浮田志津
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浮田志津(うきたしづ)
- 志津兼氏作
- 「駿府御分物帳」の上々御脇差の項に所載。
- 享保名物帳所載
浮田志津 長八寸二分半 無代 松平大炊頭殿
表劍裏棒樋、忠先切、浮田(宇喜多)中納言秀家卿所持、如何なる傳なるか尾張大納言御所持、其後また新太郎殿御家へ入る。- 新太郎殿は池田光政(新太郎少将)。
- 平造り、三ッ棟。生ぶ中心、僅かに反り。浅い栗尻。
- 目釘孔3個。表に素剣、裏は腰樋に添樋で共に掻き流す。
由来
- 宇喜多秀家所持にちなむ。
伝来
毛利秀包
- 元は久留米侍従であった小早川藤四郎秀包(毛利秀包)の所持。
毛利秀包は、毛利元就の九男で隆元の弟にあたる人物。はじめ大田氏を継ぎ大田元綱を名乗るが、のち次兄隆景の後を継いで小早川元総を名乗る。秀吉から秀の字を賜り「秀包」と改名する。九州征伐や朝鮮の役で戦功を挙げて筑後久留米を領し羽柴久留米侍従と称される。正室は大友宗麟の娘桂姫(毛利マセンシア)で、秀包自身も影響を受けて受洗。洗礼名をシマオとしている。関ヶ原の戦い後に毛利姓に復し、玄済道叱と称す。帰国後体調が悪化し、慶長6年(1601年)に35歳で没。
諸家
尾張義直→秀忠
- 尾張大納言義直を経て、寛永3年(1626年)大御所秀忠へ戻る。
十月九日
大御所様名古屋江 着御、御腰物志津、御頂戴、 大御所様江も御脇指浮田志津、御指上之、
秀忠→池田光政
- 寛永5年(1628年)正月、因州鳥取城主の池田光政(備前岡山藩初代藩主、新太郎少将)が将軍秀忠の孫勝姫(本多忠刻と千姫の娘)と結婚した時に、秀忠から本刀を拝領している。
五年台徳院殿の御孫女本多忠刻女をもつて光政に嫁せしめられ、御息女に進ぜらるゝのむね恩命をかうぶり、正宗の御刀、志津の御脇指を賜ひ。大猷院殿より守家の御刀を拝賜す。
- 享保名物帳に記載される「松平大炊頭殿」とは、岡山藩3代藩主池田継政のこと。
- その後は備前岡山池田家に伝わった。池田家では折紙をつけていないが、本阿弥光由は千五百貫か、百枚つくだろうとしている。
- 元禄5年(1692年)にも本阿弥家に砥ぎに出されており、本阿弥光常が拝見している。
明治天皇
- 明治24年(1891年)11月16日、明治天皇が侯爵池田家に行幸された際に、「毛利藤四郎」とともに献上された。
十六日 公爵池田章政邸に行幸あらせらる、邸は府下大崎村在り、午前十時三十分御出門、十一時十五分同邸に著御あらせらる、(略)章政所蔵の短刀二口一を浮田志津、一を毛利吉光と稱す、・傅元信筆懸物二幅對を上る、
明治14年(1881年)の献上ともいうが誤り。
- 皇室御物であったが、昭和天皇崩御後に国庫移管された。
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