奈良屋貞宗
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奈良屋貞宗(ならやさだむね)
- 貞宗作
- 享保名物帳所載
奈良屋貞宗 無銘長九寸七分 代金三百枚 尾張殿
泉州堺、奈良屋宗悦と申す者所持、并に親子藤四郎も此者所持也、文禄の頃右貞宗を五百貫に黄門秀俊卿求め秀吉公へ上る、秀頼公へ御伝へ、慶長十三年五月二十一日秀忠公へ進ぜらる、其後御上洛の刻名古屋にて尾張殿拝領、慶安三年中納言殿より来り前方の代付にて証文調参る
- 平造り、真の棟、差表に素剣と梵字、裏に護摩箸。なかごうぶ、目釘孔2個、無銘。
由来
- 堺の商人奈良屋宗悦が所持したためという。
- 奈良屋宗悦は親子藤四郎も所持していた。
来歴
豊臣秀保→秀吉
- 文禄のころ500貫にて豊臣秀保(大和大納言秀長の養子)が買い求め、秀吉に献上される。※黄門秀俊は小早川秀秋(中納言秀俊)ともいう。
秀吉
- 秀吉から秀頼に伝わる。
秀忠
尾張徳川家
将軍家
- 寛永11年(1634年)7月5日、将軍家光が上洛の途中に名古屋城に立ち寄っており、この時義直が献上。
やがて名古屋の城にいらせ給ふ。大納言義直卿饗せられ。なごや貞宗の脇差。二字國俊の刀を獻ぜらる。貞宗の御刀。國次の御脇差。銀千枚。時服二百遣はさる。
「なごや貞宗」と誤記されている。
紀州徳川家
- 寛永17年(1640年)5月14日家光は紀州邸に臨み、紀州家頼宣に贈っている。
十四日紀伊大納言頼宣卿の邸に臨駕あり。御半袴めされ。供奉の輩みな長袴を着す。まづ數寄屋へならせらる。露地にて尾紀兩亞相(尾張義直・紀伊頼宣)。水戸黄門(水戸頼房)。紀伊宰相(紀伊光貞)拝謁せられ。紀亞相父子(頼宣・光貞)は御先へまからる。茶室にて御相伴は尾水兩卿。松平筑前守光高。毛利甲斐守秀元。加藤式部少輔明成なり。(略)亞相父子いでゝ拝謁せらる。亞相(紀伊頼宣)へ國綱の太刀。(略)宰相(光貞)へ末守の太刀。(略)三獻の御祝あり。亞相(頼宣)御盃賜はる時。正宗の御刀。奈良屋貞宗の御脇指ひかせらる。この御盃かへし奉るとて。義弘の刀。和泉藤四郎の脇差を獻ぜらる。又御盃を宰相(光貞)に賜はる時。來國光の御わきざしをひかせられ。宰相(光貞)その御盃かへし奉るとて。來國次の刀を獻ぜらる。
- 慶安3年(1650年)、「中納言殿より」本阿弥に鑑定に出され、金300枚にて証文が作られる。
この中納言は紀伊徳川家の光貞とされる。光貞は寛永17年(1640年)3月に従三位参議右近衛権中将に昇叙転任。承応2年(1653年)8月に正三位権中納言に昇叙転任。1667年(寛文7年)紀伊国紀州藩主相続。
- 以後、将軍家を経て尾張家に伝わる。この頃に献上されたと思われる。
尾張徳川家
別の伝来
- 尾張徳川家の記録では、別の譲渡経緯が記されている。それによると、寛永17年(1640年)5月14日の家光の紀州邸御成(上述)の際に、宴席に於いて義直の「和泉藤四郎」と本刀「奈良屋貞宗」を交換し、それ以来尾張徳川家に伝来したという。
同(寛永)十七年五月十四日家光紀州邸ニ臨マレタル宴席ニ於テ当家初代義直和泉藤四郎短刀ト交換シ爾来当家ニ相伝ス
(尾張徳川家 世襲財産附属物表)
記述どおりとすれば、まず家光から紀州家頼宣に正宗刀と奈良屋貞宗を贈り、紀州家より義弘刀と和泉藤四郎が献上された。その後家光に贈られた和泉藤四郎と紀州家に贈られた奈良屋貞宗を交換し、奈良屋貞宗は尾張家に来たという流れになるが、この交換経緯はよくわからない点があり謎が残る。
この通りであるとすると、慶安3年(1650年)に「中納言殿より」本阿彌に鑑定に来た際も、尾張家の光友から出されたということになる。光友は寛永17年(1640年)3月4日、参議に補任し、右近衛権中将を兼帯。7月11日、従三位に昇叙。参議・右近衛権中将如元。慶安3年(1650年)6月28日、尾張国尾張藩主となっている。承応2年(1653年)8月12日、正三位に昇叙し、権中納言に転任。
- いずれにしろ尾張家に伝わり、以後は尾張徳川家で代々相伝された。
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