東山御物

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東山御物(ひがしやまごもつ)  

足利義政の蒐集した名物をいう

万治3年(1660年)刊の「玩貨名物記」では「ごもつ(、、、)」と仮名を振る。

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概要  

  • 足利義政は山荘に相応しい土地を京都各地に求め、寛正6年(1465年)12月5日に京都東山の月待山麓にあった南禅寺塔頭恵雲院(えうんいん)の土地を入手する。

    (10月8日)義政、相國寺鹿苑院及び東山に遊び、別墅を南禅寺惠雲院の地に相し、又若王子に宴す、

    (12月5日)幕府、相國寺慶雲院を壽徳院に移して、備前幡多郷を寄進し、南禅寺惠雲院を相國寺慶雲院に移して、播磨置鹽荘を寄進す、

    月待山は東山三十六峰の第十峰。慈照寺銀閣から見て、大文字山との間にある。

  • その後、邸第を万里小路殿から室町殿へと移しており、応仁の乱を経て、ようやく山荘造営に着手することになる。
  • 文明14年(1482年)2月4日、かつて手に入れていた土地に加えて、隣接する延暦寺の末寺である浄土寺の墓地となっていた土地を没収し、山荘(東山山荘、東山殿)の造営を開始する。延暦寺はこの横暴に怒り、将軍義尚に訴え出ている。
  • 7月14日に立柱上棟。

    義政、山城浄土寺山に山荘を営む、
    二月八日、丁未、晴、
    去四日武家淨土寺山々莊事始云々、
    八月廿三日、己丑、陰、時々小雨灑、
    参長谷准后、去十九日東山山莊立柱上棟御禮也、

    七月十四日、辛卯、晴、
    今日淨土寺室町殿可有御移住新造語書御門立柱上棟也、

  • 同年7月に将軍位を義尚へ譲ることを表明し、翌文明15年(1483年)6月、ある程度建物が完成した東山山荘へと移り住んだ。これにより、室町殿と呼ばれていた義政は、東山殿と呼ばれるようになった。

    (6月13日)義政、山城浄土寺山に赴きて、山荘の工事を覧る、

    廿四日、廿六日、義政、復山荘の工事を覧る、

    (6月27日)義政、浄土寺山荘に徙る、依りて、義政を東山殿と呼び、義尚を室町殿と称す、

    廿日、
    一、大御所様御稱號東山殿、御方御所様御稱號室町殿、此分御定之由、傳奏勧修寺殿より以御書被仰之、奏者蜷中務、
    廿七日、
    一、東山殿御移徙、戌時御門役所次第浦上美作守則宗

  • 義政は政治の実権を握り続けながら、文化面では同朋衆を始めとした技能者を召し抱え、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌などの芸術を主導した。こうして公家を中心とした文化人が集まり、義政の別荘「東山殿」で花開いた文化を、義満の北山文化に対して東山文化と呼び、また足利義政の蒐集した絵画・茶器・花器・文具などの名物を「東山御物」と呼ぶ。
  • なお文献上の「東山殿御物」の初出は天正16年(1588年)の奥書がある「山上宗二記」とされる。※四文字の「東山御物」については明治後とされる。

    夫茶湯ノ起ハ、普光院殿(普広院、義教)・鹿薗院(鹿苑院、義満)ノ御代ヨリ唐物絵讃等歴々集リ畢、(略)右兩 公方様薨去ノ後、(略)東山慈照院殿(義政)ノ御代名物悉集リ畢

対象  

  • 「東山御物」は狭義では足利義政の蒐集した名物を指すが、広義の用例として義政だけではなく義満を始めとする歴代の足利将軍家が蒐集した名物類を指して「東山御物」と呼ぶ場合もある。
  • これは従来東山御物とされてきた名物の中に、義満の所蔵印である「天山」「道有」、さらに義教の所蔵印である「雑華室」が押下されたものを含むためである。また能阿弥のまとめた「御物御画目録」においても、次のように記す。

    右目録者、従鹿薗院殿(鹿苑院、義満)已来御物御繪注文也、能阿弥撰之

  • つまり東山御物とは義政一代で集められたものではなく、禅宗文化の受容などを経て義満、義教により賞翫されたものの集大成ということになる。
  • こうして高い価値を与えられた東山御物は、茶道など禅宗の価値観を取り入れた文化の広まりとともに戦国時代を経て江戸時代にいたり、多くの名物評価の原点となっており、特に茶器、刀剣においては東山御物の評価は高い。

東山御物の一覧  

東山御物を記した書物  

室町殿行幸御飾記(むろまちどのぎょうこうおかざりき)
「室町殿行幸御餝記」。能阿弥著。永享9年(1437年)10月11日、足利義教が後花園天皇を室町殿への行幸を仰いだ際の会所室礼の記録。唐絵、墨跡、漆器、香炉、花瓶、茶盞、茶壺、茶入などの名称を記載する。東山御物の原型とされる。「後花園天皇室町殿行幸御飾記」。享禄3年(1530年)の写本が尾州徳川家に伝来した。

後花園院 永享九年十月廿六日左大臣家
行幸御餝記 能阿記

御物御畫目録(ごもつおんえもくろく)
能阿弥著。義政の相府画庫に収蔵されたものから、280幅の逸品を記したもの。
君台観左右帳記
能阿弥著
山上宗二記
主に茶器の名物である三日月茶壺、松島茶壺、四十石茶壺、捨子茶壺、橋立茶壺、付藻茄子茶入などを東山御物として挙げている。
御餝記(おかざりき)
相阿弥著。東山殿の諸座敷の名称及び配置、会所室礼の記録。

茶器  

  • 茶器の世界では、この東山御物の名器を「大名物」の名で呼ぶ。
  • 東山御物の中には当今から贈られたものもあった。

    永享の比、普広院殿(義教)御病中、禁裏(後花園天皇)ヨリ御園ノ御茶ツカハサレシ時、鎌倉ナスヒ御茶入、花山ノ御天目、青磁雲龍ノ御水サシ、三種ヲツカハサル、御本復ノ後、祝儀饗応ニ台子ノ御茶ナリシ、赤松前司貞村ニ御茶可仕由仰ヲカウフリ、貞村ハ時ノ寵臣、コトニ才覚ノ人、茶式ヲモ好テ、同朋達モ及カタキホトノ茶人也(略)折烏帽子ニ黒ユルシノ水干ニテ立ラレシト云々、時ハ六月廿五日、炎暑ノ最中也、此手前ヲ能阿弥ノ秘書ニ三種極真ノカサリト題ヲ付タリ

刀剣  

太閤治世のとき諸方より寶物を献ず、然るに槇木島の公方昌山(足利義昭)よりは何もあげられず、太閤怒てこの公方は再び王の天下になさんと思吾になにも献ぜられぬかと仰らるゝを聞きたまひ、家に傳る三の劔を奉らる。
公方昌山に三の寶劔あり、二ツ銘これ兩作なり、二人の名秘密にて本阿彌あらはには不云、これは愛宕山へこめらる毎年二季の彼岸に本阿彌愛宕へ上りぬぐう
鬼丸これは粟田口國綱の作、これは楠正成が陣太刀なり、二尺六寸ありぬいかけさや緒はとらさきのつむきくけ緒ちはかんとうにてつゝむりもかふともかなくの上をすくにぬいかけて、つかのはつはの上ヘかゝるやうにしたもの也、この太刀をば本阿彌光徳に被下今に家にあり(略)鬼丸のこしらへを細川幽斎これをうつし家にある烏丸殿へ贈られを于今烏丸殿の家にあり
大傳太これは名のりは光世と云ふ、古肥前殿に被下今にあり

絵画  

  • 特に唐物が多く蒐集された。

    一、東山殿ニ八百カザリ有之、一切ノ唐絵ト云唐絵、并見事ナル物ハ、皆東山殿ノ御物也、

東山御物の行方  

  • 義政の死後、これらの御物は足利将軍家に引き継がれたが、のち物納による支払いに当てられ、多くが散逸していった。

    花ノ御所様(義尚)ヘ御家督ヲ譲リアソハシゝ時、明光院殿(明広院、義視か)其御後見トシテ都ニ殘り給、御名物少々御授與シ玉フ、其外ニ七珍萬寶ハ其數ヲシラス

    半身布袋牧渓筆 簡翁賛武家累代重宝、号 百貫布袋俗号腹摩布袋三腹一対之本尊也、土蔵志乃者可沽却之由申之、内々申入之処、被召置之代物弐千弐百疋玄清媒介之間、再往問答了

    後者の腹摩布袋(腹さすり布袋)は、すでに明応7年(1498年)に質方として土蔵にあったが、連歌師玄清に依頼を受け三条西実隆が将軍家に戻させている。しかし売却されたのか、永禄10年(1567年)12月には堺の大和屋正通所持となっており、その後境の万代屋宗安の所蔵を経て秀吉へと移り、大坂落城で焼失した。今井宗久の拝見記によれば、「一の上の印、御所さまのいんかと覚え候。つほいんちょく印也、賛簡翁也、おくの方よりよみ申賛也、名のうへいんおされ申候。」と記す。これとは別に、腹摩布袋の絵が現在九博に伝わっており、重要文化財指定。

  • こうして売却された御物は、商家の手を経て東山文化を受け継いだ三好氏一族をはじめとした戦国武将の所持となり、のち多くが織田信長の所持となった。

関連項目