堀川国広(刀工)


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Table of Contents

 堀川国広(ほりかわくにひろ)

日向綾出身の刀工
信濃守と号す
新刀鍛治

 日向伊東家

  • 本名は田中金太郎。
  • 田中国広と称し、九州日向飫肥城主の伊東家の家臣であった。
  • 祖父も刀工で「日州古屋住實忠作 天正ニ年二月日春玄坊」と銘のある二尺三寸三分の刀がある。他に「日州古屋之住實忠作/永禄十二年五月五日」(刃長70.8cm、反り1.2cm)という刀もあり、こちらは飯能市の有形文化財。有形文化財・工芸品|飯能市-Hanno city-
  • 父・國昌は旅泊と号し父の死後、号を継ぎ「旅泊庵主国広」と銘を打っている。
    実忠(さねただ)は、日向実昌または実正の子とされる。綾町大字入野にある刀工田中国広宅跡に建つ「刀匠国広顕彰碑」(昭和45年建立)によれば国広の祖父とある。
     実忠はあるいは、田中家系図では国広の父は実昌の子とあり、また銘字の相似などから実忠は国広の祖父ではなく国広本人の別銘(初期銘)ではないかともされている。

 流浪

  • 島津氏の侵攻に会い主家が没落。主家の遺児伊東満千代(天正遣欧使節の伊東マンショ)に従い各地を転々としたという。
  • 天正4年ごろから「日州古屋住」銘のものが残り始め、天正18年ごろまで日州古屋住と切っている。
  • 山伏としても庵名を「旅泊」という。國長との合作に「旅泊庵主国広」と切る。
  • 諸国を流浪し、天正18年には上野足利の足利学校におり、当主の長尾顕長のために「山姥切」写し(山姥切国広)を鍛刀している。
    足利学校の第8代庠主の古月宗銀(こげつそうぎん)は、詳細が不明ながら日向国の人だという。天正6年に庠主となった後、9年間務め天正14年までは少なくとも庠主であったと見られ、この日向の縁を頼って足利学校を訪れた可能性はある。次の第9代庠主が「布袋国広」の刀身の書を書いたとされる閑室元佶三要である。
  • この時、顕長の軍陣に加わり、足軽大将として殊勲をたてて感状と吉広の槍を拝領し、小田原征伐の際には小田原城に籠城したともいう。
  • 同じ頃、天正18年には信濃守を受領したと思われる。
  • のち石田三成の命を受けて九州に下り、都城島津領の検地に従事。文禄検地の結果、旧主伊東家の新領地も定まったため伊東家に復帰したという。
  • また「夢香梅里多(うめかおるさとにゆめおおし)」と彫られた短刀も残る。「布袋国広」参照

    短刀
    銘 日州住信濃守國廣作  天正十八年八月日 於野州足利学校打之
    刀身に「夢香梅里多」と布袋像
    重要美術品
    足利市民文化財団所蔵

 

  • 年月の入った銘一覧
年月備考
天正4年8月日州古屋住國廣
天正22年8月日州古屋住國廣作※22年は4年の意
天正6年2月日州古屋之住國廣
天正6年2月吉日日州古屋之住國廣作
天正6年8月彼岸日州古屋之住國廣作
天正12年2月彼岸太刀主日州古屋住國廣山伏之時作之山伏国広
天正14年2月日州古屋住國廣作
天正14年8月日州古屋住國廣作豊田安宗刀
天正14年8月彼岸日州古屋住國廣作短刀
天正18年2月九州日向住國廣作山姥切写し(山姥切国広
天正18年5月(九州日向住國廣銘打)※本作長義山姥切への銘入れ
天正18年8月日州住信濃守國廣作於野州足利学校打之布袋国広
天正19年8月藤原國廣在京時打之
慶長?歳2月江州佐和山住國廣※"二"年または"五"年 偽銘
慶長4年8月日於朝鮮釜山港 信濃守国広作偽銘
慶長4年8月彼岸幡枝八幡宮藤原国広造伝後水尾天皇御寄進
慶長7年12月國廣慶長七年十二月十四日
慶長9年2月信濃守國廣作依賀茂縣主保経所望打之
慶長9年11月信濃守國廣作依加茂祝重郎所望打之
慶長10稔2月洛陽一條信濃守藤原國廣
慶長12稔2月洛陽堀川住國廣造
慶長12年11月洛陽一條堀川住國廣
慶長12年11月信濃守國廣造北野天満天神豊臣秀頼公御造営之時
慶長15捻2月洛陽一條住藤原國廣造之向井将監忠勝所持之
慶長15年2月信濃守藤原國廣
慶長15年2月城州堀川住藤原國廣
慶長15年仲夏洛陽住藤原國廣造
慶長15年8月山城住藤原國廣造脇指
慶長17年8月山城國堀川住藤原國廣

 一条堀川

  • その後遅くとも慶長4年以降には京都一条堀川に住す。
    • 天正19年(1591年)の奥州仕置が終わった後、豊臣秀次は中尊寺の大蔵経を接収し、さらに足利学校や金沢文庫所収の書籍を京に持ち帰っている。さらに足利学校の第9代庠主(しょうしゅ、校長)である閑室元佶を連れ帰り、西笑承兌亡き後の寺社事務を行わせている。この時、国広も上京したものと思われる。
  • 信濃守受領
  • 慶長19年(1614年)4月18日、84歳で没。



 著名作

  • 特に堀川に住んでからの「堀川打」といわれる相州伝の作風が素晴らしく、加藤清正の指料である相州正宗の写しや、長義写しの名物山姥切(やまんばぎり)」などが有名。
  • 新選組副長土方歳三が国広の脇指を指したという。

 重要文化財指定

太刀
銘「日州古屋之住国広山伏之時造之/天正十二年二月彼岸 太刀主日向国住飯田新七良藤原祐安」「山伏国広」。個人蔵
銘「九州日向住国広作/天正十八年庚刁弐月吉日平顕長」号「山姥切」。個人蔵
銘「国広」号「加藤国広加藤清正の愛刀であり、娘の嫁入り道具の一つとして紀州徳川家に伝わる。尚、著名な片鎌槍も嫁入り道具の一つである。三井記念美術館所蔵
銘「国広/興山上人寄進」大正3年4月17日重要文化財指定。興山上人とは木食応其のこと。和歌山高野山蓮華定院所蔵
無銘伝堀川国広。長69.6cm。高松藩家老家に伝来。香川県立ミュージアム所蔵
銘「北野天満天神豊臣秀頼公御造営之時 于時慶長十二丁未十一月日信濃守国広造」豊臣秀頼寄進。慶長12年は1607年。大正3年4月17日重要文化財指定。北野天満宮所蔵
銘「信濃守藤原国広造/越後守藤原国儔」合作刀。大正9年4月15日重要文化財指定。和歌山・紀州東照宮所蔵
太閤奉納太刀
高野山文書

国広作太刀一腰太閤御所秀吉 御影堂宝蔵納之、
  寛文十年庚戌初秋上旬 老分中令一見者也
(高野山文書 二二〇)

豊国大明神之御太刀一腰、
長二尺五寸、友ハゝキ国広作、
装束ハ金子ノツバ、同カフトカ子、カフトカ子ノ内ニ星メヌキ、緒付ノクワン、緒付ノ末ニ露ニツアリ、又御付ニ金ノセメアリ、兩メヌキ桐菊、サメノ上ニ竹ノフシノスエ物五ツ、同ウラニ梅ノ花カタ五ツ、
同サヤニサカワ一ツ、紫引一ツ、
已上悉以テ金子ナリ、後藤作、
(高野山文書 二二一 豊臣秀吉奉納太刀注文)

短刀
銘「日州住信濃守國廣作/於野州足利學校打之 天正十八年八月日」長一尺一寸。
  • 大正14年(1925年)の「刀剣雑話」では伯爵徳川達孝氏所蔵
脇指
銘 日州古屋住国広作 天正十四年八月日(個人蔵)
銘 国広 慶長七年十二月十四日(現所蔵先不明)
銘 慶長九年二月吉日信濃守国広作 依賀茂縣主保経所望打之(愛媛・大山祇神社)1942年盗難に遭い所在不明。写真なし。
太刀
銘 國廣。拵 沃懸地蒔絵太刀金具正阿彌常吉作。大正2年(1913年)4月14日旧国宝指定。(和歌山・金剛峯寺)
短刀
銘 国広(個人蔵)

 重要美術品認定

  • 他に重要美術品認定の刀剣が12点ある。
    • 著名な作に、沢田道円所持の身幅が極めて広い(号 道円国広)の短刀がある。道円とは安土桃山時代の刀剣鑑定家である沢田常長のことで、通称木屋荘左衛門。※常長の父が沢田常堪
道円国広
短刀 銘「藤原國廣造/澤田道園所持」1尺8寸。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品認定。東京の中野喜咲氏蔵。のち静岡の石居健次氏蔵。
沢田常長こと木屋荘左衛門は、鎌倉西念寺の大旦那となっている。西念寺に収められている木屋夫妻像は、顔色も同じに保つため塗り替えの便を考慮して木造の"首"が抜けるように造られているため「木屋の首ぬけ像」と呼ばれている。この首ぬけ像は塗り替えるために幾度か江戸へと運ばれたという。
短刀
銘「日州住信濃守國廣作/天正十八年八月日 於野州足利學校打之」。昭和12年(1937年)6月29日重要美術品認定。三井高修氏蔵(本阿弥光遜氏旧蔵)
銘「日州古屋之住國廣作/天正六年八月彼岸」。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品認定。岩崎彦弥太氏蔵。
銘「國廣/慶長七年十二月十四日」。昭和16年(1941年)2月28日重要美術品認定。斎藤茂一郎氏蔵。

 その他

銘「日州古屋住國広山伏時作(以下切)」。長2尺5寸5分半。(現所蔵先不明)
脇指
瀧不動。伊達家伝来。

   陸奥守殿
國廣造り瀧不動脇指之義ニ付、昨日以自筆委細令挨拶候處ニ、爲礼書札、隔心之至ニ候、右之脇指猶以可爲秘蔵旨、尤之儀候、頃日打續天氣相無候へ共、機嫌能礼大慶候、自分にも無別状候、可被心安候、謹言、
(元禄十一年)二月廿四日  綱宗(花押)

隠居していた綱宗から嫡子綱村宛の書状。

 三成による偽正宗

  • 佐和山蟄居中の石田三成が、堀川に住み着く前の国広を雇い、盛んに正宗の銘を打たせては諸大名にばら撒き豊臣方へ勧誘を行ったという説がある。
  • これを「佐和山打ち」といい、時期は文禄の終わりから慶長の初め頃とされ、ちょうど銘に残る国広の空白期間に当たる。
  • ただし、古来喧伝されたこの噂が真実であれば、もう少し銘入り正宗が伝わっていてもおかしくはないはずだが、享保名物帳当時も、また現在も在銘正宗は極わずかに留まる。

 年代のズレ

  • そもそも近江坂田郡の佐和山は、天正13年(1585年)~文禄4年(1595年)まで羽柴秀次に与えられていた。三成の佐和山入城は秀次死後の文禄4年(1595年)とされる。

 佐和山領主の遷り変り

  • 少し遡って詳しく見ると、まず天正10年(1582年)6月の本能寺の変の後に行われた清洲会議において、近江佐和山9万石は堀秀政に与えられる。
  • 天正13年(1585年)四国平定後の閏8月に、堀秀政丹羽長秀の遺領越前国北ノ庄に18万石に転封する。そのあとに羽柴秀次が近江5郡43万石(蒲生郡・甲賀郡・野洲郡・坂田郡・浅井郡)を拝領し、安土の5km西方の近江八幡に八幡山城(近江八幡城)を築く。このとき近江佐和山は、秀次の家老堀尾吉晴が4万石で入っている。

    於江州所々自分弐拾万石、并其方相付候宿老共当知行弐拾三万石相加、目録別帋在之、都合四拾三万石宛行畢、相守此旨、国々政道以下堅可申付者也、
      閏八月廿三日 (花押)
        羽柴孫七郎殿

  • 吉晴はその後天正18年(1590年)の小田原平定後に遠江浜松城12万石に転封。佐和山は秀吉及び秀次の直轄地となっている。※翌年には家康に対して蒲生・野洲・甲賀の三郡において9万石の在京賄領地を宛行っている。
  • 文禄4年(1595年)7月15日に関白秀次が自害した後、秀次旧領のうち近江7万石が三成の代官地になり、同年中に近江佐和山19万4000石を与えられる。
  1. 【天正10年(1582年)6月】堀秀政(近江佐和山9万石)→天正13年(1585年)閏8月越前国北ノ庄に18万石
  2. 【天正13年(1585年)閏8月】:羽柴秀次(近江5郡43万石)。近江佐和山は堀尾吉晴→天正18年(1590年)遠江浜松城12万石で佐和山は直轄地
  3. 【文禄4年(1595年)7月】:石田三成(近江7万石の代官)→同年中に近江佐和山19万4000石
    同年に
  4. 【慶長元年(1596年)3月】:石田三成、佐和山領内に「十三ヶ条掟書」、「九ヶ条掟書」

 三成の佐和山入部

  • 慶長元年(1596年)3月1日、三成は佐和山領内に「十三ヶ条掟書」、「九ヶ条掟書」を出しており、佐和山城修築と城下町整備(総構え)もこの時期とみられる。
  • つまり、実質的な支配は領内に掟書を発布した慶長元年(1596年)と見てよく、この時期までに佐和山城下で国広が打てる状態ではなかったことに成る。
  • その後慶長4年(1599年)閏3月には秀吉亡き後の豊臣政権の重しであった前田利家が病死し、武断派との対立が激化。10日には結城秀康に守られて佐和山城に帰城する。

 堀川国広の伊東家復帰

  • いっぽう堀川国広は、文禄検地の結果旧主伊東家の新領地が定まったため、伊東家に復帰したという。これが三成の佐和山実質支配よりも前である文禄4年(1595年)とされ、佐和山打ちは否定される。
    日向伊東氏12代で日向国飫肥藩初代藩主の伊東祐兵の日向復帰は天正15年(1587年)の九州平定後の清武・曾井2万8千石に始まり、翌年には旧領である飫肥を加え3万6千石に加増されている。その後朝鮮出兵にも参陣しており、国広の旧伊東家への復帰は更に早かった可能性もある。


 堀川派

  • 堀川国広は、摂津の初代和泉守国貞井上真改の父)、初代河内守国助、越前の山城守国清、出羽大掾国路、越後守国儔など多くの名刀工を育て、「堀川物」の祖となる。
  • 他の門人に、国安、大隅掾(おおすみのじょう)正弘、国政などの名工がある。

 藤原国路

  • 出羽大掾受領。
太刀
銘「平安城国路作/慶長十七年拾月廿二日」三尺五寸三分五厘、反り一寸九分。上御霊神社蔵
脇差
銘「出羽大掾藤原国路」一尺三寸四分、反り三分。
太刀
銘「出羽大掾藤原国路金具御大工躰阿弥/祇園社御太刀承応三甲午年九月吉日」二尺八寸八分、反り八分。鋩子掃きかけ返り深い。八坂神社蔵
太刀
銘「出羽大掾藤原国路金具御大工躰阿弥/祇園社御太刀承応三甲午年九月吉日」二尺八寸七分、反り八分。尖り心の小丸返り浅い。八坂神社蔵

 大隅掾正弘

  • 藤原正弘。
  • 国広の甥、または門人という。
  • はじめ大隅掾(おおすみのじょう)、のち大隅守を受領したという。しかし守銘は存在しないともいう。

 堀川国安

  • 通称三太夫。田中三郎太夫
  • 国広の弟という。
  • 国安は偽物づくりが上手で、のち奥州磐城で一生を終えたともいう。将軍秀忠の命により慶長二十年に四国金比羅宮への奉納刀、元和五年には同じく命により大森信濃守頼直への下賜刀を打っている。
銘「国安」刃長75.7cm、反り1.5cm。重要文化財東京国立博物館所蔵
銘「国安」二尺二寸八分五厘、反り五分。表切刃造、裏鎬造。表に二筋樋、梵字、蓮台、鍬形。裏に二筋樋。昭和18年柏原仁兵衛氏蔵。
  • 新刀辯疑では「国政同人ナルベシ」とされる。また「国政ハ国広ノ弟ニテ大隅守正弘ガ父也」ともいう。

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