鍋島江


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 鍋島江(なべしまごう)


無銘 江
刃長68.5cm
名物 鍋島江
東京国立博物館所蔵

  • 享保名物帳所載

    鍋島江 無銘長二尺二寸六分半 代七千貫 御物
    鍋島加賀守殿御所持、権現様へ上る、尾張殿へ御伝へ、寛永十三年九月廿一日大猷院様御成の刻、徳松様へ進せらる、小切先大出来平鎬とも少々宛焼る横手下にも「ひゞき」あり

  • 本造り、庵棟。差表の鋩子は直刃で尖り、長く返る。裏は、乱れこんで尖り、沸え崩れる。中心大磨上で、無銘、目釘孔1個。

 由来

  • 鍋島家所蔵にちなむ。
    • もとは「小胸切り(こむねぎり)」と呼ばれたものと思われる。

 来歴

 江上氏

  • もとは肥前国江上氏に伝わったもので、江上家種の時に一時養子に入った鍋島勝茂に伝わる。
    鍋島勝茂は、天正17年(1589年)10歳の時、龍造寺隆信の次男江上家種の養子になり江上家に入っている。この時に婿引出として「小胸切り(こむねぎり)」という吉光太刀を贈られている。
  • このころに埋忠家にきたため押形を採っている。

 鍋島勝茂

  • 鍋島勝茂はのち鍋島家の家督を継ぎ、関が原の戦いでは当初西軍に属する。伏見城攻めに参加した後、伊勢安濃津城攻めに参加している。しかし、父直茂の急使によって勝茂はすぐに東軍に寝返り、戦線離脱している。父の鍋島直茂は、立花宗茂の筑後柳川城、小早川秀包の久留米城など九州の西軍諸将の居城を攻撃している。
  • 関ヶ原本戦には参加せず、西軍が敗退した後に加藤清正や黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪し、また、先の戦功により、本領安堵を認められた。

 家康

  • 慶長5年(1600年)9月25日、家康に拝謁し御礼として献上したのがこの「鍋島江」である。
    「小胸切」の郷義弘がこれと同物とされる。

 尾張徳川家

  • 元和4年(1618年)11月に駿河御分物として尾張家に贈られた。
  • 駿府御分物帳」では中之御腰物に書かれている。

    中之御腰物 かう 尾州 鍋嶋

    なへしま 郷 金七拾五枚 御道具有 但横平三寸斗下少かけ有

    この時の記録では、横手下三寸ほどのところに少し刃こぼれがあった。金七十五枚の折紙つき。拵えは縁は赤胴、目貫は金無垢、二匹連れの獅子の図。鍔は赤胴、鎺は二重で、下は金着せ、上は金無垢。切羽と鵐目は金無垢、笄は裏くるみ。表は三匹連れの獅子の彫り物。小柄は赤胴、水に貝の図。これを本阿弥光瑳も拝見している。

 家光

  • 寛永13年(1636年)9月21日、家光が尾張義直邸に御成の際に来国光の短刀と共に献上している。

    廿一日尾張大納言義直卿の邸に臨駕あり。(略)御相伴は水戸黄門、越後加賀の両少々、毛利甲斐守秀元、立花飛騨守宗茂なり。(略)亜相に正宗の御刀、和泉吉光の御脇差を給ふ、その御盃かへし進せらるゝ時、鍋島郷の刀、来国光の脇差を奉られ

    • 亜相(大納言義直)に正宗刀、和泉吉光の短刀
    • 義直から鍋島江、来国光短刀を献上
    御相伴衆
    水戸黄門、越後加賀の両少将。毛利秀元立花宗茂
  • 尾張家の払方帳にも同様の記載あり

    一、鍋嶋郷御腰物 同断(公方様へ御進上、是は寛永十三年子九月廿一日御成之時)代金三百五拾枚 但御目貫笄赤銅□くるミもんしゃちほこ作乗真
    (元和七酉年ゟ寛永十五寅年迄 御腰物請取拂方帳)

 綱吉

  • 慶安4年(1651年)6月18日、家光の遺物として四男徳松(綱吉)へ与えられた。

    徳松君に鍋島郷の御刀。貞宗の御さしぞへ。

  • 享保2年(1717年)、近江守継平は吉宗の許しを得、将軍家蔵刀の押形を採っている。しかし、その中に「鍋島郷」として載るものには目釘孔が2個あり、まったく別物とされる。
  • 寛政2年(1790年)4月に上覧。

     四月廿四日、左之御道具
       上覧ニ相廻ル、御名物御道具、是者帳面ニ而、
     
      一、鍋島郷義弘
        是ハ鍋島加賀守所持、  権現様江上
        ル、其後尾張殿江被遣、寛永十三子年
        亭江 御成之時  大猷院様江上ル、

 明治天皇

  • 以後将軍家に伝来していたが、明治20年(1887年)8月10日、山岡鉄舟の世話により明治天皇に献上された。

    五日、公爵徳川家達、所蔵の宗瑞正宗短刀一口を、尋いで十日鍋島郷義弘太刀一口を献上す

  • 大正4年(1915年)の東照宮三百年祭に出陳されている。

    御物 鍋嶋郷 白鞘 一振
    鍋嶋加賀守直茂所持、東照公へ奉り、徳川義直拝領家光公へ奉る。明治二十年八月徳川家達公より 明治天皇へ奉獻。

    鍋島直茂は上記鍋島勝茂の父。鍋島清房の次男として生まれ、母は龍造寺家純の娘・華渓。龍造寺隆信の生母・慶誾尼が父・清房の継室となったこともあり、直成は隆信の従弟かつ義弟になる。龍造寺隆信の右腕として活躍し、龍造寺政家が家督を継ぐと、政家の後見人となった。関ヶ原の後、幕府は鍋島直茂・勝茂父子の龍造寺氏から禅譲を認める姿勢を取ったことから、勝茂は幕府公認の下で跡を継いで、龍造寺家の遺領を引き継ぎ佐賀藩主となり、父の後見下で藩政を総覧した。この後、佐賀藩鍋島家として明治まで続いた。

 東博所蔵


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