初桜


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 初桜光忠(はつさくら)

太刀
銘 光忠
長 二尺七寸三分

 由来

  • 尼子経久の三男、宮内大輔興久(塩冶興久)の佩刀。
    塩冶興久は、尼子経久の三男。兄は新宮党として高名な尼子国久。正室は山内首藤氏の山内直通の娘。
     永正8年(1511年)、中国地方の大々名である大内氏当主・大内義興が上洛した年に経久がこれに従った縁により、義興から偏諱(「興」の字)の授与を受けて興久と名乗る。のち出雲源氏の嫡流である塩冶氏の内訌につけ込んだ父経久により、塩冶貞慶の養子となっている。しかし興久は徐々に反尼子勢力との結び付きを強め、享禄3年(1530年)には父経久に対して反乱を起こし、出雲国を二分しての尼子氏と塩冶氏の全面対決となる。天文3年(1534年)に自害。塩冶氏の所領は兄の尼子国久が継承している。永正15年(1518年)の寄進状に「塩冶彦四郎興久」と記されており、この逸話はその頃までのものと思われる。
    尼子経久─┬政久──詮久─┬晴久──義久
         │       └倫久──元知
         │
         │【新宮党】
         ├国久─┬誠久──勝久
         │   ├豊久
         │   └敬久
         │
         └塩冶興久──尼子清久
    
  • 大永2年(1522年)11月、月山富田(がっさんとだ)城の桜の間、柳の間に化け物が出て人を悩ました。
  • これを聞きつけた興久が自ら妖怪を退治してくれようと、名刀「初桜」を佩用して待ち受けていると、果たして丑三つ時に老婆が二児を連れて現れた。
  • 老婆の命で一児が興久の膝元にきたので、頭を撲りつけると逃げていった。次に興久が一児を呼ぶと寄ってきて膝の上に座ったが、大盤石のように重かったため、驚いて頭を撲りつけ投げ飛ばした。
  • つぎに老婆が怒って掴みかかってきたので、腰の「初桜」を抜いて眉間を二太刀斬りつけると虚空に消えていった。
  • 翌朝床下を掘ってみると、九尺ほどの大きい五輪塔が一基、さらに三尺ばかりの小さい五輪塔が二基出てきた。
  • 大きな塔の頭には太刀の痕、小さい塔には血痕がついていたという。
  • そこで遺骨を掘りあげ、浄安寺に埋葬した所、化物は出なくなったという。




 初桜吉光(はつざくらよしみつ)

吉光

  • 周防大内氏所蔵の吉光
    17代の大内義長は、大友義鑑の次男大友晴英として生まれたが、母が大内義興の娘であった関係から16代当主大内義隆の猶子となる。のち大内義隆に実子の義尊が誕生したため猶子関係を解消されたが、義隆に対して謀反を起こした陶晴賢により招かれ傀儡として擁立され、17代当主となった。
  • 弘治3年(1557年)4月2日、大内義長は毛利元就に攻められて敗れ、長門長福寺に入って自害する。享年26。
    臨済宗長福寺は現在の功山寺。嘉暦2年(1327年)創建、開基は北条時仲、開山は虚庵玄寂。正慶2年(1333年)に後醍醐天皇の勅願寺となり、建武3年(1336年)には足利尊氏から寺領が寄進されるなど朝野の尊崇を得て栄えた。室町時代には大内氏の庇護を得、周防大内氏最後の当主大内義長が境内で自害した後、寺は一時衰退する。慶長7年(1602年)、長府藩主毛利秀元が金岡用兼を招聘し、曹洞宗の笑山寺として再興した。慶安3年(1650年)、秀元(法名 智門寺功山玄誉大居士)の没後、功山寺に改名された。幕末の文久3年(1863年)、七卿落ちで京を逃れた7名の公卿のうち5名が滞在。高杉晋作は当寺で挙兵した(回天義挙)。
  • この時、大内家重代の瓢箪の茶入れ、「九十九髪」という肩衝とともに、本刀「初桜吉光」をもって実兄の大友宗麟のもとにいき、三千両と替え、それをもって中国の経山寺にわが墓を建てたい。誰かその使者になるまいかと呼ばわると、かねて臆病者で知られていた杉兵部大輔が私めがと名乗りでた。
  • では汝に頼むと三品を渡したが、杉の乗った船が岩に乗り上げて転覆し、杉は溺死してしまった。
  • なおこの茶器のうち「瓢箪の茶入れ」は後世に伝わっており、交渉は杉ではなく毛利元就が行ったとする。

    大内義長・陶安房守・同五郎一戦に打負、長福寺へ引篭候。元就は取囲ける使を豊後の大友宗麟へ遣し「御舎弟義長取詰置候。但し一命助度思召候はゝ、それへ送り遣可申候」と断被申候。宗麟返事に「義長とは兄弟不和に候間、義長儀は元就存分次第に任候。但し紹鴎所持瓢箪の茶入、大内義隆より義長手に渡り有之候。是を取御饋被下候はゝ可為本望」と被申越候。元就則瓢箪の茶入を義長より請取、大友へ遣す。

    • つまり、義長を長福寺に取り囲んだ元就は、その扱いを大内義長の兄である大友宗麟に伺いを立てたが、宗麟は兄弟不和に付き助命は不要と返答し、その代わりに「瓢箪の茶入」を寄越すよう伝えて返したという。元就はこれに答えて「瓢箪の茶入」を送っている。

 茶器

  • 大内家では茶器を多く所蔵していた。
大内筒
青磁花入。大名物重要文化財。室町時代にも著名で、東山御物であったとされる。のち周防大内氏に伝わる。根津美術館所蔵
上杉瓢箪
唐物、大名物天下六瓢箪の随一。名物茶入忠宰相。足利義政、村田珠光、紹鴎、大内義隆、養子の義長所持。毛利元就が大内氏を攻めた際に宗麟(義長の兄)に使いを出し助命すべきか尋ねたが、宗麟は瓢箪茶入だけ欲しいと答えたため、元就は送ったという。九州征伐時に秀吉に献上され、上杉景勝に下賜された。その死後、紀州徳川家に伝来した。野村美術館所蔵。

此瓢箪の茶入は大明より渡候を、公方東山慈照院義政御道具と也、其後紹鴎所持。夫より大内介義隆手に渡り、義長に至り、今度元就取て大友に遣す。天正十五年に大友義統より秀吉公へ差上、第一の御重宝たり。聚楽にて秀吉公手自上杉景勝に被下。子息弾正大弼定勝迄五拾年の内所持之。年数久敷を以上杉瓢箪と号。上杉逝去の砌、又公方へ上りしを、紀伊大納言頼宣卿隠居し給へるとき、公方御手自頼宣卿へ被下。今紀州に有と聞く。


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