尾張徳川家の江戸藩邸
尾張徳川家の江戸藩邸
- 尾張徳川家の江戸屋敷の成り立ちと贈答品のまとめ。
Table of Contents |
|
概要
歴代藩主
代 | 藩主 | 院号 | 在任 | 理由 |
初 | よしなお 義直 | 源敬公 | 慶長12年(1607年) 慶安3年(1650年) | 薨去 |
2 | みつとも 光友 | 瑞龍院 | 慶安3年(1650年) 元禄6年(1693年) | 致仕 |
3 | つななり 綱誠 | 泰心院 | 元禄6年(1693年) 元禄12年(1699年) | 薨去 |
4 | よしみち 吉道 | 圓覺院 | 元禄12年(1699年) 正徳3年(1713年) | 薨去 |
5 | ごろうた 五郎太 | 眞巌院 | 正徳3年(1713年) 7月~10月 | 死去 |
6 | つぐとも 継友 | 晃禪院 | 正徳3年(1713年) 享保15年(1730年) | 薨去 |
7 | むねはる 宗春 | 章善院 | 享保15年(1730年) 元文4年(1739年) | 致仕 |
8 | むねかつ 宗勝 | 賢隆院 | 元文4年(1739年) 宝暦11年(1761年) | 薨去 |
9 | むねちか 宗睦 | 天祥院 | 宝暦11年(1761年) 寛政11年(1799年) | 薨去 |
10 | なりとも 斉朝 | 天慈院 | 寛政11年(1799年) 文政10年(1827年) | 致仕 |
11 | なりはる 斉温 | 良恭院 | 文政10年(1827年) 天保10年(1839年) | 薨去 |
12 | なりたか 斉荘 | 大覚院 | 天保10年(1839年) 弘化2年(1845年) | 薨去 |
13 | よしつぐ 慶臧 | 顕曜院 | 弘化2年(1845年) 嘉永2年(1849年) | 薨去 |
14 | よしくみ 慶恕 | 賢徳院 | 嘉永2年(1849年) 安政5年(1858年) | 致仕 |
15 | もちなが 茂徳 | 顕樹院 | 安政5年(1858年) 文久3年(1863年) | 致仕 |
16 | よしのり 義宜 | 隆徳院 | 文久3年(1863年) 明治2年(1869年) | 版籍奉還 |
17 | よしかつ 慶勝 | ※14 | ※明治8年(1875年) |
鼠穴上屋敷
江戸城半蔵門内
元和3年(1617年)~明暦3年(1657年)
- 市谷に移る前の上屋敷。
- 明暦の大火で焼けるまでは上屋敷だった。
- 「鼠穴」元禄二年江戸圖鑑に半蔵門の外を「鼠穴(ソケツ)」と呼んだと記す。
屋敷地拝領前の義直の動き
【初代義直】
- 慶長8年(1603年)1月28日甲府25万石を拝領。
徳川家康、第九子五郎太丸(義直)を甲斐二十五萬石に封じ、平岩親吉を其傅と爲す、
- 慶長11年(1606年)8月11日義直は元服し、従四位下・右兵衛督に叙任さる。
家康、其子五郎太丸「義直」、長福丸「頼宣」、に首服を加へ、義知、頼将と名づけ、これを携へて参内す、義知を従四位下右兵衛督に、頼将を従四位下常陸介に叙任す、
(25日)尾張國一国出置之畢、全可領地状如件、
慶長十三年八月 秀忠
徳川右兵衛督とのへ
- 慶長12年(1607年)松平忠吉死去により、閏4月26日義直を甲府25万石から尾張清須へ移す。
幕府、甲斐府中城主徳川義利「義直」を尾張清須に移して、成瀬正成竹腰正信を其附属とし、平岩親吉を犬山城に置き、義利に代りて政努を行はしむ、
- 慶長16年(1611年)3月20日義直、従四位下・右近衛権少将に叙任される。
家康の子義利「義直、」頼将「頼宣、」を、並に右近衛権中将参議に、頼房「鶴松、」を従四位下右近衛権少将に、松平忠直を従四位上左近衛権少将に叙位す、
- 慶長16年(1611年)3月28日家康は二条城で豊臣秀頼と対面する(二条城会見)。その後、尾張義直と紀伊頼宣は大坂城まで秀頼を送っている。
四月二日尾張宰相義直卿。遠江宰相賴宣卿を大坂につかはされ。右府上洛せられ御對面有しを謝せられ。御太刀一振。馬一疋。銀千枚。淀殿へ銀二百枚。綿三百把。北方へ銀百枚。綿二百把。紅花三百斤をくらせたまふ。
義直卿より右府へ國宗の太刀。賴宣卿より友成の太刀。共に銀二百枚そへて進らせらる。淀殿幷に北方へ。兩宰相より銀百枚。綿二百把。紅花三百斤づゝ進らせらる。
右府より義直卿へ高木貞宗の太刀。吉光の刀。緞子百卷。小袖。道服幷に小鼓の筒。賴宣卿へ二字國俊の太刀。松浦信國の刀。小鼓の筒。申樂の裝束(半臂三。狩衣三。半切三。大口 三。)をくられ。
供奉せし竹腰山城守正信へ信國の刀。成瀨隼人正正成左文字の刀。安藤帶刀直次に助眞の刀。水野對馬守重仲へ一文字の刀。三浦長門守爲春に長光の刀をたまひ。饗有て兩卿伏見へかへりたまふ。
- 慶長19年(1614年)大坂冬の陣。
- 10月16日:是日、義利「義直」兵を率いて、名古屋を発す、
- 11月20日:徳川義利「義直、」同頼将「頼宣、」平野に抵りて、秀忠に謁す、
- 12月4日:秀忠、営を岡山に移す、義利「義直、」頼将「頼宣、」も亦移りて、天王寺付近に陣す、
- 元和元年(1615年)大坂夏の陣。
※家康は名古屋城での義直の婚儀を名目に上洛行動を開始し、その後京都、大坂へと移動し大坂城を取り囲んでいる。そのため、名古屋城には秀頼からの祝賀の使いも到着しているが、これを送り返している。
- 2月10日:徳川義利、「義直、」名古屋の本丸に移徙す、
- 4月4日:家康、義利「義直」の婚儀に列せんが為め、是日、頼将「頼宣」を伴ひて、駿府を発し、名古屋に赴く、頼房、駿府に留る、
- 4月12日:徳川義利「義直、」浅野幸長の女を娶る、家康婚儀に列す、
- 同日秀頼からの祝賀:
今度就御祝言、以赤座内膳正申候、仍刀一腰則重、脇指左文字、并呉服進之候
卯月十二日 秀頼(花押)
尾張宰相殿 - 4月16日:徳川義利、「義直、」名古屋を発し、桑名に至る、
- 4月18日:家康京都に入り、二条城に館す、義利「義直、」頼将「頼宣、」また入洛す、
- 5月5日:家康二条城を発し、河内星田に次す、秀忠もまた伏見を発し、河内砂に陣す、義利「義直、」頼将「頼宣、」等も京都を発す、秀忠、家康の営に抵り、軍事を議す、
- 8月10日:家康、名古屋に抵る、徳川義利「義直」出でゝ之を迎ふ、家康、滞留両日、義利に美濃の地三万石を加賜す ※56万9500石となる
- 元和2年(1616年)4月17日家康薨去。駿府御分物として下記拝領。
- 元和2年(1616年)12月28日義直、名古屋に移徒。
徳川義利、「義直、」駿府より、名古屋に徙り住す
屋敷地拝領
ただし義直は大坂の役の後も生母とともに駿府に戻っており、その後元和2年(1616年)4月に家康が薨去すると、元和2年(1616年)7月生母や家臣と共に名古屋城へと入った。元和3年(1617年)正月の参賀で江戸城に参覲しており、この時に義直は本多忠政邸に入っており、頼宣もまた小笠原忠政邸に入っている。その後、元和3年(1617年)3月4日に尾張紀伊水戸の三家揃って江戸城で秀忠に謁しているがこの時も同様に他人の邸を利用しており、初めて江戸参府した頼房も榊原忠次の邸に入っている。屋敷地を拝領してからも実際に殿舎が出来上がったのはかなり後と思われる。
実際には上屋敷の完成は、生母である相応院が鼠穴屋敷に入った元和5年(1619年)頃であったろうと推定されている。
- 元和3年(1617年)義直、鼠穴屋敷地を拝領する。
幕府、徳川義利、「義直、」同頼将、「頼宣、」同頼房に、各第地を江戸城内に賜ふ、
同九月、江戸山の手鼠穴おいて、御屋敷御拝領、明暦三酉此御屋敷、郭中へ入候付、御指上
尾張殿御館蹟
寛永板江戸繪圖、正保江戸繪圖とも、吹上内前の水戸殿御館の南に、尾張大納言殿と載る、是も明暦三年御用地と成
- 元和4年(1618年)春、義直尾張に帰国、12月江戸参覲。
- 元和5年(1619年)2月1日、義直尾張に帰国、冬江戸参覲。
- 元和5年(1619年)義直の生母相応院が鼠穴屋敷に入る。
徳川義利「義直」の生母相応院、「志水氏、」徳川頼信「頼宣」の生母養珠院、「蔭山氏、」江戸に之く、
元和五年、江戸に相応院殿御下り、鼠穴御屋形ニ被成御座候由
- 元和6年(1620年)2月御成。13日に将軍秀忠、14日に世子の大納言家光。
秀忠、徳川義利「義直」の第に臨む、尋で、世子竹千代「家光」も亦同第に臨む、
- 元和7年(1621年)正月24日、鼠穴屋敷が焼ける。このため予定されていた同年正月28日に御成は中止され、上屋敷債権の費用として金五万料を拝領し再建に取り掛かった。
尾張名古屋城主徳川義利「義直、」の江戸の新亭火く、陸奥仙台城主伊達政宗・出羽米沢城主上杉景勝・長門萩城主毛利秀就・肥前佐賀城主鍋倉勝茂・薩摩鹿児島城主島津家久等諸大名の亭、災に罹るもの多し、
- 元和7年(1621年)、義直が尾張名古屋に帰国するときに「太子屋国吉」を拝領している。
- 元和9年(1623年)2月13日に將軍秀忠御成。18日世子家光御成。※将軍宣旨は同年7月27日。
- 元和9年(1623年)閏8月24日上洛の帰路に秀忠は名古屋城に立ち寄っており、義直は「無銘藤四郎」を拝領する。
- 寛永2年(1625年)2月26日、将軍家光御成。
家光、尾張名古屋城主徳川義直の江戸の亭に臨む、
この日義直卿に賜物、包次の御太刀、大左文字御刀、左文字吉光御脇差、時服二百、虎皮従妹、豹皮従妹、銀三千枚、卿より献物、行平太刀、大左文字の刀、金森正宗の脇差、時服二百、白糸百斤、金襴三十巻、襦珍百巻、綿千把、金三百枚なり
- 御相伴衆(家光)
- 水戸頼房、藤蔵高虎、立花宗茂
- 寛永4年(1627年)5月3日に大御所秀忠御成、6月21日に将軍家光御成。6月25日大御所秀忠が江戸城西の丸山里茶屋に尾張義直、水戸頼房、藤堂高虎を招く。
秀忠、尾張名古屋城主徳川義直の江戸の亭に臨む、
家光、尾張名古屋城主徳川義直の江戸の亭に臨む、
秀忠、江戸城西丸山里の茶室に、尾張名古屋城主徳川義直・常陸水戸城主同頼房・伊勢安濃津城主藤堂高虎を召して、茶宴を与ふ、
- 寛永5年(1628年)6月11日に大御所秀忠御成。
秀忠、尾張名古屋城主徳川義直の江戸の亭に臨む、
- 御相伴衆(秀忠)
- 紀伊頼宣、水戸頼房、藤堂高虎、丹羽長重
- 寛永5年(1628年)8月9日に将軍家光御成。
家光、尾張名古屋城主徳川義直の江戸の亭に臨む、
- 御相伴衆(家光)
- 水戸頼房、藤堂高虎、立花宗茂
- 寛永8年(1631年)5月9日に将軍家光御成。
家光、尾張名古屋城主徳川義直の江戸の亭に臨む、
- 寛永9年(1632年)鼠穴西向いにある竹越正次の屋敷を召し上げ、それを生母相応院の屋敷として整備する。同年11月には完成し、相応院は移徙している。
- 寛永10年(1633年)3月義直に帰国の暇が出され、翌4月には名古屋城に入った。
- 寛永10年(1633年)5月13日、五郎太(後の2代光友)が生母高原院春姫と共に江戸に下り鼠穴上屋敷に入った。
- 寛永10年(1633年)5月23日、五郎太(光友)は將軍家光に初御目見得。12月29日に元服して光義を名乗り、右兵衛督と称す。
家光、尾張名古屋城主徳川義直の世子五郎太に偏諱を与へ、光義と称せしむ、
- 寛永11年(1634年)7月4日、将軍家光が上洛の途中に名古屋城を訪れる。
やがて名古屋の城にいらせ給ふ。大納言義直卿饗せられ。なごや貞宗の脇差。二字國俊の刀を獻ぜらる。貞宗の御刀。國次の御脇差。銀千枚。時服二百遣はさる。
- 寛永14年(1637年)世継光友と千代姫の婚姻が決まり、御殿の作事が始まる。これにより義直は麹町屋敷に移る。
(寛永15年(1638年)2月23日)将軍徳川家光の女千代姫と徳川義直の男光友との婚約成る、是日若狭国小浜藩主酒井忠勝之を披露す、
(寛永15年3月3日)名古屋城主徳川義直、世子光友・義直邸の傍に新第経営の地を賜ふ、
- 寛永16年(1639年)2代藩主光義(光友)、家光の長女である霊仙院千代姫と婚姻の儀が固まる。
(寛永16年6月18日)将軍徳川家光、長女千代姫を徳川義直の嫡子光友に嫁せしめんとす、是日若狭国小浜藩主酒井忠勝等を義直の邸に遣し、近時世俗の華奢に流るゝを戒め、婚儀の事も専ら質素に従ふへき旨を伝へしむ、
尾張名古屋城主徳川義直・嗣子光義「光友」及び其室千代、登営して成婚の恩を謝す、家光、之を饗す、
- 寛永16年(1639年)4月に麹町上屋敷の作事が終わり、光友が移徙している。
- 千代姫の輿入れは同年9月21日、鼠穴上屋敷内に新設された御守殿へと入った。
此節 右兵衛督様江三忠御腰物・貞宗御中脇差被進之
(寛永十六年九月)廿八日干代姫御方西城の奧へ まうのぼりたまふ。右兵衞督光友朝臣もまうのぼられ。 白木書院にて御對面あり。 眞守の太刀。 時服五十。 卷物五十。 銀千枚獻ぜらる。大納言義直卿も定利の太刀。 時服五十。 綿五百把。 金百枚さゝげらる。 御盃つかはされ。 光友朝臣へ五月雨郷の御刀。 吉光の御脇差(後藤藤四郎)を引出物し給ひ。 義直卿へ 貞宗の御刀(上野貞宗)。 大森吉光の御脇差をつかはさる。
太刀一腰真守、呉服、巻物、白銀右進物。太刀一腰定利、呉服、綿金百枚を献ず。
※Wikipediaでは『徳川諸家系譜』を引いて、千代姫は「市谷藩邸に輿入れした」とするが、この時期はまだ拝領してないと思われる。
- 寛永17年(1640年)3月29日、光義(光友)は参議兼右近衛権中将に任じられる。7月11日には従三位に叙される。
徳川光友・徳川光貞を参議に、同光圀を右近衛権中将に任す、是日将軍徳川家光、若狭国小浜藩主酒井忠勝をしてこの旨を光友等に伝へしむ、
徳川光友・光貞・光圀、共に従三位に叙せらる、是日若狭国小浜藩主酒井忠勝・光友等にこの旨を伝ふ、
- 寛永17年(1640年)11月15日、御守殿台所より出火し、鼠穴邸は焼失し、千代姫は相応院と共に江戸城に避難している。その後11月22日に鼠穴邸隣にあった松原小路邸(元は水戸家が寛永6年に小石川邸拝領し移徙する前の住居)に移徙する。同所には義直や相応院も鼠穴邸再建まで入っていた。
- 寛永17年(1640年)12月から再建を開始し、翌11月に落成した。
- 正保4年(1647年)9月8日、尾張徳川家徳川義直が病後はじめて登城すると、将軍家光は「村雲当麻」を義直に贈っている。
【2代光友】
- 慶安3年(1650年)5月7日、初代尾張義直が麹町屋敷で死去。家督は6月28日に光義(光友)が継ぎ、従来使っていた鼠穴屋敷を上屋敷とした。
名古屋城主権大納言従二位徳川義直薨す、家臣殉する者五人、子光友嗣く、
将軍徳川家光、徳川光友に父義直の遺領を襲がしめ、是日若狭国小浜藩主酒井忠勝をして其命を伝へしむ、
- 慶安4年(1651年)尾張藩での刀剣調査。
一期一ふり吉光 大坂焼物
(慶安四卯三月廿六日 御殿守ニ有之 御腰物御脇指帳)
- 承応元年(1652年)帰国の暇は出なかった。
庚戌、家綱幼弱なるを以て、徳川頼宣・徳川頼房・徳川光友、及ひ井伊直孝に就封の暇を給せす、江戸に在て政務を輔導せしむ、
- 承応元年(1652年)8月2日、五郎太(後の3代藩主綱誠)誕生。生母霊泉院千代姫(家光長女)。
- 承応2年(1653年)8月12日、光義(光友)従三位・権中納言に叙任される。
徳川光義を正三位権中納言と為す、
- 明暦3年(1657年)明暦の大火により、鼠穴邸にいた光友、千代姫は麹町邸に逃げ込むが、鼠穴邸は無事だったため、再び戻った。江戸城の天守も焼失し、この後二度と修復されることはなかった。
- この火災を受けて幕府は、防火上の観点から大名の屋敷地を配置する必要性に迫られ、御三家に対して鼠穴、竹橋、松原小路の各屋敷地を上地するよう命じる。尾張家は、その代替として市谷邸拝領時に一度上地していた麹町邸が再下賜され、市谷邸の添地を拝領する。
- (これ以後の動きは市谷上屋敷参照)
市ヶ谷上屋敷
江戸市ヶ谷
8万3832坪 ※上地時
明暦2年(1656年)3月7日~明治4年(1871年)3月19日
概要
- 現在の防衛省市ヶ谷地区。
- 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図 / 1 ※南が上
- 尾張藩の上屋敷は、始め半蔵門内に置かれた鼠穴屋敷であった。明暦の大火で焼けた後はこの市谷上屋敷に移った。
元々、明暦元年(1655年)に光友が市谷に屋敷地を希望する。これに対して老中松平信綱が提示したのが、1.清泰院(家光養女、前田光高の正室)が拝領していた邸地6万坪を下賜、2.麹町邸の拡張の2案であるが、結局両案とも実現せず、光友は代わりに正室春姫の実家である浅野邸地との相対替を希望するもそれも実現せず、結果的に明暦2年(1656年)3月に清泰院屋敷の南側の5万5千坪を拝領することになった。この時、同地は板倉(宗重)、奥平、稲垣、板倉(甚太郎)、久世広之らの屋敷地や旗本屋敷、寺院、町家などが入っていたがこれらは同年8月には移転が終了し、尾張家に渡された。この代わりに、麹町、赤坂中屋敷、千駄ヶ谷茶屋が上地となっている。
- 庭園は「楽々園」と呼ばれた。天保年間には特に優れた名勝48ヶ所を選定するなど最盛期を迎えた。
経緯
【2代光友】
- (これ以前の動きは鼠穴上屋敷参照)
- 明暦2年(1656年)3月7日拝領、7月19日各屋敷移転。
是より先三月七日丙戌、名古屋城主徳川光友に邸地を市谷に賜ひ、是日其地の諸屋鋪を各所に移す
明暦二年御拝領
一、四萬九百九拾三坪三合
寛文三年御買地
一、法性寺谷五千拾七坪 無年貢地
但田舎間
同六年御買地
一、左内坂上與力屋敷貳軒 無年貢地
五百七拾七坪右同断
一、左内坂上百姓地三百四拾五坪 年貢地
右田舎間ニソ惣計六萬六千六百三拾壹坪六歩
但公邉にノ書出ニハ、御拝領地本坪と御買地之分坪數〆五千九百三十九坪之分御抱屋敷として、御上屋敷取續ニて、一所ニ御圍ひ之旨、御書出有之候。
- 明暦2年(1656年)8月に尾張家の拝領地となる。
翌明暦3年(1657年)正月に明暦の大火が起こり、同年5月14日に鼠穴上屋敷が上地、麹町屋敷を再び拝領、市谷屋敷の添地を拝領する。また蔵屋敷も八丁堀から築地へと移っている。(明暦2年)是より先三月七日丙戌、名古屋城主徳川光友に邸地を市谷に賜ひ、是日其地の諸屋鋪を各所に移す
名古屋城主徳川光友市買屋敷を賜はる。邸中築く所の庭園を楽々園という。
- 明暦3年(1657年)正月23日。
和歌山城主徳川頼宣・水戸城主徳川頼房・名古屋城主徳川光友、営に登る。老中旨を伝へて其甲第を場外に転せしむ。大災復旧計画に基く也
三家甲第外移計畫
紀伊水戸尾張三家ノ甲第ノ城内ニ在ル者、火災ノ處無キニ非ス、復舊計畫ノ手始ニ之ヲ外ニ移サムト欲シタル者ナル可シ。
廿三日
紀伊殿
水戸殿
尾張殿
御登城。老中出座、上屋敷之家御引取可被成旨演説之。
五月十四日紀伊家上屋敷地代地トシテ土岐頼行山城守、本多利長越前守、ノ糀町邸ヲ與ヘ、尾張家上屋敷代地トシテ糀町十丁目屋敷ヲ與フルコト、下之之ヲ記。水戸家ハ是時添地ヲ賜フ。是ヨリ小石川邸ヲ上屋敷トシタル如シ。
- 明暦3年(1657年)4月5日、五郎太(綱誠)が登城して元服し、綱義と名乗り、右衛門督と称す。
- 明暦3年(1657年)5月14日、鼠穴上屋敷上地に伴い、市谷屋敷地周辺に御添地拝領。※坪数不明
- 明暦4年(1658年)1月10日に鼠穴上屋敷に代わって新たに市ヶ谷が上屋敷とされ、光友と世子綱誠、正室千代姫、光友の次男岩之丞義行(源次郎。後の美濃高須藩初代藩主)が市谷屋敷に移る。
- 寛文3年(1663年)12月27日、綱義(綱誠)は従三位・右近衛権中将に叙任される。
名古屋城主徳川光友の子、右兵衛督綱誠、従三位に叙す、
- 寛文5年(1665年)3月27日、光友の三男次郎太義昌(後の陸奥国梁川藩初代藩主)が江戸市谷屋敷に入る。
- 寛文6年(1666年)、市谷の藩邸地を拝領。
名古屋城主徳川光友、
市買 邸添地を買得し、
- 寛文7年(1667年)9月26日、綱義(綱誠)は広幡忠幸の娘瑩珠院新君と婚姻する。27日に市ヶ谷の屋敷を訪れた際に、「五月雨江」と「後藤藤四郎」を贈られている。
中将様御道具 御腰物御脇指帳
一、銘有 吉光御脇指 代五千貫御拵有之由 大殿様より 是ハ寛文七年未ノ九月廿六日御祝言被遊、廿七日ニ市買(谷)御越之時、五月雨郷御腰物と共に被爲進。
- 寛文7年(1667年)紀伊徳川家初代の徳川頼宣が隠居し、綱義(綱誠)に「戸川志津」を贈る。※頼宣は寛文11年(1671年)没。
- 寛文10年(1670年)10月25日、2代光友の次男・三男の分家創立と藩邸地拝領。
名古屋城主徳川光友の二子松平義行・三子松平義昌、各邸地を賜ふ。光友の請に由る也
- 寛文12年(1672年)、光義は諱を光友と改める。
- 延宝8年(1680年)、綱義は諱を綱誠と改める。※同年5月に将軍宣下を受けた5代綱吉に音がかぶっていたため。
- 延宝9年(1681年)8月13日光友の次男松平義行に3万石を与える。
- 【四谷松平家・高須藩】
名古屋城主徳川光友、二子松平義行に、新知三萬石を給す
天和元年八月十三日於信濃伴奈郡・高井郡・水内郡之内三萬石新知拝領。
- 【四谷松平家・高須藩】
- 天和3年(1683年)2月6日類焼。
四谷塩町火有り、牛込に延焼する。徳川光友邸を始め、大小名邸罹災する者30余。この夜、白山また火を失し、寺院10余の類焼有り。12月5日通塩町失火、数街を延焼する。
- 天和3年(1683年)8月4日、光友の三男松平義昌に3万石を与える。
- 【大久保松平家・陸奥梁川藩】
癸卯、幕府、名古屋城主徳川光友の第
二 子松平義昌に三万石を賜ひ、以て諸侯に列す、
- 【大久保松平家・陸奥梁川藩】
- 元禄3年(1690年)5月4日、光友は権大納言に転任。同年5月11日、光友は従二位に進む。
甲午、名古屋城主権中納言徳川光友・和歌山城主権中納言徳川光貞、並に権大納言に任す、
権大納言徳川光友・徳川光貞、並に従ニ位に叙す、
- 元禄4年(1691年)3月26日、綱誠は参議に任じられる。
名古屋城主徳川光友の子右近衛権中将綱誠・和歌山城主徳川光貞の子左近衛権中将綱教、並に参議に任す、
- 元禄6年(1693年)4月25日、2代光友は隠居を願い出て認められる。
【3代綱誠】
- 元禄6年(1693年)父光友の隠居に伴い、家督は4月27日に綱誠が継いだ。
名護屋城主権大納言従二位徳川光友、致仕す、子参議右近衛権中将従三位綱誠、嗣く、
元禄六酉年四月廿八日御隠居御禮之時 會津正宗御刀 代金三百枚 貳尺壱寸五分餘 反四分餘 尾張大納言上
- 元禄6年(1693年)12月1日、綱誠は権中納言に任ぜられる。
庚午、名護屋城主参議右近衛権中将徳川綱誠を以て、権中納言と為し、
- 元禄9年(1696年)2月15日、光友に帰国の暇を賜う。
壬寅、綱吉、名護屋城主権中納言徳川綱誠の父、権大納言光友に、帰国の暇を賜ひ、之を幕府に引見し、親く講書・演舞し、之を饗す、一族及ひ金澤城主前田綱紀、之に陪す、
- 元禄10年(1697年)7月18日、綱吉は来春の御成予定を告げる。
綱吉、来春を期し、名護屋城主権中納言徳川綱誠の邸に臨む事を令す、
- 元禄11年(1698年)3月18日、將軍綱吉御成。
- ※「麹町中屋敷」参照
- 元禄11年(1698年)霊仙院千代姫(家光長女)没。
名護屋城主権中納言徳川綱誠の嫡母徳川氏、卒す、幕府、明日より市井に令し、八音を遏密する、七日、
- 元禄12年(1699年)6月5日、綱誠が市谷屋敷において48歳で没
壬寅、名古屋城主権中納言従三位徳川綱誠、薨す、子吉通嗣く、幕府、令して、歌舞音曲を停むる、
【4代吉道】
- 元禄12年(1699年)父3代綱誠の死去に伴い、7月11日に吉道が家督を相続。
元禄十二年卯七月二十五日
五月雨江御刀之 尾張中納言殿
御三所物赤銅三ツ桐 宗乗作 遺物
- 元禄12年(1699年)8月13日、吉道は従三位・右近衛権中将に叙任される。
- 元禄14年(1701年)12月11日、吉道参議に進む。
- 元禄15年(1702年)4月13日、吉道は九条輔実の娘瑞祥院輔子と婚姻する。
- 宝永元年(1704年)11月28日、吉道は権中納言に任じられた。
- 正徳元年(1711年)正月29日、五郎太が市谷屋敷で誕生。※5代五郎太
- 正徳2年(1712年)3月10日、八三郎通顕(6代継友)、喜之進通温江戸へ。5月25日初御目見得。12月15日に通顕(継友)は従四位下・左近衛権少将に叙任され、大隅守を兼任する。通温は従四位下・侍従に叙任され、安房守を兼任する。
- 正徳3年(1713年)7月26日、4代吉道が市谷屋敷にて死去。享年25。
徳川家光─┬徳川家綱 ├徳川綱重────徳川家宣────徳川家継 ├徳川綱吉 九条輔実─輔姫 └霊仙院千代姫 │ ├────┬徳川綱誠────┬徳川吉道──徳川五郎太━━徳川宗春━━徳川宗勝 徳川義直──徳川光友 │ │ │ 広幡忠幸─│─新君 ├徳川継友 │ │ ├───八三郎(夭折) 近衛基熙─│┬近衛家熙───│┬安己君 │└熙子(家宣室)│├近衛家久 │ │└尚子(中御門天皇女御) │ │ │ │ │ ├松平義孝(高須藩) │ ├松平通温(早世) │ └徳川宗春(梁川藩→7代宗春) │ │【四谷松平家・高須藩】 ├松平義行━┯松平義孝━━松平義淳(宗勝) │ └松平武雅 │ │【大久保松平家・陸奥梁川藩】 ├松平義昌──松平義方──松平義真━━松平通春(宗春) │ │【川田久保松平家】 └松平友著──松平友淳(高須藩→8代宗勝)
- 将軍世継問題
- 家宣の世継
- 6代将軍家宣は、継友(当時は通顕)の兄で尾張4代藩主吉通を7代将軍にしようとする。
- 吉通・継友兄弟らの父である尾張3代綱誠は、尾張2代藩主光友と3代将軍家光の長女千代姫の実子であり、尾張徳川家は、当時もっとも将軍家に近い血筋でもあった。
- しかし間部詮房や新井白石らの反対があり、家宣の実子で生き残っていた鍋松が7代将軍家継となる。
- 家継の世継
- その後尾張4代吉通が薨去し、さらに7代将軍家継が危篤に陥ると、将軍候補は紀州5代徳川吉宗と、尾張6代徳川継友の二人に絞られた。
- 当時継友は関白太政大臣近衛家煕の次女安己姫と婚約していたが、安己は大奥の実力者天英院近衛煕子(家宣正室)の姪であり、さらに安己の姉近衛尚子は中御門天皇の女御になることが決まっていた。
- しかし天英院は、姪が嫁ごうとしている尾張徳川家の継友ではなく、紀州徳川家の吉宗を指名し、8代将軍は吉宗になってしまう。
- 家宣の世継
【5代五郎太】
- 正徳3年(1713年)8月29日父吉道の死に伴い、子の五郎太が家督相続する。
- 正徳3年(1713年)10月18日、5代五郎太死去。享年3。
【6代継友】
- 正徳3年(1713年)11月11日、通顕(継友、吉道弟)が五郎太の跡を継ぐ。諱を継友に改め、従三位左近衛権中将に叙任される。
- 正徳3年(1713年)12月、通春(宗春)元服し、求馬通春と名乗る。
- 正徳4年(1714年)11月28日、継友が参議に補任。
- 正徳5年(1715年)12月1日、継友が権中納言に転任。
- 正徳6年(1716年)2月、通春(宗春)将軍家継に御目見し、3月には譜代衆となり松平求馬通春を名乗る。
- 享保元年(1716年)7月、通春(宗春)は従五位下・主計頭に叙任される。
- 享保3年(1718年)6月11日、継友が近衛家熈の娘光雲院安己君と婚姻。
安己君は、天英院近衛煕子の姪。姉近衛尚子は中御門天皇の女御。
- 享保10年(1725年)火災。
- 享保13年(1728年)、通春(宗春)は実母の宣揚院を見舞うため名古屋へ。
- 享保14年(1729年)6月、梁川藩3代松平義真が没したため断絶。通春(宗春)は8月に吉宗から肝煎りで梁川藩3万石を改めて与えられ、大久保松平家を再興する。同年12月に従四位下侍従に任官し、大広間詰め。
- 享保15年(1730年)11月27日、世継が居ないまま、麻疹により継友死去。享年39。
【7代宗春】
- 享保15年(1730年)6代継友の死に伴い、11月28日異母弟の宗春(松平主計頭通春)が継友の養子となり、遺領を相続する。
- 享保16年(1731年)正月19日、諱を宗春と改め、従三位・左兵衛権中将に叙任される。3月12日、参議に任じられる。
- 享保17年(1732年)正月、宗春は正四位下・左近衛権少将に叙任される。同年3月12日、宗春は従三位参議(宰相)・左近衛権中将に任じられる。
- 享保17年(1732年)4月名古屋入り。名古屋城下では、東照宮祭・尾張祇園祭(若宮祭・三之丸天王祭)・1ヶ月半にも及ぶ盆踊り等の祭りを奨励している。また、女性や子供が夜でも歩ける町にするために、提灯を城下に数多く置いた。これらの施策により名古屋の街は活気を得て「名古屋の繁華に京(興)がさめた」とまで言われた。
- 享保17年(1732年)、宗春は享保10年(1725年)に火事で焼失していた江戸上屋敷市谷邸を新築再建し、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。
- 同年5月5日、藩祖徳川義直が家康から拝領した幟旗並びに嫡男萬五郎の武者飾りを見せるため、市谷邸を江戸町民に開放している。
- 享保17年(1732年)5月25日、譴責処分を受ける。
辛巳、将軍吉宗、名古屋城主徳川宗春の奢侈、度なきを以て、小姓組番頭瀧川元長・目付石河政朝を其邸に遣して、之を譴責す、
- 享保17年(1732年)12月1日、宗春権中納言に任ぜられる。
甲寅、名古屋城主徳川宗春、権中納言に任す、
- 元文4年(1739年)1月12日、数々の施策が倹約を旨とした将軍吉宗の反感を買う事となり、蟄居処分とされ、宗春は麹町屋敷に入る。※数々の施策により尾張藩の赤字が膨らみ、附家老の竹腰正武らが老中松平乗邑と画策したともいう。
幕府、尾張中納言宗春の行事亡状、政務を理むる触はさるを以て、命して麹町邸に幽す、
【8代宗勝】
- 御連枝美濃高須藩主の松平義淳が徳川宗勝として後継となる。しかし宗春の養子という形式ではなく、尾張藩は幕府が一旦召し上げた上で、改めて宗勝に下したという形式をとった。これにより、7代宗春は「尾張前黄門(前中納言)」と呼ばれるようになる。
- 宝暦4年(1754年)、宗春下屋敷へと移る。※場所不明。のち名古屋城三之丸の泉光院の屋敷を隠居所とした。
- 明和元年(1764年)10月8日宗春死去。享年69(満67歳没)。
- 寛政5年(1793年)3月、将軍家斉御成。
明治後(防衛省市ヶ谷地区)
- 明治4年(1871年)3月19日に兵部省へ差上。その後、国防関係施設が建設される。明治7年(1874年)~昭和12年(1937年)までは陸軍士官学校が、また昭和16年(1941年)までは陸軍予科士官学校が置かれ、多くの陸軍将校・士官候補生を養成した。
- 昭和16年(1941年)に後者の予士は市ヶ谷から朝霞へ移転するが、同年12月に陸軍省・参謀本部(大本営陸軍部)・教育総監部・陸軍航空総監部の中央省部が三宅坂から市ヶ谷に移転し、第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦後の陸海軍解体まで帝国陸軍の中枢が置かれていた。
- 終戦後はGHQにより接収され、昭和34年(1959年)からは自衛隊市ヶ谷駐屯地・市ヶ谷基地となり、陸上自衛隊東部方面総監部や統合幕僚学校などが置かれた。平成12年(2000年)には赤坂の防衛庁檜町地区より防衛庁(現防衛省)が移転、現在は防衛省市ヶ谷地区として防衛省庁舎や中央指揮所が置かれる日本の国防の中枢となっている。
前田家藩邸
- この北側の隣接地である市谷加賀町1丁目エリアに、加賀藩前田家の下屋敷があったとされる。
麹町中屋敷
江戸麹町
1万7870坪
- 寛永14年(1637年)、麹町に屋敷地を拝領する。
これは同年閏3月に霊仙院千代姫の嫁ぎ先として、将軍家光が、尾張光友を強く望んだためとされる。寛永15年(1638年)には縁組。そして寛永16年(1639年)9月21日に婚儀が行われた。この千代姫が鼠穴屋敷に入るため、義直の入る麹町屋敷が別途用意された。
- 寛永16年(1639年)4月に完成。鼠穴邸より義直移徙。生母相応院も同時に移っている。
- 慶安3年(1650年)5月7日、初代義直麹町邸で死去。享年51。
- 明暦2年(1656年)に市谷屋敷地を拝領する代わりとして上地する。
- 明暦3年(1657年)に再び拝領する。
- 寛文6年(1666年)8月5日に綱誠の殿舎作事が決まり、8月21日に200坪を添地として拝領。9月27日作事開始。
- 寛文7年(1667年)9月26日に綱誠正室の新君の入輿と同時に綱誠移徒。
- 元禄10年(1697年)に2500坪を添地として拝領。
名古屋城主徳川綱誠、麹町邸傍の町屋を添屋鋪に賜ふ
- 元禄11年(1698年)3月18日、將軍綱吉御成。
(3月9日)綱吉、来十八日を以て、権中納言徳川綱誠の邸に臨む命を綱誠に伝ふ、
(3月18日)癸巳、綱吉、権中納言徳川綱誠の邸に臨む、是日、綱吉、綱誠の女喜知姫を養女と為す、
- 贈答刀剣
- 亀甲貞宗、宗瑞正宗を献上。
中納言殿へ被進
御太刀一腰長光第三百五十貫
白銀三千枚 御小袖百
同右兵衛督殿へ被進
御太刀一腰 白銀百枚
御小袖百
将軍家ヨリ御内証ヨリ被遣御道具
一、御腰物光忠代金百二十枚
一、御脇差吉光第金三百枚
右ハ中納言殿ヘ
一、御腰物粟田口国安代金二百枚
右ハ右兵衛督殿ヘ
一、御腰物一文字代金百五十枚
右ハ大納言殿
尾州ヨリ献上御道具
一、亀甲貞宗 代金二百枚 中納言殿
一、宗瑞正宗 代金百五十枚
一、御刀粟田口國綱 代三千貫 右兵衛督殿
一、御刀國次 代金百枚 大納言殿
- 享保10年(1725年)に火事で江戸上屋敷市谷邸が焼けたため、麹町邸を中屋敷とする。
- 享保15年(1730年)11月27日、6代藩主の継友が麹町屋敷で死去。享年39。
- 享保17年(1732年)、宗春は享保10年(1725年)に火事で焼失していた江戸上屋敷市谷邸を新築再建し、嫡子の萬五郎と共に中屋敷麹町邸から移る。
- 明治元年(1868年)に土佐藩が利用し、翌明治2年(1869年)3月13日収公。明治政府は貧民の収容所である救育所を麹町、三田、高輪に設けている。のち麹町一帯は小樽出身の板谷宮吉により買い占められ貸家が数百棟あったという。
- 第二次大戦で焼けてしまい、戦後上智大学や教会などにより買収され現在は上智大学の四谷キャンパスが置かれている。また隣接してカトリック麹町聖イグナチオ教会も建っている。
四谷下屋敷
- 元禄2年(1689年)7月17日、藪太郎(後の4代吉道)誕生。生母は本寿院。
戸山下屋敷
和田戸山
13万6000坪余り
寛文8年(1668年)~
- 和田戸山下屋敷。
そも此御園と申すは將軍家大猷公の姫尾州家へ御入輿ましましたる時、御遊び處にとて進ぜしめ給ひて、二とせ三とせ歳を過し頃、さいつころの外山の園はいかにと尋ねさせ給ふに、尾公對へ給ふは、小身のやつがれ心に任せ侍らじとあふせ有しかば、臺命下りて早速に御園造りまゐらせよとて頓て事行はれ侍るとぞ申傳へたるとなん云々
- 寛文8年(1668年)に罹災避難の備えとして、戸山に旗本の土地を獲得して着工。9月2日にはその北側の隣接地4万6千坪を済松寺祖心尼から購入する。
- 寛文9年(1669年)に完成。
- 寛文11年(1671年)11月18日に抱屋敷の北から西にかけて隣接地8万5018坪を下屋敷地として拝領。光友は、抱屋敷地を併せた屋敷地に庭園建造を計画する。さらに延宝年間にも相対替及び買収で土地を獲得。
その後拡張している隣接地8万5千坪に、前田家の清泰院大姫屋敷の跡地6万坪が含まれる可能性がある。名古屋城主徳川光友、和田戸山下屋鋪を賜ふ
寛文十一年御拝領
一、八萬五千拾八坪
御抱屋敷之分 済松寺領祖心宗参寺地入合
一、四萬六千貳百貳坪半
内年貢地坪壹萬三千百四拾五坪半
無年貢地三萬三千七拾五坪
右御抱屋敷之分ハ、御下屋敷御拝領以前ゟ御求御下屋敷一所ニ御圍ひ之由。
- 回遊式庭園の中に二十五景をしつらえ、「戸山荘」または「戸山山荘」と呼ばれて小石川の水戸家の小石川上屋敷にあった小石川後楽園と並び名園として名高かった。
- 寛文12年(1672年)に2代藩主の光友自身が病に罹り、逗留している。
- 寛政2年(1790年)11代将軍家斉の御成。
大修築を行っており、御成後に谷文晁に絵巻「紙本淡彩戸山山荘図」を描かせている。寛政5年(1793年)には大田南畝も招かれており、随筆「半日閑話」に記している。
・「紙本淡彩戸山山荘図〈谷文晁筆/〉」は昭和56年(1981年)6月9日に重要文化財指定。出光美術館所蔵 文化遺産データベース
- その後、享和・天保・安政年間に火災などに遭ったことから荒廃し、安政6年(1859年)の青山大火で類焼した後は復興されることはなかった。
明治後(戸山公園)
- 明治維新後に下賜される。
二年正月廿九日
徳川三位中將へ市谷外二ヶ所屋敷下賜。
徳川三位中將へ達
市ヶ谷屋敷和田戸山屋敷木挽町築地屋敷従前之通下賜候事。
名古屋藩願辯事宛
諸藩屋敷地被下方ノ儀ニ付、當九月御達ノ趣有之、拾萬医師以下ハ郭内ニテ一ヶ所郭外ニテ二ヶ所被下置是迄受領屋敷引續拝領相願候向ハ、郭外計ニテモ可爲勝手次第旨被仰出ノ趣國許ヘ申越、拝承仕候。就夫弊藩受領屋敷ノ儀、往古ヨリ追々切坪替地又ハ新規道敷出來候節、無餘儀飛地ニ相成候場所モ有、随テ別紙ノ通數ヶ所ニ相成居申候處、右之内市谷戸山築地上屋敷ノ儀ハ、別紙并繪面ニモ相見附属ノ地所トモ引續拝領被仰付候儀様仕度、付テハ右ノ外屋敷々々ノ義ハ悉上地可仕候得共、其内蠣殻町深川萬年橋四谷内藤宿青山権田原屋敷地ノ儀ハ、何レモ難廢止用途筋御座候上、建屋向水付候テモ只々差支ノ次第モ御座候間、上地ノ上引續御年貢附候テ拝借被仰付候様仕度、依委細ノ譯別紙ニ取調、夫々圖面トモ八枚相添奉願候間、何卒願ノ通御許容被成下置候様仕度、此段可奉願旨三位中將申付越候。以上。
- 明治2年(1869年)5月25日、宗家三田綱坂邸と交換。※三田綱坂邸は明治3年(1870年)4月29日に上地。
- 天璋院篤姫らが住んでいた。明治4年(1871年)7月に廃藩置県により藩知事を解任された徳川家達もこの屋敷に入っている。
- 明治5年(1872年)3月に兵部省御用地となって収公されたため、徳川宗家一族は赤坂の勝海舟邸の向かいにあった相良邸を購入して移り住むが、さらに明治10年(1877年)には千駄ヶ谷の紀州藩邸に新邸を建てて移り住んだ。
- この戸山の地は明治6年(1873年)6月に陸軍兵学寮戸山出張所が設置、翌明治7年(1874年)には陸軍戸山学校と改称している。明治20年(1887年)10月に監軍部に隷属。明治21年(1888年)馬場先門外の第一軍楽隊を隷下とし、同隊の後身である軍楽基本隊は陸軍教導団から1891年(明治24年)に戸山学校内へ移転、のちの陸軍戸山学校軍楽隊となる。※これは吹奏楽の発祥と言われている。
- 大正元年(1912年)には戦術科、射撃科、教導大隊を分離し陸軍歩兵学校を設け、戸山学校は体操科(剣術)、軍楽生徒隊を統括した。太平洋戦争の終わるまで存続した。
- 昭和24年(1949年)に戸山ハイツの最初の千戸が建設され、その後増設され一帯が住宅地となった。
- 昭和29年(1954年)に敷地の一部を公園として整備し、「戸山公園」として開園した。同園の箱根山地区には庭園の一部であった箱根山が残る。標高44.6mで、山手線内では一番高い地点である。
八丁堀蔵屋敷
- 蔵屋敷が置かれた。
- 明暦の大火で、築地に移った。
築地蔵屋敷
- 蔵屋敷が置かれた。
- 元は南八丁堀にあったものだが、明暦3年(1657年)の明暦の大火で焼けると築地に移された。
- 明治3年(1870年)4月29日上地。代地として浅草瓦町上田藩邸並びに金1500圓下賜。
明治後の尾張徳川家東京本邸
- 明治3年(1870年)4月29日に築地蔵屋敷を上地した代地として浅草瓦町上田藩邸を得、当初はそこを本邸とした。敷地は5360坪、内2000坪余りが貸地。
- 明治3年(1870年)7月本所相吉町に3000坪の邸地を加え、隅田川を挟んで両邸地を使用していた。
- 明治8年(1875年)11月24日、尾張藩16代藩主であった徳川義宜が18歳で夭折したため、父の慶勝が17第当主として相続し、明治9年(1876年)5月9日には讃岐高松藩主松平頼聰の次男義禮を養子としている。
- 不便であったのか、明治11年(1878年)1月に本所横綱町に4115坪の邸地を購入し、本邸を移転した。
- 明治13年(1880年)9月27日、慶勝は義禮に家督を譲り隠居している。明治16年(1883年)8月1日に慶勝死去。
- 明治17年(1884年)7月、華族令制定にともない侯爵となった。
- なお尾張藩15代藩主であった徳川茂徳は、のち15代将軍となった慶喜の跡を継いで一橋茂栄となり明治を迎えた。明治元年(1868年)には深川永代邸に住していたが、本所横川端邸を経て永田町邸に移転した。
- 明治2年(1869年)12月27日に一橋家は廃藩となる。その後は小石川邸に移っている。明治17年(1884年)3月6日死去。
その他
- 一ツ木下屋敷
- ~寛永15年(1638年)まで。
- 赤坂中屋敷
- 寛永9年(1632年)ごろに拝領。明暦2年(1656年)に上地。
- 下馬
- 寛永10年(1633年)ごろに入手。明暦3年(1657年)に返上。
- 深川抱屋敷
- 寛永14年(1637年)ごろに入手。天和3年(1683年)に返上。
- 松原小路
- 寛永17年(1640年)に鼠穴上屋敷が焼失したため、一時的に千代姫、相応院、光友が入っていた。元は水戸頼房が入っていた屋敷で、寛永6年(1629年)に小石川邸に移ってからは空き家となっていたと見られる。寛永18年(1641年)11月に鼠穴邸が再建されたため、ここを出ている。
戸山問題
- 尾張徳川家の戸山藩邸の地については、加賀前田家との間に騒動があった。
- 明暦2年(1656年)に清泰院大姫が亡くなった後、前田家牛込屋敷地が前田家に断り無く尾張徳川家に譲られ、突然前田家士が追い出されるという事件が発生する。
- これについて、前田利常が老中松平信綱に異議を申し立てたところ、前田家の牛込屋敷地は幕府に収公され、替地として本郷及び駒込で併せて6万坪が拝領地として与えられることとなったとする。尾張家も替地が与えられたために、その時にはこの地を入手していなかったことになる。
- しかしその後、尾張徳川家はこの戸山の地に広大な下屋敷を構築しており、その場所が旧前田家牛込屋敷地とかぶっている可能性がある。詳細は「加賀前田家の江戸藩邸」の項を参照のこと。
前田家牛込邸は現在の東京都新宿区市谷加賀町1丁目付近にあったとされるが、実は牛込邸は末高田あたりであったとされ、さらに牛込穴八幡のあたりであるという。この穴八幡社の経緯も上記「加賀前田家の江戸藩邸」に記すが、この穴八幡建立には前田利常が関わっており、建立の際に助力を行っているばかりでなく、金沢の金谷御殿にも勧請している(現、光松八幡神社)。牛込の穴八幡に土地を寄進したばかりでなく、金沢への勧請の際に縁起を記したのが大橋龍慶である。
関連項目
Amazonプライム会員無料体験