三条西実隆


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 三条西実隆(さんじょうにし さねたか)

室町後期から戦国時代にかけての公家
号 逍遥院尭空、聴雪
道号 耕隠

  • 和歌、書道、香道、有職故実など、多方面に渡る貴族文化で堂上知識階級の権威となる。
Table of Contents

 生涯

  • 康正元年(1455年)、内大臣三条西公保の次男として生まれる。母は甘露寺房長の娘。
    三条西家は、藤原北家閑院流嫡流の三条家の分家である正親町三条家(現在の嵯峨家)のそのまた分家で、大臣家の家格を持つ公家。「西三条」としている時期もある。
     実隆の父である公保は本家である嵯峨家から養子に入り、生家の家格を引き継いだため大臣家の家格を有することとなった。嵯峨家分家でありながら家格は本家をしのぎ、三大臣家の中でも別格とみなされていた。
    正親町三条実継
        ├──┬公豊────┬実豊
    三条公明の娘 │      └三条西公保
           │
           └三条西公時──実清━━┓
                       ┃
      ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┛
      ┃                       ┌稲葉良通室      ┌公勝
      ┃               吉田兼満の娘  ├三条実綱       ├武者小路公種
      ┃        甘露寺元長─娘    │   ├公国────実条───┼西郊実号
      ┃   勧修寺教秀─娘    ├──┬実枝───┴公世         └娘(最上義智後室)
      ┗━━━三条西公保 ├──┬公條  └水無瀬兼成
           ├──┬実隆  ├公順
    甘露寺房長─┬娘  ├実連  ├保子(九条尚経室、稙通母)
          ├親長 ├公頼  └女(正親町実胤室、公叙母)
          └良助 └女
    
    
    
  • 長禄2年(1458年)に兄の実連が17歳で死去したため、家督相続者として扱われ12月26日に4歳で従五位下に叙される(この時は公世と名乗る)。二日後に侍従に任官(この時改名し公延)。長禄3年(1459年)3月28日に5歳で備中権介を兼ねる。
  • 寛正元年(1460年)には父の公保が63歳で死去したため、母方の叔父である甘露寺親長の後見を受けて家督を相続する。
  • 寛正6年(1465年)正月5日、11歳で従五位上に叙される。
  • 応仁3年(1469年)6月23日、15歳で元服、右少将に任ぜられる。この時、「実隆」へ改める。同年正五位下に叙される。
  • 文明2年(1470年)3月18日に16歳で従四位下に叙せられる。少将如元。
  • 文明4年(1472年)10月14日に服解、同年12月26日に除服復任。
  • 文明5年(1473年)正月25日、19歳で従四位上に叙される。
  • 文明6年(1474年)4月22日、20歳で右中将に転じる。同年4月29日に正四位下に叙される。※この歳、「実隆公記」を始める。
  • 文明7年(1475年)正月28日に21歳で蔵人頭に補される。
  • 文明8年(1476年)正月5日正四位上に叙される。翌9年12月30日に参議に任ぜられる。中将如元。
  • 文明11年(1479年)正月5日、25歳で従三位に叙される。
  • 文明12年(1480年)3月29日に権中納言に任ぜられる。同年4月17日に侍従を兼ねる。
  • 文明17年(1485年)2月28日、31歳で正三位に叙される。この歳、源氏物語五十四帖の書写を終える。
  • 長享3年(1489年)2月23日、35歳で権大納言に任ぜられる。同年6月16日に侍従を兼ねる。同年12月20日に内膳別当。
  • 明応2年(1493年)正月5日、39歳で従二位に叙される。
  • 明応4年(1495年)、娘・保子が九条尚経に嫁す。子に関白九条稙通、花山院家輔ら。
  • 明応5年(1496年)12月30日、42歳で神宮伝奏。
  • 文亀元年(1501年)9月、宗祇より古今伝授を受ける。

    權大納言三條西實隆、古今和歌集の傳授を連歌師宗祇に受く、
    九月十五日、庚寅晴、宗祇法師、古今集聞書、切紙以下相傳之儀、悉納函付封、今日到来、自愛誠以通悉改之冥加之、尤取稱秘之、

  • 文亀2年(1502年)正月23日、48歳で正二位に叙される。
  • 文亀4年(1504年)5月16日、軽服。
  • 永正3年(1506年)2月5日、52歳で内大臣に任ぜられる。
  • 同年4月5日、在職わずか二ヶ月で任大臣大饗も開かずに致仕(辞退)。
  • 永正13年(1516年)4月13日、62歳の時に落飾する。道号耕隠、法名尭空、号逍遥院。後世の歌人に「逍遙院内府」と称された。
  • 天文6年(1537年)10月3日薨。享年83。
  • 大正4年(1915年)11月10日、贈従一位。

 係累

  • 正室は勧修寺教秀の娘であり、そのきょうだいに後土御門天皇の典侍房子や後柏原天皇の典侍藤子(後奈良天皇国母)などがおり、天皇家と深い縁戚関係があった。
  • 側室はなく、すべて正妻の子がいる。長男の公順は東大寺、三男の桂陽は東福寺へ入り、家督は次男の三条西公条が継いでいる。
    孫が三条西実枝であり、子がなかったため弟子の細川幽斎に返し伝授を約束させた上で「古今伝授」を行っている。実隆から実枝までを三条西三代と呼ぶ。
  • また娘の保子が九条尚経に嫁しており、関白九条稙通、花山院家輔らを産んだ。

 文化人

  • 室町幕府将軍の8代足利義政や11代足利義澄、周防の大内義隆や駿河の今川氏親、若狭守護武田元信等と親交があった。

 能書家

  • 当代の能書家として高名で、禁裏からたびたび書写を命じられたほか、物語、歌集、絵詞、画賛画幅、色紙、扇面等に水茎の跡を残した。
  • 実隆の書は「三条流」(あるいは逍遥院流)と呼ばれて人気は高く、在世中から珍重され贈答品としても用いられたという。さらには求められて浄土双六や将棋の駒も認めている。

 和歌・古今伝授

  • 三条西家は、実隆の高祖父である正親町三条実継の時に、二条為明(二条為世の孫)の弟子となり、二条派一門の古今伝授継承者に名を連ねている。また実隆の父・三条西公保も古今伝授継承者である二条派尭孝の弟子であった。
    ┬兼家─道長┬頼通─師実─師通(北家嫡流、五摂家)
    │     │
    │     │(御子左家)             (二条家・歌学二条派)
    │     └長家─忠家─俊忠─俊成定家為家─┬二条為氏─為世─為道─為定─為遠─為衡
    │                        │
    │                        │(京極家)
    │                        ├京極為教─為兼
    │                        │
    │                        │(冷泉家・歌学冷泉派)
    │                        └冷泉為相
    │
    │
    │(閑院流)
    └公季─実成─公成─実季─公実─┬実兼       ┌公房(転法輪三条家、閑院流嫡流三条家)
                    │         ├公宣(姉小路家)
                    │(三条家)    │
                    ├実行─公教─実房─┤(正親町三条家)
                    │         └公氏…実継─┬公豊─実豊
                    │(西園寺家)          │
                    ├通季─公通─実宗─公経     │(三条西家)
                    │                └公時…実隆─公条─実枝─公国─実条
                    └実能(徳大寺家)
    
    
    【歌道系図】 ※血縁関係を示すものではない
    
     二条為氏──二条為世──頓阿──経賢──尭尋──尭孝─┬─東常縁
                                │
                                ├─尭恵
                                │
                                └─三条西公保──実隆
    
  • こうした素養を受け継いだ実隆は、文化人としての交流関係も多岐に亘り、飛鳥井雅親から和歌を学び一条兼良と共に和歌・古典の貴族文化を保持・発展させ、【二条派】宗祇から古今伝授を受けている。古今伝授【御所伝授】。
  • 後土御門天皇、後柏原天皇の信任厚く、後年には後柏原天皇の御製の添削依頼を受けるなどもしている。
  • 天隠龍沢や月舟寿桂などの京都五山禅僧ら、あるいは宗祇や肖柏、宗長らの連歌師とも交流があった。
    肖柏は牡丹花肖柏。中院通淳の子(中院通秀の弟)。和歌を飛鳥井雅親に学び、連歌を宗祇に師事して古今伝授を受けた。宗祇・宗長と吟じた「水無瀬三吟」が高名。別号に夢庵・牡丹花・弄花軒。

    宗長は駿河国島田の出身で、鍛冶職五条義助の子として生まれた。駿河守護今川義忠に仕えるが、義忠が死に今川家中が内紛で荒れると致仕して上洛した。宗祇に師事して連歌を学んだ。大徳寺の一休宗純に参禅している。明応5年(1496年)には駿河に戻り今川氏親に仕えている。その後も三条西実隆や細川高国、大内義興、上杉房能らと交流があり、今川家の外交顧問的な立ち回りを演じている。氏親が死ぬと再び今川家を離れた。
  • 「北野天神縁起絵」(詞書)、「清水寺縁起 」(詞書)、「当麻寺縁起絵巻」(詞書)、「桑実寺縁起絵巻」(詞書)、「星光寺縁起絵」(詞書)などの制作に関わっている他、「春日権現験記絵」や「玄奘三蔵絵」が奈良から運ばれて天皇・公卿らが鑑賞した記事を残すなど、絵巻物にも深く関わっている。
    「星光寺縁起絵」については現存重要文化財は模本とされる。e国宝 - 星光寺縁起絵巻 国指定文化財等データベース
  • 古筆鑑定家としても知られ、古筆所持者たちは競って実隆邸を訪れたという。これらの中には、後土御門天皇や勝仁親王(御柏原天皇)、勾当内侍らのほか、武野紹鴎、足利義尚、畠山義総、連歌師の宗祇などがいる。
  • こうして自らの古典への深い理解と和歌や有職故実の知識は公条や実枝へと伝えられ、三条西家は和歌を始めとした幅広い学芸の家としての名声を勝ち得ることとなった。
  • 漢文日記「実隆公記」を残したほか、源氏物語に関しては、系図として革新的な「実隆本源氏物語系図」を作った。歌集「雪玉集」を残す。
  • 「実隆公記」は平成7年(1995年)6月15日に重要文化財指定。

    古文書
    実隆公記
    106巻1帖、44冊、1紙
    重要文化財
    東京大学史料編纂所所蔵

 香道

  • 実隆は聞香にも優れ、後柏原天皇から「御香所預(ごこうしょあずかり)」に任じられ、「鼻孔指南」を行った。香道の【御家流】は、実隆によって創始された。
  • また実隆の髙弟志野宗信は、足利義政から香の式を考案するよう命を受け御香所預の実隆に薫物合(たきものあわせ)の法を聞いた上で、肖柏や宗祇らと相談して定めたという。
    宗信は【志野流】香道を確立し、子の宗温、孫の省巴へと世襲した。省巴の代で断絶の危機があり、2代目宗温の高弟建部隆勝が門下の蜂谷宗悟に志野流継承を薦めたことで、香道断絶の危機を回避した。

 茶道

  • 千利休の師である武野紹鴎は、実隆に和歌を学んでいる。紹鴎は、実隆から「詠歌大概之序」の講義を受けた時に茶の湯の極意を悟ったという。

 その他

  • 実隆は園芸を好み、庭に桜・柳・楓・藤・松・ヒノキ・槐・躑躅・金柑・蜜柑・柿・薔薇・葡萄・百合・菊・槿・鶏頭花・卯花などの木草を植えたという。実隆公記にも度々庭木のことが登場する。
  • 肖像画
三条西実隆像紙形
紙本墨画。「三条西実隆像紙形」縦41.2cm、横25.8cm。
土佐光信による実隆47歳時の肖像画の下絵で、正親町三条公秀の日記の部類記「槐御記」に挟み込まれていたものが、後年発見された。「実隆公記」の文亀元年(1501年)10月4日条に、光信が訪れて北野天神縁起絵について相談した際に、肖像画の紙形(下絵)を描かせたと記される。ただし実隆は気に入らなかったのか「十分に似ず、比興なり」と記している。」

土佐刑部少輔来る、北野縁起絵巻のことをあい談ず、また愚拙の肖像紙形これを写さしむ、十分に似ず、比興なり

Wikipedia実隆項に載っている肖像画。
絹本著色三条西実隆像
「絹本著色三条西実隆像」実隆の墓所である嵯峨二尊院に残る、僧形の肖像画。重要文化財
實隆公肖像|実隆公記. 卷一 - 国立国会図書館デジタルコレクション
小倉山 二尊院|歴史と沿革


 三条西家証本(三条西家本)

  • 三条西実隆が「証本」を元に作ったとされる源氏物語の写本。
    証本とは藤原定家が作成した源氏物語の写本、いわゆる「青表紙本」を指す。
  • 現宮内庁書陵部蔵(三条西家旧蔵)のものと、日本大学図書館蔵(三条西家旧蔵)のものがある。
  • 文明17年(1485年)に一度54帖の書写を終えるが、これは後に金五枚で売却している。さらに後、息子の公順・公条とともに書写したものが残る。
書陵部本
「実隆奥書本」、「実隆加証奥書本」、「青表紙証本」とも。
  • 全54帖
  • 「桐壺」巻末に、「此物語五十四帖以青表紙証本令書写校合 銘是当代宸翰也 殊可謂珍奇 可秘蔵々々 権大納言藤実隆」、「夢浮橋」巻末に、「此物語以青表紙証本終全部書功者也 亜槐下拾遺小臣」との実隆自著および花押。
日大本
「三条西家証本」「証本源氏物語」
  • 夕霧巻を欠く53帖
  • 手習巻の奥書に実隆の言葉として「以証本書写之 老後之手習無其益 慚愧々々」とある。また、この本を書写したという後陽成院宸筆本(宮内庁書陵部蔵)夢浮橋巻末奥書にも「以三条西家伝之証本令謄写了」とある。
  • 実隆が77歳の時(1531年(享禄4年))に、息子の公順・公条と共に3人で書写したものである。
  • さらに、三条西家本として伝わる源氏物語には、下記が知られている。
  1. 三条西実枝らの筆と伝える早稲田大学本:早稲田大学図書館所蔵
  2. 三条西実隆らの筆と伝える吉川本:岩国市徴古館所蔵(吉川家旧蔵)
  3. 三条西実隆らの筆と伝える蓬左文庫本:蓬左文庫所蔵

 実隆本源氏物語系図

  • 実隆以前の源氏物語系図は九条家本の流れを汲むもので、巣守三位など現存する源氏物語の中には現れない人物についての言及もしばしば見られるなど当時の標準的な本文となりつつあった青表紙本による源氏物語とはしばしば整合性の取れないものであった。
  • そのような中で三条西実隆によって整えられた「実隆本」はそれ以前の古系図とは形式と内容がいくつかの点で異なっていた。実隆本が成立して以後はわずかな例外を除いて実隆本の流れを汲むものが主流となっていった。

 関連項目


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