大田南畝
大田南畝(おおた なんぽ)
幕臣(御家人)、文人、狂歌師
洒落本作家、黄表紙作家
字は子耕、南畝は号
別号 蜀山人、四方山人など
狂名 四方赤良
- 狂歌では主に「四方赤良(よものあから)」、また後期は「蜀山人(しょくさんじん)」の号で知られ、文学者及び随筆家としては大田南畝の名で知られる。このサイトでは主に随筆家としての大田南畝として扱う。
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生涯
- 寛延2年(1749年)江戸の牛込中御徒町で、御徒の大田正智(吉左衛門)、母・利世の嫡男として生まれた。大田氏は、幕臣とは言え御目見え以下の御家人で、家禄は七十俵五人扶持。
藤原氏、大田之名字之義は、武蔵国多西郡鯉ヶ窪より出候旨、永禄四酉年十一月書付冩有之
一般に「大田」は武蔵國埼玉郡大田庄によるが、そうではなく武蔵国多西郡鯉ヶ窪に大田目という地名があり、それにちなむのだという。現在の西武鉄道国分寺線の恋ヶ窪駅付近をいう。大田七郎右衛門が徳川家綱公に仕へ賄組頭となった。その子、又兵衛(南畝の高祖父)も同様に賄組頭となっている。綱吉の世子時代に、その子・太左衛門が延宝7年(1679年)四月御徒(伊那伝兵衛組)に抱えられる。家綱薨去後、綱吉が本城へと入ると太左衛門も従い御徒頭石野八兵衛の配下となる。ついで元禄元年(1688年)には土屋主税の配下に転じる。
母・利世は闕所物奉行・早瀬基地右衛門組同心の渋垂忠右衛門の娘で、のち小普請組高力若狭守組の杉田八兵衛の養女となったのち、大田家に嫁いできた。大田七郎右衛門──大田又兵衛──大田太左衛門正為─┐ │ ┌────────────────────────┘ │ └大田源八 ├────┬新七郎如林 兒玉喜兵衛娘 │ ├女(高城氏妻) │ 富原福寿──里與 ├─吉左衛門正智 │ │ ├─────┬姉(野村新平妻) ├──┬女(早世) 杉田氏─│─利世 ├姉(吉見佐吉妻) │ ├大田定吉─────┬鎌太郎 │ ├直次郎覃(大田南畝) └お幸 ├豊 └常五郎 └弟・金次郎(島崎家養子) (佐々木金兵衛妻 ├いく └鐵次郎
吉見佐吉妻となった姉の子には吉見義方がいる。狂名 紀定丸としても交流があり、寛政9年(1797年)に学問吟味で及第。文化2年(1805年)閏8月に支配勘定。その後も文化5年(1808年)には評定所留役、文政4年(1821年)には勘定組頭で永々御目見得以上。天保4年(1833年)には三十俵加増、天保12年(1841年)に御役御免を願い出て許され、同年6月八十二歳で没。
- 名は覃(ふかし)、字は子耕(子耜、しし)。通称、直次郎、最晩年に七左衛門。
「今東都幕下、大田南畝先生、名は覃と稱す。世人これをたんと讀みて、えんと唱へず。されどもたんでもよし、えんでもよしと、ある時先生の文通に戯ふれ申されき。思ふに先生、度量の廣きなるべし」
- 名の「覃」、字の「子耜」、「南畝」の号は詩経 小雅 「大田」から採ったという。
大田多稼、既種既戒、既備乃事、以我覃耜、俶載南畝、播厥百穀、旣庭且碩
(大田稼えんこと多し、旣に種えり旣に戒う。旣に備わりて乃ち事あり、我が覃耜を以て俶て南畝に載とす。厥の百穀を播し、旣に庭く且つ碩いなり。)
- 下級武士の貧しい家だったが、幼少より学問や文筆に秀でたため15歳で江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門。札差から借金をしつつ国学や漢学の他、漢詩、狂詩などを学んだ。狂歌三大家の1人、朱楽菅江とはここで同門になっている。
- 17歳に父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続け、18歳の頃には荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事した。また、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行した。
狂歌師の道
- 19歳の頃、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、明和4年(1767年)狂詩集『寝惚先生文集』として刊行。これが評判となった。
平賀源内が序文を寄せており、江戸の狂歌流行のきっかけを作ったとも言われる。
- この後数点の黄表紙を発表するも当たり作はなかったというが、内山賀邸私塾の唐衣橘洲の歌会に参加した明和6年(1769年)頃より自身を「四方赤良(よものあから)」と号し、自身もそれまでは捨て歌であった狂歌を主とした狂歌会を開催し「四方連」と称し活動しはじめた。
”四方(よも)の赤”とは、当時江戸で大流行していた四方の赤味噌に由来する。当時流行った地口「鯛の味噌ずで四方のあか のみかけ山の寒がらす」をもじったもの。「宝暦本絵草紙に云、鯛の味噌ずで四方のあか、のみかけ山の寒がらす」
日本橋和泉町の酒屋四方久兵衛(よものきゅうべえ)が販売していた酒が「瀧水」で、赤味噌も評判だった。店で鯛の味噌吸(味噌の吸物)を出したところ大評判となり、「四方の赤」といえば酒を引っ掛けることを意味した。
- それまで主に上方が中心であった狂歌が江戸で大流行となる『天明狂歌』(江戸天明狂歌)のきっかけを作り、自身も名声を得ることになった。
- 23歳で妻を迎える。妻・里與は富原福寿の娘で宝暦5年(1755年)11月5日生まれ。17歳で嫁いできた。
- 当時は田沼時代と言われ、潤沢な資金を背景に商人文化が花開いていた時代であり、南畝は時流に乗ったとも言えるが、南畝の作品は自らが学んだ国学や漢学の知識を背景にした作風であり、これが当時の知識人たちに受け、また交流を深めるきっかけにもなっていった。
- 安永5年(1776年)には、落合村(現新宿)周辺で観月会を催し、さらに安永8年(1779年)、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会も催している。翌安永9年には、この年に黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版、山東京伝などは、この頃に南畝が出会って見出された才能とも言われている。
- 天明3年(1783年)、朱楽菅江と共に狂歌集『万載狂歌集』を編む。
四方赤良(南畝)と朱楽菅江の共編。題名から知られるように『千載和歌集』のパロディであり、200人以上の詠んだ狂歌を集めたもの。大文字屋誰袖の歌も載る。
松葉屋三保崎の身請け
- 南畝38歳のとき、天明6年(1786年)7月15日に、吉原の松葉屋の遊女である新造・三保崎(みほさき、三穂崎/みほ崎)を身請けして妾とし、一時山谷近くの逍遥樓に住まわせた後、自宅の離れに住まわせた。三保崎こと「おしづ(阿賤)」は20余歳という。※なお逍遥樓は大文字楼(大文字屋)二代の加保茶元成の別荘。離れは巴人亭で十畳と三畳の二間で天明6年(1786年)12月に完成し天明7年(1787年)におしづを迎えた。
一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉屋
我恋は天水桶の水なれや屋根より高きうき名にぞ立つ松葉樓中三穂崎 更名阿賤落蛾眉
天明丙午中元日 一擲千金贖身時
嘉平幾望 山谷道人書於越鳥巢南畝が初めて松葉屋に訪れたのは天明5年(1785年)11月18日だという。
- 三穂崎(おしず)の年齢について、細見の記載で推定ができるという。安永8年(1779年)に数え17歳とすると、身請けされた天明6年(1786年)は24歳、没年齢は31歳ということになる。
- 安永8年(1779年):31位 ※新造の部
- 安永9年(1780年):18位
- 天明2年(1782年):13位
- 天明3年(1783年):10位
- 天明4年(1784年):7位
- 天明5年(1785年):4位
- 天明6年(1786年):4位 ※1位の五代目鳥山瀬川から数えると18位
寛政の改革
- 天明7年(1787年)松平定信により寛政の改革が始まると、田沼寄りの幕臣たちは「賄賂政治」の下手人として悉く粛清されていき、南畝の経済的支柱であった土山宗次郎も横領の罪で斬首されてしまう。
- さらに「処士横断の禁(処士は学があるのに官に仕えず民間にいる者。幕府批判を防ぐための策)」が発せられて風紀に関する取り締まりが厳しくなり、版元の重三郎や同僚の京伝も処罰を受けた。幸い南畝には咎めがなかったものの、周囲が断罪されていくなかで風評も絶えなかった。
- 政治批判の狂歌「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」の作者と目されたことや(本人はわざわざ否定している)、田沼意次の腹心だった土山宗次郎と親しかったことで目を付けられたという話は有名になっている。
白川侯御補佐のとき狂歌
此時武家の面々へ尤文武を励されければ、太田直次郎世に呼て寝惚先生と云。狂歌の名を四方の赤良と云へりといへる御徒士の口ずさみける歌は、
世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜もねられず
(甲子夜話 巻二)※文政5年(1822年)巻二「白川侯御補佐のとき狂歌」南畝子、寛政盛代の口占
世の中にかほどうるさきものはなし ぶんぶといつてねつかれもせず
(甲子夜話 巻七十)天保11年(1840年)巻七十「南畝子、寛政盛代の口占」牛込大田直次郎が戯歌
世の中にか程うるさきものはなし ぶんぶといふて身を責るなり
是大田ノ戯歌ニアラズ偽作也。大田ノ戯歌ニ時ヲ誹リタル歌ナシ。落書体ヲ詠シハナシ。
(一話一言)文政5年(1822年)巻四十五 ※ただし享和元年(1801年)「野翁物語」よりの引用と注釈
幕臣
- これを機に、南畝は狂歌の筆を置いてしまい、幕臣としての職務に励みながら、随筆などを執筆するようになった。天明7年(1787年)には横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版する。
- しかし翌年(1788年)には重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出している。
- 寛政4年(1792年)、46歳の南畝は「学問吟味登科済」が創設されたのを機にこれを受験し、当時小姓組番士だった遠山景晋とともに甲科及第首席合格となる。
遠山景晋は遠山の金さんで有名な「遠山金四郎景元」の父で、遠山も43歳だった。遠山家は旗本であり、大田家とは格が異なる。御目見得以下では、大田南畝のほかに近藤重蔵(23歳)も及第で合格した。近藤家は御先手組与力だったが、のちに蝦夷地探検の功績をもって御目見得を許されている。
なお「学問吟味」は松平定信が始めた制度で、幕末まで19回実施された。将軍吉宗が始めた「武芸吟味」に倣ったものとされ、翌年には「素読吟味」も行われている。
- 寛政5年(1793年)6月19日おしづ(阿賤、三保崎)没。
病気を発してからは家人に看病させるわけにもいかず、市ヶ谷の浄栄寺へと入りそこで没した。南畝はこの忌日に浄栄寺に知友を招いて狂歌莚を催しており、自家における例会を19日に行っている。南畝は没する前々年文政4年(1821年)にも浄栄寺に赴いておしづの法要を行い、手向け歌を残している。「水無月十九日、例の晴雲忌に、甘露門にて。三十年にひととせたらず二十日には、ふつかにみたぬ日こそわすれね」 - 寛政8年(1796年)、世間では狂歌の有名人であった南畝は出世できないと揶揄していたが、「学問吟味」及第の4年後、11月2日支配勘定に任用された。
七十俵五人扶持の本高に加えて、三十俵の足高を給せられ百俵五人扶持となった。
- 寛政8年(1796年)母・利世没。
- 寛政9年(1797年)息子の定吉が筆算吟味に及第し、召しだされる。
- 寛政10年(1798年)3月11日妻・里與死去、享年44。
- 寛政11年(1799年)には孝行奇特者取調御用を命ぜられる。
- この頃、後妻「およね」を迎える。
- 寛政12年(1800年)御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる。江戸城内の竹橋の倉庫に保管されていた勘定所の書類を整理する役で、整理しても次から次に出てくる書類の山に対して、南畝は「五月雨の日もたけ橋の反故しらべ今日もふる帳あすもふる帳」と詠んでいる。
- 寛政12年(1800年)息子・定吉の妻に、お冬を迎える。翌年孫が生まれている。
- 享和元年(1801年)、大坂銅座に赴任。この頃から中国で銅山を「蜀山」といったのに因み「蜀山人」の号で再び狂歌を細々と再開する。
中国の昔の「蜀(巴蜀)」地域にミニヤコンカ(7556m)を主峰とする大雪山脈があり、ミニヤコンカは古来「蜀山之王」と呼ばれたという。この大雪山脈を始めとした蜀の山々から豊富な鉱物資源が採れ、中でも銅の利用が古来盛んだったことから、銅のことを産地である「蜀山」、あるいはそこにいる銅採掘者のことを「蜀山居士」と呼ぶようになり、それが日本に伝わったのだという。
鳥文斎栄之による大田南畝肖像画には、「鏡にて見しりごしなるこの親父、お目にかゝるも久しぶりなり、天明の比の四方赤良、享和已來の蜀山人、六十六歳暮」と書かれている。南畝66歳は文化11年(1814年)。
- 享和元年(1801年)2月27日江戸発、3月11日大坂着
- 享和2年(1802年)3月21日大坂発、4月7日江戸着
- 復路について「壬戌紀行」に記す蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 大坂滞在中、物産学者の木村蒹葭堂や国学者の上田秋成らと交流していた。またこの赴任中に『摂津名所図会』を参考に市中を歩きまわり、「葦の若葉」に当時の大阪の風物を描写している。
- 文化元年(1804年)56歳のときに小石川鶯谷(金杉水道町)へと移る。
この時まで、生家である牛込中御徒町に住んでいたが、地所の持主である松島氏が転任したため後任者と屋敷相対替となり、明渡しが決まっていた。またこの小石川鶯谷(金剛寺坂上、金剛寺東側)には9年間住んでおり、のち駿河台淡路坂上へと移る。一口稲荷(いもあらいいなり、現在の太田姫稲荷神社)前という。 - 享和4年(1804年)長崎奉行所へ赴任する。
- 7月25日出発、品川、鎌倉、江島、小田原、8月15日に大坂道修町の町会所、上田秋成も訪ねてきている。8月18日出発、兵庫泊、19日加古川泊、20日姫路、室津泊、21日長崎奉行・肥田豊後守頼常と同行、28日周防室積。台風が酷いため小倉からは駕籠で長崎へ。9月10日長崎着。
- 往路大坂より小倉「革令紀行」蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 長崎では館山役所に出仕した。文化2年(1805年)の2月晦日に、ヲロシヤ船一件のため、目付の遠山金四郎景晋(景元の父)が来ている。遠山一行は3月25日出立。
- 復路「小春紀行」蜀山人全集 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 文化2年(1805年)10月10日長崎発。11日嬉野泊、12日牛津泊、13日佐賀へ。14日冷水峠、15日小倉泊、21日錦帯橋、25日神辺宿、28日姫路、29日明石を過ぎて大蔵谷本陣、11月朔日大坂。4日夜に伏見着、5日京都見物、南禅寺で上田秋成と再び会う。同日大津宿、9日桑名を出て宮。14日藤枝から丸子を過ぎて阿部川渡り、由比宿。16日小田原、18日生麦、19日江戸着。馬喰町の勘定奉行・中川飛騨守忠英に報告後、帰宅。
- 文化4年(1807年)8月、隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を偶然に目の当たりし、自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版。
- 文化5年(1808年)堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く。
- 文化7年(1810年)屋敷地授受
文化七午年
二月三日。岩出平左衛門上地
一、大久保通百三十九坪餘 支払勘定 太田直次郎
- 文化8年(1811年)12月24日屋敷相対替。
太田直次郎拝領屋敷
大久保百三十九坪餘 大御番加納大和守組 夏目勇次郎に
夏目勇次郎拝領屋敷
駿河台淡路坂上百五拾坪餘 支配勘定 太田直次郎に
- 文化9年(1812年)2月3日、息子の定吉が支配勘定見習として召しだされるも、心気を患って失職してしまう。南畝は自身の隠居を諦め働き続けた。
太田 蜀山は獨子あり。父の勤功によりて、御勘定見習に召出されしが、幾程もなく亂心して、遂に廢人になりたり。但嫡孫あるのみ文化11年(1814年)には通常通り勤務しているようだが、文化14年(1817年)頃におかしくなったようである。天保8年(1837年)2月4日死去、享年58。
- 文化11年(1814年)に鳥文斎栄之による大田南畝肖像画が描かれている。南畝66歳。
- 享和3年(1803年)頃の日常を自ら「細推物理」に記しており、「蜀山人の研究」によれば概ね以下のような生活であったという。
御勘定所勤務の餘暇には、上野の兩大師へ赴き、蒲田の梅を見に行き、堺町土佐座の操を見物し、不忍池から淺草へ遊び、岡田寒泉宅の詩會に列し、古賀精里、尾藤二洲等と逢ひ、又山道高彥の狂歌會へ赴き、每月十九日には自家に例會を催し、眞顏、飯盛、京傳、馬琴等が來り、又近藤重藏、中村佛庵等と會食し、焉馬の六十賀筵に列し、詩友菊池衡岳を訪ひ、上野、傳通院、飛島山、護國寺、白山、吉祥寺等の櫻花を眺め、姫路候の宴に招かれ、竹垣柳塘の屋敷に赴き、根岸の間宮氏別業に招かれ、龜田鵬齋、賴千秋、尾藤二洲等と逢ひ、大澤右京太夫の屋敷へ赴き、知友と再三隅田川に舟遊をなし、淺草庵市人を訪ね、屢々芝居の見物をなし、兩國其の他の料亭に會し、尙左堂俊滿を訪ね、吾友軒米人の新宅開きに招かれ、淺草黑舶町の露店で「周禮全經」一二卷を求め、舊藏の三卷以後と出合つた奇を喜び、目白臺附近を逍遙し、月見の宴に列し、山道高彥に誘はれて北里の俄を見物し、神田明神の祭禮を見、蜷川和洲の白山別莊へ招かれ、孫等と雜司ヶ谷の會式に赴き、又夷講に招かれ、百川樓に赴き、料亭中戶樓に會飮し、其の幕には小石川金剛寺坂上の家を買ふ約が成立してゐる。
- 文政元年(1818年)70歳になっていたが勘定所へ勤めており、その途中神田橋の内まできたときに躓いて転んでしまう。
- 文政2年(1819年)5月29日将軍家斉の十九男が生まれ「直七郎」と命名されたため、避諱のために七左衛門と改めた。
のちの尾張藩11代藩主・徳川斉温のこと。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。生母は家斉の側室・お瑠璃の方(青蓮院)。
- 文政4年(1821年)3月3日自宅の二階から降りるときに足を踏み外して転落する。2週間ほど寝込んでいる。
- 文政6年(1823年)4月3日、元気が出てきたのか市村座の芝居「浮世柄比翼稲妻」を見に出かけている。
- 翌4日はヒラメで茶漬飯を食べたのち、詩歌を吟じたりしていたが、6日に至り熟睡したまま逝ったという。脳卒中だとされている。享年75歳。
今夏四月四日、卒中にして、六日に死す。
- 辞世の歌は「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」と伝わる。墓は小石川の本念寺(文京区白山)にある。
その他
肖像画
- 膝下に筆や扇子を並べた南畝の肖像画は鳥文斎栄之によるもので、現在は東京国立博物館所蔵
江戸天明狂歌
- 大田南畝は、江戸六歌仙と称された内山賀邸(後の内山椿軒)に入門し、国学や漢学の他、漢詩、狂詩などを学んだ。狂歌三大家の1人、朱楽菅江とはここで同門になっている。
- その後、同門の平秩東作に見出されたことから明和4年(1767年)狂詩集『寝惚先生文集』として刊行し、これが江戸天明狂歌と呼ばれる大流行となる。
- 当時年齢では唐衣橘洲(からころもきっしゅう)や朱楽菅江(あけらかんこう)、元木網(もとのもくあみ)らより年下であったが、その学や識見が抜けており、四方側と呼ばれる初期狂歌の集まりを率いた。
- しかし寛政8年(1796年)には狂歌を引退し、弟子である鹿都部真顔(しかつべのまがお)に跡を託して引退している。
- のち「酔丈集」を出した唐衣橘洲が自宅で狂歌会を開いて酔丈社中などと呼ばれた。また朱楽菅江を中心とする菅江社中は、その妻の節松嫁々と「朱楽連(菅江連とも)」となった。さらに元木網(もとのもくあみ)とその妻のすめも智恵内子と号して、その住居である落栗庵に集う人々があった(落栗連)。
- さらに後、寛政、享和、文化と時代を経るに従って、大小さまざまの団体が出来ていった。
- 本町側:大屋裏住(おおやのうらずみ)を中心とする。「元町連」
・手柄岡持(はじめ浅黄裏成。朋誠堂喜三二)など。※芍薬亭長根こと本阿弥長根もここに居たが、のち四方側に属した - 芝浜側:浜辺黒人(はまべのくろひと)を中心とする。「芝浜連」
- 堺丁連:花道つらね(はなみちのつらね、5代目市川團十郎)を中心とする
- 吉原連:加保茶元成(かぼちゃのもとなり、大文字楼)を中心とする
・扇屋宇右衛門(棟上高見)・大黒屋庄六(俵小槌)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・元成養母の仲(相応内所)、明店ふさかる、独寝抜伎、揚屋くら近、恋和気里、垢染衣紋、伏見茶屋人、茶屋町末広、筆の綾丸(歌麿)など
関連項目
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