今村長賀


 今村長賀(いまむら ちょうが)

陸軍軍人、刀剣鑑定家
号 秋水(秋水軒)、秋水軒長賀

  • 本名は「長賀(ながよし)」だが、刀剣界では「ちょうが」と呼ばれる。
  • 土佐出身で、早くに宮内省へ入り、国宝調査などに関与して刀剣界の大物となった。

    事實に於て今村氏が刀劍に對する鑑識は餘程勝れて居た。それは本阿彌長識にも、平十郎にも忠敬にも或は教へと受けたかも知れないが、早くより宮内省に入り文部省の國寳調査に關係し、刀劍會の實權を時分の掌中に握つて居たのが、全國にあるとあらゆる刀劍を見盡したのが、何と言つても今村氏の强味であつた、好き刀を多く見たといふ點では何と言つても今村氏を以て空前絶後とするであらう。成程今日では松平子爵も随分多くの刀を見て居られる、本阿彌を名乗る人々も職業上多くの刀劍を見る、網屋共他の刀屋も多く刀を見るであらう、けれどもそれは何と言つても今村氏には及ばない、單に見た數が及ばないばかりでなく、熱心と研究的態度が足りないと言へる。

Table of Contents

 生涯

  • 天保8年(1837年)5月23日、高知藩士である父・今村長修のもと土佐に生まれた。
  • 幼名は和助。通称和七郎。
  • 慶応4年(1868年)、戊辰戦争に従軍する。
  • 明治4年(1871年)陸軍少尉。12月に中尉(東郷直一、鮫島宗條、山口盛高ら)。
  • 明治7年(1874年)2月会計軍吏副。
  • 明治8年(1875年)従七位、近衛局被服陣営課員。
  • 明治10年(1877年)、陸軍一等主計(大尉相当官)となっている。
  • 明治10年(1877年)の西南戦争には、別働第二旅団被服陣営課長として出陣している。
  • 明治11年(1878年)6月22日勲五等(小原武平、酒井融ら)。
  • 明治12年(1879年)頃近衛局被服課長。
  • 明治13年(1880年)正七位。総務局。
  • 明治14年(1881年)宮内省奏任御用掛(桑島景連ら)。
  • 明治16年(1883年)頃同局(近衛局)軍法課勤務。
  • 明治17年(1884年)10月1日神田節監督補(三方山中行、佐脇安之、野崎貞智ら)11月5日理事。
  • 明治18年(1885年)4月7日勲四等。旭日小綬章。
  • 明治19年(1886年)遊就館取締。
  • 明治22年(1889年)全国寶物取調局監査掛。
  • 明治39年(1906年)2月9日再び宮内省御用掛(陸軍少将 隈部潜ら)御剣鑑定および研ぎ。
  • 東京に出た後、本阿弥成重(平十郎)に刀剣の鑑定を学び、やがてこの道の権威となる。
  • 明治12年(1879年)に御剣真偽の鑑別会議が開かれているが、委員に選ばれ、本阿弥成重本阿弥長識本阿弥忠敬、竹中公鑒らと共に出席している。
  • 明治14年(1881年)、宮内庁御用掛となる。
  • 明治19年(1886年)、東京九段に遊就館が開設されるとその取締となり、武器甲冑の整頓、鑑別を託された。
  • 明治22年(1889年)臨時全国宝物取調鑑査員となり東京および奈良の帝室博物館に陳列する刀剣の鑑定に従事したほか、全国有名寺社旧家の武器調査を行い、刀剣鑑定家としての名声をあげた。
    • 伊勢神宮の調査は、明治22年(1889年)9月23日から3日間。
    • 内宮分は皇何号、外宮分は豊何号と番号を振っている。
  1. 皇一号:正徳5年(1715年)8月に霊元法皇より御奉納された白銀作り毛抜形太刀。中身は山城國来金道。刃長二尺四寸。
  2. 皇二号:寛延2年(1749年)9月桜町上皇より御奉納。中身は伊勢守藤原清方作。薩州喜入住、延享または寛延ころの作(いわゆる新身)。刃長二尺二寸五分。
  3. 皇三号:3代将軍家光奉納。菊一文字太刀。磨上、中心の刃棟を磨り、先を切り、先に一の字が太刀銘に半分ほど残っているが菊紋はない。刃長二尺三寸。赤銅七子地金小縁の拵、菊の御紋散らし梨子地鞘、糸巻太刀拵。
  4. 皇四号:4代将軍家綱奉納。中身は備前国吉信作。二字銘。刃長二尺七寸。表裏ともに鎺の上に角留の棒樋。
  5. 皇五号:寛文3年(1663年)6月に4代将軍家綱奉納。中身は無銘守家。太刀銘に家の字がかろうじて残る。二代目守家作の弘安頃の作と見られる。赤銅魚子地金小縁、桐の紋散らし梨子地鞘、糸巻拵。
  6. 皇六号:寛文4年(1664年)2月4代将軍家綱奉納。中身は長光。刃長二尺六寸一分。生ぶ中心二字の太刀銘。赤銅魚子地金小縁、細輪に三つ葵紋散らし、梨子地鞘金蒔絵同紋散らし糸巻太刀拵。
  7. 皇七号:寛文5年(1665年)4代将軍家綱奉納。中身康光。刃長二尺四寸五分。生ぶ中心二字太刀銘。
  8. 皇八号:寛文9年(1669年)4代将軍家綱奉納。中身国吉。刃長二尺五寸。備後一乗国吉とするが、備後にはいないため、肥後の延寿国吉とする。
  9. 皇九号:天和2年(1682年)5代将軍綱吉奉納。中身行平。刃長二尺二寸五分。鞘巻太刀
  10. 皇十号:天和3年(1683年)3月5代将軍綱吉奉納。中身雲次。刃長二尺二寸五分。磨上中心先に二字の太刀銘。糸巻太刀
  11. 皇十一号:貞享4年(1687年)12月5代将軍綱吉奉納。中身綾小路定利。刃長二尺五寸。生ぶ中心二字の太刀銘。表裏樋。目貫は雲に日月。鞘巻太刀。※以降15代将軍慶喜まで目貫が雲に日月、総金物が雲の紋になっている。
  12. 皇十二号:元禄2年(1689年)9月5代将軍綱吉奉納。中身近景。備前国長船住近景と長い太刀銘。糸巻太刀
  13. 皇十三号:宝永6年(1709年)9月6代将軍家宣奉納。生ぶ中心三字の太刀銘。中身来国俊。刃長二尺四寸五分。
  14. 皇十四号:宝永7年(1710年)4月6代将軍家宣奉納。中身青江俊忠。生ぶ中心。二字の太刀銘。刃長二尺四寸九分五厘。糸巻太刀
  15. 皇十五号:正徳2年(1712年)12月7代将軍家継奉納。中身青江守次。生ぶ中心。二字の太刀銘。刃長二尺二寸五分。表裏に二筋樋。
  16. 皇十六号:享保2年(1717年)6月8代将軍吉宗奉納。中身景依。生ぶ中心。銘は備前国住人左近将監景依作と太刀銘。裏に永仁六年十月日。刃長二尺三寸五分。
  17. 皇十七号:享保10年(1725年)8代将軍吉宗奉納。中身古備前吉包。生ぶ中心。二字の太刀銘。刃長二尺三寸。
  18. 皇十八号:享保14年(1729年)8代将軍吉宗奉納。中身正恒。磨上二字の太刀銘残る。
  19. 皇十九号:延享2年(1745年)11月9代将軍家重奉納。中身国次。生ぶ中心。二字の太刀銘。刃長二尺三寸五分。
  20. 皇二十号:寛延2年(1749年)9月9代将軍家重奉納。中身一文字助吉。磨上。二字の太刀銘。刃長二尺三寸五分。
  21. 皇二十一号:宝暦2年(1752年)12月9代将軍家重奉納。中身兼光。備州長船兼光と六字の刀銘。末備前。
  22. 皇二十二号:宝暦10年(1760年)9月10代将軍家治奉納。中身信房。磨上中心先に二字の大銘残り。刃長二尺三寸。
  23. 皇二十三号:明和6年(1769年)9月10代将軍家治奉納。中身一文字助宗。生ぶ中心。佩表に一の字。裏の目釘孔の下に助宗。刃長二尺四寸。
  24. 皇二十四号:安永7年(1778年)12月10代将軍家治奉納。中身友安。磨上。左近将監□安と残る。刃長二尺二寸五分。
  25. 皇二十五号:天明7年(1787年)10月11代将軍家斉奉納。中身雲生。刃長二尺三寸。二字の太刀銘。
  26. 皇二十六号:寛政元年(1789年)9月11代将軍家斉奉納。中身遠近。磨上二字銘。刃長二尺三寸。
  27. 皇二十七号:文化6年(1809年)9月11代将軍家斉奉納。中身雲生。磨上。二字の太刀銘。
  28. 皇二十八号:文化11年(1814年)11代将軍家斉奉納。備前国長船住近景太刀銘。裏に嘉暦元年九月日。刃長二尺五寸。
  29. 皇二十九号:文政12年(1829年)9月11代将軍家斉奉納。磨上二尺二寸。一の字とその下に肥前国出羽守行広 以阿蘭陀鍛と裏銘。
  30. 皇三十号:天保5年(1834年)12月11代将軍家斉奉納。肥前国河内大掾藤原正広。直刃。
  31. 皇三十一号:12代将軍家慶奉納。肥前国河内守(二代)藤原正広。
  32. 皇三十二号:嘉永2年(1849年)9月12代将軍家慶奉納。中身国正。
  33. 皇三十三号:嘉永7年(1854年)壬七月、13代将軍家定奉納。新々刀石堂是一の太刀
  34. 皇三十四号:安政6年(1859年)9月14大将軍家茂奉納。江戸新刀の藤原国正の太刀
  35. 皇三十五号:慶応3年(1867年)9月15代将軍慶喜奉納。中身新々刀石堂是一の太刀。文化元年十月日の裏銘あり。
  36. 皇三十六号:元禄7年(1694年)9月徳川綱吉母奉納。中身加州藤原家次の短刀。中心裏に三州円光と彫る。
  37. 皇三十七号:京都所司職従四位下兼伊賀守源朝臣忠周奉納。中身は無銘大和千手院の刀。大磨上無銘。享保5年(1720年)子霜月三日代千貫の本阿弥光忠折紙つき。刃長二尺三寸七分。
    丹波国亀山藩3代藩主・松平忠周(のち武蔵国岩槻藩主、但馬国出石藩主、信濃国上田藩初代藩主)。伊賀守流藤井松平家3代。伊賀守、侍従。京都所司代、老中を歴任。
  38. 皇三十八号:明和2年(1765年)4月浜地重郎兵衛重興奉納。中身神息。長太刀俵藤太秀郷の蚣切也、作者神息云々という長い鞘書がある。実は南北朝ごろの備前打ち長巻直しとされる。
  39. 皇三十九号:助宗作。刃長一尺七寸五分の脇指。
  40. 皇四十号:嘉永2年(1849年)9月名古屋竹屋九兵衛奉納。桑名住広房。刃長一尺一寸。
  41. 皇四十一号:安政2年(1855年)4月彦根藩主井伊直弼奉納。二字国広。刃長二尺ごsん。
  42. 皇四十二号:元治元年(1864年)3月志州鳥羽稲垣房矩奉納。磨上無銘雲重の刀。寛文4年(1664年)5月3日代金子七枚の本阿弥光常折紙つき。刃長二尺五寸。
  • 明治30年(1897年)からは帝室博物館の臨時監査掛となり、さらに内務省の古社寺保存会委員に任命される。
  • 明治39年(1906年)、宮内庁御刀剣係となる。

    宮内省御用掛被仰付(二月九日宮内省) 陸軍一等主計 今村長賀
     但奏任待遇

  • 明治43年(1910年)12月27日、東京麹町で死去、享年74。正六位。
    • 自宅:東京市麹町區一番町
    • 妻:春子。天保13年(1842年)生まれ。
    • 長男:長亮。元治元年(1864年)生まれ。
    • 長幸:慶応2年(1866年)生まれ。
    • 長敏:明治元年(1868年)生まれ。河野氏。工兵中佐。

 書物

 逸話

 今村の矢立

  • 長賀はどこへ行くにしても矢立と帳面を持ち、メモを欠かさなかったという。

    其點に就て松平子爵はある日私に斯う言はれた「今村の偉い所は何處へ行つても矢立と帳面とを持つて行く、なにか見たり聞いたりすると其の帳面へ書きつける、之は今村程の大家としては一寸出來ない藝當で、今村の矢立と言へば名高いものであつた。
    それからもう一つ今村の偉い點は誰の説でも如何に下らない人の話でも、必ずお終いまで聴いて居る、決して話の途中から腰を折つたり反對したりしない、何處に何ういふ眞理があるか知れないから人の説は全部傾聴すべしだ、反對はあとでゆつくり出來ると言つて居た」此話で今村氏が如何に非凡人であつたかといふ事はわかる、此の人の力で土佐人に愛劍家が多く出來たのは決して不思議な事ではない。

 刀剣

  • 蒐集した刀剣は3000振りと言われている。その膨大なコレクションは、晩年に「所蔵刀を全部砥がせるためにはあと二十年の寿を保たねば完成せざるべし」と自ら述懐したほどであったという。
無銘 伝長光。附 本阿弥光徳下札。刃長二尺三寸六分。昭和9年(1934年)12月20日重要美術品認定。認定時所持者山内豊景氏。大磨上無銘。元は尾張藩竹腰家に伝来したもので、今村長賀が所持した。

 今村押形

  • 公家から譜代大名まで手広く訪れて宝刀を眼にしている。

    維新(ゐっしん)前までは、人の刀劍(たうけん)を見るといッても、なかゝ容易の事でない、()の家には(たれ)の名刀がある、この大名は何の利劍を所持しちょるといッても、或は其家の寶刀となッちよたり、或は其人の祕藏であッたりして、容易に見るとは出來なんだが、今は時世も變り、是までとは違ふて特別の事情のない限りは(ちかづ)くとの出來なんだ公家(こうけ)なり、譜代大名へも自由(じいう)出入(しゆつにふ)し、頼めば吝しまず傳家の寶刀も見せて呉れるといふ有様で、一時諸國大名の東京(とうけい)に集ッて居た頃などは、天下の名刀利劍も凡て其家と共に東京(こちら)に寄ッて居たので、大抵は(まなこ)を通した。

  • また各地で刀剣を鑑定した際に押形を採っており、これらは今村の死後、杉原祥造の手に渡った。1927年(昭和2年)に大阪刀剣会から「今村押形」として出版されている。

    然れども先生の面目を千秋に傳ふるものは、實に其親寫親摺し給ひし、日本刀圖譜數十巻なり、先生歿後其の多くは故杉原祥造が、十襲珍藏する處となる、今我等が公刊したる此「今村押形」三巻も、亦其一部なり。

  • 後に中央刀剣会より刊行された「光山押形」および「埋忠押形」の底本は今村所蔵のものであり、今村の書き込みを各所に見ることができる。

 正宗抹殺論

  • 今村長賀で特筆されるのが「正宗不在説(正宗抹殺論)」である。
  • 現在ではすでに否定されているが、明治ごろの刀剣界で「岡崎五郎正宗が実在しないのではないか」という疑問を呈したのが今村であった。※ただし読めばわかるが、今村は「正宗の正作は見たことがない」と言っており、正宗という刀工の存在自体を否定してはいない。

    何時(いつ)じゃッたか、……ソウゝ明治十二年以來、在銘の正宗で、眞に正宗正宗たる者があれば、(あたい)は一向吝しまぬから、一刀をといふ者があるが、今に見當らぬ。
    正宗といふ奴は、婦女子にまで知られた徳な奴じゃが、在銘でこれが正宗といッて信用すべき者は、げに一本もない、多くは豊臣徳川以後に行はれたもので、其以前武將の差料に正宗といふは、あまり聞いたことがない。
    (略)
    ()に、正宗の正作は無かッたのではあるまいか。
    本朝鍛冶考(ほんてうかじかう)に因るに、古來刀劍鑑定の大達者(おほたてもの)宇都宮参河入道が足利義満時代に京都有職家に献上すべき利刄名劍百八十ニ工を撰びし中に、正宗は確に無く、其他一二の書にも正宗を名劍の中に加へたは餘り見當らぬ、是に因つて見るに正宗の無銘の摺上げが、豊臣以降、始めて本阿彌に因ッて極まつたといふは、豊臣太閤が政略的に、本阿彌をして正宗なる者を拵へさせたのではないか、或は何の茶壺といひ、或は何の茶器と唱へて、千の利久をして態とらしく名の知れぬ陶磁器にももッたいをつけて、群雄収攬の心より政略的に之を當代の俊傑に贈りしと同じく、正宗といふ一刀も亦本阿彌をして之れを拵へさせ、折紙の何のと軀裁を飾ッて、群雄の心を喜ばせんために政略的贈物としたものではないか、現に石田三成が堀川の國廣をして、正宗十哲を拵へさせ、方々へ呉れたといふは確かな事實で、試に舊譜代大名の家に就いて、其正宗の刀の所以を叩くに、重に石田から貰らッたものだといふが多い。
    (略)
    恁くの如く斷じ來らば、實に正宗といふ正作は確に無かつたらうと想像が出來る。

  • 読売新聞が、明治29年(1896年)7月30日から3回連載で、今村長賀と対談した話を掲載し騒然となった。
  • その後3ヶ月に渡り、当時の刀剣界を代表する人物等による賛否両論を巻き起こした。
  • 詳細は「正宗」の項参照
  • ただし今村自身は「正宗という刀工がいない」といったのではなく「正宗の銘を見たことがない」といっているが、それを記者が誇張したという。

    本阿弥。(本阿弥光遜)町田平吉が遊びに行って「正宗をご覧になりましたか」と尋ねたのに、今村さんが「在銘は今まで見たことがない、稀なものだ」といった。少ないといったことを、町田は今村が正宗は無いといったと世間に流布したのだ。
    本間。(本間順治)今村さんが最初に読売新聞に載せた記事には「正宗といふ奴は、婦女子にまで知られた徳なやつじゃが、在銘でこれが正宗と信用すべきものは、一本もあらじ」とあり、その後世間がやかましくなってから、御自身で書いて新聞に寄せた文章には「自分は正宗がないといったのではない」といっています。
    本阿弥。(本阿弥光遜)無論でしょう、夫を町田君が世間にしゃべる、そこへ光賀という人が加はって来て一層花が咲いたのでしょう。

    町田平吉とは浅草菊屋橋(下谷車坂)で刀剣商をしていた人物。天覧兜割りで知られる榊原鍵吉の義弟で門人。旧幕時代は介錯役だったという(甲州代官、手代仲間の出身とも)。山田浅右衛門とも関係が深く、撃剣興行などを催している。
     いっぽうで古画鑑定の向上を目的として鑑画会をフェノロサに開かせ(第3回までは会主)、またビゲローやフェノロサ、チャールズ・ゴダード・ウェルド(Charles Goddard Weld,1857-1911)等とも取引を行っていた。フェノロサやウェルドが買い集めた日本画は、フェノロサ・ウェルド・コレクションとしてボストン美術館の日本美術コレクションの中核をなしている。

    この最後の「光賀という人」とは、本阿弥忠敬の門人・和田正秀という人物で、本阿弥光賀(忠敬の父・忠正の弟知三郎)が明治20年(1887年)6月に死んだときに養子になることで跡を継いだが、忠敬から破門され離縁されたという。のち「二代光賀」を名乗っている。

 新刀の評価

  • 当時、本阿弥家では古刀に関しては第一人者ではあったものの、新刀に関しては虎徹と繁慶を当同然(二者のうち1つと鑑定しても当たりとする)とする状態であった。
  • 今村は新刀に関しても研究を行い、近年新刀に関して語られる素地を作ったといえる。この刀剣鑑定術は、松平頼平を通じて、杉原祥造へと伝えられ、内田疎天や加島勲へと伝わったとされる。

    先生の鑑刀精神乃至方法は、之れを松平頼平子爵に傳へ、子爵之れを故杉原祥造に傳ふ、我等兩人不敏なりと雖も、又此鑑刀精神乃至方法の幾分を故杉原祥造とり傳へられたる者なり。

 参考

 剣話録附録所載押形


Amazon Prime Student6ヶ月間無料体験