能阿弥本銘尽
※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
能阿弥本銘尽(のうあみぼんめいづくし)
室町時代成立の刀剣書
文明15年(1483年)成立
概要
- 著者は、足利義政に仕えた同朋衆である能阿弥で、その名を取って「能阿弥本」と呼ばれる。
- 能阿弥から田使行豊へと相伝され、行豊がさらに補記をしたとされている。
右此銘尽天下ノ連歌宗匠能阿弥陀房被書出候、其以後人体口伝引合載注文畢、備前国住田使行豊雖爲秘蔵、色々所望候間書注訖。聊爾ニ外見候ハゞ不可□其曲候。田使因幡守行豊(在判)
田使行豊は難波氏(田使首の後裔)。難波十郎兵衛尉行豊は難波掃部助の弟で、赤松家9代当主の赤松政則の娘を娶り、重用された。因幡守。
写本
- 写本が多く存在する。
著者:能阿弥
- 能阿弥は、応永4年(1397年)~文明3年(1471年)。
- 本姓は中尾氏で、名は真能(さねよし)。号は鴎斎、春鴎斎子。
- 元は越前朝倉氏の家臣で、足利義教、義政に同朋衆として仕えて能阿弥と号し、幕府における書画等(唐物)の鑑定や管理を行い、また東山御物の制定を行った。
- 特に周文に師事した水墨画で名高く、三阿弥派(能阿弥-芸阿弥-相阿弥)の開祖とされ、鶴図を描いて義政に絶賛されたといわれる。自由に御物の名品を見ることの出来る立場を生かし、「花鳥図屏風」や「白衣観音図」のような牧谿の図様をそのまま取り込んだ作品を残している。
- 茶道においては、書院飾りの完成、台子飾りの方式の制定などを行い、小笠原流の礼法を参酌し、今日に伝えられているような茶の点て方を考案した。『山上宗二記』では「同朋中の名人」と記されている。
- 連歌では宗祇から連歌七賢の一人に挙げられ、当時歌壇の最高峰とされた北野会所(北野天満宮)の連歌奉行も務めている。
- そのほか立花、香道にも優れた。
内容
- 後鳥羽院御宇鍛冶結番次第
- 国別鍛冶名
- 奥書
右此正銘尽事。従リ能阿弥、難波十郎兵衛尉行豊依リ有ルニ子細書写相伝畢。雖爲秘書依リ御所望ニ令メ冩シテ進覧セ畢。
不可有外見者也
文明拾伍年癸卯三月
田使行豊
右此抄雖モ爲リト拙者秘蔵貴殿御所望之間不残ラ所存令ムル冩シ進ゼ者也
永禄元年三月三日
三好下野守
松永右衛門介殿
参
此御本松永右衛門助殿雖モ爲リト御秘蔵申請シ則チ御前子ニ而拙僧ノ致ス所ニ候
乍ラ悪筆書キ写シ令メ進上セ候。貴殿ノ御望ニ而候間早筆に一夜ヲ明カシ仕リ候
委細令勘御よろしく
永禄七年十一月廿五日
清舜在判
水野七郎右衛門尉殿
参- 三好下野守は三好政康のこと。
Amazonファミリー無料体験