赤小豆粥
赤小豆粥(あかあずきがゆ / あずきがゆ)
上杉謙信の刀
- 別名「典厩割」
由来
- 不明。
地方により、脳または頭蓋骨を「なずき」と呼ぶという。これがなまったもので、脳天割をした刀に対する異名の可能性もある。
- 上杉方の軍記物で上杉謙信が武田信繁を斬った際の逸話において、「異名を赤小豆粥と號し」と登場する。つまりこの場合「典厩割」の異名である。
- なお上杉家には「小豆(あずき)」と異名の付く「竹俣兼光」がある。いつの時代かにこの逸話と混同した可能性がある。さらに、立花宗茂の「波泳ぎ兼光」でも「小豆兼光」という名前が登場する。
- しかし「典厩割」は無銘、「竹俣兼光」は刀工兼光による長銘が入り、「波泳ぎ兼光」も大摺上無銘だが小早川秀秋による金象嵌が入ることからすべて別物であると考えられる。
光悦押形
- 福永酔剣氏は「日本刀物語 続」において、この「あつきかけ」の”あつき”は小豆であり、”かけ”のけは変体仮名の”希”をくずした形で”ゆ”に似ているために「あつきかけ」を「あつきかゆ」と誤読したとする。さらに本来の「あつき-かけ」の”かけ”については、”欠け”であるとして、落ちて当たった小豆は「真っ二つに割れた」のではなく「欠けた」のであるとする。
- この欠けた説の根拠として、窪田清音(源清麿の後援者)が自ら実験したが切れなかった話と、窪田が刀工大慶直胤(水心子正秀の弟子)にも尋ねてみたが嘘であると言下に否定された話を載せる。ここで窪田清音は、「アツキ」はアズキではなくナズキであるとの推論に至る。ナズキは「脳・脳髄・脳蓋骨」を表す古語で、要するに小豆を割ったのではなくナズキ(脳天)を割ったのであるとしている。
窪田清音曰くあづきの切れしと云刀につき考ふるに(略)腦をなづきとよみ、北越の人頭痛をなづきかやむといふ、なづきあづき訓似たるよりあやまりしにて、今もためしに頭をわるは上作ならては不出來なつき割なりとよく人のいふことなり、尤の説なり、兼光よりも今一段よき刄味の兼元永正祐定村正の類其外上なしといふ刄へいかに豆を投付けたりとて決してきれす、既にこのことを刀匠直胤と論してかれも豆の當りてきれると云かあるへからすとて笑ひ、我ためし見しなり、けしからぬ僞なり、なづき割の説是なり
- さらに福永酔剣氏は、福田顕竜著「刀剣正纂」の説を紹介している。刀剣正纂によれば、川中島で謙信に斬られた輪形月平太夫をワヅキ平太夫と読み、アヅキ長光はワヅキ長光のなまりであるという。※酔剣氏は若槻と同じでワカツキと読むとしてこの説を否定している。
- さらに「小豆長光」と称する刀が下野国黒羽藩主であった大関元子爵家に伝わっていたと紹介しているが、これも真偽のほどは不明とする。
- この項の参考文献:「日本刀物語 続」 福永酔剣著 雄山閣出版 1969年
- 国立国会図書館デジタルコレクション - 日本刀物語. 続
典厩割
- 武田信繁を斬ったという刀「典厩割」の逸話に登場するもの。
此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸、赤胴作りに候、只今当家に相伝有之候、異名を赤小豆粥と號し候、是れ天文廿三年甲寅八月十八日なり、謙信太刀に切込有之候
(上杉将士書上)此時謙信の太刀、備前長光二尺五寸赤銅作、今に当家に相伝へ有之、異名を赤小豆粥と號すと云々、右天文廿二年霜月廿八日、川中島下米宮合戦は第一度なり
(北越耆談)
- どちらかが参照したのか年月以外ほぼ同じ文意となっている。刀については全く同じで、「備前長光」の作であり、刃長「二尺五寸」、「赤銅作」であり、異名を「小豆粥と號す」となる。
- なお両方共「備前長光」となっているが、同じ場面を描く「謙信記」では次のように書かれており、長光なのか兼光なのかがあいまいである。
- ただし現存する典厩割は「無銘 伝国宗」となっている。
竹俣兼光
- また別の文献では、いずれも「竹俣兼光」の逸話が語られる場面で登場する。
謙信の許に赤小豆粥、竹俣兼光、谷切とて三の刀あり。竹俣兼光は、もと越後の百姓持ちたりしに、(略)又或時大豆を袋に入れて帰るさに、袋の綻より一粒づゝこぼれけるが、鞘にあたりて二ツに成りしかば怪しみ見しに、鞘のわれて刃は纔に出たりしに当し故なり。
(常山紀談)上杉謙信の太刀に、赤小豆粥〈鎌倉行光三尺一寸川中嶋にて信玄と太刀打の時の太刀也〉、竹股兼光、谷切〈來國俊ノ作也〉と云て三腰有り
(武辺咄聞書)
- つまり、「赤小豆粥」と「竹俣兼光」は別物である。
波泳ぎ兼光
- 江戸時代に柳川藩主立花家に伝わった「波泳ぎ兼光」は、元は上杉謙信が所持するところの「
小豆兼光 」であり、それが景勝の時代に宇喜多秀秋(羽柴岡山中納言、金吾中納言)に伝わりそこで「波泳ぎ」の異名が付き、その後立花家に相伝したという。右は往古上杉謙信秘蔵の道具也、上杉家にては
小豆兼光 と申重宝にて有之候処景勝時代羽柴岡山中納言、依所望、彼家に相渡波游を改有之候由、其後年数経払物にて被為召候由
- 立花家文書では、小豆長光ではなく小豆
兼光 になっている。 - この「
小豆兼光 」は「竹俣兼光」の逸話が誤って混同した可能性が高いと思われる。なお「竹俣兼光」と「波泳ぎ兼光」はいずれも享保名物でありまったくの別物である。
Amazon Prime Student6ヶ月間無料体験