二つ銘則宗


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 二つ銘則宗(ふたつめいのりむね)

革包太刀
銘○○国則宗
号笹丸(ささまる)
中身太刀則宗(二つ銘則宗)
2尺6寸4分3厘(80.1cm)
重要文化財
愛宕神社所蔵、京都国立博物館寄託

  • 備前一文字則宗
  • 銘の「○○」部は判別不能だが、銘が「前國」の2文字が見え、「備」の文字が見えない。「則宗」は明らかに判別される。享保名物帳には「備前国則宗」と記載されている。
  • 享保名物帳

    二ッ銘則宗 在銘長二尺六寸八分 愛宕山
    京都将軍家御重代尊氏公より十三代義輝公へ伝り鬼丸、大典太同時に義輝公より秀吉公へ進ぜらる、早速愛宕山へ御納候

    • 13代義輝は誤り、15代義昭から秀吉が拝領。
  • 詳註刀剣名物帳

    義輝公は義昭公の誤りなり、この太刀の傳に就て八代將軍吉宗公京都所司代に命じ(此時は松平伊賀守所司代なり)封を開きたる由來あれども事長ければ記さず、此刀の銘前國と二字見えて備の字見えず則宗とは明かに見ゆる由なり何故に二つ銘と言しや覺束なき事なり、また拵へに笹の毛彫りあるを以て笹造りとも云應仁記には篠造りの太刀とあり拵へは鬼丸造りと云ものに似たり。

    京都所司代の松平伊賀守とは松平忠周のこと。藤井松平家の傍系松平伊賀守家。丹波亀山初代藩主松平忠晴の庶出の三男で、異母兄で2代藩主となった忠昭の跡をついで天和3年(1683年)より丹波亀山藩主。のち武蔵国岩槻藩、但馬国出石藩、信濃国上田藩と転封を繰り返した。将軍吉宗のもと、享保2年(1717年)9月27日~享保9年(1724年)12月15日まで京都所司代を務めた。のち老中へと進んでいる。調査内容は後述。

  • 鎬造り、庵棟、反り高く腰に踏ん張りがある。先幅補足、小峰。鋩子先尖りごころ。なかご生ぶ、雉子股形、先栗尻。
  • 目釘孔1個、目釘孔の上に「備前国則宗」の五字銘。
  • 太刀拵が附き、「笹丸太刀」と称される。金具には笹の彫り物があり、金具には魚子を彫る。目貫は二引両。鐔は革の五枚合わせ。さらに鞘全体を薄革で金具の上から覆ういわゆる革包太刀様式となっている。
Table of Contents

 由来

  • 古くより「二つ銘」または「笹丸(笹作り)」と呼ばれる。
  • 現在は外装である太刀拵が「笹丸太刀」、中身の太刀が「二つ銘則宗」とされている。このように拵と刀身に別の名前が附くのは、この二つ銘則宗だけとされる(渡邊妙子氏)。
  • 「二つ銘」の由来は不明。

    何故に二つ銘と言しや覚束なき事なり

    一説に、銘の「備前国則宗」の"備前"が朽ちて"則"の様に見え、「則国則宗」つまり則国と則宗の合作であると誤読したためともいう。

  • また「笹作り(篠作り)」とは、拵えの金具に笹竹の毛彫があるため。小竹作りの太刀

 来歴

 足利尊氏

  • 足利尊氏佩用と伝わる。

    尊氏将軍九州進発之時、見乗御舟時、篠造之御太刀自御舟被取落、沈海底、蘇我入海取出之

    • 船出の時に海に落としてしまい、それを蘇我左衛門尉が拾い上げた。
  • 足利尊氏が九州にいた時に帯びていたともいう。

    尊氏公は赤地錦の直垂に唐綾威の鎧を著て、骨食太刀又二ツ銘と名つく、頼政卿伝る処也を佩る、舎弟左馬頭直義は赤地の錦の直垂に、紫革綴の鎧を著て、篠作太刀足利家代々の重宝也を佩かる

    ただしこの通りだとすると源頼政の「骨食」(短刀と伝わる)が二ツ銘で、さらに弟の足利直義が「篠作太刀」と、別のものになる。

  • 一時弟の足利直義に与えたことが「梅松論」に出ている。

    頭の殿(直義)は、同じく妙恵が進らせたりける赤地の錦の御直垂に紫皮威の御鎧、御剣は篠作(二つ銘則宗、篠造太刀)、弓箭をも帯せらる。

 足利義満

  • その後3代将軍義満に伝わる。
  • 応永15年(1408年)3月に北山行幸の折に飾り付けた名物の中に名前が見える。

    其他静カ持シ小薙刀宗近作ナリ、佐々木ノ縄切丸、能登守教経ノ青海丸、扨亦御當家累代ノ篠作、畠山清丸幷雲山寶壺、一色家虎骨丸、六角家ノ玄宗ノ寶壺幷龍尾、扨亦御所ノ御秘藏ト聞エシ八幡太郎義家ヨリ御傳ノ飲見ト云甲冑、其外漢家本朝ノ名物此時一モ出スト云事ナシ、依多記モラスナリ、

  • 「明徳記」

    御所様(義満)其日の御装束は態と御小袖をばめされず、ふすべ革の御腹巻の中二通り黒皮にて威したるを召し同毛の五枚甲の緒をしめ、累代御重宝と聞へし篠作と云御佩刀二銘と云御太刀二振そへてはかせ給ふ、薬研通しと云御腰の物をさゝせたもう云々

    26日は篠作り、29日には篠作りと二つ銘を佩用したというが、2つは同じものとされる。

  • ただしこれを引用する「詳註刀剣名物帳」では、注で「篠作と云御佩刀」と「二銘と云御太刀」を別物とするのは誤りとしている。

    二ツ銘は一文字則宗にて二字銘なるが故に二ツ銘と云、篠造りとも云ふは拵えに笹の紋あるが故なり

    現代では「二つ銘則宗」は、拵えが「笹丸」、中身が太刀則宗(二つ銘則宗)として伝わる。
    なお「二字銘なるが故に」と書いているが、「則宗」銘のものはいまでも複数現存する。御物、日枝神社蔵(国宝)、三井記念美術館蔵(重文)、岡山県立博物館蔵(重文)

 足利義教

  • 第6代将軍足利義教の時、永享4年(1432年)5月7日に紛失するが見つかっている。

    幕府、寶刀の紛失に依りて、相國寺をして、祈祷を行はしむ、

    永享四年五月四日御小袖間戸開之自久我殿故鹿苑院之時順被進之袖丸并サヽ作御太刀都合二振紛失、同七日朝見付之間、卽諸土蔵共御領明之處九日朝自土蔵ニ今砌出現稀代事也

    五月九日晴、抑室町殿御重代之御劔二紛失、此間鹿苑院御坐御留守之間人盗取云々、七日被見付御會所之御塗籠之内ニ被置件劔ヌケ丸云々今一者不知仍洛中土蔵ニ被觸仰被相尋之處土蔵兩所ニ件劔預置則進之間天下之重寶紛失以外御仰天之處出来御悦喜無極仍御𣠲ニ御劔公家武家進之
    十五日雨降、室町殿以僧百人七令日大般若経真讀観音懺法等被行是御劔紛失之御祈祷云々御劔失事真寶不思儀表事云々塗籠二重戸鋼を□ち切て取之容易人不出入所也、而失之條恠異歟云々盗人未露顕

    後者では二剣のうち1口が笹丸(二つ銘)ではなく「抜丸」、もう1口は不明となっている。

 足利義政

  • 第8代将軍足利義政の時、文明2年(1470年)12月11日賊に盗み出されている。盗人は賀茂氏の萬彦大夫兄弟といい、六条河原にて処刑された。

    盗、幕府に入りて、宝刀を窃む、是日、幕府、東寺及び南都七大寺に命じて、之を祈らしむ、尋で、盗を捕へ、宝刀を納む、

    十二月九日、乙卯、陰、雪降積地一許寸、傳聞、武家重代重寶或人盗取之云々、太刀號二銘、刀、長刀等七色紛失云々、稀代事也
    十七日、癸亥、晴、海住山亞相(高清)、勧修寺黄門等來武家重代一昨日悉被尋出云々、近日種々被致祈祷云々、可謂神慮歟、賀茂地下人盗之、召戒間之、今日諸家進太刀云々

【足利将軍歴代】
尊氏─義詮─義満─義持─義量─義教─義勝─義政─┐
                        │
┌───────────────────────┘
└─義尚─義材─義澄─義稙─義晴─義輝─義栄─義昭


【足利氏】
貞氏─┬尊氏─┬義詮─┬義満─┬義持──義量
   │   │   │   │
   │   │   │   │【鞍谷公方】
   ├直義 ├直冬 └満詮 ├義嗣──嗣俊
   │   │       │
   └高義 └基氏     └義教─┬義勝
        【鎌倉公方】     ├義政───義尚
                   ├義視──┬義稙
                   │    └義忠
                   │【堀越公方】        ┌周暠
                   └政知──┬茶々丸      ├義昭
                        └義澄──┬義晴──┴義輝
                             │
                             │【平島公方】
                             └義維──┬義栄
                                  └義助

 足利義稙→足利義澄

  • 明応2年(1493年)5月6日、第10代将軍足利義稙(義材)から足利義澄(義遐)へと伝わる。
  • 明応の政変で政権を追われた義材は、元管領畠山政長と共に正覚寺に籠るが、やがて足利家伝来の甲冑「小袖」と宝刀「二つ銘」を携え上原元秀の陣に投降して京都龍安寺にて幽閉される。この時に細川政元の後援を受けて継承者となった義遐へと足利家の重宝が伝わった。

    義材、伝家の鎧刀を足利義遐に授く、
    (大日本史料)

    五月六日、御小袖并二銘等暮夜一色式部少輔殿爲御使者、持以見謁當相府云々
    (蔭涼軒日録)

    足利義稙は初名義材、将軍職を追われ逃亡中の明応7年(1498年)に義尹(よしただ)、将軍職復帰後の永正10年(1513年)には義稙(よしたね)と改名している。
     足利義澄は文明17年12月(1486年)叔父義政の意向で天龍寺香厳院の後継者に定められ、文明19年(1487年)6月上洛して香厳院を継承、出家して法名を清晃と名乗る。長享3年(1489年)に足利義尚が死去すると後継候補となり還俗。この時は足利義材が将軍となり、義澄は日野富子の小川殿を譲られている。その後、義遐(よしとお)、義高(よしたか)、そして義澄へと名乗りを替えている。

 太刀拂拭

  • 年中恒例記に次のように記す。

    當月彼岸に三け度入日 中日 あく日本阿來候て西の御坐敷にて御重代並御太刀等の拭ひ申也、同朋申次之、中日にハ重代二ツ銘一はばかりぬぐひ申候、二ツ銘のこひ申候時は御紋仕候、御供衆又ハ御部屋衆一人同朋に被相副候、自餘之御重代のこひ申候時は同朋計にてのごはせられ候也如此三ヶ度参勤仕候て結願の日、御太刀白被下之、同朋取次之
    當月ひがん中日に御鏡とき参りて下御末邊にて御鏡とき申也並女中衆御鏡もとき申也仍御太刀白被下同朋衆申沙汰之

 秀吉・愛宕神社

  • 後に足利義昭(義輝とも)から寄贈を受け豊臣秀吉の手に渡り、京都の愛宕神社に奉納された。
  • 愛宕神社は正保2年(1645年)正月23日の火災で炎上するが、「二つ銘則宗」は25日になって丹波国一の鳥居原で刀箱に入っているのを百姓が発見し、愛宕神社まで運んできたという。刀袋の勅封も刀箱の五坊の封印も元のままであったが、さらに外箱を作り封印したという。
  • のち本阿弥光甫らが京都所司代板倉周防守(板倉重宗。在任:1668~1670年)に「二つ銘則宗」の拝見を願い出たが、愛宕神社では勅封されたもので愛宕神社でも見たものがいないということで断られている。

 吉宗期の調査

  • 享保4年(1719年)9月、将軍吉宗は本阿弥三郎兵衛光忠本阿弥光通、本阿弥四郎三郎を呼び出した上で「二つ銘」の作者について尋ねるが、彼らはそれに答えることができなかった。
    この頃、「二つ銘」は2人の刀工による合作であるとされ、その作者については秘伝扱いになっていた。吉宗はそれを問いただしたのだが、江戸の本阿弥家では回答できなかったという。そこで京都所司代を動かして、愛宕神社に問い合わせさせた上で銘や拵えなどを確かめさせたという流れになる。
  • そこで吉宗は、京都所司代松平伊賀守忠周(在任:1717~1724年)に命じて「二つ銘」の調査を行わせている。京都所司代からの呼び出しを受け京都の本阿弥光盛が参上するが、錆び付いているのか鞘から抜けなかった。
  • そこで9月28日に鞘師を連れて行くと他言無用を言い渡された上で鞘師がいろいろ工面することで抜けた。錆はついておらず、その後絵師を呼び、3日かけて刀身や拵えを模写させている。
  • 10月に江戸の本阿弥光忠と光通を呼び出し、御用人有馬兵庫から「二つ銘則宗」につき本阿弥宗家に伝わっている由来を尋ねさせると、次のような調査結果が出た。

    ・秀吉が愛宕神社へ奉納した
    ・「小竹切り」という別名がある
    ・東馬備太夫が「金具に篠の紋があるため篠作りと呼ぶ」と述べた記録がある

  • 11月、京都所司代松平伊賀守は本阿弥光盛に命じ、刀身の木型や外装の模造をさせており、それが翌年正月11日に出来上がった。この時、研ぎも承ったために記録が残っている。

    ・外装は革包みの鬼丸拵え
    ・柄の縁、甲金、猿手や大切刃に笹竹の毛彫り
    ・目貫は丸に二つ引きの紋
    ・柄の鮫皮はとれてしまっているが、元は塗り鮫を革で包みさらに黒糸で巻かれていた
    ・鍔は五枚の練り革で革包み
    ・鞘も革包みで、金具には篠の彫り物
    ・刃長二尺六寸八分、なかご生ぶ、銘は大振りで「備前国則宗」の五字銘。ただし”備”は全くなく、”前”は半ば朽ちている

  • 明治42年(1909年)9月21日旧国宝指定(現重要文化財)。

    丙種 刀劒
    革包太刀(笹丸)則宗ノ銘アリ 一口
    京都府嵯峨村 愛宕神社
    (明治42年 内務省告示第百十六號)

  • 現在は京都国立博物館に寄託されて管理されている。




 他の篠作り

 義教佩用「篠作り」

足利義教佩用
粟田口国綱

  • 義教は国綱を賞玩したため、将軍への献上物には「国綱」の偽名を切らせたとの話が伝わる。赤松満祐に殺害された際にも、偽名の国綱を帯びていたという。
  • 本物の佩刀は、その後岸和田城主の安宅冬安が愛蔵したという。

 笹作正宗

徳川将軍家所蔵
大磨上無銘
二尺二寸七分

 山名家「篠作り」

  • 山名時煕または義顕が、足利義満から拝領したという。
  • 作は不明
  • 山名家ではこれを名誉として篠の紋を副紋とするようになった。

 茶器の「二つ銘」

  • 名物茶器にも「二つ銘」という名の名物がある。

    (天正十八年十二月)
    同十六日朝 駿河殿  (人數書落也)
    一、ゐるり てどり
    一、床 葉茶壺おきな 見あげじわのやうなるすぢアリ 土之所ニ在遠山はさき歟
    一、たんすニ しがらきそへテ茶碗也
    一、ざうげの茶杓二ツめゆい 珠徳
      ※本文注:二ツ銘ノ誤、茶杓ノ銘也、按ズルニ二ツ銘ハ足利義満所持ノ名刀ノ名也、銘二タ所ニ切リタレバ此名アルカ、明徳記ニ義満篠作ト云御帯刀ニ二ツ銘ト云御太刀二振ソヘテ佩カセ給ヒケルトアル之也、後世ニ在リテモ利休所持ノ茶杓ニ荒身藤四郎遠州作ニ關ノ孫六ナドアル共ニ名刀ニ思ヒ寄セタル名也、名物記ニ此杓象牙トアリ

  • つまり、足利義満所持の名刀「二ツ銘」に思いを馳せて、茶杓に「二ツ銘」と名付けたという。さらに、利休が茶杓に「荒身藤四郎(新身藤四郎)」、小堀遠州が「関の孫六」などと名付けたのも同様に名物刀にちなんだものという。

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