菊御作とも | ||||
謙信景光 〔埼玉歴民〕 | 乾12 | △ | 「謙信公差料」「乾11号一文字と御揃」 | ||
九郎二郎広光 〔個人蔵〕 | 乾45 | ○ | 永禄4古河公方拝領「延文五年八月日」 | ||
火車切広光 〔重美・個人蔵〕 | 乾52 | ○ | 「相模国住人廣光/康安二年十月日」 | ||
行平 〔重美・個人蔵〕 | 乾13 | ○ | 謙信公差料・景勝公差料 | ||
三本寺吉光 〔重文(拵)・個人蔵〕 | 乾73 | ○ | 秀吉より景勝拝領 | ||
五虎退吉光 〔重美・上杉家〕 | 乾51 | ○ | 永禄2正親町天皇拝領 | ||
弾正左文字 〔特重・法人蔵〕 | 景勝愛蔵 | ||||
瓜実安則 〔上杉家〕 | 乾32 | ○ | |||
瓜実の剣 〔上杉神社〕 | 乾64 | ○ | 後奈良天皇拝領。豊後瓜実 | ||
三鈷柄剣 〔宮坂考古館〕 | 乾21 | →岩室寺進上 | |||
禡祭剣 〔重文・上杉神社〕 | 七星の剣 | ||||
太刀真光 〔重美・重文〕 | 乾10 | ○ | 「備前長船住人眞光」 | ||
太刀新藤五国光 | 乾14 | →買戻し条件付にて日本銀行に売却 | |||
打刀相州行光 | 乾16 | 御代々御家督の節御承伝 | |||
薙刀直し太刀光忠 〔重美〕 | 乾17 | 治憲公御差料(仁科越中刀) | |||
寸延短刀守次 〔重美・重文〕 | 乾19 | 備中国守次作/延文二年八月日 | |||
短刀越中則重 | 乾20 | ||||
打刀無銘一文字 〔重美・重文〕 | 乾22 | 茂憲公之を補せらる | |||
打刀無銘志津兼氏 | 乾24 | 斉憲公御益封の節 | |||
穿鑿郷 | 乾25 | △ | 御重代、茂憲公、御拵の上、御差料 | ||
打刀近景 | 乾26 | 備州長船住近景 | |||
打刀無銘相州貞宗 〔重美・重文〕 | 乾28 | ○ | |||
太刀兼光 | 乾29 | 備州長船兼光五寸上/文和元年八月日 | |||
太刀来国光 | 乾30 | ○ | 慶長15秀忠御成の際に拝領か | ||
短刀来国次 | 乾31 | ○ | 将軍家より御受領 | ||
短刀郷義弘 | 乾65 | ○ | 脇指拵、五寸三分 | ||
太刀兼光 | 乾67 | ○ | 「備前国長船住享禄二年乙丑兼光作/永禄七年甲子年正月十一日藤原輝虎三寸上」 | ||
太刀左 | 乾74 | ○ | 「藤原輝虎三寸上之」 |
太刀・刀
山鳥毛(さんちょうもう)
姫鶴一文字(ひめつるいちもんじ)
- 詳細は「姫鶴一文字」の項参照
竹俣兼光(たけのまたかねみつ)
- 詳細は「竹俣兼光」の項参照
典厩割(てんきゅうわり)
- 詳細は「典厩割」の項参照
高木長光(たかぎながみつ)
- 詳細は「高木長光」の項参照
高瀬長光(たかせながみつ)
重美長光
- 景勝所用
- 黒漆塗打刀拵(高瀬長光と似た造り)
- 左右に龍を配した赤銅魚々子地金色絵の鍔
徳用守家(とくようもりいえ)
刀
二尺四寸二分四厘
号 とくよう
- 詳細は「徳用守家」の項参照
三日月兼光(みかづきかねみつ)
小反り兼光(こそりかねみつ)
刀
銘 備前国長船住享禄二年己午年兼光作 永禄七年甲子年正月十一日
藤原輝虎三寸上之
二尺四寸四分
水神切兼光(すいじんぎりかねみつ)
- 詳細は「水神切兼光」の項参照
草間一文字(くさまいちもんじ)
- 謙信秘蔵の一文字で、北国一と評されたこともある刀。
- 「上杉景勝自筆腰物目録」の上ひさうの1番に登場しながら、「上杉家御手選三十五腰」では漏れている一文字。
- 在銘「一」、生ぶ中心。大丁子乱れ。
- その後行方がわからず、「刀剣美術」掲載の「『上杉家刀剣台帳』から」でも入っていないようだ。
- 「上杉景勝自筆腰物目録」
上ひさう
一、くさま一もんし
一、ひめつる一もんし
一、たけ又かね光
一、三か月
一、からかしわ
- 古くは「天正本銘写」に押形とともに記されている。このことから天正16年(1588年)まで上杉家にあったことがわかる。
大ミだれ、ちやうじ有。長尾道七謙信ひざふ。竹屋北國一と云也
- 「草間」の由来は不明だが、福永酔剣は信州伊那の草間備前にまつわるものであろうと推測している。
信州雁峰城(長野県佐久市中小田切)は、草間城とも呼ばれ、かつて草間備前守が守っていた時期もあるという。それによれば、滋野氏の一族である小田切氏がこの雁峰城を守備していたが、大永7年(1527年)に伴野貞慶の救援として武田信虎が攻め入った際に落城しており、小田切氏はあるいはこの時に滅亡したとも言う。
この小田切氏が居なくなった後、天正頃には草間を名乗る一族が雁峰城一帯を支配している。この草間氏は小田切氏の一族(つまり滋野氏支族)、あるいは高梨氏の一族(つまり清和源氏井上氏流)とされるが詳細は不明。
天正10年(1582年)以降の信玄による佐久攻めを受けて草間備前守は信玄に降り、以降は信州先方衆として名前が出てくる。
谷切り(たにきり)
弘□の太刀
- 「塩留めの太刀」として高名なもの。
- 鎬造り、庵棟、腰反り高く踏ん張りがある。中峰猪首峰。鋩子表裏わずかに乱れ込み、先小丸。表裏に棒樋を掻き流す。生ぶ中心、先栗尻。目釘孔1個。
- 武田信玄が塩止めされた時に上杉謙信が塩を送ったという逸話のもの。
- ただし、上杉家の刀剣台帳には信玄の父武田信虎より贈進となっている。日本三腰の一、景勝三十五腰の一。
則包(のりかね)
則包作
個人蔵
- 景勝所用
- 目釘孔2個
- 黒漆塗打刀拵、大根をあしらった鍔
重美菊一文字
- 景勝所用
- 鎺に菊紋
- 目釘孔2個
- 黒漆塗打刀拵。鍔は御紋与四郎作
謙信助宗
太刀
銘 助宗(号 謙信助宗)
附 革柄革包太刀拵
刃長二尺五寸五分(77.2cm)
重要文化財
松岬神社所蔵(上杉神社管理)
- 詳細は「謙信助宗」の項参照
重美無銘一文字
無銘一文字
重要美術品
個人蔵
- 景勝所用
- 大磨上無銘、目釘孔2個
- 鎺上貝は五三桐透かし
三本寺吉光(さんぼんじよしみつ)
黒漆塗合口腰刀
中身 吉光
刃長一尺九寸
- 詳細は「三本寺吉光」の項参照
夢切り国宗(ゆめきりくにむね)
- 詳細は「夢切り国宗」の項参照
戒杖刀(かいじょうとう)
- 杖に仕込んだ刀(仕込杖)
- 目釘孔3個
- 謙信所用
麻呂の太刀(まろのたち)
刀
伝天国作
- 後鳥羽院御作とも、大和天国作ともいう。
- 関東管領上杉家相伝
- 天文22年(1552年)正月、上杉憲政が管領職を長尾景虎に譲った際、朝廷より拝領の錦の御旗、管領補任の綸旨、上杉家系図とともに、この太刀を贈った。
景虎ヲタヨリテ、上州ヨリ越州ヘ赴ク、彼景虎カ父為景ハ、故管領顕定ヲ討テ敵タリ、然トモ為景没スル上遺恨ナシトテ、勘氣ヲ赦免シ、剰ヘ憲政カ養子トシテ、上杉トナシ、重代ノ太刀系圖ヲ渡シ、憲政ハ上野一國ヲ領スヘシ、其外ハ景虎支配ト約シテ、暫ク越後ニ逗留ス
憲政モ公(謙信)ノ御志ヲ感シ、彌家督ヲ與奪セラル、上杉ノ系圖、京都將軍數代ノ御教書、並ニ重代天國ノ太刀、行平ノ脇差ヲ譲ラル
憲政家運ノ傾ケル事ヲ述テ、永享ノ亂ニ朝廷ヨリ下シ賜フ處ノ、錦ノ御旗、關東管領職補任ノ綸旨、及ビ大織冠鎌足以來ノ系圖、御所作リ麻呂ノ太刀、竹ニ雲雀ニ幕マテヲ、景虎ヘ附属有テ、上杉ノ名氏ニ一字ヲ副テ譲ラレシカハ、
大垣正宗(おおがきまさむね)
- 景勝の子、上杉定勝が元服した際に、秀忠より拝領したもの。
- 詳細は「大垣正宗」の項参照
詮索郷(せんさくごう)
- 米沢藩上杉家蔵刀。
- 刃長二尺三寸。
- 表に腰樋。無銘で郷義弘の極め。
- 徳川幕府から、その所在について詮索してきたことがあるため、詮索郷という異名がついた。
- 上杉家の最後の藩主茂憲が差料にした。
雲生
- 雲生作
- 鍔付きの黒漆塗打刀拵が附く
- 重要美術品
- 謙信所用
- 個人蔵
般若の太刀
- 「般若太刀」の項参照
行平(秋草文黒漆太刀拵)
黒漆塗秋草文太刀拵
総長122cm、柄長31cm、鞘長91.5cm
重要文化財
中身 太刀 銘 豊前国行平作
刃長76.6cm、反り3.6cm、元幅2.8cm
佐野美術館蔵
- 外装のうち鍔が欠けている。
- 金物は赤銅造り、毛彫で秋草を彫る。
- 柄は巻下に黒漆塗の鮫皮、金茶糸の菱の平巻。目貫も赤銅、金無垢の二重鵐目。柄の緑金具は銅地に赤銅着せ、黒漆塗の小切刃が付属する。
- 鞘は薄革に黒漆塗立。大きな三日月が銀鈿で入る。
短刀
五虎退吉光(ごこたいよしみつ)
- 詳細は「五虎退吉光」の項参照
弾正左文字(だんじょうさもじ)
短刀
銘 左(号 弾正左文字)
刃長七寸九分
特別重要刀剣
株式会社ブレストシーブ所蔵
- 冠落とし造り。小板目肌に柾目まじり。のたれに浅いぐの目まじり。鋩子尖る。
- 目釘孔2個、「左」一字銘。
- 上杉景勝愛蔵で、同家に伝来。明治24年に今村長賀が調査した刀剣台帳には見当たらない。
火車切広光(かしゃぎりひろみつ)
- 詳細は「火車切広光」の項参照
九郎二郎広光
短刀
銘 相模国住人廣光/延文五年八月日
長42.6cm、反り0.4cm
重要文化財
個人蔵
- 九郎二郎広光作
- 謙信が古河公方より拝領したもの。鎺に「自古河様被下」と入る。
- 平造り、三棟。表に梵字、素剣、瓜、裏は梵字、毛抜の彫物が入る。
- なかご生ぶで先舟形。目釘孔2個
- 黒漆塗合口腰刀拵が附く。
- 昭和27年(1952年)7月19日重要文化財指定。
瓜実安則(うりざねやすのり)
短刀
無銘(伝瓜実安則)
九寸五分(28.8cm)
上杉家蔵
剣
瓜実の剣(うりざねのけん)
瓜実御剣
無銘
伝後奈良天皇拝領
六寸二分(18.6cm)
附 黒漆塗合口拵
上杉神社所蔵
- 後奈良帝より拝領の剣
- 詳細は「瓜実の剣」の項参照
三鈷柄剣(さんこづかけん)
両刃剣
1尺3寸5分(41cm)
附 金銅装黒漆鞘
宮坂考古館所蔵(非公開)
- 上杉家刀剣台帳「乾」0第21号所載
- 元は奈良法隆寺にあったものと伝え、「岩室寺進上」と書かれており、同寺から献上されたものとされる。
- 中央鎬部分に太い樋。樋の中に、表裏に20ずつの梵字が彫られている。
- 明治24年(1891年)に今村長賀が拝見しており、「上杉神社の十二支の御剣同様、貴重なる物なり」と記す。
禡祭剣(ばさいけん)
- 詳細は「禡祭剣」の項参照
上杉家伝来の文化財
- 米沢上杉家には、山内上杉家以来の武具宝物が多数伝わっており、中でも上杉謙信の愛刀である太刀( 無銘福岡一文字、号山鳥毛)、短刀(備州長船景光在銘、号謙信景光)は国宝に指定されたおり、「景勝御手選35腰」を筆頭に重要文化財指定、重要美術品認定の刀剣が多数ある。
- 戦後米沢駐留の連合軍に接収され、行方不明となっている刀剣が多い。
- 槍としては唯一重要文化財に指定されている、豊臣秀吉から拝領の城州埋忠作の槍20本(うち10本は戦後行方不明)も貴重なものとされる。
刀
- 大太刀
- 銘(表)備前国長船兼光(裏)延文二二年二月日 上杉家伝来の延文兼光3口のうちの一振り。重要文化財。東京国立博物館蔵。のちアメリカより返還されたもの。
- 大太刀
- 銘(表)備前国長船兼光(裏)延文三年二月日 二尺九寸四分。上杉家伝来の延文兼光3口のうちの1振り。昭和27年(1952年)重要文化財指定、青山孝吉氏所蔵。現在は法人蔵。
- 大太刀
- 銘(表)備前国長船兼光(裏)延文二年八月日 三尺四寸三分。※延文兼光のうち、残りの1振り。連合軍により接収後、未だ行方不明。
- 大太刀
- 無銘 伝長船元重 無銘ながら山内家以来、元重と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 大太刀
- 銘 長谷部国信(号 唐柏)二尺六寸二分。生ぶ中心。皆焼出来で、近年、アメリカから返還。重要美術品。
- 大太刀
- 銘 建長五年鎌倉国綱 三尺七寸九分。長巻拵。重要美術品。
- 太刀
- 銘 一部不詳 伝長船倫光 銘が一部朽ちて判読出来ないが、山内家以来、倫光と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 太刀
- 銘 助宗(号 謙信助宗)革包太刀拵え付。福岡一文字助宗随一の名刀。重要文化財。松岬神社蔵。
- 太刀
- 銘 一(号 姫鶴一文字)黒漆合口打刀拵え付。米沢市上杉博物館蔵
- 太刀
- 銘 弘口 黒漆打刀拵え付。「敵に塩を送る」の返礼に武田信玄から贈られたと伝えられる福岡一文字の太刀。重要文化財。東京国立博物館蔵。
- 太刀
- 銘 長光 (号 高木長光)金梨地合口打刀拵え付。重要文化財。個人蔵。
- 太刀
- 銘 豊前国行平作 黒漆塗秋草文太刀拵え付。重要文化財。佐野美術館蔵
長巻・槍
- 長巻
- 無銘 伝備前助包 黒漆長巻拵え付。山内家以来、福岡一文字助包と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 長巻
- 無銘 伝片山一文字 黒漆長巻拵え付 山内家以来、片山一文字と伝えられる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 長巻
- 無銘 伝片山一文字 黒漆長巻拵え付 山内家以来、片山一文字と伝えられる。無銘片山一文字は2本伝わる。重要文化財。上杉神社蔵。
- 槍
- 銘 城州住埋忠作 文禄二年十二月日 黒漆赤銅金銀金具拵え付。豊臣秀吉から景勝が拝領した20本のうち10本(上杉神社蔵)は重要文化財。駐留した米兵が槍投げ遊びに使った為、一部損傷がある。他の10本(重要美術品)は戦後行方不明。
- 五諚槍
- ごじょうやり
鐔の付いた槍がごほんあったという。五挺槍
- 小松明薙刀
- こたいまつなぎなた
- 米沢上杉家伝来。備前長船近景作。謙信の時代、信州芋川城主芋川越前守が押し入った賊とこの薙刀で戦っている時切先から火が出たというので、小松明という。刀と打ち合って火花が出たという意味と思われる。
- 信州海野家にも「小松明の槍」という重宝が会った。元亀ごろ海野棟綱が虚空蔵山に住む鬼神退治に赴く時、善光寺境内の年神堂八幡宮に神助を祈った。その時この槍を授かり難なく鬼神を退治したという。夜にもかかわらず穂先が松明のように光った。永正のころ埴科葛尾城主村上頼平戸の合戦に次男の矢沢頼綱が13歳で初陣するときに授けた。
国宝指定について
- 上杉家所蔵刀剣に国宝指定が少ないことについては、本間順治氏が次のように語っている。
もうひとつ上杉家の刀に対する文部省の扱いについて、世間が、あるいは不審に思っていることがあるのではないかと思うのですが、それは上杉家にはあれほどに沢山の名刀があるにもかかわらず、戦前には国宝に指定されたものが一点もないということです。重要美術品だけがたくさんある。何本認定したかははっきり記憶しませんが、たぶん三十点前後の認定をしたように思います。
上杉家の名刀にその当時なぜ国宝がないのかというと、上杉家が国宝指定に反対だったのです。ただし上杉家といっても上杉家のご当主のご意見ではなかったのですよ。ご当主の相談役に相談会という非常に厳然たる存在があってそこの反対があったのです。(略)
それで文部省側の国宝に指定したいという申し入れについて、相談会にかけたんでしょう。そのメンバーの中でも主として黒井悌次郎大将の意見だと私は思うのですが、というのは、その後黒井さんと会っていろいろ話し合った感じからそう思うのです。上杉家としてはお断りをする、というわけは、国宝保存法という法律は悪法だと黒井さんはいうんです。君あれは悪法だ、非常に社会主義的の匂いのする法律だ、こういう法律の適用は受けたくないというのが黒井大将の意見でしたよ。(略)
昔のあの国宝保存法だと、国宝の所有者には、いろいろと義務があるのです。たとえば指定されたものは公開の義務がある。それから国宝をかりに毀損した場合には、所有者といえども処罰されるのです。所有者はいろいろ責任をもたなきゃならない面が多いにかかわらず、その所有者が得をするというか、特典を受ける面がなにもない。こういう法律はよくないというのが黒井大将の意見でした。だから断られちゃったのです。(略)
そしてその後、重要美術品の法律ができたのです。それにはいまいったような義務はなにもないんだ。だから私は黒井さんのところへ行って、今度こういう法律ができたのですが、これの適用ならばどうですかという話をしましたら、素直に、それならよろしいと、いうわけなのです。そこで上杉家のもので、よいものは一括して全部重要美術品に認定したものです。だから国宝なしに沢山重要美術品になった次第ですよ。
(薫山刀話)
- 数少ない指定品では、「謙信景光」は戦後のいわゆる新法(文化財保護法)での指定であるが、「山鳥毛」についてはまず昭和12年(1937年)に重要美術品指定があり、その3年後の昭和15年に旧国宝指定を受けている。
- つまり「一点もない」ことはないが、この話の前に上杉家を出たために本間氏は上のように語ったとも考えられる。そうした些末な点はさておき、上杉家の名だたる名刀群が戦前に国宝指定されなかったのは上記の理由であることは間違いない。
- 実際、昭和12年(1937年)12月24日に出された文部省告示第434號により、上杉家所蔵刀剣38口が一挙に重要美術品に認定されており、上記逸話を裏付けている。さらに昭和13年(1938年)5月10日付の文部省告示第200號でも3口が同様に認定を受けている。
明治天皇の米沢行幸
- 明治14年(1881年)、明治天皇は奥羽・北海道巡幸を行っている。
- 7月30日に東京(赤坂仮皇居)を出発し、埼玉、栃木、福島、宮城(仙台8月12日)、岩手、青森(8月27日)と移動し、その後、御召艦扶桑艦(甲鉄艦)で北海道小樽へ渡った後、札幌、室蘭、函館。
- 帰路は再び青森へと戻り(9月7日)、秋田を経て山形県入りは9月22日であった。10月2日に米沢着。米沢での行在所は南置賜郡役所。この日郡役所には天覧陳列場が設営された。この時、上杉家の重宝も上覧され、刀剣好きな明治天皇は夢中になって御覧になったと伝わる。
明治天皇行在所遺趾/米沢市役所 ※同サイトでは米沢着を「11月2日」としているが、10月である。 - 10月3日に米沢発、福島、白河宇都宮、小山、10月11に東京(赤坂仮皇居)へ還幸。74日間の最長の大巡幸であり、六大巡幸のひとつとされている。
これに次ぐのが明治11年(1878年)の北陸道東海道巡幸。
- この時に献上されたのが名物「徳用守家」及び、備前三郎國宗の短刀であったという。
是の日(10月2日)、行在所に織物其の他の産物竝びに古書畫・古器物等を陳列して天覧に供す、上杉氏傳來の寶器頗る多し、卽ち後奈良天皇賜ふ所の瓜實御剣、正親町天皇賜ふ所の吉光作の短刀、川中島の役謙信が武田信玄を手撃せしと稱せらるゝ備前長光の長刀、其の他刀槍・甲冑・戰袍・軍麾等百數十點あり、齊憲、守家作の刀一口・備前三郎國宗作の短刀一口を獻る、乃ち天覧ありて之れを返付せしめ、東京還幸後上呈すべきことを命じたまふ、他日御紋章附銀盃一組・銅花瓶一對を齊憲に賜ふ
(明治天皇紀)
参考
関連項目
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