池田輝政


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池田輝政(いけだてるまさ)  

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
三左衛門
岐阜侍従、吉田侍従、播磨宰相、姫路宰相
正三位、参議

概要  

  • 織田・豊臣・徳川時代を通じて池田家の勢力を伸長させた人物。
  • 国宝姫路城を築城した人物。

池田氏  

  • 池田輝政の祖母である養徳院は織田信長の乳母であり、後に信長の父の織田信秀の側室となった。
    永正12年(1515年)に池田政秀の娘として近江国または美濃国で生まれる。父の政秀には嫡子が無かったため、滝川貞勝の子・恒利を養嗣子として迎え、その正室となった。天文5年(1536年)に恒興を出産する。夫の主君織田信秀の嫡男吉法師(信長)は当時3歳だったが、乳母の乳首を噛み破る癖があって困らせていた。しかし彼女が乳母となってからはこれが直ったと云う。以来、「大御ち(おおおち)」と称された。天文7年(1538年)に恒利が死んだ後、出家して養徳院を名乗るが、のち信秀の側室となり娘・小田井殿(栄輪院)を出産した。慶長13年(1608年)94歳で死去。
     小田井殿はのち清洲三奉行の筆頭格である藤左衛門家の織田信張の子・織田信直(小田井城主)に嫁ぎ、2男1女(織田信氏、織田忠辰、牧野宮内少輔の室)が生まれている。詳細はわからないが、享保名物宗瑞正宗」は、この小田井氏が所持したものがのち秀吉、毛利輝元へと渡ったものという。

父:池田恒興

  • 養徳院の子である池田恒興(輝政父)は、織田信長の乳母兄弟の関係であり、天文14年(1545年)に10歳で小姓として仕え、重用された。
  • 天正8年(1580年)に荒木村重が謀反を起こすとこれを破り、のち村重の旧領を領した。
  • 恒興は天正10年(1582年)の本能寺の変の後は秀吉に属し、のち家臣となっている。織田四宿老の一人となり、清州会議に参加して秀吉の推した三法師を支持し、摂津で12万石を領した。
  • 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の合戦には参戦していないが、戦後に美濃13万石を領し、恒興自身は大垣城に、また嫡男池田元助は岐阜城に入っている。
  • しかし小牧・長久手の戦いで、恒興は嫡男の元助とともに討ち死にしてしまう。最期は永井直勝の槍を受けたとされる。

    池田輝政神祖の御親縁となりて後、申上らるゝは、麾下の士に永井傳八郎と申者は、某が父勝入を討候人に候、何卒対面いたし度と云、神祖さらばとて御許あり、因て初て対面す、

    この時恒興は「篠ノ雪」を所持していたが、永井直勝に奪われたという。のち輝政は永井直勝に会い父の最期を聞いている。その際に直勝の石高を聞くと5000石であったため、輝政は父を討ち取った功績の価値が5,000石しかないのかと嘆息したという逸話が伝わる。なお永井直勝への上野小幡1万石の加増は、大坂の陣後の元和2年(1616年)6月6日のことで、この時息子尚政も武蔵で4千石を加増されて都合5千石となった。

生涯  

  • 池田輝政は、永禄7年(1564年)池田恒興の次男として生まれる。母は荒尾善次の娘・善応院。
  • 父や兄とともに信長に仕え、近習となっている。

元服後  

  • 元亀4年(1573年)、輝政は池田家家臣で母方の叔父荒尾善久の養子となり木田城主となっている。

    信長、池田恒興の子古新(輝政、)に、木田小太郎跡職を安堵せしむ、

  • 天正8年(1580年)の荒木村重の反乱時には、輝政は荒木方の武士5・6名を討ち取る功を上げ感状を授けられている。

    信長の將池田恒興父子、荒木村重の属城摂津花隈を囲む、是日、恒興父子、城兵の出撃するを邀へ戦ひて、之を破る、

  • 天正8年(1580年)2月輝政は、兄・元助とともに甲州征伐に参陣、その後6月に起こった本能寺の変で信長が殺害された後は、父兄とともに秀吉に属し、のち家臣と成る。
  • 同年10月、大徳寺で行われた信長の葬儀では、輝政は羽柴秀勝(信長の子で、秀吉猶子)と共に棺を担いでいる。
  • 輝政の正室は、中川清秀の娘糸姫。この糸姫との間には池田利隆が生まれている。のち姫路藩2代藩主。

家督相続  

  • 賤ヶ岳の合戦後、輝政は美濃国安八郡の池尻城主となっている。
  • 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで父・恒興と兄・元助が相次いで死んだため、輝政は池田家の家督を相続し、美濃岐阜城主となり13万石を領した。

    羽柴秀吉、池田照政輝政の老臣伊木忠次に書を与へ、照政をして、美濃大垣より、同国岐阜に徙らしむ、

  • その後も、主要な戦いに参陣している。

    長岡忠興、池田照政(輝政、)長谷川秀一、秀吉の命に依り、武蔵岩槻城攻略の状況等を北條氏政に告げ、之を威嚇す、

  • 天正16年(1588年)従四位下、侍従に叙任され、豊臣性を下賜され羽柴岐阜侍従と呼ばれる。
  • 天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置にも参陣。戦後の9月には三河4郡15万2000石に加増され三河吉田城主となる。この頃は秀次の配下となっていた。この頃、秀吉の命により大船を建造している。

    秀吉、三河吉田(豊橋)の池田照政(輝政)の大船建造の労を褒し、大筒等を鋳造せしむ、

    秀吉、池田照政(輝政)に命じ、其居城三河吉田に帰り、東国の守備に當り、又兵糧米を肥前名護屋に送らしむ、

家康への接近  

  • 文禄3年(1594年)輝政は、秀吉の仲介により家康の次女督姫を後妻に娶る。

    (8月15日)三河吉田の池田照政(輝政)、徳川家康の女(北條氏直後室)を娶ることを約す、

    (12月27日)秀吉、徳川家康の女(北條氏直後室)をして、三河吉田の池田照政(輝政)に嫁せしむ、

  • この督姫との間に生まれたのが池田忠継、忠雄らの兄弟で、この家康の孫にあたる家系は、のち岡山藩から鳥取藩へと移り、池田宗家とは別に存続した。
              細川忠興──細川忠利【肥後熊本藩】
                      ├──細川光尚
                    ┌千代姫
              小笠原秀政 ├小笠原忠真【豊前小倉藩】
                 ├──┴万姫
         ┌松平信康──登久姫  ├──┬蜂須賀忠英【阿波徳島藩】
         │        蜂須賀至鎮 └三保姫
    徳川家康─┴──督姫            ├───池田光仲【因州鳥取藩】
             ├──┬─池田忠継━━池田忠雄   ├───┬池田綱清
             │  ├─池田忠雄         │   └池田仲澄──池田吉泰
             │  └─振姫     徳川頼宣─┬茶々姫
    池田恒興     │     │     【紀州家】└徳川光貞─┬綱教
      ├───┬─池田輝政  伊達忠宗              └徳川吉宗
     善応院  │  │
          │  ├────池田利隆──池田光政【備前岡山藩、池田宗家】
          │ 福正院    本多忠刻  ├──池田綱政──池田継政
          │          ├──勝姫         ├───池田宗政
          │    徳川秀忠─千姫      伊達吉村─心定院和子   ├───池田治政
          │                              │
          └─池田長吉──池田長幸           黒田継高──宝源院藤子
             【備中松山藩】
    
    
  • 文禄4年(1595年)秀次事件が起こるが、輝政の妹の若御前(秀次の正室)は特に助命されるなど、特別丁重に扱われている。

秀吉の死後  

  • 慶長3年(1598年)秀吉の死後は、輝政は秀吉政権の官僚であった文治派と対立。慶長4年(1599年)閏3月に両派の仲裁をしていた前田利家が死ぬと、福島・加藤らと共に石田三成襲撃事件を起こしている。
  • 慶長5年(1600年)4月には家康に従い参内している。

    内大臣徳川家康・前權中納言宇喜多秀家・同小早川秀秋・三河吉田の池田照政(輝政)・出羽山形の最上義光・常陸水戸の佐竹義宣・土佐浦戸の長宗我部盛親、参内す、

  • なお関が原の前に伏見を発った家康は、途中6月22日に三河吉田で輝政の饗応を受け、その後江戸へと入っている。

    徳川家康、三河吉田に著し、城主池田照政(輝政)の饗應を受け、同國白須賀に泊す、

  • 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、前哨戦となった織田秀信の守る岐阜城攻略に参加し、福島正則と共に功を挙げる。しかし本戦では毛利・吉川の籠もる南宮山の抑えを務め、武功はほとんど立てていない。

    池田照政(輝政)等の軍、木曽川上流を渡り、織田秀信の守兵を破る、秀信、逃れて岐阜城に入る、又、福島正則等、木曽川下流より進み、竹鼻城を陥れ、岐阜に向ふ、

姫路藩主  

  • 関ケ原の戦い後、播磨姫路52万石へと加増転封され、初代姫路藩主となる。

    (慶長5年12月22日)播磨姫路の池田照政(輝政)、同國朝光寺をして、寺領を安堵せしむ、

    (慶長6年1月18日)豐臣秀頼、播磨姫路の池田照政(輝政)をして、参内して、歳首を賀し奉らしむ、

    (慶長6年2月3日)徳川秀忠、播磨姫路の池田照政(輝政)の大坂の亭に臨む、

  • 慶長8年(1603年)2月6日、家康の次女・督姫との子である忠継に対して、わずか5歳で備前岡山28万石を与えられる。

    徳川家康、播磨姫路の池田照政(輝政)の第二子藤松丸(忠繼)に備前を與へ、信濃松城(松代)の森忠政を美作に移して、十八萬石を與へ、家康の第六子忠輝を下總佐倉より信濃松城に移し、十二萬石を與ふ、

    (8年4月)池田輝政、江戸に参覲し、第二子藤松丸「忠継」に備前を賜ひし恩を謝す、

  • 同年2月には従四位下・右近衛権少将に叙任される。

    姫路城主池田輝政を正四位下に叙し、左近衛権少将に任じ、板倉勝重等四人を並に従五位下に叙す、

    池田源輝政初照政、古新、三左衛門慶長八年二月十二日左少將、(続武家補任)

    輝政、慶長八年二月十二日、内府將軍ニ任ス、輝政叙正四位下、任左近衛權少將、二十二日、將軍ニ従テ上洛ス(池田家譜)

    関ヶ原合戦以後における徳川氏一門以外の大名における少将以上の任官は、前年3月における福島正則に次いでのものである。

  • 慶長9年(1604年)3月29日家康、伏見の輝政邸に御成。※ただし家忠日記によればこの日は江戸から伏見に到着した日であり、同日に御成とは考えにくい。
  • 慶長13年(1608年)4月18日、忠継、忠雄が秀忠の御前にて元服し松平の称号を与えられる。

    秀忠、池田輝政の子藤松丸、勝五郎に首服を加へ、松平氏及び偏諱を賜ひ、藤松丸を忠継、勝五郎を忠雄と称せしむ、

    忠繼藤松、三郎、左衛門督、従四位下
    池田三左衛門輝政の二男、母ハ東照宮の御息女督姫君、慶長十三年四月十八日、台徳院殿の御前にをいて元服し、松平の御稱號をたまはり、従四位下侍従に叙任し、左衛門督にあらため、御諱字を下され忠繼と稱す、このとき正宗の御刀を拝賜

    忠雄勝五郎、新次郎、宮内少輔、従五位下、侍従、従四位下、参議、正四位下
    實ハ輝政の三男、母ハ忠繼におなし、慶長十三年四月十八日、兄とおなしく台徳院殿の御前にをいて元服し、松平の御稱號をゆるされ、従五位下宮内少輔に叙任し、御刀をよひ馬を賜はる、時ニ七歳元和元年六月二十八日、忠繼卒して嗣なきにより、その遺領を賜ぬ

  • 翌慶長14年(1609年)4月2日、督姫は子を連れて駿府を訪れお礼の挨拶をしている。この時、藤松(忠継)に正宗の脇指、他2人にも脇指を拝領する。

    池田輝政の夫人徳川氏、子忠継、忠雄及び輝澄を携へて、家康に駿府に謁す、家康、輝澄に松平氏を授く、尋で蒲生秀行の夫人徳川氏も、また来り謁す、

    五日、播磨之池田三左衛門妻女、同藤松兄弟、何モ立駿河被上、金子貳百枚、銀千枚、綿千把引出物也、藤松正宗之脇指、舎弟兩人エモ脇指被遣、

  • 慶長6年(1601年)~慶長14年(1609年)にかけて姫路城を大規模に改修している。

    今年慶長十三年輝政公、台命ヲ承テ姫路城ヲ再榮シ給ヒ、天守ヲ建テ、外郭ヲ廣シ、城下ノ町割ヲ更メ、凡テ八十八町トス、翌年其功成ルト云、關難間記ニ記セリ、此城ハ太閤秀吉公ノ開基ニテ、其後木下肥後守居城ナリキ、

    なお子の池田利隆が2代藩主を継ぐが、3代光政は幼少を理由に鳥取藩へと転封され、その後備前岡山藩主となり、姫路は譜代大名が代わる代わる治めた。

  • 慶長14年(1609年)、西国大名には禁止されていた大安宅を賜り、「紀伊丸(紀國丸)」と号したという。

    慶長十四年、徳川聖君西國安宅船を止給ひて、輝政卿獨に大安宅を賜ふ、是を紀國丸という也、蓋聞、此船は播磨國明石灘より、漸く淡路國に其長渡る程なる無雙の大船也しと傳來す、
    池田三左衛門尉輝政、播州姫路に居城の時、大船を造らしむ、其長三町といへり、間數にして百八十間なり、此船を入置船入を、播磨、備前、美作三箇國に課せてほらせられ、則今三左衛門殿堀と稱するよし云傳へり

    この「紀伊丸」が停泊したとされる飾磨津の痕跡が今も残ると二千十九念12月のブラタモリ姫路城編で紹介された。
    ブラタモリ「姫路城~姫路城で江戸城のロケをするのはあり!?~」 - NHK
    文化財見学シリーズ14「飾磨津」をたずねて-姫路市教育委員会

  • 慶長16年(1611年)4月家康は、輝政の娘振姫を伊達忠宗の許嫁としている。

    家康、池田輝政の女を養ひ、伊達政宗の嗣子虎菊「忠宗、」に許嫁す、

    これは叔母に当たる市姫が早世してしまっていたことから、その代わりとして選ばれたものである。この月に家康と英勝院の養女となるが、その後家康が死んだため、元和3年(1617年)10月秀忠の養女となり、12月13日に忠宗に輿入れした。

  • 慶長17年(1612年)正月に病を得るが、治癒し駿府江戸へ挨拶を行う。この時、正三位、参議。松平姓を許され、松平播磨宰相と呼ばれる。徳川政権下において、徳川一門以外の大名で参議に任官されたのは輝政が最初である。

    是より先き、家康、秀忠。池田輝政の病めるを聞き、使を遣して之を訪はしむ、是に至り、輝政、病癒ゆるにより、駿府に之いて、家康に謁し、尋で、江戸に抵り、秀忠に謁す、秀忠、之に松平氏を賜ひ、奏請して参議に任ず、

    (10月17日)池田輝政入朝して、参議に任ぜられし恩を謝し奉る、尋で、国に帰る、

    慶長十七年、参議源輝政、十月十五日任元右少将

  • この時江戸で秀忠より「蜂屋江」を、また駿府にて家康より「若狭正宗」を拝領している。

    八月廿三日、輝政、江城ニ登テ、台徳院殿ニ謁ス、于時饗膳ヲ賜テ、御腰物蜂屋郷、御馬二疋ヲ下サレ、松平ノ姓ヲ拝受シ、参議ニ任ズベキノ旨、命ヲ蒙テ退出ス、是日、輝政カ宅ニ、古田織部正ヲ使トシテ乙御前ノ釜ヲ賜ル、
    九月三日輝政、再ヒ駿府ニ至ル、翌四日、大神君茶會ヲ促サレ、輝政ヲ召ス、輝政城ニ登ル、山名禅髙、藤堂高虎等列座ス、御茶會畢テ後、其座ノ床ニ懸シメ給フ墨跡虚堂、御腰物若狭正宗、御馬御鷹ヲ輝政ニ賜リ、摂州ニ於テ、放鷹ノ地ヲ免許セラル

100万石の太守  

  • 自身の領地に加え次男忠継の備前岡山藩28万石、三男忠雄の淡路国洲本藩6万石、弟長吉の因幡国鳥取藩6万石を合せ、一族で計92万石(一説に検地して100万石)もの大領を有した。
  • 徳川家との縁戚関係を元に力を持ち、西国将軍と渾名されるに至った。
  • 慶長18年(1613年)1月姫路にて急死。享年50。

    播磨姫路城主池田輝政卒す、長子玄隆「利隆、」嗣ぐ、幕府、播磨三郡を割きて、次子忠継に加賜す、尋で、玄隆、忠継、駿府及江戸に至り、之を謝す、

  • 家督は嫡男の利隆が継いでいる。

    (4月)十六日、播磨國主輝政一男武藏守玄隆利隆ノ初名賜播磨國、二男左衛門督御孫子也賜備前國、同播磨國之内三郡賜添之云々、

刀剣  

  • 多数の刀剣の伝来に登場する。
  • なお「大包平」については輝政の代から所持したとも、嫡孫光政の代からともいう。
池田貞宗
幽斎所持、幽斎の子から譲渡。輝政は「幽斎貞宗」と名付け愛蔵した。死後秀忠に遺物として献上。その後「池田貞宗」と呼ばれ前田家に伝わった。
切刃貞宗
利隆が慶長10年(1605年)3月に侍従右衛門督に任じられたとき、秀忠より拝領した。のち弟の輝興に譲り、鳥取藩に伝わるが享保5年(1720年)焼失。
池田来国光
輝政が所持したために名付けられる。のち加賀前田家に伝来する。
蜂屋江
秀次、秀吉。家康。慶長17年(1612年)8月に秀忠から贈られる。
若狭正宗
木下勝俊、家康。慶長17年(1612年)8月に家康から贈られる。
池田正宗
伊達政宗から有馬晴信、弟の池田長吉へと伝わっており、「駿府御分物刀剣元帳」では「池田三左衛門殿」と記される。
光忠
「被下物之御腰物」に「はりま松平宰相殿」と記す。
行光
「被下物之御腰物」に「はりま松平宰相殿」と記す。駿州に分与
日光國宗
「御太刀」に「池田三左衛門殿」と記される。
一文字
「御太刀」に「羽柴三左衛門殿」と記される。尾州へ分与
一文字
「御太刀」に「羽三左衛門殿」と記される。水戸へ分与
  • 死後、遺物として各所に贈られた主な刀剣

    一、大内正宗御脇指 大御所様家康
    一、長光無銘御腰物 右兵衛様尾張義直
    一、長光無銘御腰物 常陸様紀伊頼宣) ※池田家履歴略記では「但、シノキ作」
    一、長光之御腰物 御鶴様水戸頼房) ※池田家履歴略記では「光忠無銘、但、ヒアリ」
    一、延寿之刀 本多上野殿
    一、直綱之刀 成瀬隼人殿
    一、三原之刀 安東帯刀殿
    一、左文字揚羽ノ刀 村越茂助殿
      以上、
    一、幽斎貞宗御腰物 将軍様(秀忠) ※池田家履歴略記では「脇指」
    一、志津無銘御腰物 若君様(家光
    一、来国俊ノ御腰物 御國様(徳川忠長、駿河大納言
    一、左文字ノ御腰物 越後少将様(松平忠輝) ※越前
    一、片山之刀 本多佐渡守殿
    一、長光之刀 大久保相模守殿
    一、則重之刀 堺雅楽頭殿
    一、左文字刀 土井大炊頭殿
    一、一文字之刀 安藤対馬殿
    一、志津之刀 青山図書殿
    一、来国俊揚羽ノ刀 鵜殿兵庫殿
      以上、
    一、安吉ノ御腰物 秀頼様(豊臣秀頼) ※池田家履歴略記では「脇指」
    一、安房ノ刀 藤堂和泉守殿
    一、左文字ノ刀 羽柴丹後殿
    一、兼重ノ刀吉貞之脇指 同羽柴采女正殿
    一、貞長ノ刀 浅野紀伊守殿
    一、長光ノ刀 羽柴右近殿
    一、備前揚物ノ刀 蜂須賀阿波守殿
    一、来友国ノ脇指 羽柴越中守殿
    一、廣光揚物ノ刀 松平土佐守殿
    一、直綱ノ刀 有馬玄蕃頭殿
    一、備前ノ刀 堀尾山城守殿
    一、兼光ノ刀 九鬼長門守殿
    一、當麻ノ刀 山崎左馬頭殿 ※允
    一、元重ノ刀 加藤左馬助殿 ※今光重、又元令ニ作ル
      以上、
       慶長十八年七月廿七日 荒尾但馬書判
                  伊木長門同
                  丹羽山城同

系譜  

 池田輝政─┬利隆──光政──綱政
      │
      ├忠継
      │
      ├忠雄──光仲──綱清
      │
      └輝興──政種──政弘━(末期養子)━清勝

嫡男:池田利隆  

  • 輝政の正室、糸姫(中川清秀の娘)の子。新蔵。
  • 従四位下、侍従、右衛門督、武蔵守
  • 慶長18年(1613年)1月、父の輝政が死去したため、6月に家督を継ぎ姫路藩2代藩主となっている。
  • 父の死に際して、若狭正宗ほかを相続している。
  • この家系は、外様池田宗家として存続した。

次男:池田忠継  

  • 輝政の継室、督姫(徳川家康の次女)の子。三郎五郎。
  • 従四位下、左衛門督、侍従
  • 慶長4年(1599年)2月に伏見で生まれる。
  • 家康の外孫にあたり、小早川秀秋が無嗣断絶で改易されると、慶長8年(1603年)わずか5歳で備前岡山28万石に封じられた。この時に家康から吉光の脇差を拝領する。秀忠からも脇差拝領。
  • 慶長13年(1608年)4月18日、秀忠の御前にて元服。従四位下・侍従に叙任され、左衛門督を兼任し、松平姓を賜う。この時、正宗の刀を拝領。翌慶長14年(1609年)4月にも家康より正宗の脇指を拝領する

    慶長十三年四月十八日、台徳院殿の御前にをいて元服し、松平の御稱號をたまはり、従四位下侍従に叙任し、左衛門督にあらため、御諱字を下され忠繼と稱す、このとき正宗の御刀を拝賜

    五日、播磨之池田三左衛門妻女、同藤松兄弟、何モ立駿河被上、金子貳百枚、銀千枚、綿千把引出物也、藤松正宗之脇指、舎弟兩人エモ脇指被遣、

  • 異母兄の利隆が執政代行として岡山城に入り、忠継は姫路城に留まっていた。
  • 慶長19年(1614年)、輝政が死ぬと16歳で初のお国入りし、母・良正院の化粧料の西播磨10万石を分与され、計38万石を領した。
  • 父の死後、蜂屋江ほかを相続する。

    諸道具割符帳
     左衛門督に相渡候分、
    一、蜂屋江ノ刀  将軍様(秀忠)より拝領、
    一、二字国俊刀 同断
    一、来国次ノ刀
    一、二字国俊ノ刀
    一、吉光ノ脇指  将軍様(秀忠)より拝領、
    一、保昌五郎脇指  御所様(家康)より拝領、
    一、将監刀 輝政不断指
    一、二郎右衛門脇指 同
    一、遺刀 八腰
    一、遺脇指 拾四腰 ※池田家履歴略記では「拾二」
    一、大脇指 貳腰
    一、小さ刀 壹腰
    一、太刀 三振
    一、やうの太刀 三振
    一、鑓之身 壹本
    一、さすか 壹ツ
      以上、
     刀合拾三腰、 脇指合拾九腰大小共、 太刀六振、
     ちいさ刀壹腰、 鎧之身壹本、 さすか壹ツ

  • この後8月に江戸へ下って秀忠に遺領相続の挨拶をした時に秀忠より御刀および馬を拝領する。
  • 慶長20年(1615年)の大坂冬の陣に参陣するが、備前岡山に帰城後2月27日に急死する。享年17。

    備前岡山城主池田忠継卒す、家康、兄池田玄隆「利隆」及び森忠政をして、備前の仕置を行はしむ、

  • 家康の仲介により森忠政の娘菊との婚約があったが、婚儀前に死んだために嗣子はなく、同母弟の忠雄が跡を継いだ。

三男:池田忠雄  

  • 輝政の継室、督姫(徳川家康の次女)の子。勝五郎・新次郎。
  • 正四位下、宮内少輔、参議
  • 家康の外孫にあたることから、慶長15年(1610年)2月23日わずか9歳で淡路洲本6万石を与えられる。実際には姫路に留まり、重臣が政務にあたっている。

    家康、姫路城主池田輝政の第三子忠雄に淡路を賜ふ、

  • 父の死後、豊後正宗ほかを相続する。
  • 元和元年(1615年)、大坂の陣の後に同母兄の忠継が急死したため、跡を継ぐ。遺領38万石のうち、母・良正院の化粧料10万石より同母弟・輝澄(山崎藩3万8,000石)や政綱(赤穂藩3万5,000石)、輝興(平福藩2万5,000石)らにそれぞれ分与したため、忠雄の領地は31万5,200石となった。
  • 宗家にあった「大包平」を寄越すように要求するが、家老の日置豊前が強く拒んだため断念したという逸話が残る。

四男:池田輝澄  

  • 慶長9年(1604年)に池田輝政の四男として姫路城で生まれる。幼名は松千代
  • 従五位下、石見守、従四位下、侍従
  • 家康の外孫にあたるため慶長14年(1609年)4月、松平姓を下賜され、松平左近と称した。
  • 慶長20年(1615年)5月28日、兄で岡山藩主だった池田忠継が早世すると、その所領から播磨宍粟郡3万8000石を分与されて山崎藩主となり、従五位下に叙任する。元和3年(1617年)に従四位下に昇進し、寛永3年(1626年)8月19日に侍従に任じられた。更に寛永8年(1631年)、弟の政綱が死去すると、新たに播磨佐用郡3万石を与えられて、合わせて6万8000石となる。
  • 父の遺物

    諸道具割符帳
     松千代に相渡分、
    一、正宗之脇指
    一、鎌倉助實之刀
    一、守家之刀 将軍様より拝領
    一、信國之脇指
    一、信長の大脇指 輝政不断指
    一、左文字之脇指

五男:池田政綱  

  • 慶長10年(1605年)姫路城で生まれる。母は徳川家康の次女・督姫で家康の外孫に当たる。幼名は岩松
  • 従五位下、従四位下、右京大夫
  • そのため、慶長16年(1611年)には家康から松平姓を下賜された。
  • 元和元年(1615年)、備前岡山藩主だった兄の池田忠継が死去すると、その遺領から赤穂郡3万5,000石を分与されて、赤穂藩を立藩した。
  • 継嗣がいなかったため、赤穂藩は一旦は無嗣改易となるが、弟の輝興が家督を継ぐことを許された。
  • 父の遺物

    諸道具割符帳
     岩松に相渡候分、
    一、来国次之刀
    一、行光之刀 将軍様より拝領
    一、貞宗之脇指
    一、来国俊之刀
    一、片山ノ刀 輝政不断指
    一、神息ノ脇指

六男:池田輝興  

  • 慶長16年(1611年)1月15日、姫路藩主・池田輝政の六男として姫路城で生まれる。母は徳川家康の次女・督姫で輝興は家康の外孫に当たるため、松平姓を与えられた。幼名古七郎
  • 元和元年(1615年)に備前岡山藩主だった兄の忠継が死去したため、その遺領から佐用郡など2万5,000石を分与されて、平福藩主となった。
  • 寛永3年(1626年)8月19日、従五位下、右近大夫に叙任する。正室には黒田長政の息女亀姫を迎え子女を儲ける。
  • 父の遺物

    諸道具割符帳
     小七郎に相渡分、
    一、行光之脇指
    一、三池之刀 御所様より拝領
    一、守家之刀
    一、大左文字之刀 輝政不断指
    一、國信之脇指
    一、高木貞宗脇指

七男:池田政虎  

  • 輝政の側室満願院の子。
  • 天正18年(1590年)の生まれだが、家康外孫である督姫の子らが生まれたために七男とされた。
  • 伯父の長吉に養育され、のち父輝政の家臣・若原幸成の養子となり、若原内記と称し、遺領5千石を継ぐ。
  • 慶長15年(1610年)に兄・忠雄(実は弟)に淡路一国を与えられた時、忠雄が幼少であったため、代わりに政虎が淡路由良城の城代となっている。
  • 慶長18年(1613年)池田姓に復し、池田加賀守と改める。
  • 元和3年(1617年)には甥の池田光政の因幡鳥取藩への移封に伴い、岩井郡(巨濃郡)浦富の桐山城を陣屋と改め移住した。

八男:池田利政  

  • 輝政の側室の安藤氏の子。
  • 文禄3年(1594年)に三河国吉田に生まれたが、家康外孫である督姫の子らが生まれたために八男とされた。
  • 関ヶ原の戦い後、父・輝政が播磨姫路藩に移封されると、利政は船上城の城代となり、4170石(後に加増され5000石)を知行した。
  • 元和3年(1617年)、甥の光政の因幡鳥取藩への移封に伴い、汗入郡逢坂に移住した。さらに、寛永9年(1632年)の光政の備前岡山藩への移封で岡山に移った。
  • 池田政信(まさのぶ):池田利政の子
    • 家督は、藩主池田光政の次男政言(まさこと)が相続し、兄綱政より2万5000石を分与されて鴨方藩主となった。英字まで存続
  • 池田知利:池田利政の子
    • 寛永19年(1642年)鳥取藩主池田光仲に招かれて家臣となる。家は通称下池と呼ばれ、代々鳥取藩着座(家老)の家となった。

弟:長吉  

  • 元亀元年(1570年)生まれ。母は恒興の正室・善応院。
  • 天正9年(1581年)12歳のときに秀吉の猶子となり、羽柴姓を許され羽柴藤三郎を名乗る。このときに沢瀉の紋付きを授かった。
  • 天正13年(1585年)従五位下、備中守に叙任され、1万石を知行する。
  • 慶長5年(1600年)には2万2000石。
  • 関ヶ原の戦いでは兄とともに岐阜城攻めに参加、本戦の後、近江水口の岡山城攻めを命じられると、長束正家・長束直吉兄弟を9月30日に助命すると欺いて開城させて誘い出し、10月3日に切腹させるという戦功を挙げ、褒美として正家の財貨は悉く長吉に与えられた。
  • それらの功を賞され、因幡鳥取藩初代藩主となった。この時池田姓に復している。
  • 慶長19年(1614年)9月に死去、享年45。
池田正宗
伊達政宗から有馬晴信、のち池田長吉。本阿弥極めで金象嵌銘を入れる。秀忠に献上。前田家から尾張徳川家。享保名物
  • 長幸:長吉の子
    • 跡は嫡子の長幸が継いだ。正室は森忠政の娘松子、継室も忠政の娘宮子。のち備中松山へと移されている。「後藤来国光」を所持。
    • 長常:長吉の長男。勇猛だったが嗣子なく33歳で死に、末期養子が認められず無嗣断絶した。
  • 森寺長貞:長吉の子。
    • 池田長吉の次男。母は池田家家老伊木忠次の娘。池田家家老森寺忠勝の婿養子となる。
    • 建部池田家(森寺池田家)第3代当主。
  • 長政:長吉の子。
    • 長吉の三男。母は池田家家老伊木忠次の娘。通称は長門、下総。
    • 岡山藩の家老。建部池田家(森寺池田家)第4代当主。
    • 伯父(輝政の弟)に同名長政がいる。

弟:池田長政  

  • 天正3年(1575年)生まれ。母は恒興の正室・善応院。
  • 幼少時に片桐俊元の養子となり、慶長2年(1597年)に俊元が死去すると、家督と三河国新庄7000石の所領を継いだ。
  • 関ヶ原の戦い後、播磨赤穂城1万5千石を加増され、のちさらに1万石を加増されて備前下津井3万2000石の領主となる。
  • この家系は、池田光政から始まる池田宗家の岡山藩の家老(片桐池田家)として存続した。

関連項目  


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