海老名宗近


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 海老名宗近(えびなむねちか)

短刀
銘 宗近(号 海老名宗近)
(※徳川美術館所蔵)

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    海老名宗近 在銘長一尺一寸二分 無代 大坂御物

    • 海老名宗近の目貫や笄には桐紋が入っており、これは金工家後藤家によるものであったという。
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 由来

  • 海老名の由来は不明。古来刀剣書では、地名または人名からの由来を示唆する。
  • それによれば、海老名は相模国の地名からという。また海老名氏にちなむともいわれる。

    義朝幕下に海老名源の秀定、義詮公(足利)の御時に海老名信濃守、松永弾正与力に海老名氏の者あり

 来歴

 足利義政

  • もと東山御物(足利義政の佩刀)であった。
    「海老名宗近」の名は、すでに室町時代中期以降の書物にいくつか記載されている。「長禄二年以来申次記」(室町時代中期成立、長禄2年=1458年)、「三好筑前守義長朝臣亭御成記」(永禄4年=1561年)、「慈照院殿年中行事」(慈照院殿とは足利義政のこと)などに見ることができる。
  • 「長禄二年以来申次記」では刃長「一尺二三寸也」、総長「一尺五六寸も可有之」と書かれる。長禄2年は1458年。

    正月御服事、朔日は唐織物をめさる、御ひたゝれは白きなり、此白き御直垂は正月丗ケ日ともにめさるゝ也、御腰物は海老名小鍛冶と申を、是も丗ケ日御用也、一尺二三寸也、御つかさやともに一尺五六寸も可有之、然御作りの様は、御つかさや梨子地に、こじりつか頭御腰本、何もしやくどう、御目貫は桐の丸焼つけ、御かうがひは桐也

  • 「慈照院殿年中行事」でも同様。慈照院は足利義政。

    正月朔日、卯尅将軍家出御于便宜所御劒御扇子御鼻紙、畠山宮内大輔教國役之、御劒海老名小鍛冶ト號す、柄鞘共に一尺五六寸あり、金具各赤銅、柄鞘梨子地、目貫桐丸金焼付、笄銅なり、御劒御直垂は正月中着用し給ふと云也

 三好長慶→足利義輝

  • その後の経緯は不明だが、三好長慶が所持し、のち長男の三好義興へと伝わったことがわかっている。
  • 三好義興が永禄4年(1561年)3月30日に将軍足利義輝を自邸に招いた際に、「海老名小鍛冶」を義輝に献上している。

    永禄四辛酉歳三月晦日、三好筑前守(三好義興)就被申御成、進物事
    一、七献 御太刀安綱、 御腰物宗近、号海老名小鍛冶

    三好孫次郎義興は三好長慶の嫡男で、「義興」は元服した際の初名。永禄2年(1559年)12月18日に足利義輝の一字拝領により「義長」を名乗る。翌永禄3年(1560年)1月21日(異説あり)に従四位下・筑前守に叙任されたことから、筑前守義長と書かれる。父に似て知勇に秀でた武将であり、義輝の信望も厚く足利将軍家の紋である桐の紋を許され、御供衆・相伴衆にも任じられている。しかし永禄6年(1563年)に病に倒れ、芥川山城において死去した(松永弾正による毒殺説が有名)。享年22。嫡男を亡くした長慶の落胆は大きく、翌年後を追うように死去する。三好家の家督は、従弟にあたる三好義継(十河一存の子)が継いだ。

    贈答物の全リストは「名物」の項を参照。

 信長→三法師秀信

  • のち信長が入手し、孫の三法師織田秀信が所持していた。

 秀吉

  • 後に秀吉に伝わる。

    ゑひな 小鍛冶
    太閤御物刀絵図 石田本)

    御物こかち、九寸八分、ヤ
    太閤御物刀絵図 埋忠本)

    石田本には「海老名小鍛冶」として載る。恐らくこれが足利将軍家伝来のもの。いっぽう、後者の埋忠本の「御物小鍛冶」は現存刀(徳川美術館所蔵)に似る。ともに目釘孔4個。

  • 大坂落城の際に焼け、尾張徳川家に伝来したとされる。
  • しかし現在徳川美術館所蔵の小鍛冶(御物こかぢ)は、長さが異なっており造りも異なっている。目釘孔や彫り物でも別物とされ、元々「太閤御物刀絵図」で「御物こかち、九寸八分、ヤ」と書かれていたものであるとされる。このため、足利将軍家伝来の「海老名宗近」は大坂落城の折に焼けて失われたとされる。
  • いっぽう、家康の形見分け帳である「駿府御分物刀剣元帳」によれば、御脇差(大坂焼物)として「こかち(小鍛冶)」を載せる。

    御脇差
    一 こかち 尾張家

  • つまり判明している範囲で強引に伝来をつなげると次のようになる。
  1. 【海老名小鍛冶(えびなこかじ)】:(焼失、享保名物帳
    足利義政─三好長慶─足利義輝─信長─秀信─秀吉
  2. 御物小鍛冶(ぎょぶつこかじ)】:(現存、徳川美術館所蔵)
    秀吉─家康─尾張徳川家

 海老名小鍛冶写し

  • 康継により、写しが作られている。

    短刀
    海老名小鍛治写し
    銘 なんばんかね 三条こかち迫
    裏 越前国康継 本多飛騨守所持内






 その他の海老名

  • 「海老名」の由来についてはよくわかっておらず、諸説上げられている。
  • 人物の場合はその人物所持、地名の場合にはその地で掘り出されたということになる。

 海老名南阿弥(えびな なあみ)

  • 同朋衆として足利義満に仕えた謡作曲者。「海老名(えびな)の南阿弥陀仏」、南阿弥。
  • 観阿弥(かんあみ)を義満にひきあわせ、能が発展する機会をつくった。「東国下(とうごくくだり)」「地獄」の曲舞(くせまい)を作曲したことで知られる。永徳一年(1381年)没。
  • 遁世(とんせい)した関東武士の海老名六郎左衛門ともいわれる。また伊勢国阿漕が浦の海老名六左衛門という鰯売りともいう。

 相模国海老名

  • 相模の国分寺跡は、現在の海老名駅の500m東の台地上にある。
  • 国分寺造営は天平十三年(741年)の聖武天皇の詔によるものだが、当時相模国の国府は現在の平塚市にあったとされる。通常国分寺は国府の近くに建てられたが、相模国では当初から国府と離れたところに建てられたということであり、理由として諸説がある。※国府が海老名にあったとする説もある。

 海老名五郎左衛門

  • 山城国山科に海老名五郎左衛門と言う門徒がいた。吉崎から退去した蓮如が、本願寺再興を志した時に、土地を寄進することを進言。これにより山科本願寺が創建されることとなった。

 相生市(播磨海老名氏)

  • 兵庫県相生市は、鎌倉時代に相模海老名から地頭として矢野庄に着任した海老名一族が「相模生まれ」から相生と名づけたという。
  • また家督争いの結果、長治元年(1104年)に海老名家季が播磨国矢野庄に移住したとも伝わる。海老名家季は大島城(大嶋城)を築いたという。家季孫の盛重は、歓喜光院領矢野庄の役人となり、大島付近を相模の「相」を取り相生と名づけたという。
  • 南北朝期には赤松氏に属し各地を転戦、新田義貞方に大島城を焼かれたという。戦国時代には小豪族として赤松氏に属し、太閤検地の後、海老名氏は百姓身分になったという。

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