清水藤四郎


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 清水藤四郎(しみずとうしろう)

短刀
銘 吉光
名物 清水藤四郎
7寸5分

  • 享保名物帳所載

    清水藤四郎 在銘長七寸五分 代金三千貫 今清水御殿
    安芸国清水より出る、表裏護摩箸少し短し重ね三分餘、輝元卿所持、秀吉公へ上る、家康公所持尾張殿へ進らる、又秀吉公へ上る、細川三斎老拝領、京都町人辻次郎左衛門方に寛文の頃より有之、三斎老の拵あり大きなる鍔係り面白き拵なり
    別本に細川伊豆守とあり、また今一本の書には今清水殿とあり

    「又秀吉公へ上る、」は明らかな誤りで「秀忠公」だと思われる。

  • 重ね三分余、表裏に護摩箸を彫る。
  • 鋩子焼き詰め、目釘孔2個。「吉光」の二字銘。
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 由来

  • 安芸清水よりでたため名付けられるという。
  • しかし清水は地名ではなく清水氏にちなむものだともする。
    芸州藩清水家は、天正10年(1582年)高松城の水攻めで落城した清水宗治の子孫で、嗣子景治はわずか15歳だったという。通称は源三郎、小早川隆景から偏諱を賜り、景治と名乗る。この清水景治から毛利輝元に献上されたものとする。

 来歴

 毛利家・秀吉

  • 毛利輝元が所持し、文禄3年(1594年)秋に秀吉に「新身国行」とともに献上される。

    太閤様御機嫌よく御膳召上られ其上御噺御座候、輝元公熊野の小鼓遊ばされ左候て新身国行御腰物、清水藤四郎御脇差差上られ候処、成程御機嫌よく御両腰御差なされ候云々

  • 秀吉はこれが気に入ったのか、その後も両腰に指している。

    只今御差しなされたる両腰は、先年右馬頭(輝元)進上申したる荒實国行(新身国行)の御刀、御脇指も右馬頭上げたりし清水藤四郎なり。此両腰、少しも御放しなく差させられ候、是は仔細ある事なり、夢を見たる時、刀にて切ると思へば切れず、脇指にて突くと思へば立たずして、難儀するものなるに、さやうの夢を御覧なされし時、あらみ国行の刀にて切ると思へば、打付けし所離れずといふ事なし。又清水藤四郎にて突くと思へば、裏かゝせぬ事なし。茲に因つて、腰を放されざるなり。是は右馬頭と隆景奸曲なく、我を大切に存じ、上様も夫を御覧じ付けられて、御心安く思召されし。
    毛利秀元記)

 秀頼→豊國神社→家康→秀忠

  • 秀頼は豊国神社へ奉納するが、その後家康が召し上げている。

    豊國御神物
    清水藤四郎 同さや御目貫御小刀つか有
    豊臣家御腰物帳

 秀忠→細川忠興

  • その後関ヶ原の戦いの時に秀忠から細川忠興(三斎)に下賜されたと言う。

    関ヶ原のとき細川忠興那須より宇都宮に至り秀忠に謁し刀を献ず、秀忠より清水藤四郎を給ふ
    細川忠興記)

    同様の逸話は「彫貫盛光」にも伝わるため、関ヶ原の際に拝領したというのはそれと混同したものと思われる。

  • ただし、徳川実紀によれば忠興への下賜は関ヶ原の時(慶長)ではなく、寛永2年のことだという。
  • まず元和2年(1616年)の家康没後、清水藤四郎を含む「上々御脇指」13口はすべて秀忠へと相続された。

    清水藤四郎 大坂物本阿弥より
    駿府御分物刀剣元帳

  • その後尾張家に贈られていたものと見え、寛永2年(1625年)3月8日に尾張家から徳川宗家に献上されている。

    三月八日大御所尾張中納言義直卿邸にならせらる、(略)賜物来国俊太刀正宗御刀(略)献物は義直卿より正恒太刀、清水吉光の脇差
    (大猷院殿御実紀)

  • その後、同年(1625年)10月2日に細川忠興が国元へ戻る際に秀忠に謁した。その際に、名馬と道中服用の薬、清水藤四郎を下賜したと伝わる。

    (寛永二年)十月二日細川忠興入道三齋歸國の辭見して御馬を給ふ。又大御所(秀忠)御前にめされ、旅中服用の御薬をたまひ、御手づから清水藤四郎の御脇差を下され、その時仰ありしは、吾そのかみ汝等とゝもに、豊臣太閤の前に出て談話せし折から、汝この脇差を見て、あはれ此清水が作の脇差を帯し、利休居士が尻膨の茶入にて、茶事を催なば、生涯の至楽たれりと申けるは、其詞今も耳に残れるをもて、汝に此脇差をさづくるよし仰ありければ、忠興感謝して退く
    (大猷院殿御実紀)

  • つまり、家康から細川家までの伝来を整理すると次のようになる。
  1. 細川忠興記】:家康 → 秀忠 → 忠興
  2. 【徳川実紀】:家康 → 秀忠 → 義直 → 秀忠 → 忠興

 宇土細川家代々

  • 細川忠興から細川立孝(忠興の四男)を経て、細川行孝(立孝の長男。肥後宇土藩の初代藩主)と伝わった。

    清水藤四郎
    從秀忠公寛永ニ年御拝領、右同立充主より丹後守殿江御伝り
     一ニ、京都ニ有之故、和泉守殿も御覧なしと井門宗中申候と云々、口伝、

    立充とは細川立孝を指す、丹後守殿とは立孝子の細川行孝を指す。井門宗中とは宇土細川家臣で「井門宗中覚書」の著者。和泉守殿は不明。考えられるのは、1.細川有孝(細川行孝の三男で、宇土藩2代藩主) 2.宇土藩5代藩主細川興文の三男で宗家8代藩主となった細川斉茲(立禮) 3.斉茲(立禮)の子で宇土藩を継いだ細川立之 の3人ではないかと思われるが、以下の来歴を考えると後者2人の時点ではすでに手放しており矛盾する。
     細川有孝は、延宝4年(1676年)生まれ、元禄3年(1690年)に父・行孝の死に伴い家督相続。元禄16年(1703年)に病のため長男の細川興生(有清)に家督を譲り隠居。宗貫と号し、享保18年(1733年)6月19日に58歳で死去。

  • 肥後宇土藩3代藩主の細川興生(初代行孝の孫)は、従五位下・伊豆守に叙任されている。享保名物帳別本の「細川伊豆守」とは、この細川興生であると思われる。
  • 整理すると、細川家では次のような来歴となる。
  1. 細川忠興
  2. 細川立孝(忠興四男)
  3. 細川行孝(立孝長男、宇土藩初代)
  4. 細川有孝(行孝三男、宇土藩2代) ※上記「和泉守殿」か
  5. 細川興生(有孝長男、宇土藩3代)
  • 延亨(1744-1748年)以降、藩財政の窮乏に耐えかねこの「清水藤四郎」を手放した。
    細川興生(有清)は、宇土藩3代藩主。元禄12年(1699年)生まれ。元禄16年(1703年)に父・有孝が隠居し跡を継ぐ。享保20年(1735年)病を理由に隠居し、家督を長男の興里に譲り、自らは梅山と号した。元文2年(1737年)1月7日、39歳で死去。
     興里は延享2年(1745年)に死去し、弟の細川興文が養子となり家督を継ぐ。この頃宇土藩でも財政窮乏化が進んでいたため財政改革に取り組んでいる。

 商人・将軍家

  • 寛文(1661-1673年)の頃には京都の商人辻次郎左衛門(次郎右衛門とも)が所有していたという。
    細川家では延亨以後に手放したというが寛文まで時代が巻き戻っている。寛保(1741-1744)あるいは寛延(1748-1751年)の誤字か、詳細不明。細川行孝は寛永13年(1636年)生まれ、元禄3年(1690年)没。細川興生は元禄12年(1699年)生まれ、元文2年(1737年)没。
  • その後、澤了員、亀屋源太郎の元を転々としている。
    亀屋源太郎は幕府の呉服師六軒仲間(御用達商人)の一家。初代の亀屋栄任は京都の呉服商。本姓は比鷲見(ひすみ)。本能寺の変の際に家康の伊賀越に従い、のち重用された。

 将軍家

  • のち、11代将軍家斉に献上された。

    後ち將軍家へ納り慶應の幾年なりしや慶喜公より御舎弟清水民部大輔昭武殿へ賜ふ、昭武殿水戸家を相續せしを以てこの短刀、水戸徳川家の重器となり今に在り、清水藤四郎と織出したる青地錦の袋に入れ白鞘に納めてありしを拝見せり
    詳註刀剣名物帳

    将軍家斉の在位期間は天明7年(1787年)~天保8年(1837年)。

  • さらに清水徳川家に下賜され、その後一橋慶喜へ献上される。
    文化(1804)のはじめに清水家で買い上げ、それを将軍家に献上したところ、徳川慶喜が実弟の清水昭武に与えたともいう。
  • 慶応のころ、将軍慶喜より弟である清水民部大輔昭武(清水徳川家第6代当主)に下賜される。

 水戸家

  • 昭武は明治元年(1868年)に生家の水戸家(第11代藩主)を継いでいるため、以降水戸家の重宝となった。
    【水戸家】
    徳川治保──徳川治紀─┬徳川斉脩
               ├松平頼恕  ┌徳川慶喜(15代将軍)
               │      ├徳川昭武(清水家6代→水戸藩11代)
               ├徳川斉昭──┼池田茂政
               └松平頼筠  ├池田慶徳
                      └土屋挙直
    
  • その後黒田清隆が所蔵したともいう。
    黒田清隆は薩摩出身の軍人で政治家。通称は了介。第2代内閣総理大臣、その後は元老となり、枢密顧問官、逓信大臣、枢密院議長を歴任した。

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