大文字楼
大文字屋(だいもんじや)
大文字屋は吉原の大籬(大見世)の屋号
- はじめ河岸見世、のち半籬(中見世)、寛政頃に大籬(大見世)
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初代主人:市兵衛
- 大文字屋文楼。号 文楼。
- 初代は村田市兵衛。
- もとは伊勢出身で、川曲郡(かわわぐん)上蓑田の農民・松本某の子だという。
- 寛延3年(1750年)に新吉原に出て遊女屋を始めた。はじめは最下級の河岸見世で村田屋市兵衛として営業していた。京町一丁目、中の丁より右側六軒目で、格式は六印(最下級)であった。
- のち大見世大文字屋となる。
- 宝暦2年(1752年):座敷持6人、部屋持9人、無印6人、禿5人。計26人。
- 明和4年(1767年):座敷持11人、部屋持7人、無印10人、禿11人。計39人。
- 明和7年(1770年)には京町一丁目の中の丁より左に移転。
- 安永8年(1779年):座敷持9人、部屋持8人、無印12人、禿20人、芸者4人。計53人。「市兵衛事源兵衛」と書かれ、これは2代だという
- 奇行で知られ、抱え遊女の惣菜として大量のかぼちゃを買い入れたことから、「かぼちゃ(加保茶)市兵衛」とあだ名された。
- また頭が大きく背が低かったことが由来とも言われ、「ここに京町大文字屋のかぼちゃとて。その名は市兵衛と申します。せいが低くて、ほんに猿まなこ。かわいいな、かわいいな」と揶揄されたが、これを自ら進んで歌い踊り、却って自店を喧伝したという(宝暦初年という)。これは吉原中から江戸中へ広まって流行歌となり、多くの替え歌が作られた。
- 園芸を好み、マツバランに斑を入れる工夫をして「文楼斑」と名付けられている。
2025年大河ドラマ「べらぼう」では伊藤淳史さんが演じている。
- 園芸を好み、マツバランに斑を入れる工夫をして「文楼斑」と名付けられている。
- 安永9年(1780年)11月6日60余歳で死。
- 法名は釋拂加保信士。
相応内所
- 初代の後妻という。実名は「仲」
市兵衛子無きを以て、姉の一女を養ひ、尾張岡本長兵衛の次男を婿せとしに、晩年に至り一女を得たり。
ただしこの「尾張岡本長兵衛の次男」というのは二代の加保茶元成のことではなく、享和3年(1803年)に死んだという。
- 相応内所は狂名。
其後の市兵衛(※2代目)、狂名を加保茶元成といへり。一とせ此内所にて、狂歌の會ありし時、持佛堂をみれば、先の市兵衛(※初代)が位牌あり、法名釋佛妙加保信士とありしもをかしかりき。
(仮名世説 蜀山人)新吉原京町大文字屋市兵衛(※2代目)が狂名を、かぼ茶元成といふ、妻を秋風女房といひ、隠居の姥を相應内所と稱す、(略)
此市兵衛(※初代)河岸にありし時、かぼちゃと云う瓜を多く買ひおきて、妓の惣菜に用ひ、産業をつめて、此京町へ出しとぞ、皆人かぼちゃ/\と異名せしなり、宝暦の始め頃となり
(奴師勞之 蜀山人)
- 安永2年(1773年)4月15日没。
二代主人:加保茶元成
- 大文字屋文楼。号 文楼。
- 生家は岡本氏。はじめ「源兵衛」と名乗ったという。安永8年(1779年)頃2代となる。
- 初代の姉が岡本長兵衛に嫁ぎ、その次男(つまり初代の甥)を養嗣子にした。
- 初代は、姪である「まさ(狂名・秋風女房)」を養女としたうえで源兵衛(二代目)を婿養子とした。
- 徳保元成。字を思拳とする。号 宗園。※宗園号を初代ともいうが混乱あり。
- 二代はさらに見世を大きくした。
- 寛政4年(1792年):座敷持12人、部屋持11人、無印20人、禿35人、芸者2人。計80人。
- 享和2年(1802年):呼出2人、座敷持11人、部屋持2人、無印41人、禿28人、芸者2人。計86人。
- 狂名「
加保茶元成 」で知られ、天明期における代表的な狂歌師。 - 「吉原連」
- 江戸狂歌が流行すると、天明3年(1783年)に扇屋宇右衛門(棟上高見)・大黒屋庄六(俵小槌)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・養母の仲(相応内所)、明店ふさかる、独寝抜伎、揚屋くら近、恋和気里、垢染衣紋、伏見茶屋人、茶屋町末広、筆の綾丸(歌麿)らとともに「吉原連」を結成。自らその主宰となり、山谷近くの「逍遥楼」と名付けた別宅でしばしば狂歌会を開いた。大田南畝(蜀山人)が度々招かれている。
- 古銭の収集・鑑定家としても知られた。
- 文政11年(1828年)没。法名は徳保元成禅門。
秋色(秋風女房)
- 初代大文字屋文楼の姪で、名を「まさ」という。6歳のときに養子として初代に引き取られた。
- 二代主人・加保茶元成の妻。
- 和歌を能くし、狂歌名を「木綿子(ゆうし)」と号した。
- 画を酒井抱一に学んだ。
- 秋風女房とは、「秋立つと風が知らすや文月の封じを桐の一葉散らして」の狂歌により名付けられたという。
- 文政9年(1826年)9月、67歳で没。
三代主人
- 狂名「
加保茶浦成 」 - 「南瓜宗園」
- この3代目も「源兵衛」であったという。
- 加保茶元成の養子となり、その次女(「むら」あるいは「かる」だという。桃洞と号す)の婿となって大文字楼三世の主人市兵衛と称した。
- 桃洞は天保3年(1832年)12月4日死去。法名は桃洞妙源信女。
- 実は江戸町彌八玉屋の金山永順の子という。はじめ一作といい、父は卜斎。兄は永爾。兄・永爾の娘は篆刻師・三代浜村蔵六の妻となった。また妹は森江兼年の妻という。
- 「本成(もとなり)」とも書き、後に「浦成」と改めたという。天保3年(1832年)には「浦成」とも「三亭春馬」としている。天保4年(1833年)頃に改名したとされる。
- 画を酒井抱一に学び、仲の町両側の灯籠を書いたことがあるという。
- 江戸半太夫に学んで江戸節を能くし、狂歌を浅草庵春村に学んだ。
- 十返舎一九の門に入り、三亭春馬、九返舎一八(くへんしゃ いっぱち)、三世十返舎一九、あるいは二世八文字屋自笑と号したという。
- 古銭・刀剣の収集などをしたという。
- のち離縁され、山谷に質屋を開いた、あるいは船宿を開き八文字屋と号したという。または貸本屋になったともいう。
- 弘化3年(1846年)9月6日没。
四代主人
- 同業玉屋彌八の息子・金次郎という。のち磯部源兵衛。
三代と四代で混乱があるのではないかと思われる。
- 加保茶浦成とも、本成とも、元成ともいう。また三亭春馬と名乗ったという。
- 「狂歌百才子傅」には下記のように記すが、後半「面体猿に似て頭がちなり」以降は初代の話ではないかと思われる。
村田本成、姓藤原、一明蔓麻呂、號加保茶園、花街楼、柿園、三亭、性質愚にして嘗て能なし、面体猿に似て頭がちなり、丈は才と共に短く、尤も肉ふと也、たゞ一藝とする所、よくひとりまひまなひつることを得たり、名付けてかぼ茶おどりといふ(略)天明の頃世に名大に鳴りし元成は此本成が曽祖父なり
- 嘉永4年(1851年)12月18日没。法名大用玄機居士。
五代主人
- 森江兼哉は、三代・南瓜宗園の妹で森江兼年に嫁いだ森江家の人だという。
- 蒔絵を能くしたという。
- 安政の地震で死去。
- この森江兼哉の弟が篆刻の名手だった中井敬所だという。
遊女
誰袖(たがそで)
- 大文字屋の女郎。「誰が袖」。
- 禿上がり。
- 田沼意次の懐刀として知られた旗本・土山宗次郎(諱は孝之)に1200両で身請けされる。
田沼に抜擢され、勘定組頭に登用された。天明6年(1786年)に徳川家治が薨去し反田沼派の松平定信が台頭した後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、平秩東作(へづつ とうさく)に武蔵国所沢の山口観音に匿われたが、発見され、天明7年(1787年)12月5日、斬首に処された。匿った平秩東作も「急度叱」の咎めを受け、狂歌界とも疎遠となった。
大河ドラマ「べらぼう」では振袖新造時代の「かをり」を稲垣来泉さんが演じ、成長後の誰袖を福原遥さんが演じる。
- 詳細は「誰袖」の項を参照
香川(かがわ)
- 大文字屋の女郎。
- 禿上がりで、振袖新造のころは「おちか」と呼ばれた。※この「おちか」を誰袖と呼んでいる書籍も多い。
- (文化初年)酒井抱一に落籍され、落籍後は酒井家の奥女中・春条(はるえ)。画号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。
- ※酒井抱一が身請けしたのは、この「香川」ではなく「誰袖」だと書かれているものもある。特に、明治~昭和初期の書籍で「誰袖」、「香川」、「三保崎」について混乱しているものが多い。
- 現在の定説では、下記の組み合わせが正解となる。
- 大文字屋 誰袖=土山宗次郎
- 大文字屋 香川=酒井抱一 ※小鸞女史、妙華尼
- 松葉屋 三保崎=大田南畝
天明狂歌
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