大田南畝


 大田南畝(おおた なんぽ)

幕臣(御家人)、文人、狂歌師
洒落本作家、黄表紙作家
字は子耕、南畝は号
別号 蜀山人、四方山人、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、惰農子、遠櫻主人、風鈴山人、山手馬鹿人など
狂名 四方赤良、寝惚先生

  • 狂歌では主に「四方赤良(よものあから)」、また後期は「蜀山人(しょくさんじん)」の号で知られ、文学者及び随筆家としては大田南畝の名で知られる。このサイトでは主に随筆家としての大田南畝として扱う。
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 生涯

  • 寛延2年(1749年)江戸の牛込中御徒町で、御徒の大田正智(吉左衛門)、母・利世の嫡男として生まれた。大田氏は、幕臣とは言え御目見え以下の御家人で、家禄は七十俵五人扶持。※ただし譜代御家人のような家督ではなく、改めて抱えられる一代抱として出仕であった。そのため父の正智は南畝出仕の3年後の明和5年(1768年)に致仕している。

    藤原氏、大田之名字之義は、武蔵国多西郡鯉ヶ窪より出候旨、永禄四酉年十一月書付冩有之

    一般に「大田」は武蔵國埼玉郡大田庄によるが、そうではなく武蔵国多西郡鯉ヶ窪に大田目という地名があり、それにちなむのだという。現在の西武鉄道国分寺線の恋ヶ窪駅付近をいう。大田七郎右衛門が徳川家綱公に仕へ賄組頭となった。その子、又兵衛(南畝の高祖父)も同様に賄組頭となっている。綱吉の世子時代に、その子・太左衛門が延宝7年(1679年)四月御徒(伊那伝兵衛組)に抱えられる。家綱薨去後、綱吉が本城へと入ると太左衛門も従い御徒頭石野八兵衛の配下となる。ついで元禄元年(1688年)には土屋主税の配下に転じる。※石野八兵衛については「石野正宗」の項を参照

    母・利世は闕所物奉行・早瀬吉右衛門組同心の渋垂忠右衛門の娘で、のち小普請組高力若狭守組の杉田八兵衛の養女となったのち、大田家に嫁いできた。
    大田七郎右衛門──大田又兵衛──大田太左衛門正為─┐
                             │
    ┌────────────────────────┘
    │
    └大田源八
       ├────┬新七郎如林
     兒玉喜兵衛娘 │
            ├女(高城氏妻)
            │           富原福寿──里與
            ├─吉左衛門正智           │
            │  ├─────┬姉(野村新平妻) ├──┬女(早世)
        杉田氏─│─利世     ├姉(吉見佐吉妻) │  ├大田定吉─────┬鎌太郎
            │        ├直次郎覃(大田南畝)  └お幸       ├豊
            └常五郎     └弟・金次郎(島崎家養子) (佐々木金兵衛妻 ├いく
                                            └鐵次郎
    
    
    吉見佐吉妻となった姉の子には吉見義方がいる。狂名 紀定丸としても交流があり、寛政9年(1797年)に学問吟味で及第。文化2年(1805年)閏8月に支配勘定。その後も文化5年(1808年)には評定所留役、文政4年(1821年)には勘定組頭で永々御目見得以上。天保4年(1833年)には三十俵加増、天保12年(1841年)に御役御免を願い出て許され、同年6月八十二歳で没。
  • 名は覃(ふかし)、字は子耕(子耜、しし)。通称、直次郎、最晩年に七左衛門。
    「今東都幕下、大田南畝先生、名は覃と稱す。世人これをたんと讀みて、えんと唱へず。されどもたんでもよし、えんでもよしと、ある時先生の文通に戯ふれ申されき。思ふに先生、度量の廣きなるべし」
  • 名の「覃」、字の「子耜」、「南畝」の号は詩経 小雅 「大田」から採ったという。

    大田多稼、既種既戒、既備乃事、以我覃耜、俶載南畝、播厥百穀、旣庭且碩
    (大田稼えんこと多し、旣に種えり旣に戒う。旣に備わりて乃ち事あり、我が覃耜を以て俶て南畝に載とす。厥の百穀を播し、旣に庭く且つ碩いなり。)

  • 下級武士の貧しい家だったが、幼少より学問や文筆に秀でたため15歳で江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒。牛込加賀屋敷)に入門。札差から借金をしつつ国学や漢学の他、漢詩、狂詩などを学んだ。狂歌三大家の1人、朱楽菅江とはここで同門になっている。
    南畝の生家牛込中御徒町から内山賀邸の住んでいた牛込加賀までは徒歩10分程度の近さ。「江戸六歌仙」は賀茂真淵、田安宗武(吉宗三男、松平定信実父。真淵に師事)、内山賀邸、石野広道、磯野政武、萩原宗固を指す。
    • 〔江戸切絵図〕. 市ヶ谷牛込絵図 / 1 東西南北がほぼ逆転。地図の左面中央やや下の「御徒組」の中央の筋が南畝の住んでいた場所。内山賀邸は西南西(地図上右斜め上)に10分ほど歩いた所。
  • 17歳に父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続け、18歳の頃には荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事した。また、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行した。

 狂歌師の道

  • 19歳の頃、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、明和4年(1767年)狂詩集『寝惚先生文集』として刊行。これが評判となった。
    平賀源内が序文を寄せており、江戸の狂歌流行のきっかけを作ったとも言われる。
  • この後数点の黄表紙を発表するも当たり作はなかったというが、内山賀邸私塾の唐衣橘洲の歌会に参加した明和6年(1769年)頃より自身を「四方赤良(よものあから)」と号し、自身もそれまでは捨て歌であった狂歌を主とした狂歌会を開催し「四方連」と称し活動しはじめた。
    ”四方(よも)の赤”とは、当時江戸で大流行していた四方の赤味噌に由来する。当時流行った地口「鯛の味噌ずで四方のあか のみかけ山の寒がらす」をもじったもの。「宝暦本絵草紙に云、鯛の味噌ずで四方のあか、のみかけ山の寒がらす」
     日本橋和泉町の酒屋四方久兵衛(よものきゅうべえ)が販売していた酒が「瀧水」で、赤味噌も評判だった。店で鯛の味噌吸(味噌の吸物)を出したところ大評判となり、「四方の赤」といえば酒を引っ掛けることを意味した。
  • それまで主に上方が中心であった狂歌が江戸で大流行となる『天明狂歌』(江戸天明狂歌)のきっかけを作り、自身も名声を得ることになった。
  • 23歳で妻を迎える。妻・里與は富原福寿の娘で宝暦5年(1755年)11月5日生まれ。17歳で嫁いできた。
  • 当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなっていった。
  • 安永5年(1776年)には、落合村(現新宿)周辺で観月会を催し、さらに安永8年(1779年)、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会も催している。翌安永9年には、この年に黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版、山東京伝などは、この頃に南畝が出会って見出された才能とも言われている。
  • ある時、田安家に呼ばれ九段の高台にふれて狂歌を求められた時に即座に狂歌を謳ったという。

    或時田安殿の御邸に召され、園中の九段の高臺に抵て、狂歌を御好みありしかば、即吟に
      雪月花屹度受合申候、仍てくだんの上の絶景
    田安殿感悦せられ、唐機留と八丈縞とも賜はりければ、又即
      寝惚には過ぎたる者が二つあり唐の袴にほんの八丈

  • 天明3年(1783年)、朱楽菅江と共に狂歌集『万載狂歌集』を編む。
    四方赤良(南畝)と朱楽菅江の共編。題名から知られるように『千載和歌集』のパロディであり、200人以上の詠んだ狂歌を集めたもの。大文字屋誰袖の歌も載る。
  • この頃から田沼政権下の勘定組頭・土山宗次郎に経済的な援助を得るようになり、吉原の妓楼主人たちが催す狂歌会へ招かれたことから吉原にも通い出すようになった。
    この頃まで、大田南畝は牛込加賀屋敷の内山椿軒の会に参加していた。安永4年(1775年)の「甲駅新話」で洒落本界隈へと進出し、天明元年(1781年)には「菊寿草」を板行して黄表紙の作品批評を行うも、それは椿軒の四谷派とは決別する方向であったとされる。
     天明3年(1783年)「狂歌若葉集」が(南畝抜きの)橘洲、平秩東作、蛙面坊懸水、元木網、古瀬勝男により編集されるに至って、大田南畝は自ら「万載狂歌集」を天明3年(1783年)板行。書家、吉原連、幕臣、芸人、新興書肆、遊女に至るまでを網羅しようとした万載狂歌集は評判となった。これにより戯作者を中心とするグループが独立したと見られている。「評判記の名を菊寿草と云。此時、立役・女形の巻頭ともに蔦屋の板にて、喜三二の作なりし故、蔦屋重三郎大によろこびて、はじめてわが方に逢ひに来れり。」
     のちに和解が行われ「狂歌師細見」が板行された「中なほり。牛込と四つ谷のわけ合も、菅江さんはもちろん木網さんの座持で、さっぱりすみやした。これからみんな会へも一所に出てあそぶのサ」。しかしこの頃南畝は土山(田沼派)との接近を強め、単に狂歌師だけではなく戯作者としての道も歩み始めていた。ただしそれも数年後の寛政の改革でひっくり返ってしまうことになる。

 松葉屋三保崎の身請け

  • 南畝38歳のとき、天明6年(1786年)7月15日に、吉原の松葉屋の遊女である新造・三保崎(みほさき、三穂崎/みほ崎)を身請けして妾とした。三保崎こと「おしづ(阿賤)」は20余歳という。
    南畝が初めて松葉屋に訪れたのは天明5年(1785年)11月18日だという。「天明五のとし霜月十八日はじめて松葉樓にあそびて」

    この三保崎の身請けについては、パトロンであった土山宗次郎が出したのではないかとも書かれており、あるいは大文字屋が便宜を図ったとも書かれる(実際、三保崎は初期に大文字屋市兵衛の別荘に入り、そこに南畝が通っている)。さらには天明7年(1787年)春刊の「狂歌千里同風」(蔦屋重三郎板、四方赤良編)は、この身請け費用や離れ(巴人亭)増築費用捻出のためだったのではないかとも指摘されている。
  • いったんは浅草矢大臣門辺においたが、のち山谷近くの逍遥樓に住まわせた後、自宅の離れに住まわせた。※なお逍遥樓は大文字楼(大文字屋)二代の加保茶元成の別荘。自宅の離れは「巴人亭」で、十畳と三畳の二間で天明6年(1786年)12月に完成し、天明7年(1787年)におしづを迎えた。

      天明六のとし正月二日、松葉楼にあそびて
    一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉屋
      寄水恋
    我恋は天水桶の水なれや屋根より高きうき名にぞ立つ
      卯月十二日、むかふ島にてはなしの会ありけるに、それより松葉楼のがりまかりてかへりけるに、大くぼといへる所にさそはれて
    山の手もまたよし原のさとことば 風にのこりてみどりや/\
      八月廿八日、逍遥樓にうつりて
    郭中の荘子のひゞきあればにや 逍遥樓とよばゝよばなん

    松葉樓中三穂崎  更名阿賤落蛾眉
    天明丙午中元日  一擲千金贖身時
      嘉平幾望        山谷道人書於越鳥巢

    天明年間に入ると吉原の妓楼主人たちが狂歌を詠むようになり、天明3年(1783年)には「吉原連」の一派ができた。狂歌会が催され、南畝はそれに招かれることが度々あったという。その中でも大文字楼二代の加保茶元成が中心となって、扇屋宇右衛門(棟上高見、五明楼、号墨河)・猿万里太夫(長門万里、幇間)、大黒屋庄六(俵小槌)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・揚屋のくら近・養母の仲(相応内所)ら16人が居た。なお南畝は狂歌から離れた寛政以後はほとんど吉原に出入りすることがなくなるという。
  • 三穂崎(おしず)の年齢について、細見の記載で推定ができるという。安永8年(1779年)に数え17歳とすると、身請けされた天明6年(1786年)は24歳、没年齢は31歳ということになる。
  1. 安永8年(1779年):31位 ※新造の部 28番目
  2. 安永9年(1780年):18位
  3. 天明2年(1782年):13位
  4. 天明3年(1783年):10位
  5. 天明4年(1784年):7位
  6. 天明5年(1785年):4位
  7. 天明6年(1786年):4位 ※1位の五代目鳥山瀬川から数えると18位 新造3番目とも
  • 三保崎こと「おしづ(阿賤)」は、寛政5年(1793年)6月19日に亡くなる。

      題しらず
    やみぬればをのなき琴のねすがたを たゞかきなでゝみるばかりなり
      あらしはげしきあした、やめる女のもとを立出侍りて
    しづが家を野分のあしたいでゝいなば おかしけるとや人のおもはん

  • 小石川本念寺に墓を建立して自ら墓碑銘を撰している。

      亡婢しづ之墓
    不知姓。賤爲字。辭仙境因佛寺。寓我室。扶吾醉八九年。託終始命之薄。病累書有袖。衣有笥。豈無從千涕涙。藏白山覆一簣。歳癸丑夏之季。南畝子書。

    晴雲妙閑信女 寛政五癸丑年六月十九日大田直次郎妾

  • のち寛政11年(1799年)、南畝は「三保の松」という狂歌集を編んでいる。七回忌ではないかと思われる。跋文の七言絶句。

    十五年前反古堆 一章一涙尽余哀
    夜来残夢青灯下 髣髴音容去不回
      寛政己未孟秋十日
                    辺以冉 誌

 寛政の改革

  • 天明7年(1787年)6月に老中首座となった松平定信により寛政の改革が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人として悉く粛清されていき、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も天明7年(1787年)12月横領の罪で斬首されてしまう。
    土山宗次郎は旗本。吉原大文字楼(大文字屋)の遊女、誰袖を身請けしたことが話題になった。祝儀などを含めると1200両を払ったという。田沼政治が終わって松平定信が台頭、買米金500両の横領が発覚し、その追及を逃れるため逐電し、平秩東作に武蔵国所沢の山口観音に匿われたが、発見され、天明7年(1787年)12月5日、斬首に処された。「誰袖」の項も参照
     またこの時に一時土山を匿ったとして平秩東作が「急度叱」の咎めを受けており、平秩自身も狂歌界と疎遠になっている。平秩は寛政元年(1789年)月8日に病死。
     さらに寛政3年(1791年)には黄表紙本で山東京伝が筆禍(手鎖50日)を得たことも影響があったとされている。
  • さらに「処士横断の禁(「処士」は学があるのに官に仕えず民間にいる者。幕府批判を防ぐための策)」が発せられて風紀に関する取り締まりが厳しくなり、版元の重三郎や同僚の京伝も処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。
  • この頃大田南畝は、「世ヲ閲シテツブサニ知ル人事ノ険閑ニ投ジテ却ツテ主恩ノ深キニ感ズ」(杏園詩集)とし、また「我かつてみづからあやまりてり汝まのあたり諌めてかくさず、我かつて人にそしらる、汝悔りをふせぎて容れず」(四方のあか)としている。その後決別できたのか、「文月の比何がしの太守新政にて文武の道おこりしかば、此輩と交をたちて家にこもり居りき。」(狂歌千里同風)としている。狂歌界とは完全に距離をおいた。
    天明2年(1782年)の日記である「三春行楽記」には吉原や遊所の女郎や狂歌仲間の名前が頻出するが、享和3年(1803年)の日記「細推物理」にはそうした狂歌仲間は登場しない。両書を通じて登場するのは、岡田寒泉(岡田恕)と菊池衡岳のみであるという。
  • 「よしの冊子」天明7年(1787年)11月にもその旨記載されている。

    四方赤良など狂哥連ニて、所々ニて會抔いたし、又奉納物或ハ芝居抔の幕などをも、狂哥連にて遣し候ニ付テハ、四方先生故格別人の用ひも強く候処、御時節故左様の事も相止み申候処、赤良などは腹をたて申候よし。

  • しかし政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目されたことや(本人はわざわざ否定している)、田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられたという話は有名になっている。

       白川侯御補佐のとき狂歌
    此時武家の面々へ尤文武を励されければ、(ママ)田直次郎世に呼て寝惚先生と云。狂歌の名を四方の赤良と云へりといへる御徒士の口ずさみける歌は。
      世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶ(文武)といふて夜もねられず
    時人もてはやしければ、組頭聞つけ御時節を憚ざることゝて御徒士頭に申達し呼出して尋ありければ、答申には何も所存は無御座候、不斗口ずさみ候迄に候、强て御尋とならば天の命ずる所なるべしと言ければ咲󠄁て止けるとぞ。
    (甲子夜話 巻二)

    ※文政5年(1822年)巻二「白川侯御補佐のとき狂歌」

       南畝子、寛政盛代の口占
    世の中にかほどうるさきものはなし ぶんぶといつてねつかれもせず
    (甲子夜話 巻七十)

    天保11年(1840年)巻七十「南畝子、寛政盛代の口占」。ただし松浦静山自身は大田南畝と交流があり、「予も先年鳥越邸に招て面識となれり。夫より狂歌など乞とて、文通往来すること久し。」しており、また南畝の死に際しても「この人一時狂歌の僊なり。」と記している。

    牛込大田直次郎が戯歌
    世の中にか程うるさきものはなし ぶんぶといふて身を責るなり
     
      是大田ノ戯歌ニアラズ偽作也。大田ノ戯歌ニ時ヲ誹リタル歌ナシ。落書体ヲ詠シハナシ。
    (一話一言)

    文政5年(1822年)巻四十五 ※ただし前半が享和元年(1801年)序「野翁物語」よりの引用と、後半が南畝自身の注釈。引用三首とも、後半の「文武」以降がすべて異なっている。

 幕臣として

  • これを機に、南畝は狂歌の筆を置いてしまい、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆するようになった。天明7年(1787年)には横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版する。
    • しかし翌年(1788年)には重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出している。
  • 寛政5年(1793年)6月19日おしづ(阿賤、三保崎)没。南畝45歳。
    病気を発してからは家人に看病させるわけにもいかず、市ヶ谷の浄栄寺へと入りそこで没した。
     以後、南畝はこの忌日に浄栄寺に知友を招いて狂歌莚を催しており、自家における例会を19日に行っている。南畝は没する前々年文政4年(1821年)73歳時にも浄栄寺に赴いておしづの法要を行い、手向け歌を残している。「水無月十九日、例の晴雲忌に、甘露門にて。三十年にひととせたらず二十日には、ふつかにみたぬ日こそわすれね」※晴雲はおしづの法名、甘露門は浄栄寺。
  • 寛政4年(1792年)9月に「学問吟味登科済」が創設されたのを機に、46歳の南畝は寛政6年(1794年)2月の第2回学問吟味を受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となる。試験は四次あり、第一次は「小学」と「論語」、第二次は「詩経」、第三次は「左伝」と「史記」、第四次は「紀事」と「複文」ならびに「論文」であった。第2回の受験者は御目見16人、同部屋住5人、御目見以下19人、同部屋住5人の45人で病欠4名。のち3月14日に林大学頭(林述斎)の面談。4月22日に江戸城登城し、銀子10枚拝領。「科場窓稿」に記している。
    遠山景晋は遠山の金さんで有名な「遠山金四郎景元」の父で、遠山も43歳だった。遠山家は旗本であり、大田家とは格が異なる。御目見得以下では、大田南畝のほかに近藤重蔵(23歳)も及第で合格した。近藤家は御先手組与力だったが、のちに蝦夷地探検の功績をもって御目見得を許されている。
     なお「学問吟味」は松平定信が始めた制度で、幕末まで19回実施された。将軍吉宗が始めた「武芸吟味」に倣ったものとされ、翌年には「素読吟味」も行われている。
  • 寛政8年(1796年)9月8日母・利世没。
  • 世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していたが、「学問吟味」及第の4年後である寛政8年(1796年)11月2日、江戸城中躑躅の間にて老中松平信明より支配勘定を命ぜられる。
    七十俵五人扶持の本高に加えて、三十俵の足高を給せられ百俵五人扶持となった。家柄は一代抱だが、譜代(御家人)の待遇を受けることとなった。南畝はこの11月2日を、御役出の祝い日として後々も家族と祝っている。
     当時勘定奉行は5名いて御勝手掛りと公事方掛りとがいたが、このうち御勝手掛りの下勘定所(大手門内)へ勤めに出た。この下勘定所には、まず御勘定組頭(三百五十俵、役料百俵)がおり、その下に御勘定(百五十俵、役料二十人扶持。ここまでが武鑑に載る)、その下が支配勘定(百俵、譜代裃役)であった。さらに支配勘定には帳面方、伺方、取箇方などに分かれており、帳面方となった。「会計私記」および「寛政御用留」に記している。

    支配勘定になったことから組屋敷には居れなくなったため、11月11日に屋敷拝領願いを出している。服部長五郎が抱入となったが、拝領は先だったので12月3日には(松島重右衛門の地所の)借地願いを出した。のち享和元年(1801年)の大坂出張中に沙汰があり、その松島が御徒から作事下奉行に栄転してしまったため、松島と東佐一郎との間で相対替が行われることになった。結局享和2年(1802年)4月に大坂より戻った後の文化元年(1804年)2月に、小石川に物件を見つけ、ここへ移ることになっている。
  • 寛政9年(1797年)7月24日息子の定吉が筆算吟味に及第するが、出仕は15年後の文化9年(1812年)2月3日であった。
    定吉は諱・俶、字・子載、号・鯉村。
  • ※寛政9年(1797年)3月27日に体調が悪化した蔦屋重三郎を見舞う。5月6日重三郎死去、享年48。南畝も5月7日に山谷正法寺で営まれた葬儀に参列。のち墓碑銘を撰んだとする。※大田南畝が撰んだのは蔦重の母の墓碑銘であって、蔦重自身の墓碑銘は石川雅望だともされる。当初の墓碑は戦災などで焼けてしまっており、現在の墓碑は復刻されたもの。(現在の墓碑銘ではなく)明治期に写された文章に対して、引用時に句点を補った(元の墓碑銘には大田南畝の名はない)。

    喜多川柯理墓碣銘
    喜多川柯理。本姓丸山。稱蔦屋重三郎。父重助。母廣瀬氏。
    寛延三年庚午正月初七日。生柯理於江戸吉原里。幼爲喜多川氏所養。爲人志氣英邁。不修細節。接人以信。嘗於倡門外闢一書肆。後移居油街。乃迎父母奉養焉。父母相尋而歿。柯理恢廓産業。一倣陶朱之殖。其巧思妙算。非他人所能及也。遂爲一大賈。丙辰秋得重痼。彌月危篤。寛政丁巳夏五月初六日。謂人曰。吾亡期在午時。因處置家事。訣別妻女。而至午時笑又曰。場上未撃柝。何其晩也。言畢不再言。至夕而死。歳四十八。葬山谷正法精舎。予居相隔十里。聞此訃音。心怵神驚。豈不悲痛哉。吁予霄壌間一罪人。餘命惟怗知己之恩遇而巳。今旣如此。嗚呼命哉。
     銘曰               石川雅望
      人間常行  載在稗史      大田南畝
      通邑大都  孰不知子

    石川雅望は江戸時代後期の狂歌師、国学者、戯作者。浮世絵師石川豊信の五男。本名は糠屋七兵衛(ぬかや しちべえ)。字は子相、号は六樹園・五老山人・逆旅主人・蛾術斎など。狂名は宿屋飯盛(やどやのめしもり)。天明後期における蔦屋重三郎のブレーン的存在であった。天明末年には鹿都部真顔・銭屋金埒・頭光とともに狂歌四天王と称されるが、1791年(寛政3年)家業に関する冤罪によって、狂歌界から退き、国学方面に打ち込んだ。この頃から「雅望」を使用し始めたという。

  • 寛政10年(1798年)3月11日、妻・里與死去、享年44。
  • ※寛政10年(1798年)12月12日朱楽菅江没。享年61。
  • 寛政11年(1799年)には孝行奇特者取調御用を命ぜられる。
    この年正月16日、一度は大坂銅座御用を命じられ準備を進めるも、27日になって取り消され、林大学頭の下での孝行奇特者取調御用を命じられた。孝行奇特者取調御用とは、寛政の改革で孝子節婦義僕を表彰することで世を導こうとし、その中で享保頃まで遡って調査の上で略伝をまとめて和文で一般に広めせしめようとするも、学問所では漢文ではない和文に不慣れであったため大田南畝に白羽の矢が立ったのだという。2月より毎日聖堂に通って編纂作業にあたっている。寛政12年(1800年)8月「孝義録」完成。8月29日に銀子10枚。
  • この頃、後妻「およね」を迎える。
  • 寛政12年(1800年)正月21日、御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる。江戸城内の竹橋御門内の蔵(倉庫)に保管されていた勘定所の書類を整理する役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に対して、南畝は「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。11月6日神宝方本役。御用扶持として二人扶持。
  • 寛政12年(1800年)息子・定吉の妻に、お冬を迎える。翌年孫が生まれている。
  • 享和元年(1801年)正月11日、大坂銅座の下命。中国で銅山を「蜀山」といったのに因み、この頃から「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。

    文月のなかばよりことしの春あづまにかへるまで、見聞しことゞもそこはかとなく書つけしもの猶ふた巻あり。蜀山余録と名づく。蜀山居士は銅の異名なり。もろこしにわたさるべき銅の事につきてもおほやけ事なれば、かくは名づけしなり。

    中国の昔の「蜀(巴蜀)」地域にミニヤコンカ山(7556m)を主峰とする大雪山脈があり、ミニヤコンカ(中国語表記は貢嘎山)は古来「蜀山之王」と呼ばれたという。この大雪山脈を始めとした蜀の山々から豊富な鉱物資源が採れ、中でも銅の利用が古来盛んだったことから、銅のことを産地である「蜀山」、あるいはそこにいる銅採掘者のことを「蜀山居士」と呼ぶようになり、それが日本に伝わったのだという。
     鳥文斎栄之による大田南畝肖像画には、「鏡にて見しりごしなるこの親父、お目にかゝるも久しぶりなり、天明の比の四方赤良、享和已來の蜀山人、六十六歳暮」と書かれている。南畝66歳は文化11年(1814年)。
    • 享和元年(1801年)2月27日江戸発、牛込御徒町の自宅を出、市谷、赤坂、赤羽橋、品川大佛の料亭鍵屋で送別の酒宴。定吉と宮原宗助は大師河原で遊ぶため引き続き同行。大森で数寄屋河岸の連中が集まりさらに酒宴。その後駕籠。六郷、金川、程ヶ谷で泊。供は用人の田山浅兵衛、侍の橋本栄蔵、中元の長助、平助、喜助。御用書物長持一棹、馬一疋、駕籠人足2人(4人)、賃人足3人で具足櫃・両掛挟箱・合羽駕籠を持ち、南畝を含め13人であった。28日は程ヶ谷発、戸塚、藤澤、小栗堂、清浄光寺、大磯、小田原宿泊。29日早雲寺に立ち寄り、湯本で孫の土産を求め、畑で昼飯。箱根の関所、三島宿、沼津宿。3月1日沼津を出て原、柏原、吉原、富士川を過ぎて岩渕、倉澤、江尻宿。2日は小吉田で長門鮨、駿府安倍川、鞠子、岡部から島田。駕籠のまま大井川を渡り、金谷宿。(略)3月6日宮の渡しから尾州家の大船で桑名。四日市宿。7日に石薬師、庄野、亀山、関宿。8日坂の下から鈴鹿越、大野、土山、水口、石部宿。10日京都に入って所司代・奉行所に挨拶。四条河原、祇園、清水寺、三十三間堂、東福寺、伏見宿。夜8時(戌の刻)に淀川船。十三里下って大坂本町橋で船を降り3月11日夜明け頃に南本町五町目の宿に到着。大阪城代・西・東奉行に挨拶。
      • 往路について「改元紀行」に記す蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

        享和とあらたまりぬる年、難波なる榷銅の座にのぞむべき仰せこどうけ給りて、二月弐拾七日卯の刻すぐる頃に出たつ、兒叔定吉、弟榮名島崎金二郎、甥義方吉見儀助、其の外親しきものこれかれ旅よそひして送れり。折から雨そぼふりて渭城の塵もうるほふばかりなるべし、市谷赤坂を過ぎ赤羽根のはしの前なる立場にいこふ、

    • 享和2年(1802年)3月21日大坂発、4月7日江戸着
      • 復路について「壬戌紀行」に記す蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション

        享和二のとし三月廿一日、大阪南本町五町目のやどりを出て、東路におもむく、よべより雨ふれば、雨つゝみの用意すとて人々立さわぐ、かねては、寅のひとつにたち出んと、いひおきてしが、夫馬の來ること遅くして、卯の刻近くなりぬ、

  • 大坂滞在中、物産学者の木村蒹葭堂(問答集「遡遊従之」)や国学者の上田秋成、医者・馬田昌調(天洋)、佐伯重甫(蕪坊)、田宮仲宣(盧橘庵)、常元寺の順宣律師らと交流していた。蒹葭堂は既に晩年で、家産も傾き船場伏見町で文房具を商いしていた。蒹葭堂は13最年長。翌享和2年(1802年)正月25日死去、67歳。上田秋成は大坂で職務中に出会っており、常元寺で面談し打ち解けた。のち復路では百万遍屋敷辺の上田秋成を訪れ再会している。秋成も15歳年長。馬田、佐伯、田宮は医者で、特に馬田は南畝の宿の近くに住んでいたため度々道案内なども行っている。佐伯は四天王寺南の一心寺前に住んでいた。田宮も度々道案内をしている。
  • またこの赴任中に『摂津名所図会』を参考に市中を歩きまわり、「葦の若葉」および「蜀山余録」に当時の大阪の風物を描写している。

    享和辛酉竹酢日 蜀山居士浪速の旅館にしるす

  • 蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 享和3年(1803年)頃の日常を自ら「細推物理」に記しており、「蜀山人の研究」によれば概ね以下のような生活であったという。

    御勘定所勤務の餘暇には、上野の兩大師へ赴き、蒲田の梅を見に行き、堺町土佐座の操を見物し、不忍池から淺草へ遊び、岡田寒泉宅の詩會に列し、古賀精里、尾藤二洲等と逢ひ、又山道高彥の狂歌會へ赴き、每月十九日には自家に例會を催し、眞顏、飯盛、京傳、馬琴等が來り、又近藤重藏、中村佛庵等と會食し、焉馬の六十賀筵に列し、詩友菊池衡岳を訪ひ、上野、傳通院、飛島山、護國寺、白山、吉祥寺等の櫻花を眺め、姫路候の宴に招かれ、竹垣柳塘の屋敷に赴き、根岸の間宮氏別業に招かれ、龜田鵬齋、賴千秋、尾藤二洲等と逢ひ、大澤右京太夫の屋敷へ赴き、知友と再三隅田川に舟遊をなし、淺草庵市人を訪ね、屢々芝居の見物をなし、兩國其の他の料亭に會し、尙左堂俊滿を訪ね、吾友軒米人の新宅開きに招かれ、淺草黑舶町の露店で「周禮全經」一二卷を求め、舊藏の三卷以後と出合つた奇を喜び、目白臺附近を逍遙し、月見の宴に列し、山道高彥に誘はれて北里の俄を見物し、神田明神の祭禮を見、蜷川和洲の白山別莊へ招かれ、孫等と雜司ヶ谷の會式に赴き、又夷講に招かれ、百川樓に赴き、料亭中戶樓に會飮し、其の幕には小石川金剛寺坂上の家を買ふ約が成立してゐる。

  • 文化元年(1804年、2月11日文化改元)2月27日、56歳のときに小石川鶯谷(金杉水道町)へと移る。「遷喬楼」(せんきょうろう)と名付けている。分割払いをしており、その年の12月23日になんとか払い終えている。
    この時まで、生家である牛込中御徒町に住んでいたが、享和元年(1801年)5月に地所の持主である松島氏が転任したため後任者と屋敷相対替となり、明渡しが決まっていた。享和3年(1803年)12月22日に。もと(金富町)小日向金剛寺の寺地内(現、金剛寺坂辺り)にあった長谷部某(御書院番江坂十郎兵衛家来、長谷部嘉内)の家93坪を10年季限りで借りている。「駒込吉祥寺末曹洞宗 小日向 金剛寺 門前町屋惣間口間敷 東南へ折廻す五拾六間貳尺 右相願候者、境内東之方九拾三坪之地所、支配勘定太田直次郎と申者へ、文化元子年より、當戌年迄、中年拾年季貸いたし度旨、大久保加賀守(忠真)寺社勤役中願出、願之通差免置候處、年季明ニ付、此度返地致、跡家作其儘松平中務少輔醫師、篠田玄隆と申者へ當戌より、來る申年迄中年拾年季、貸地いたし度段願出候ニ付(略)依之文化十一戌年二月廿五日申上、御帳面張紙仕候」。つまりこの地所は、長谷部嘉内→大田南畝→医師篠田玄隆と移っていった。
     またこの小石川鶯谷(金剛寺坂上、金剛寺東側)には9年間住んでおり、のち駿河台淡路坂上へと移る。一口稲荷(いもあらいいなり、現在の太田姫稲荷神社)前という。

    この文化年間になると「蜀山人」と号して再び狂歌を読み始めている。政治の世界では寛政の遺老で老中首座だった松平信明が病死すると、将軍家斉は遺老らを遠ざけるようになり、かつて田沼意次派であった水野忠成を老中首座に据えた。この時代を文化文政時代、あるいは大御所時代と呼ぶ。「水野出て 元の田沼となりにけり」。
     天保12年(1841年)に家斉が崩御すると大御所時代は終わりを迎え、水野忠邦の進める天保の改革により再び厳しい統制の時代へと移っていった。この頃に水野と対立を深めたのが遠山の金さんこと遠山景元である。
    ※水野忠成が継いだのは、水野忠重(於大の兄)の4男・忠清の流れである水野隼人正家。水野忠邦は忠重の父・水野忠政の子・水野忠守の子・忠元(つまり忠清の又従兄弟)を始めとする水野監物家。
  • 文化元年(1804年)6月長崎奉行所へ赴任下命。
    • 7月25日出発、品川、鎌倉、江島、小田原、8月15日に大坂道修町三丁目の町会所、上田秋成も訪ねてきている。8月18日出発、水戸光圀の建てた楠木正成の墓(嗚呼忠臣楠子之墓)を見、港側を渡り兵庫脇本陣泊、19日須磨寺を訪れ舞子を経て加古川泊、20日姫路城下で昼餉、室津泊、ここから船路。21日長崎奉行・肥田豊後守頼常と同行し室津を出港(藤嶋丸)、22日牛窓・日比・下津井・白石島。23日鞆湊泊。24日雨で安芸忠海まで。25日鎌苅、加室。26日終日雨。27日周防室積、28日台風接近で船出せず。29日台風が酷いため室積上陸し、翌30日船路で小倉へ3日着。小倉からは駕籠で長崎街道で長崎へ(この間記述なし)。9月10日長崎着。※供の侍は長谷川・奥原・増田の3名、中間が平助、五助の2名。
    • 途中で体調を崩し、長崎では小川文庵の治療を受けている。病床で苦しむ時に三保崎を思い出したのか、漢詩を詠んでいる。

      松葉楼中見女仙 花川戸外感流年
      旅亭旧雨催今雨 望断江東日暮天

    • 往路大坂より小倉「革令紀行」蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
    • 長崎では館山役所に御勘定方(長崎在勤支配勘定)として出仕した。公務については「長崎表勤方伺書」に記している。
      南畝が出仕したのは館山役所ではなく岩原御目付屋敷ともされる。岩原目付屋敷跡は長崎県長崎市立山1-1-16で長崎歴史文化博物館北側の駐車場辺り。長崎警察署立山交番の裏手。目付屋敷は、”鯨屋敷”あるいは”しゃちほこ屋敷”と呼ばれた(あるいは奉行所が鯨屋敷だったとも)。
       いっぽう長崎奉行所(立山役所)跡は、その付近で、長崎歴史文化博物館の南側。長崎奉行所ゾーンとして復元されている。
    • 文化2年(1805年)の2月晦日に、ヲロシヤ船一件のため、目付の遠山金四郎景晋(景元の父)が来ている。遠山一行は3月25日出立。この間、南畝は本蓮寺大乗院に宿泊した。
  • 復路「小春紀行」蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 文化2年(1805年)10月10日長崎発。11日嬉野泊、12日牛津泊、13日佐賀へ。14日冷水峠、15日小倉泊、21日錦帯橋、25日神辺宿、28日姫路、29日明石を過ぎて大蔵谷本陣、11月朔日大坂。4日夜に伏見着、5日京都見物、南禅寺で上田秋成と再び会う。同日大津宿、9日桑名を出て宮。14日藤枝から丸子を過ぎて阿部川渡り、由比宿。16日小田原、18日生麦、19日江戸着。馬喰町の勘定奉行・中川飛騨守忠英に報告後、帰宅。
  • ※寛政の改革の嵐が過ぎ去った後、南畝は再び吉原を訪れることがあったようで、岡本楼の朝妻に書を与えており、また長崎若葉楼の遊女なれぎぬの上着に狂歌を認めたりしている。また長崎から吉原の想い女に向け、有明海で取れる魚28種の名前を織り込んだ文を送ったという。※これは昭和中期に西九州のバスガイドの間で伝えられていたものだという。なお魚名はカタカナに直されている。

    タチウオならぬ一筆に
    心のグチをイワシ参らせ候
    さてとやお前メバルのお姿を
    ヒラメにつきしその日より
    クラゲのごとくふわふわと
    ハゼの心がアジになり
    吸いつくタコやトビウオの
    飛びたつ思いイカばかり
    お前のかたきイシモチに
    コチはアワビの片想い
    アナゴ、ウナギにあらね共
    ナマコのごとくやつれ果て
    マダイの味も知らぬげに
    いとど思いはフカぶかと
    ただホウボウと日を暮らす
    カイなきこととは思えども
    フグな心をくみとどめ
    イナダにあらぬイセエビの
    色よき返事オオセなば
    カワハギ思いもなきものを
    イトヨリよきお便りを
    カニ神かけて念じ候
    まずはアラアラユデダコ
    かしこ
    (「江戸っ子 : 川柳・狂歌・小咄に彩られた江戸風俗詩」 石母田俊)

  • 文化4年(1807年)8月、隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を偶然に目の当たりし、自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版。
  • 文化5年(1808年)堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く。
    • 調布日記 / 玉川披砂 / 玉川余波 / 玉川砂利
    • 文化6年(1809年)2月24日、祖先の地である武蔵国多西郡鯉ヶ窪を訪ねている。しかし肝心の「大田目」という地名も見当たらず、幾分物足りない思いを抱きながら戻ったという。

      此村は予が先祖、大田の名字のある所なれば、一しほなつかしく

      今日いかなる日にして、はじめて此地に來りし事、古を懐ひ、首をめぐらして涙も落るばかりになん

  • 文化7年(1810年)屋敷地授受。※前六年12月25日。しかしこの大久保には移っておらず、翌8年にそれと相対替で入手した駿河台へと転居した。

      文化七午年
    二月三日。岩出平左衛門上地
    一、大久保通百三十九坪餘  支払勘定 大田直次郎

  • 文化8年(1811年)12月24日屋敷相対替。

    大田直次郎拝領屋敷
    大久保百三十九坪餘  大御番加納大和守組 夏目勇次郎に
    夏目勇次郎拝領屋敷
    駿河台淡路坂上百五拾坪餘  支配勘定 大田直次郎に

    「帷林楼」(しりんろう)と名付けている。※現、神田川聖橋南東淡路坂沿い、御茶ノ水ソラシティの北西角辺り。この地は、夏目勇次郎→大田南畝→戸祭某と移っている。〔江戸切絵図〕. 駿河台小川町絵図 / 1の下左端神田川沿いにある「太田姫稲荷」と書かれている上の「戸祭安之助」宅地。
  • 文化9年(1812年)2月3日、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされる。定吉33歳、南畝64歳。数年後、心気を患って失職してしまう(文化14年ころとされる)。南畝は自身の隠居を諦め働き続けた。

    太田(ママ)蜀山は獨子あり。父の勤功によりて、御勘定見習に召出されしが、幾程もなく亂心して、遂に廢人になりたり。但嫡孫あるのみ

    文化11年(1814年)には通常通り勤務しているようだが、文化14年(1817年)頃におかしくなったようである。天保8年(1837年)2月4日死去、享年58。
  • 文化11年(1814年)に鳥文斎栄之による大田南畝肖像画が描かれている。南畝66歳。
  • 文政元年(1818年)70歳になっていたが勘定所へ勤めており、その途中神田橋の内まできたときに躓いて転んでしまう。
  • 文政2年(1819年)5月29日将軍家斉の十九男が生まれ「直七郎」と命名されたため、避諱のために七左衛門と改めた。
    のちの尾張藩11代藩主・徳川斉温のこと。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。生母は家斉の側室・お瑠璃の方(青蓮院)。
  • 文政4年(1821年)3月3日自宅の二階から降りるときに足を踏み外して転落する。2週間ほど寝込んでいる。
  • 文政6年(1823年)4月3日、元気が出てきたのか市村座の芝居「浮世柄比翼稲妻(うきよづかひよくのいなづま)」を見に出かけている。

    寐惚先生(※大田南畝)は、明和の頃より名高く、世にもてはやされしこと言に及ばず。予(松浦静山)も先年鳥越邸に招て面識となれり。夫より狂歌など乞とて、文通往来すること久し。今玆癸未の四月三日、劇場にその妾(※島田氏の女・お香とされる)を伴ひゆきたる折から、尾上菊五郎と云る役者、寐惚が安否を問来れるに〔このとき菊五郎名護屋山三郎と云を、扮せし折なり、菊五郎俳名を梅幸と云ふ〕卽狂歌を書て與ふ
      梅幸が名護屋三本傘はふられぬと謂ふためしなるべし
    (甲子夜話 巻ニ十七)

    鳥越邸とは平戸藩松浦家上屋敷のこと。のち蓬萊園。
    この時、「名護屋山三郎」を演じていた尾上菊五郎(恐らく三代)が席に来て安否を問うたという。これに狂歌で答えている。
    「浮世柄比翼稲妻」は三幕目は「名古屋山三浪宅の場」、大詰が「吉原仲之町の場(仲之町当の場)」で、恐らくこれを見に行ったのではないかと思われる。
  • 翌4日はヒラメで茶漬飯を食べたのち、詩歌を吟じたりしていたが、6日に至り熟睡したまま逝ったという。脳卒中だとされている。享年75歳。

    これより夜歸り常の如く快してありしに翌四日は気宇常ならずと云しが、又快よくひらめと云魚にて茶漬飯を食し即事を口號し片紙に書す。
     酔生將夢死 七十五居諸
     有酒市脯近 盤飱比目魚
    是より越て六日熟睡して起ず、その午後に奄然として樂郊に歸せりと聞く。この人一時狂歌の僊なり。
    (甲子夜話 巻ニ十七)

    今夏四月四日、卒中にして、六日に死す。
    (曲亭馬琴「著作堂雑記抄」)

    • 辞世の歌は「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」と伝わる。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。
      この句は、十返舎一九によるものだとも書かれている。

 その他

 肖像画

 転居歴

  1. 牛込中御徒町(生家)
    ※離れ「巴人亭」は天明6年(1786年)12月完成
  2. 小日向金剛寺地内93坪(借地):享和3年(1803年)12月22日 ※鶯谷、遷喬楼
  3. 駿河台淡路坂上150余坪(拝領屋敷):文化8年(1811年)12月24日 ※帷林楼
    ※ただし2年前に拝領していた大久保の拝領地との相対替。

 江戸天明狂歌

  • 大田南畝は、江戸六歌仙と称された内山賀邸(後の内山椿軒)に入門し、国学や漢学の他、漢詩、狂詩などを学んだ。狂歌三大家の1人、朱楽菅江とはここで同門になっている。
  • その後、同門の平秩東作に見出されたことから明和4年(1767年)狂詩集『寝惚先生文集』として刊行し、これが江戸天明狂歌と呼ばれる大流行となる。
    吉宗が推奨した経済政策により江戸経済の安定化と都市の発展があり、上方文化の受容が可能になった。こうしていわゆる文運東漸が起こり、江戸天明狂歌として花開いた。そのブームに乗ったと見ることもできる。内山賀邸の師匠・坂静山は、烏丸光雄から二条流歌学を学んだ歌人である。
  • 当時年齢では唐衣橘洲(からころもきっしゅう)や朱楽菅江(あけらかんこう)、元木網(もとのもくあみ)らより年下であったが、その学や識見が抜けており、四方側と呼ばれる初期狂歌の集まりを率いた。
    • しかし南畝は寛政8年(1796年)には狂歌を引退し、弟子である鹿都部真顔(しかつべのまがお)に「四方姓」を譲り、後事を託して引退している。
  • のち「酔丈集」を出した唐衣橘洲が自宅で狂歌会を開いて酔丈社中(四谷派)などと呼ばれた。また朱楽菅江を中心とする菅江社中は、その妻の節松嫁々と「朱楽連(菅江連とも)」となった。さらに元木網(もとのもくあみ)とその妻のすめも智恵内子と号して、その住居である落栗庵に集う人々があった(落栗連)。
  • さらに後、寛政、享和、文化と時代を経るに従って、大小さまざまの団体が出来ていった。
  1. 本町側:大屋裏住(おおやのうらずみ)を中心とする。「元町連」
    ・手柄岡持(はじめ浅黄裏成。朋誠堂喜三二)など。※芍薬亭長根こと本阿弥長根もここに居たが、のち四方側に属した
  2. 芝浜側:浜辺黒人(はまべのくろひと)を中心とする。「芝浜連」
  3. 堺丁連:花道つらね(はなみちのつらね、5代目市川團十郎)を中心とする
  4. 吉原:加保茶元成(かぼちゃのもとなり、大文字楼)を中心とする
    ・扇屋宇右衛門(棟上高見)・大黒屋庄六(俵小槌)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・元成養母の仲(相応内所)、明店ふさかる、独寝抜伎、揚屋くら近、恋和気里、垢染衣紋、伏見茶屋人、茶屋町末広、筆の綾丸(歌麿)など

 関連項目


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