九山八海石


※当サイトのスクリーンショットを取った上で、まとめサイト、ブログ、TwitterなどのSNSに上げる方がおられますが、ご遠慮ください。
Table of Contents

 九山八海石(くせんはっかいせき)

 概要

 九山八海とは?

  • 「九山八海(くせんはっかい)」とは古代インドの仏教における宇宙観で、世界の中心にそびえるとされる須弥山(しゅみせん)を中心に、九つの山と八つの海が取り囲んでいるとする。
    須弥(しゅみ)は、サンスクリット語「Sumeru」の音を写した漢字名称で、元のサンスクリット語の意味を写した名称としては「妙高」(妙高山)などと訳される。
  • 須弥山は下から空輪(くうりん)風輪(ふうりん)水輪(すいりん)金輪(こんりん)四輪(しりん)によって支えられており、山麓には九山八海が交互に取り囲み、いちばん外側の海を鉄囲山(てっちせん)が囲んでいる。
    最上層をなす金輪の最下面が大地の底に接する際となっており、これを金輪際(こんりんざい)という。また金輪・水輪・風輪の三つのみを指して三輪とも呼ぶ。
  • この外海の四方に四大州が広がり、その南の州である南閻浮提(なんえんぶだい)閻浮洲(えんぶしゅう))に人間が住むとする。さらに須弥山は金・銀・瑠璃・玻璃の四宝から成っており、頂上の宮殿には帝釈天が、また中腹には四天王や諸天が住み三十三天を形成しているという。

 九山八海石とは

  • 九山八海石とはこの須弥山のことを指しており、九山八海石を配した庭は、九山八海すなわち小世界を表したものとされる。
  • 鹿苑寺金閣の前面に広がる鏡湖池に浮かぶ九山八海石が著名。

 様々な九山八海石

 古代

  • この古代インドの宇宙観は日本にも早くから伝わっており、記録によれば、推古天皇の20年(612年)に宮殿南庭に須弥山およびそれに架かる呉橋を築いたとする。

    須弥山形及呉橋於南庭
    (日本書紀)

  • この後も庭園に須弥山を造ったことが記録に残る。
  • 斉明天皇の6年(660年)には、漏刻などの記事に並んで須弥山を設置したと記される。

    夏五月辛丑朔戊申、高麗使人乙相賀取文等、到難波館。是月、有司、奉勅造一百高座・一百衲袈裟、設仁王般若之會。又、皇太子(中大兄皇子)初造漏剋、使民知時。又、阿倍引田臣(阿倍比羅夫)闕名獻夷五十餘。又、於石上池邊須彌山、高如廟塔、以饗肅愼卅七人。又、舉國百姓、無故持作兵往還於道。國老言、百濟國失所之相乎。

    ここで記される漏剋(漏刻)は、昭和47年(1972年)に発掘された飛鳥水落遺跡のことであり、石上池に造ったという須彌山については、明治35年(1902年)からの発掘で見つかった石神遺跡の須弥山石と石人像であるとされている。

  • この後、日本では神仙思想に基づく「蓬莱山」(と亀島)を築いた庭園が主流となり、飛鳥時代から平安時代を通じて極楽浄土の世界を表現した浄土式の池泉庭園が流行した。鎌倉時代に入ると巨石を配置したり、あるいは石組みの妙を楽しむ庭園が誕生している。
    これは現在よりも気温が高く開放的な作りの寝殿造りが流行した平安時代から、土地開墾により力を持って台頭してきた武士の要請により発達した書院造りへと、屋敷構造が変化したことにもよるとされる。また平安時代には儀式を行うための場所であった前庭が退化し、観賞用の庭としての役割が発達していったともされる。
  • 室町時代に入ると、須弥山ではなく庭石として九山八海石を建て、周囲に池や石を配置することで九山八海を表現した庭園を造ることが流行する。

 鹿苑寺(北山殿、金閣)

  • 現代において著名な九山八海石。
  • 足利義満は、応永元年(1394年)に将軍職を息子の足利義持に譲ると、西園寺実永から譲り受けた北山第の地に、応永4年(1397年)北山殿(現鹿苑寺)を造営し、移っている。応永15年(1408年)に義満が没すると、遺言により禅寺へと改められ、義満の法号より鹿苑寺と名付けられた。
  • 鹿苑寺の庭園は、西園寺氏の築いた庭園を池泉回遊式庭園に改修したもので、庭園の中心には鏡湖池がある。この鏡湖池の中央にある葦原島の右横には細川石、北側に九山八海石が配されている。また出島の北側には赤松石と畠山石がある。これらの名石は、諸国の守護大名が献上したものという。
    西芳寺(さいほうじ)
    この北山殿を造園する際に義満が参考にしたのが、一般に「苔寺」として著名な天龍寺の境外塔頭の西芳寺である。高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して再興された禅寺は、光厳天皇が足利尊氏を従えて行幸したこともあり、足利義満もこの西芳寺を幾度となく訪れ、これを模して造られたのが北山殿(鹿苑寺)である。
     また東山殿を造営した足利義政も祖父義満同様にこの西芳寺を好んで度々訪れており、義政が晩年に造った東山殿(慈照寺)は、北山殿(鹿苑寺)と西芳寺を模して造営された。
  • 中でも九山八海石は、義満が遣明船で明の太湖から運ばせた名石として名高い。
  • 「山州名跡志」には次のように書かれ、秀吉の”石狩り”からただひとつ逃れたものと記す。

    九山八海石
    在閣前池中、秀吉公の代諸所の取名石聚樂亭に移玉へり。世人是云石狩。此石獨其狩に漏たり。

    なお秀吉が石狩りを行ったとする話のみが取り上げられることがあるが、そもそも足利将軍家自体が代々石狩りを行ってきた歴史がある。
     高名な「藤戸石」は3代将軍義満が藤戸の地から運ばせたものであり、6代将軍義教はその父義満が造営した鹿苑寺を始めとした諸寺から庭石を徴集している。8代将軍義政の木石蒐集については、下記慈照寺の項を参照。

 慈照寺(東山殿、銀閣)

  • 8代将軍足利義政が文明14年(1482年)から造営した東山山荘で、文明15年(1483年)に常御所が完成すると、義政は移り住んでいる。このとき、後土御門天皇より「東山殿」の称号を賜っている。2年後の文明17年(1485年)に出家。延徳2年(1490年)55歳で死ぬまで造営は続けられた。その死後、山荘は義政の遺言により臨済宗相国寺派の禅寺へと改められ、慈照院、延徳3年(1491年)に慈照寺と呼ばれた。
  • 金閣同様に、庭の池に臨んだ場所に舎利殿を建てており、池中に九山八海石を据えて蓮華を植えた。
  • 義政はこの東山山荘の造園のため、東寺、鹿苑寺、長谷寺、建仁寺、大乗院、一乗院、小川第跡、室町第跡、仙洞御所跡などから庭石や名木を徴集している。その費用は当初各地の大名に供出させるが、後には寺院からも人夫を徴集して運ばせている。奈良の一乗院に至っては、この検分が当時身分の低かった河原者を使って行われたためにこれを締め出したことが義政の逆鱗に触れ、一乗院領であった山城西院荘を没収されている。

    傳聞、自一乗院殿、六方(六方衆)ニ御披露、自學侶又同申遣歟、六方返事ハ、今度西院庄事、六方蜂起之儀ニ、御押分歟、然者御木御進上事ハ不可叶、堅可申入所存云々、河原者令下向、所々検知時、不被見之條、不可然旨、兼日及其沙汰了、依此事、西院庄事及御違亂者、早々御木事ハ可有御進上歟、此兩條之内、何ソ自學侶召雑掌柚留木法橋被糺明者、可然旨、六方申云々、西院庄御違亂、庄下へ御奉書、當門跡へ木早々可進上之由御奉書ハ、同日去十七日也、爲此儀者、必シモ六方蜂起之事、御腹立トハ不覺者也、但上意如何、

  • 結局一乗院は、院主教玄が前関白・太政大臣の近衛政家を頼って謝罪するはめに追い込まれている(後法興院政家記 長享三年二月廿四日条)。こうした強引な手法は大きな反発を招き、義政の死後、こうして集められた木石は元の持ち主により持ち去られたという。
    なお義政は、この東山殿の他にも万里小路殿、室町殿の造営でも大名からの供出や寺社からの徴集を行わせている。詳細は「花の御所」参照
  • その後も慈照寺は、天文19年(1550年)、永禄元年(1558年)に足利義輝と三好長慶との合戦に巻き込まれるなどして罹災している。これにより、観音殿(銀閣)と持仏堂である東求堂のみが残った。※観音殿(銀閣)及び東求堂は共に国宝
  • 永禄12年(1569年)には、足利義昭のために二条御所を造営していた信長が、慈照寺から九山八海石を持ち出している。

    東山慈照院殿御庭に、一年被立置候九山八海と申候て、都鄙に無隠名石御座候。是又被召寄、御庭に居させられ、其外洛中洛外之名石名木を集、眺望を盡し、

  • 慶長20年(1615年)、秀忠の御伽衆となっていた宮城豊盛により再建され、さらに江戸時代には数度の修築作業が行われている。

 醍醐寺塔頭菩提寺

  • 醍醐寺の塔頭菩提寺にも九山八海石があったとされる。
  • 文明18年(1486年)6月12日の宗長日記に、醍醐菩提寺にある九山八海石が記されている。

    菩提院一見、故准后持佛やうに思ひ給ひけると也。九山八海といふ石、浅茅の中にあり、きゝしよりは見るはともいふべし、宗長師匠駿河の宰相とて、此院家に宮づかへせし人なり、常に物語せられしにかはらず。

    醍醐寺の塔頭菩提寺(菩提院)はかつて下醍醐に存在した塔頭で、三宝院第二十一世の賢俊(菩提寺賢俊、三宝院賢俊)が開いた。現在はすでに廃寺となっており寺の建物はない。なお醍醐寺に伝わっていた「聖観音菩薩立像」は、もともとこの菩提寺にあった「虚空蔵菩薩立像」であることが近年判明し、2015年9月4日に新たに国宝指定された。国指定文化財等データベース:木造虚空蔵菩薩立像

  • 天文13年(1544年)4月、醍醐寺の菩提寺より九山八海石が禁裏に献上されたと記される。

    廿五日、癸巳、巳刻ヨリ雨降、
    從三寶院義堯今日禁裏へ九山八海之石参云々、今日早々河原者以下被仰付、被遣了、

 霊雲院(れいうんいん)

  • 霊雲院は東福寺の塔頭。
    明徳元年(1390年)、東福寺第80世岐陽方秀(天龍寺第64世、南禅寺第96世)により創建。方秀は不二道人と称したため、「不二軒」と呼ばれた。のち霊雲院へと改められた。
  • 書院の前庭に著名な「九山八海の庭」がある。肥後細川家より贈られた遺愛石を須弥山に見立て、白砂の波紋が山海を表現している。
  • 江戸時代中期に作庭され、久しく荒廃していたものを、昭和を代表する造園家・重森三玲が昭和45年(1970年)に復元した。

 遺愛石(いあいせき)

  • 高さ三尺、横四尺余りの青味をおびた小石で、須弥台の上に設けた四角い石船の中に据えられている。
  • 霊雲院第7世住持の湘雪守沅は肥後熊本の人で、藩主細川忠利と親交があった。湘雪和尚が住職として霊雲院へ移る時、忠利の子の細川光尚が500石の禄を送ろうとするが、「出家の後、禄の貴きは参禅の邪気なり。庭上の貴石を賜れば寺宝とすべし」と申したため、細川家では「遺愛石」と銘じた石を、須弥台と石船とともに寄贈したという。

 酒屋神社(さけやじんじゃ)

  • 式内社。京田辺市興戸宮ノ前
  • 神功皇后が三韓遠征に際して、神社背後の山上に酒壺を三個安置して諸神を祭って出立し、帰国後その霊験に感謝し社殿を建立したと社殿に伝わる。
  • 神功皇后が朝鮮から持ち帰った「九山八海の石」が今も残るという。

 斉明天皇

  • 斉明天皇は皇極天皇が重祚した時代の諡号
  • 皇極天皇(寶皇女)は、敏達天皇の孫・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王。37歳で舒明天皇の皇后となり、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。
            高向王
             ├─────漢皇子
    茅渟王      │
      ├───┬─宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)
    吉備姫王  │  │
          │  ├───┬─中大兄皇子(葛城皇子、天智天皇)
          │ 舒明天皇 ├─間人皇女(孝徳天皇皇后)
          │      └─大海人皇子(天武天皇)
          │
          └─軽皇子(孝徳天皇)
    
  • 〔皇極天皇時代〕
    • 舒明天皇の崩御後に即位。蘇我蝦夷と蘇我入鹿が重用された。皇極天皇の2年には蘇我入鹿が山背大兄王を攻め自害させる事件が起こっている。
    • その後中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討つ乙巳の変が起こると、同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に大王位を譲っている(日本史上初の譲位)。
  • 〔斉明天皇時代〕
    • 孝徳天皇の崩御後、62歳で再び皇位に付き日本史上初の重祚となった。
    • 政治の実権は息子の中大兄皇子が握っていたとされる。須弥山の話はこの時代のものである。
  • なお子である天武天皇については、日本書紀での天智天皇の生年と、中世資料での天武天皇の没年を比較して、兄弟での生年の逆転(つまり天武が兄)から諸説が提唱されてきた。
    ただし中世資料である「一代要記」などにおいては、天智天皇の生年も記されており、その中では天智・天武の長幼関係は揺るがない。下記説はあくまで別時代の史料を比較した場合における差異に立脚している。
  • 主なものでは下記の説がある。
  1. 没年65歳は56歳の誤記であるとするもの
  2. 天武天皇の父親を舒明天皇ではないとするもの
    A.新羅の皇族、金多遂であるとする
    B.漢皇子(あやのみこ)であるとする
    ※漢皇子は、皇極天皇(寶皇女)の初婚の相手である高向王との間に生まれた皇子。高向王の子であるため本来は漢王だが、生母寶皇女の即位により皇子と記される。この漢皇子については記述がほとんどなく夭折したとされるが、その名前から東漢直が資養にあたったとされる。東漢氏については「東漢直駒」を参照。

Amazonプライム会員無料体験