督姫
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良正院 督姫(とくひめ)
家康の次女
北条氏直の正室、のち池田輝政の継室
播磨御前
良正院
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概要
生涯
- 永禄8年(1565年)11月11日に家康の次女として生まれる。
- 母は家康最初の側室・西郡局(鵜殿長持の娘)。別名は於普宇、富子。
- 天正10年(1582年)本能寺の変が起こると、甲斐及び信濃は無主状態となり混乱する。この時、徳川家と北条家は、旧織田領の甲斐と信濃を徳川氏が、上野国を北条氏が治めることで和睦する。
北条氏直の正室
- この和睦の条件の一つとして、督姫は北条氏直へと嫁いでいる。
- 天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐で戦国大名北条氏は滅亡し、氏直は高野山へと流された。督姫は後に赦免された氏直の下に赴くも、翌天正19年(1591年)に氏直が死去したため、父の下へ戻った。
- なお、氏直との間には2人の女子が生まれている。
- 一人が文禄2年(1593年)に夭折し摩尼珠院殿妙勝童女と諡される。
- もう一人は池田利隆の許婚となったが慶長7年(1602年)に17歳で病死している。宝珠院殿華庵宗春大禅定尼と諡された。
池田輝政継室
- 文禄3年(1594年)、秀吉の計らいにより、池田輝政に再嫁する。
- この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、現在はサントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)を持参している。
- 督姫と輝政との夫婦仲は良く、忠継、忠雄、輝澄、政綱、輝興、茶々姫、振姫の5男2女をもうけた。輝政の死後、元和2年(1616年)2月4日に姫路城で死去。享年51。
- 池田忠雄が菩提を弔うために知恩院に良正院を建てている。
毒饅頭疑惑
- 督姫が元和2年(1616年)2月4日、池田忠継は同年2月23日、また池田利隆も同年6月13日に相次いでなくなったため、督姫が実子の忠継を姫路城主にすべく、継子で姫路城主であった利隆の暗殺を企てたという話が残る。
- それによると、岡山城中で利隆が忠継に対面した際、督姫は饅頭に毒を盛って利隆に勧めようとした。女中が掌に「どく」と書いて見せたため、利隆は手をつけなかったが、これを察知した忠継は利隆の毒入り饅頭を奪い取って食べ、死亡した。こうして忠継が身をもって長兄で正嫡の利隆を守ったという。また、督姫もこれを恥じて毒入りの饅頭を食べて死亡したとされる。
輝政の後妻は、大神君の御息女お徳女と申て、北條左京大夫氏直の方より歸り給ふ姫君也しか、嫡子武藏守利隆事ハ、先腹の中川瀬兵衛清秀か女の腹也、繼子に付て、是を殺して、次男左衛門督を嫡子に立んとて、毒飼せらふ、忠繼は此事を知りて、毎度舎兄利隆へ、内證を申れいれ共、利隆ハ誠にし給ふに、夫故奥へ返らるゝ時は、利隆の脇に、忠繼も附まとい居らる、或時餅菓子の出たるに、兄なれハ先利隆へ居へ、次に忠繼へすへたるを、忠繼早合點し、利隆へ備へしと引替、吾に備へし膳を、利隆へ備へ、利隆に備へし餅をは、側に有なるちんに與へ給へハ、ちんハ其餅を一口喰ふと轉亂し、狂ひ廻り、血を吐て忽死に、利隆ハ是を見て合點し、夫より用心して、其後も左様なる事有りて、終に元和元年乙卯年二月廿二日、左衛門督忠繼ハ早世し給、
- しかし、督姫は姫路城中で死んでおり、また忠継は大坂の陣後に岡山城に戻った後に発病して急死している。享年17。
- いっぽう利隆は江戸で発病し、暇乞いをした後京都で療養をするが、6月13日義弟にあたる京極高広の京都四条の屋敷で病死した。享年33。
系譜
- 池田忠継(1599-1615):備前国岡山初代藩主。鳥取藩池田家宗家初代。
- 池田忠雄(1602-1632):淡路国洲本藩主から忠継の後を継ぎ備前国岡山2代藩主。鳥取藩池田家宗家2代。
- 池田輝澄(1604-1662):播磨国山崎藩主→池田騒動により改易
- 池田政綱(1605-1631):播磨国赤穂藩主
- 池田輝興(1611-1647):播磨国平福藩主→播磨国赤穂藩主
- 茶々姫(初め千)(1596-1659):丹後宮津藩の2代藩主の京極高広正室となり、3代藩主京極高国を産んでいる。
- 振姫(1607-1659):仙台藩2代藩主である伊達忠宗の正室となる。伊達光宗ら2男1女をもうけたが、光宗は19歳で早世した。側室貝姫の息子で振姫の養子となった伊達綱宗が仙台藩3代藩主となっている。
関連項目
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