お梶
お梶(かじ)
徳川家康の側室
お勝
英勝院
生涯
- 生まれについては、遠山氏(太田氏)、江戸氏など諸説あり定かではない。
水戸黄門頼房卿御養母
英勝院殿御由緒
北条家の士遠山四郎左衛門、北條氏康の代に至り丹波守と成り、武州江戸の城主に申付置、而丹波守嫡子隼人正ハ戦死し外に男子とてハ無く、女子計余多有之、長女ハ同国川越の城主大道寺駿河守政繁に嫁し、次女は同国稲附の城主太田新六郎康資が妻と成る、康資に二人の子あり、兄を新六郎重政、妹を於かぢと称せるなり、
- 早くに(13歳頃)家康に仕えたと考えられている。
市姫
- 慶長12年(1607年)1月、家康66歳のときに、家康最後の子である五女市姫を30歳で産む。家康は、信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方のように美女になって欲しいと願っていたらしく、市姫と命名する。
- この市姫は、仙台藩主伊達政宗の嫡男虎菊丸(のちの伊達忠宗)と婚約するが、4歳で夭折してしまう。
野苺を摘んでいた際に毒虫に刺され、それが原因でこの世を去ったと言われている。京都嵯峨にある清凉寺には、市姫の位牌と市姫像図(京都府文化財)が残る。
養母
- 不憫に思った家康は、蔭山殿(お万)の産んだ鶴千代(のちの徳川頼房)、越前藩主結城秀康の次男である虎松(のちの松平忠昌)、外孫であった振姫らをお梶の養子としている。
或時東照宮於かぢの方へ上意ありしは、其方子も是なき儀なれば養子を致さすべしと思召さるれ共、其方が養子にと是ありなば当城内ニてそだち申にて有べし、然らば外の者は成るまじ、我等の孫共の中ニて壱人とらすべしとの上意ニて、越前の松平伊予守忠昌其節は十一歳に成らせられ虎松殿と申せしを、駿河へ召呼れ於かぢの方へ養子に下さる、(略)其後叉駿府の御城内にて懐妊の女中ありしを於かぢの方へ御預け下され(略)御成長の後水戸中納言頼房卿と称せしはこの御方なり、
- 【鶴千代】のちの徳川頼房。水戸藩徳川家初代藩主。
- 【虎松】のちの松平忠昌。越後高田藩などを経て越前北之庄藩(福井藩)を相続した。
- 【孝勝院振姫】姫路藩主池田輝政の娘(生母が家康の次女督姫)。のち、市姫の代わりとして伊達忠宗に嫁いだ。
家康氏後
- 家康の死後は落飾して英勝院と称し、江戸田安の比丘尼屋敷に在した。
東照宮薨御の後於かぢの方は英勝院殿と称し、江府へ下向有て田安の於比丘尼屋敷に住居なり
- 寛永11年(1634年)太田道灌の旧領で以前は屋敷のあった相模国鎌倉扇谷(神奈川県鎌倉市)の地を徳川家光より賜り、菩提所として英勝寺を建立して住持する。
英勝寺の創建にあたっては徳川頼房の娘小良姫を7歳の時に玉峯清因と名付け得度させ、これを門主に迎え開山とした。その後も代々の住持は水戸家の姫が務め、このため英勝寺は「水戸御殿」や「水戸の尼寺」とも呼ばれた。高貴な姫である住持は人前に出ることはなく、折々の法要は芝増上寺や、鎌倉材木座光明寺の僧が勤めていたという。
- 寛永19年(1642年)8月23日、65歳で没した。
逸話
- お梶は非常に聡明で家康に愛されたという。
うまいものも塩、まずいものも塩
- 家康が家臣たちを集めた時に突然「一番美味い食べ物とは何か」と尋ねた際に、他の者たちがそれぞれが答えをならべたのが、家康がそばで控えていた梶にも尋ねると、「それは塩です」と答えた。「塩がなければ味を調えられません」という意外な理由に一同が感心した。「では一番不味いものは何か」と梶に尋ねると、彼女は迷わずに「それも塩です。どれほど美味しきものでも、塩を入れすぎれば食べられません」と答えたという。
戦への同行
- 梶は関ヶ原の戦いおよび大坂の役にも男装して騎馬にて同行した。関ヶ原にて勝利した際にはそれを祝って「勝」と改名させたほどである。
倹約家
- 梶が家康に寵愛された理由の一つに、その倹約家ぶりがあげられる。小袖をこまめに洗濯させて、新しいものを着ようとはしなかった。家康は駿府城の奥向きの大半を彼女に任せ、また金蔵の鍵すら預けていたとさえ伝えられるほどである。
児手柏
- この関係からか、名物「児手柏」にはお梶が盗みだして養子である水戸頼房に与えたという逸話が残る。「児手柏」は家康の愛刀であり、将軍となった秀忠が何度も所望するが下されず、お梶がねだりようやく頼房に譲ったとも、またお梶が盗みだして水戸頼房に与えたとも伝わる。
- この時家康は、「兄たち(2代将軍秀忠や紀州頼宣・尾州義直の2人)もかねてより望んでおり、そう簡単にはやれぬ。紛失したことにすれば致し方無いということになろう」ということで、お梶が盗みだしたという。
お六
- 英勝院お梶の部屋子を経て晩年の家康の側室となったのが
養儼院 お六である。
- お六は、慶長2年(1597年)に、駿河今川家の旧臣である黒田直陣の子として生まれた。
養儼院殿 於六
黒田五左衛門丹治直陣女 譜黒田氏家
- 慶長14年(1609年)13歳で英勝院お梶の部屋子となり、のち家康の側室となっている。
慶長年中、於梶之方爲部屋子奉仕、太田・黒田、其先住武州同仕北条氏、以後互爲親睦後蒙寵幸住別局
- その美貌により家康から深く寵愛を受け、「佐渡殿・狩(雁)殿・お六殿」と晩年の家康の愛したものとして並び称された。
- お六は大坂の陣にも供奉している。当時75歳の家康に対して、お六は20歳であったという。
同十九年、大坂御陣御供、翌年御陣御供未考
- 元和2年(1616年)家康亡き後は田安比丘尼屋敷に住むが、後に喜連川義親(喜連川藩第2代藩主喜連川頼氏の子)の継室として嫁いだ。
元和二年、就御他界爲尼、号養儼院、其後住田安比丘尼屋敷、叉有故往喜連川、
現在、皇居外苑北の丸公園となっている一帯(日本武道館などがあるエリア)は、江戸城が築かれた頃は家康の代官屋敷の他、大奥を退いた側室らの屋敷が並んでいた。当時夫をなくした女性は髪を下ろして尼となる慣習があったため、これらを比丘尼屋敷と呼んでいた。千姫や春日局、英勝院お梶の屋敷もここにあった。
のち大火で焼けてしまうが、8代将軍の時に西側一帯が田安家、また東側一帯は清水家の所有となり、両家の屋敷が並ぶことになった。
- 寛永2年(1625年)3月28日、家康の法事で日光東照宮を参詣した際、お六は急死した。焼香した際に、割れて飛んだ香炉があたったためという。享年29。
寛永二年丑三月廿八日、参詣日光山御宮於神前而頓死、年廿九、一説云、自誇容色、爲長髪故葬于日光山中養源院、又伝通院建碑置牌、黒田氏香火地養儼院鑑誉心光大姉
英勝院は、お六の菩提を弔うために日光山中に養源院を建立している。この養源院は水戸徳川家が檀家であり、同家が日光参拝する際の宿坊として使われていたが、現在は廃寺となっている。養源院は奥の細道にも登場し、3月27日に深川を出た芭蕉は、日光を訪れ4月1日に浅草寺の紹介状をこの養源院に届けている。
- 2年後にはお六の嫁いだ相手である喜連川義親も29歳の若さで父に先立って病死したため、人々はこれを家康の呪いだと噂したという。
関連項目
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