美作津山藩松平家の江戸藩邸
美作津山藩松平家の江戸藩邸
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概要
- 越前松平家は、結城秀康にはじまる。
- 結城秀康は主に伏見の邸を用い、江戸に上ったのは少なく、慶長10年(1605年)に「東武山ノ手御屋敷(麹町邸)」を拝領したものの、ここには入ることもなく薨去している。
慶長10年(1605年)江戸ノ山手ニ於テ邸第ノ地ヲ賜フ。(略)公ハ斯邸ニ入ニ及ハスシテ薨去シ給ヒ、其後伏見ノ邸宅ヲ移シテ経営シ、二世公(忠直)三世公(光長)ハ居住シ給フ。世ニ麹町屋敷ト云フ。
- ※結城秀康#江戸藩邸の項を参照
- 2代松平忠直も江戸に入ることは少なく、伏見邸を移して邸宅を構えたものの、江戸麹町邸に入ることは少なく、大坂の役以降は江戸参府を拒み、遂には改易された。また麻布三河台にも屋敷地を賜ったという。夫人は高田様こと天崇院勝姫(秀忠娘)。
同年(慶長12年)月日不知江戸山手ニ於テ屋敷ヲ賜フ、(松平家譜)
昔松平三河守殿の下屋敷にして、其の地の高ければ三河臺といへり(府内備考)
- 3代松平光長(仙千代)は、忠直の改易に伴い北ノ庄城を相続するも、翌年には越後高田を領していた松平忠昌と入れ替えとされ、越後高田25万石となった。
結城秀康─┬松平忠直──松平光長──松平宣富──松平浅五郎━━松平長煕━━松平長孝 北之庄 │ 北之庄 北之庄 美作津山 美作津山 美作津山 美作津山 │ 越後高田 ※半知 │ 改易 │ │ └松平忠昌───┬松平昌勝───松平綱昌【福井藩6代】 越後高田 │ 北之庄→福居├松平光通【福井藩4代】 │ └松平昌親【福井藩5代・7代】
- ※その際、寛永元年(1624年)に夫人である高田様(天崇院勝姫)は、江戸城本丸に戻って数年を過ごした後、高田様は別墅として牛込川田ケ窪に屋敷(後の牛込高田下屋敷)を拝領している。仙千代(光長)は高田藩の麹町藩邸へ入った。
- さらに越後騒動が起こり、将軍綱吉の直裁により越後高田藩は改易となる。麹町藩邸も召上となった。光長はのち赦免され与えられた柳原藩邸に戻り、元禄7年(1694年)に松平直矩の子・源之助(のち長矩、宣富)を養子とし、元禄10年(1697年)に隠居した。
- 4代松平宣富(長矩)は、元禄11年(1698年)に美作10万石を与えられ津山藩が立藩(美作津山藩初代藩主)する。これ以降、美作津山藩の江戸藩邸となって幕末まで続く。
半蔵門上屋敷
拝領年月不明
上地天和元年(1681年)6月
坪数不明
- 通称「麹町屋敷」と思われる。半蔵門を出て南側、彦根藩井伊屋敷までの間にあった。
- 寛永以降地図に載る。
- 元は太田道灌の創建した江戸貝塚青松寺があったところで、青松寺は慶長5年(1600年)に家康が江戸城の外堀を整備する際に現在地へと移された。
文明年中太田道灌はしめて山王三所を江戸城の産土神とし、延徳年中山の手の城の西に移す、
- 麹町の屋敷地は慶長10年(1605年)に結城秀康が拝領したもので、その後松平忠直、松平光長へと相続された。
慶長十年江戸ノ山手ニ於テ邸第ノ地ヲ賜フ。(略)公ハ斯邸ニ入ニ及ハスシテ薨去シ給ヒ、其後伏見ノ邸宅ヲ移シテ経営シ、二世公(忠直)三世公(光長)ハ居住シ給フ。世ニ麹町屋敷ト云フ。
- 忠直が配流された際、生母勝姫と光長は寛永元年(1624年)8月に江戸城本丸に入り、のち寛永3年(1626年)には光長はこの麹町邸に、また勝姫は牛込川田ケ窪の屋敷に移り住んだ。※牛込川田ケ窪の屋敷については「勝姫」の項参照
其後仙千代(光長)年稍成長候て、糀町之居邸に移住申候。高田殿(勝姫)ニも後年於牛込居邸従公儀之御普請ニて住居。則當時之高田屋敷ニて御座候。
- 光長は恐らく寛永11年(1634年)に越後高田に入るまで移居していたと思われる。国立歴史民俗博物館所蔵の江戸図屏風(林家本)には「松平越後守」の名前で載る。※左隻第三扇上、「山王権現宮」の上。
江戸図屏風左隻 〔高精細画像版〕山王社
山王御宮も、慶長十二年貝塚村へ引ケ、三河守様松平忠直御屋敷前ニ御建立、御奉行内容修理丞清成と浅羽氏之記に有之。是も貝塚より永田馬場松平主殿頭様屋敷跡へ引き、今以其所也。
位置ハ往古江戸繪圖半蔵門外松平越後守邸南隣ニ社地ヲ圖シ、山王、別當、茶屋ト記スル者是也。
- 天和元年(1681年)6月に没収される。※赦免後、光長は柳原邸(元誓願寺前上屋敷)に入っている。
天和二戌年前書松平越後守屋敷貳ヶ所共被召上、同年八月割屋敷ニ成。
- のち三河田原藩 三河対馬守康保、播磨明石藩 松平兵部大膳應憲、火消し 神保三千次郎、田島豊岡藩 京極飛騨守高厚らの屋敷地となっている。
享保三年二月松平越後守上ヶ地内、都合拾三人屋敷并び間道式共、松平左兵衛佐屋敷
享保三年三月四日渡、松平越後守上ヶ地内、半蔵門外五千貳百拾八坪、
明石藩2代松平直常は従五位下左兵衛佐。宝永4年(1707年)には従四位下左兵衛督に昇任する。
- 現在の国立劇場あたり一帯。
元誓願寺前上屋敷
拝領貞享4年(1687年)10月9日
上地元禄11年(1698年)9月
坪数4444坪余
- 家名再興の時に拝領。
- 貞享4年(1687年)10月9日、元は本多中務大輔屋敷。松平越後守へ。
十一月九日、松平出羽守綱近、同大和守直矩営中に被爲召、本多中務大輔屋敷、松平越後守へ被下旨、被仰渡之
- (元禄の)上地後、2365坪、1400坪、679坪の3屋敷になる。
- 目録詳細 / 江戸図鑑綱目 坤|津山郷土博物館 ADEAC
- ※筋違橋と和泉橋の間、左(南)側に「松平越後守」邸が見える。
- 貞享4年(1687年)江戸の留守居役が赦免の奉書を受け取る。12月15日光長一行は柳原屋敷へ入る。12月27日には備後福山の松平綱国も許され、翌年二月に柳原邸へ入った。
- 元禄6年(1693年)12月14日に直矩の三男・矩栄を養子に(後の松平宣富)。12月18日幕府より養子許可。元禄10年(1697年)4月22日隠居を願い出て、5月6日許可。同日矩栄(後の宣富)が跡を継いだ。光長は宝永4年(1707年)11月17日死去93歳。
- 元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事で二宮の屋敷(牛込川田ケ窪)へ逃げたという。その後、上地。
- のち鍛冶橋内に屋敷地を賜ったため、この元誓願寺前の屋敷地は上地となる。
鍛冶橋内上屋敷
拝領元禄11年(1698年)9月
添地拝領文化14年(1817年)12月、文政12年(1829年)8月
割替天保5年(1834年)3月19日
添地拝領天保15年(1844年)5月
坪数11,131坪余
- ※下記かなり混乱があり未整理状態
- 元禄11年(1698年)9月27日柳原上屋敷および本所下屋敷類焼につき地所割替。松平備前守へ。元は蜂須賀飛騨守、大久保伊豆守、吉良上野介、安藤長門守の屋敷地。※恐らくこれが7,000坪余りか。
- 同年11月備前守屋敷内133坪召し上げ。新道? 代地として備前守屋敷の前敷地133坪拝領。
- 文化14年(1817年)12月23日青山石之助屋敷地3400坪余り召し上げ、そのうち1514+325の合わせて1839坪余りを、(北の辺の東南角を)松平越後守へ。添地囲い込み。
- 文政12年(1829年)手狭に付き、2253坪余りを添地として被下。松平越後守。別段思召で金五千両拝借。
- 文政13年(1830年)5月御厩地所召し上げ、東南の方角屋敷地形が悪いため、割替を実施。松平越後守へ。
- 天保5年(1834年)類焼。隣敷地割替。
- 天保15年(1844年)3月松平三河守、松平能登守、京極大膳の屋敷地割替、11092坪餘、松平三河守(松平斉民)へ。
- 同年5月7日屋敷前道の部分39坪余りにつき、松平三河守の差加地となる。
- 明治後
- 鍛冶橋藩邸は、明治3年(1870年)に鳥取藩へ譲るよう達しがあったが、代わりに2,377坪を上地する。翌年7月には再度上地するよう太政官から達しが出たが、8月には元通りとなった。
- しかし結局、明治4年(1871年)10月には兵部省用地として上地することになり、東京府に引き渡しとなった。
- ※下記幕末項の抱屋敷参照
- 現在はJRは東京駅南側、丸の内東京ビルディングからフォーシーズンズホテル丸の内東京(外堀通りと鍛冶橋通りの交差する東京駅側まで)の一帯。
- 津山藩江戸藩邸 - 津山瓦版
- 今の東京駅にあった津山松平藩江戸藩邸 | 津山市公式サイト
山下門内中屋敷
拝領年月不明
上地天和元年(1681年)6月
坪数不明
- 正保以後の地図。山下門内に代地を拝領していた時期があるという。
- 天和地図にはなく、没収。のち伊達家中屋敷。
寛永圖松平越後守邸ナリ。承応及明暦圖松平陸奥守中屋敷ニ作ル
- ※伊達家でも拝領時期が不明で、上地時期だけ明暦3年(1657年)ということがわかっている。
麻布今井中屋敷
拝領年月不明、上地天和元年六月 坪数不明
- 改易時に没収。
天和二戌年前書松平越後守屋敷貳ヶ所共被召上、同年八月割屋敷ニ成。
麻布赤坂内松平越後守邸阯其他、明地ト爲ル。
延宝年中は松平越後守屋敷、前書松平越後守屋敷被召上、
新橋中屋敷
拝領宝永7年(1710年)3月
上地享保17年(1732年)9月
坪数1822坪
- 「新シ橋」
- 宝永7年(1710年)3月18日本多中務大輔上屋敷1822坪を松平越後守へ。
- 享保17年(1732年)9月桜田新シ橋中屋敷伺之上差上候。
- 享保17年(1732年)9月1日桜田新橋中屋敷上地。南部修理大夫へ。同18年11月に狭山藩北条家上屋敷になる。
浜町中屋敷
拝領安政2年(1855年)8月21日
坪数4889坪余
- 安政2年(1855年)8月21日、浜町清水屋敷のうち、4889坪余りを松平三河守へ。
木挽町下屋敷
木挽町六丁目
拝領年月不明
上地天和元年(1681年)6月
坪数3075坪
- ※ただし寛永13年(1636年)の総構改修前の地図に載っており、かなり古くに拝領したと思われる。
- 改易時に没収され、宇和島城主伊達宗利に与えられている。
天和二戌年前書松平越後守屋敷貳ヶ所共被召上、同年八月割屋敷ニ成。
元禄年中前書松平越後守屋敷伊達遠江守(宇和島伊達)屋敷ニ成
本所三丁目下屋敷
- 拝領年月不明。上地年月不明。坪数不明。
- これは恐らく元禄11年(1698年)9月6日、勅額火事で焼けたと思われる屋敷地。柳原の上屋敷と本所の両屋敷地が燃え、上地となり替地として鍛冶橋藩邸地を拝領した。
深川下屋敷
- 拝領年月不明、上地正徳3年(1713年)閏5月5日、坪数6908坪。
- 元禄で中屋敷。宝永~文政まで下屋敷。
- ※元禄11年(1698年)の勅額火事で焼けたために替地として拝領した屋敷地。
- 正徳3年(1713年)に上地、のち蜂須賀飛騨守へ。
深川海辺大工町下屋敷
- 拝領年月不明。坪数不明。
- ※下記幕末項の抱屋敷参照
高田下屋敷
拝領年月不明。※寛永3年(1626年)高田様屋敷として
高田様(殿)屋敷、二宮御方屋敷、牛込高田下屋敷
坪数:(二宮様引き継ぎ時)8214坪余
- [12-228] 浄泉寺谷町 | 江戸マップβ版 ※南が上
- 現在の東京メトロ早稲田駅の南側、牛込第二中学校および区立早稲田小学校の南半分から、夏目坂通りに面するところまでの一帯。
- 元々は寛永3年(1626年)に、北ノ庄城から戻っていた高田様(勝姫)別墅として建てられたもので、寛文12年(1672年)に勝姫が亡くなると高田藩に与えられたと見える。延宝年間(1673年から1681年)には松平越後守抱屋敷となっていた。
- 延宝初:松平越後守抱屋敷
- 延宝九:二宮御方 ※高田藩改易後の「高松殿二宮様」屋敷
- 元禄十三:松平備前守
- 元禄十五:松平備前守
- 宝永三:松平越後守
- 延享二:松平越後守
- 當時之形:松平越後守下屋敷
- ※のち牛込高田下屋敷となっていた。下記幕末項の抱屋敷も参照
- ※拝領及び二宮御方屋敷となる経緯については、「勝姫#高田様屋敷(牛込川田ケ窪邸)」の項を参照
谷中抱屋敷
- 譲受け嘉永5年(1852年)10月28日。
- 坪数3024坪
- 元は岩村藩松平家。
- ※下記幕末項の抱屋敷参照
その他
幕末の藩邸
- 安政2年(1855年)に9代松平慶倫が家督を継いだ時、下記の屋敷地を拝領していた。
- 鍛冶橋門内上屋敷
- 牛込高田下屋敷
- 抱屋敷
・深川海辺大工町
・谷中本村 - 抱地
・砂村新田
- 前藩主である8代松平斉民は、「確堂」と号して隠居地として安政2年(1855年)8月21日浜町の邸(元清水家)を賜り、同年3月5日牛込高田の下屋敷に別邸を営んだ。安政6年(1859年)2月22日には高田邸が類焼したため、高田源兵衛村(現在の新宿区戸塚周辺)に別邸を営み、11月27日に移った。高田の馬場、および姿見橋が近くにあったため、これを姿見邸と呼んだという。※明治5年(1872年)には姿見邸から下谷根岸邸に移った。
- 慶応4年(1868年)9月5日に明治新政府は藩邸の整理に着手した。この時抱屋敷は私有とみなし対象外となった。整理対象の津山藩邸は下記であった。
- 鍛冶橋門内官邸 11,092坪余
- 浜町大川端中邸 7,589坪余
後に藩邸東側の川の東を浜町、西を蛎殻町と称したため、以降「蛎殻邸」と呼んだという。 - 高田下邸 8,153坪余
- 【浜町大川端私邸】
- 浜町大川端私邸については、新政府は買上の方針であったが交渉の結果、永拝領に決まった。
- 【鍛冶橋藩邸】
- 鍛冶橋藩邸については、交渉したところ「静寛院宮様守警中は願い通りそのまま拝借」となった。これは松平斉民が維新前後に働きがあったためによる。
- 「静寛院宮」とは和宮のこと。仁孝天皇の第8皇女である和宮親子内親王は14代家茂の正室となり、文久元年(1861年)降嫁。慶応元年(1865年)4月に鳥羽・伏見の戦いで幕府方が敗北。7月には家茂が大坂城で薨去。12月5日和宮は落飾して号を静寛院宮と改めた。12月25日には和宮兄である孝明天皇が崩御。
- 慶応4年(1868年)正月江戸城に戻った徳川慶喜は寛永寺大慈院に謹慎生活を送ることになり、後事を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任した。松平斉民は静寛院宮様警護を命じられている。
東叡山江御謹慎中。西城之儀は。田安中納言殿江御預被成。松平確堂儀は。 静寛院宮様。 天璋院様御守衛相心得向々江可被達候事。
- のち江戸城無血開城。4月9日和宮は実成院(家茂生母)と共に清水邸へ入った。松平斉民は4月5日に和宮の守衛、5月3日に田安亀之助の後見人を命じられている。
- 明治元年(1868年)4月に明治天皇の東京行幸ののち、明治2年(1869年)1月18日和宮は京都へ上洛に出発。2月3日に聖護院。24日に参内。聖護院の屋敷が「栄御殿」と改称され、しばらく京都に在住した。明治7年(1874年)7月に東京へ戻った。麻布市兵衛町元八戸藩主・南部信順の屋敷に居住した。
- 鍛冶橋藩邸については、交渉したところ「静寛院宮様守警中は願い通りそのまま拝借」となった。これは松平斉民が維新前後に働きがあったためによる。
- ※結局「静寛院宮様守警中」がいつ終わったのかは明らかではないが、恐らく明治2年(1869年)に和宮が上洛したことでその任は解かれたのではないかと思われる。
- 明治3年(1870年)に鍛冶橋藩邸を鳥取藩へ譲るよう達しがあったが、代わりに2,377坪を上地する。翌年7月には再度上地するよう太政官から達しが出たが、8月には元通りとなった。しかし結局、明治4年(1871年)10月には兵部省用地として上地することになり、東京府に引き渡しとなった。
- 兵部省のうち内務省警視廳(現在の東京都公安委員会管理の警視庁や、旧警察法警視庁とは別)や東京裁判所が置かれていたようだ。西南戦争頃まで庁舎は旧津山藩邸がそのまま用いられている。内務省警視廳の初代大警視は川路利良。のち兵部省は陸軍省と海軍省へと分かれた。
警視廳は、八重洲二丁目四番地二在り。正門は南に面し。家に櫻樹あり。其の通用門は其の方土手に對して開き。舊時の火の見櫓今猶ほ存せり。
本廳は、中古の検非違使。(略)七年始て本廳を置き、衛門を鍛冶橋門内舊津山藩邸に設く。卽現在の地なり。十年一月之を廢して其の事務を内務省の官吏と爲し更に警視局と爲せしが。十四年に至り再び本廳を置けり。
- 【高田下屋敷】
- 高田下屋敷は大半が開墾して桑や茶などが栽培されていたが、明治3年(1870年)9月に上地して同時に津山藩士桐淵道斎の名により1,000坪あたり25両で払い下げを受けるよう働きかけ、11月に1,000坪あたり20両とされ、金159両2分と銀7匁5分で払い下げを受けた。
桐淵道斎は、上州藤岡の出で、先代松平斉民に家来並として用いられ、のち津山縣士族となった人物。
- 高田下屋敷は大半が開墾して桑や茶などが栽培されていたが、明治3年(1870年)9月に上地して同時に津山藩士桐淵道斎の名により1,000坪あたり25両で払い下げを受けるよう働きかけ、11月に1,000坪あたり20両とされ、金159両2分と銀7匁5分で払い下げを受けた。
関連項目
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