大文字楼
大文字屋(だいもんじや)
大文字屋は吉原の大籬(大見世)の屋号
- はじめ河岸見世、のち半籬(中見世)、寛政頃に大籬(大見世)
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概要
- 新吉原京町一丁目にあった妓楼。寛延4年(1751年)より揚屋町河岸にあったという。
この細見記の略圖ハ揚屋町河岸六寸局河岸なり。これより前の細見をならべ見るに、此村田屋あらざれば、この年見せを出したる事
明 なり、あくる寛延四年にはおなじ所に村田屋にて居れり、其細見の圖これとひとしければこゝに略 く、寛延四年、寶暦と改元あり、あくる寶暦二年大文じやとなりたる細見の圖是なり、こハ京町壹丁目仲之町より左側也、
- 特に初代の村田市兵衛の逸話で有名。頭が大きく背が低かったことや、また遊女の惣菜として大量のかぼちゃを買い入れたことから、「かぼちゃ(加保茶)市兵衛」とあだ名されたという。
大文字屋かぼちゃといふ唄は、流行甚しかりし。宝暦二申年と覚ゆ。
(後者昔物語)美成云、京町大文字屋の市兵衛、祖形見ぐるしく、頭の形かぼちゃに似たりとて、爰に京町大文字屋のかぼちゃとて、ひよっと曲輪の地廻りの男どものわる口に云しが、曲輪中の流行となりきたる。家ごとに是を聞てうたひ、段々江戸中の口にかゝりて流行謡となれりと、馬文耕の武野俗談といふものにみへたり。
「美成」は山崎美成。江戸時代の随筆家。
「馬文耕」とは講釈師。宝暦6年(1756年)の自序がある「武野俗談」を著した。「地廻り」とは遊郭辺をたむろするならず者(用心棒稼業)をいう。新吉原京町大文字や市兵衛が狂名をかぼ茶本成といふ。妻を秋風女房といひ、隠居の姥を相応内所と称す。
新吉原京町大文字屋市兵衛(※2代目)が狂名を、かぼ茶元成といふ、妻を秋風女房といひ、隠居の姥を相應内所と稱す、(略)
此市兵衛(※初代)河岸にありし時、かぼちゃと云う瓜を多く買ひおきて、妓の惣菜に用ひ、産業をつとめて、此京町へ出しとぞ、皆人かぼちゃ/\と異名せしなり。顔色も童の謡ふうたの如く、背ひきくて猿まなこなりしとぞ。自ら此歌をうたひ人を笑はせしとなん。宝暦の初の頃歟。
(奴師勞之 蜀山人)
- 宝暦2年(1752年)には京町一丁目に移っていたといい、後に四代主人・大文字屋市兵衛が書いた「花柳古鑑」に詳述される。
今も世上にもてはやす、こゝに京町大文字屋の
大南瓜 といふ唄のはやりしは、宝暦二年の事也、後者昔物語〔享和三年記〕(※手柄岡持著)に、大文字屋かぼちやといふ唄ハ、流行甚しかりし、寶暦二申年とおぼゆ(略)
偖 大文字屋市兵衛ハ、其始め村田市兵衛といひて、寛延三午、揚屋町河岸へ見世出 し、それより中二年 同河岸 に住居 、宝暦二申年大もんじやと改名して、京町一丁目へ出 たり、大かぼちやの唄はこの時うたひだしたるなり、そのゆゑよしハ、〔北女閭起原〕などに説もあれど信じがたし、大文字屋二世 の主人 言残 せるには、御先祖つね/\語られしには、世の中に人間万事塞翁馬 といふ事思ひあたりしは、我事をかぼちや/\といはるゝ事也、我家 はもと村田屋と家名を呼ならせしが、或日、いさゝかの事よりして親分と不和になり、親分法外 なる事をいひのゝしるが腹立しさに、さまで詫もせでありけるを、親分いたく立腹して、しからバ我家名を譲 し村田の布簾 を取かへすべしとて、俄 にその布簾を外して行たるが、あまりなる事に思ひ、我ハ何屋にても一家をたてんと、直 さま紺屋を呼寄、思ひよるべき縁家 もあらざれバ、何にても布簾いつぱいに大文字に書きたしと思ひしより、その大文字屋こそしかるべけれとて、直に大文字屋とかな書に布簾を染させ、一夜のうちに露のたるゝ儘かけたるを、親分こゝろ悪くや思ひけん、我を恥かしめんとて、地廻 などにいひふくめて、
こゝに京町大もんじやの大南瓜 、其名ハ市兵衛と申します、身 がひくうて、ほんに猿まなこ、ヨイハイナ/\、
と角口 などへ立せて、毎夜 うたハせし也、我家村田屋の布簾をかへし、大もんじやと改名して京町壱町目へ出たれば、こゝに京町とハうたひし也、それより此唄をちこちにてうたひ流行 なすに随ひて、家内も繁昌也、我身の見悪 きをそのまゝ、南瓜といはれたるが目出たければ、我死して後ハ法名をかぼ信士 といふべしと物語しとなん、此話代々に言伝ハりたるを、おのれ聞けり、実に此の話の如くなるべし、村田屋を改めて大文字屋となりたる証をこゝに載す、(略)
- 子孫が言っているからといって全てを肯定するわけにもいかないが、概ね次のようなことを言っているようだ。
- 「京町大文字屋の大南瓜」という謡の流行ったのは宝暦2年(1752年)である。
- 初代ははじめ村田市兵衛と名乗り、寛延3年(1750年)揚屋町河岸に見世を出し、宝暦2年(1752年)に「大文字屋」と改名して京町一丁目に見世を出した。「京町大文字屋の大南瓜」という謡の流行ったのは、この時(つまり宝暦2年)に流行ったものである。
- 大文字屋二世が言い伝えるには、初代は「村田屋」という名で見世を出していたが、ある時「親分」(誰のことか不明)と諍いを起こし、「村田屋」を使うことを禁じ、同時に村田屋の暖簾まで取り上げていってしまった。そのためすぐに紺屋を呼んで暖簾いっぱいに「大もんしや」と書き、(糊や余分の染料を洗い流して)まだ乾ききらないうちに表に掛けたのだという。それを見た親分が、腹立ち紛れに「京町大文字屋の大南瓜」の謡を歌いだし、地廻りたちに言い含めてあちこちで毎晩囃し立てたのだとする(宝暦2年で京町に出た後だから歌も「京町~」となっているんだという)。しかし逆にそれが大文字屋の宣伝となり、家業も繁栄したという。
- そして自分が死んだ後は「かぼ信士」と法名をつけるよう言ったとする。
- これが村田屋を改めて大文字屋となった由来である。
代々主人と妻
初代主人:市兵衛
- 大文字屋文楼。号 文楼。
- 初代は村田市兵衛。
2025年大河ドラマ「べらぼう」では伊藤淳史さんが演じている。
- もとは伊勢出身で、川曲郡(かわわぐん)上蓑田の農民・松本某の子だという。
- 寛延3年(1750年)に新吉原に出て遊女屋を始めた。はじめは最下級の河岸見世で村田屋市兵衛として営業していた。
あげ屋丁かし、六、むらたや市兵衛
花のへ しらいと せかわ つまき くわてう 玉きく つかわ 玉かつら もゝのゐ 山のゐ
- その後京町一丁目、中の丁より右側六軒目で、格式は六印(最下級)に見世を映した。この時屋号を「大文字屋(大もんしや)」と改めたという。
- のち大見世大文字屋となる。
- 宝暦2年(1752年):座敷持6人、部屋持9人、無印6人、禿5人。計26人。
- 明和4年(1767年):座敷持11人、部屋持7人、無印10人、禿11人。計39人。
- 明和7年(1770年)には京町一丁目の中の丁より左に移転。
- 安永8年(1779年):座敷持9人、部屋持8人、無印12人、禿20人、芸者4人。計53人。「市兵衛事源兵衛」と書かれ、これは2代だという
- 奇行で知られ、抱え遊女の惣菜として大量のかぼちゃを買い入れたことから、「かぼちゃ(加保茶)市兵衛」とあだ名された。
- また頭が大きく背が低かったことが由来とも言われ、かぼちゃと揶揄されたが、自ら進んで「ここに京町大文字屋のかぼちゃとて。その名は市兵衛と申します。せいが低くて、ほんに猿まなこ。かわいいな、かわいいな」と歌い踊り、却って自店を喧伝したという(宝暦初年という)。これは吉原中から江戸中へ広まって流行歌となり、多くの替え歌が作られた。
- 園芸を好み、マツバランに斑を入れる工夫をして「文楼斑」と名付けられている。
- 安永9年(1780年)11月6日60余歳で死。
- 法名は釋拂加保信士。
- 先妻は覺意妙華(かくいみょうげ)。安永2年(1773年)に死去。
- 晩年に庶子「おろく」が生まれた。法名諦観妙々善尼。夫は享和3年(1803年)没で法名來戒瑩暉。
相応内所
- 初代の後妻という。実名は「仲」
市兵衛子無きを以て、姉の一女を養ひ、尾張岡本長兵衛の次男を婿せとしに、晩年に至り一女を得たり。
ただしこの「尾張岡本長兵衛の次男」というのは二代の加保茶元成のことではなく、享和3年(1803年)に死んだという。
「べらぼう」では、山村紅葉さんが「大文字屋の遣り手・志げ」役を演じているが、これが誰に相当するのかは不明(遣り手は妻ではなく、ベテランの女郎管理役)。少なくとも狂歌をやっているようには描かれていないと思われる。むしろ演芸関係の場面では大黒屋の「女将・りつ」を演じる安達祐実さんが登場している。もし後半などで狂歌連が描かれるとすれば、後妻の相応内所役が登場するのではないだろうか。
- 相応内所は狂名。
其後の市兵衛(※2代目)、狂名を加保茶元成といへり。一とせ此内所にて、狂歌の會ありし時、持佛堂をみれば、先の市兵衛(※初代)が位牌あり、法名釋佛妙加保信士とありしもをかしかりき。
(仮名世説 蜀山人)
- 安永2年(1773年)4月15日没。法名「寶樹妙音(ほうじゅみょうおん)」
二代主人:加保茶元成
- 大文字屋文楼。号 文楼。
- 宝暦4年(1754年)生まれという。
- 生家は岡本氏。はじめ「源兵衛」と名乗ったという。安永8年(1779年)頃2代となる。
- 初代の姉が岡本長兵衛に嫁ぎ、その次男(つまり初代の甥)を養嗣子にした。
- 初代は、姪である「まさ(狂名・秋風女房)」を養女としたうえで源兵衛(二代目)を婿養子とした。
- 徳保元成。字を思拳とする。号 宗園。俳号 如昇。
※宗園号を初代ともいうが混乱あり。
- 二代はさらに見世を大きくした。
- 寛政4年(1792年):座敷持12人、部屋持11人、無印20人、禿35人、芸者2人。計80人。
- 享和2年(1802年):呼出2人、座敷持11人、部屋持2人、無印41人、禿28人、芸者2人。計86人。
- 狂名「
加保茶元成 」で知られ、天明期における代表的な狂歌師。 - 「吉原連」
- 江戸狂歌が流行すると、天明3年(1783年)に扇屋宇右衛門(狂名:棟上高見)・大黒屋庄六(俵小槌)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・養母の仲(相応内所)、明店ふさかる、独寝抜伎、揚屋くら近、恋和気里、垢染衣紋、伏見茶屋人、茶屋町末広、筆の綾丸(歌麿)らとともに「吉原連」を結成。自らその主宰となり、山谷近くの「逍遥楼」と名付けた別宅でしばしば狂歌会を開いた。大田南畝(蜀山人)が度々招かれている。
- 古銭の収集・鑑定家としても知られた。
- 文政11年(1828年)没。法名は徳保元成禅門。享年75。
- 狂歌集にいくつか載る。
年ごとに來てはかせいで歸れるは 越路にたんとかり金やある〔
歸雁 〕
くれないと乞食も花を見るけふは つくな/\よいりあいの鐘〔乞食見花 〕
一聲の初音もたかきほとゝぎす 是ぞてつぺんかけねなしなる〔郭公 〕
やはらぐる光もとしをふるがたな とげみやさびし赤いはす水〔寄蛸神祇 〕
わくら葉に見はゞはあへど戀衣 二度ときもせで顕はれにけり〔顕戀 〕
きみとわが心はいづれたがひせん 跳ねかへされて手も無かりけり〔寄碁戀 〕
鬼灯のちぎらてひとりねふきより いとゞ思ひの種とこそなれ〔寄鬼灯戀 〕
つれなさに思ひは猶もまさるなり ひつかき送る言の葉もがな〔猿寄戀 〕
なみならぬ用事のたんとよせくれば 釣に行間 もあら急がしや〔あそびも遠ざかりけるに〕
雙六にうつの山べのうつゝにも 夢にもひとつかたぬなりけり〔雙陸 にまけぬれば〕
秋色(秋風女房)
- 初代大文字屋文楼の姪で、名を「まさ」という。6歳のときに養子として初代に引き取られた。
- 二代主人・加保茶元成の妻。
- 秋色(しゅうしき)は要衝より風流を知り、13歳の時に上野の花を見、清水堂の浦の井戸端の桜が今を盛りと咲くのを見て「井の端の櫻あぶなし酒の酔」と即吟したことにより、その桜を「秋色桜」と呼ぶようになったという。
- また「秋風女房」とは「秋立つと風が知らずや文月の封じを桐の一葉散らして」の狂歌より取られたものという。
- 和歌を能くし、狂歌名を「木綿子(ゆうし)」と号した。
- 画を酒井抱一に学んだ。
- 秋風女房とは、「秋立つと風が知らすや文月の封じを桐の一葉散らして」の狂歌により名付けられたという。
- 文政9年(1826年)9月、67歳で没。法名永保妙寿信女。
- 狂歌集にいくつか載る。
秋きぬとかぜがしらすや文月の ふうじをきりの一葉ちらして〔
立秋風 〕
もち月とあいだ一夜のたちまちに すこしかけても影の冴 けさ〔立待月 〕
うきいのち しばしはよど の水車 ひをくみてめぐり來よがし〔寄車戀 〕
あひ思ふふたりが中もこく牡丹 うしとはいはじいろふか見草〔寄牡丹戀 〕
三代主人
- 狂名「
加保茶浦成 」、南瓜浦成とも。 - 「南瓜宗園」
- この3代目も「源兵衛」であったという。
- 加保茶元成の養子となり、その次女(「むら」あるいは「かる」だという。桃洞と号す)の婿となって大文字楼三世の主人市兵衛と称した。
- 桃洞は天保3年(1832年)12月4日死去。法名は桃洞妙源信女。
- 実は江戸町彌八玉屋の金山永順の子という。はじめ一作といい、父は卜斎。兄は永爾。兄・永爾の娘は篆刻師・三代浜村蔵六の妻となった。また妹は森江兼年の妻という。
- 「本成(もとなり)」とも書き、後に「浦成」と改めたという。天保3年(1832年)には「浦成」とも「三亭春馬」としている。天保4年(1833年)頃に改名したとされる。
- 画を酒井抱一に学び、仲の町両側の灯籠を書いたことがあるという。
- 江戸半太夫に学んで江戸節を能くし、狂歌を浅草庵春村に学んだ。
- 十返舎一九の門に入り、三亭春馬、九返舎一八(くへんしゃ いっぱち)、三世十返舎一九、あるいは二世八文字屋自笑と号したという。
- 古銭・刀剣の収集などをしたという。
- のち離縁され、山谷に質屋を開いた、あるいは船宿を開き八文字屋と号したという。または貸本屋になったともいう。
- 弘化3年(1846年)9月6日没。
四代主人
- 同業玉屋彌八の息子・金次郎という。のち磯部源兵衛。
三代と四代で混乱があるのではないかと思われる。
- 加保茶浦成とも、本成とも、元成ともいう。また三亭春馬と名乗ったという。
- 「狂歌百才子傅」には下記のように記すが、後半「面体猿に似て頭がちなり」以降は初代の話ではないかと思われる。
村田本成、姓藤原、一明蔓麻呂、號加保茶園、花街楼、柿園、三亭、性質愚にして嘗て能なし、面体猿に似て頭がちなり、丈は才と共に短く、尤も肉ふと也、たゞ一藝とする所、よくひとりまひまなひつることを得たり、名付けてかぼ茶おどりといふ(略)天明の頃世に名大に鳴りし元成は此本成が曽祖父なり
- 嘉永4年(1851年)12月18日没。法名大用玄機居士。
五代主人
- 森江兼哉は、三代・南瓜宗園の妹で森江兼年に嫁いだ森江家の人だという。
- 蒔絵を能くしたという。
- 安政の地震で死去。
- この森江兼哉の弟が篆刻の名手だった中井敬所だという。
遊女
誰袖(たがそで)
- 大文字屋の女郎。「誰が袖」。
- 禿上がり。
- 田沼意次の懐刀として知られた旗本・土山宗次郎(諱は孝之)に1200両で身請けされる。
田沼に抜擢され、勘定組頭に登用された。天明6年(1786年)に徳川家治が薨去し反田沼派の松平定信が台頭した後、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、平秩東作(へづつ とうさく)に武蔵国所沢の山口観音に匿われたが、発見され、天明7年(1787年)12月5日、斬首に処された。匿った平秩東作も「急度叱」の咎めを受け、狂歌界とも疎遠となった。
大河ドラマ「べらぼう」では振袖新造時代の「かをり」を稲垣来泉さんが演じ、成長後の誰袖を福原遥さんが演じる。
- 詳細は「誰袖」の項を参照
香川(かがわ)
- 大文字屋の女郎。
- 禿上がりで、振袖新造のころは「おちか」と呼ばれた。※この「おちか」を誰袖と呼んでいる書籍も多い。
- (文化初年)酒井抱一に落籍され、落籍後は酒井家の奥女中・春条(はるえ)。画号小鸞(しょうらん)女史、のちに剃髪して妙華尼と号した。
- ※酒井抱一が身請けしたのは、この「香川」ではなく「誰袖」だと書かれているものもある。特に、明治~昭和初期の書籍で「誰袖」、「香川」、「三保崎」について混乱しているものが多い。
- 現在の定説では、下記の組み合わせが正解となる。
- 大文字屋 誰袖=土山宗次郎
※斬罪時の判決土山が妾ハ大文字屋の遊女誰袖ニ無相違故、大文字屋へ御返しニ相成
- 松葉屋 三保崎=大田南畝
※南畝自身が三穂崎から聞いて記した話松葉樓中三穂崎 更名阿賤落蛾眉
- 大文字屋 香川=酒井抱一 ※小鸞女史、妙華尼
※この酒井抱一については直接同時代に書かれたものがないが、上記の組み合わせによりそれらとの関係が消え、「閑談数刻」による記述が正しいものとする。小鸞夫人、後に剃髪して、妙華尼と云。鶯邸君御召仕、元は大もんじやの遊女、賀川。
関連項目
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