瀬川
瀬川(せがわ)
松葉屋瀬川
吉原の女郎屋松葉屋の花魁の名跡
- 「瀬川」は天明頃の吉原の遊女屋(
大籬 )である「松葉屋」の花魁の名跡。
- ※名跡瀬川の代数については諸説あり、よくわかっていない部分が多い。特に有名なのは、四代目、五代目鳥山瀬川である。特に江戸から明治期の書籍で断り無く「瀬川」とのみ書いているのは小見川出身の四代目である。加えて二代目仇討瀬川、および六代目、七代目などに身請けの逸話が多く残る。
そもそも鳥山瀬川を古くは三代目(あるいは二代目)と記すものも数多い。しかし現在では、鳥山瀬川を五代目とする説が一般的である。大河ドラマ「べらぼう」でも”五代目瀬川”として鳥山瀬川が描かれる。当ページでも、この現在一般的になっている代数を元に記述する。作者は田にし金魚と云□□神田白壁町に住、鈴木位庵と云て醫師なり。こゝに記し傾城瀬川は三代目なり、初代瀬川は享保七年四月十一日松葉屋樓上にて仇ヲ打たる名妓也、二代目瀬川は寶暦五年春江市屋惣助といへる者根引せり、世に江市屋格子といへるを云は則此惣助也
花の井<五代目瀬川>/小芝風花
吉原の老舗女郎屋・松葉屋を代表する花魁。幼いころに親に売られ、蔦屋重三郎と共に吉原で育った幼なじみで、何でも話せる良き相談相手。蔦重を助け、時に助けられながら、共に育った吉原の再興に尽力する。
やがて、とある理由から長らく途絶えていた伝説の花魁の名跡“瀬川”を継ぎ、その名を江戸市中にとどろかすこととなる…。
五代目・瀬川は史実に残る“名妓”として知られ、1400両で落籍された出来事やその後の悲運な人生が戯作などで語り継がれることとなる“伝説”の花魁。
Table of Contents |
|
初代瀬川
- 享保5年(1720年)か6年頃に郭を出たという。
- ※享保7年(1722年)4月~享保13年(1728年)までの吉原細見に瀬川の名がないことから。
- 大伝馬町の某に身請けされたともいう。
二代目瀬川(仇討瀬川)
- 仇討ちをしたという。「仇討瀬川」
- 享保18年(1733年)版の「浮舟草」に登場する瀬川。※同年9月「両都妓品」にも名が載る。
- ※太夫ではなく散茶女郎であるという。
- 享保7年(1722年)4月2日、江戸吉原にて松葉屋瀬川が、亡夫・小野田久之進の仇として町奉行組の与力・玉井与一右衛門の若党・源八を討ったという。この経緯については「翁草」に詳しい。
- 実名を「大森たか」という。大和(奈良)出身の医師・大森右膳(通仙)の子という。大森右膳は京の富小路家に仕えていたが、屋敷内の女と密通したことが露見したため2人とも暇が出されて大和に戻った。この時に大森通仙と名を変えたという。のち女の子が生まれ、「たか」と名付けた。
- 「たか」が16・7歳の頃、町奉行組の与力・玉井与一右衛門の若党・源八が「たか」に恋慕し、通仙の下僕・与八を仲介して艶書を送るが「たか」はこれに従わず、逆恨みした源八は鹿を殺して門前に置いた(鹿殺しは重罪)。翌朝、これを見つけて奉行所に訴えた。検使を差向けられて調べた結果、犯人がわからなかったためとりあえず通仙が入牢を申し付けられてしまう。詮議を受けるが、通仙ではなさそうだが犯人が見つからないということで通仙は大和追放となる。
- その後通仙は京に出て山脇通仙と名を変えて細々と生活を送っている内に大坂で死んでしまう。残された後家と娘「たか」は生活難に陥るが、鯛屋大和が通仙と親しかったために母子の面倒を見てくれ、御城代・内藤豊前守家の百五十石取りの勘定役・小野田久之進という男の元へ娘「たか」を嫁がせ、母も一緒に引き取られた。
大坂城代・内藤弌信。大坂城代は正徳2年(1712年)-享保3年(1718年)。 - 享保3年(1718年)に豊前守が役を勤め上げ江戸に下ったため、小野田久之進もお供して江戸深川屋敷の長屋に滞在することになった。小野田久之進は、大坂での跡勘定(精算)のため同年十月に用金四百五十両を預かって大坂に持参する途中、江尻の宿場で盗賊に襲われ横死してしまう。用金を取られたうえに本人も手にかかったという不名誉のため跡目を相続させるわけにもいかず、一家離散となり、一時、飛澤町の若松屋金七という人物に引き取ってもらっていたが、そのうち近所から出火して極めて難儀の身になってしまう。ここで娘「たか」は決心して江戸吉原の松葉屋に入り、十年間百二十両の年季で抱えてもらい、つき出しの女郎となる。容儀風采が整い諸芸に優れていたことから、松葉屋では「たか」に瀬川の名跡を名乗らせることとなった。こうして二代目瀬川が誕生する。
- 享保7年(1722年)4月、上方の客が3人連れで松葉屋に数日滞在することになり、とちゅう鎌倉見物をするため荷物を預けることになり受証として印形を頂戴したという。瀬川がその印形に見覚えがあり、さらに預けていた刀を確認すると「歌浦」という札のついた脇差であり、これは亡夫の刀であったという。そこで瀬川は世話になっていた若松屋金七に手紙で知らせるとともに、脇差を忍ばせて座敷に近づきふすまの隙間から覗いた所、歌浦の刀にもたれかかっていたのはかつての源八であった。そして源八がふすまにもたれて浄瑠璃を語っているところを、ふすま越しに肩先から乳の上まで一気に突き通したという。
- そこへ母と若松屋金七が訪れ、事情を話したことで仇討ちの証明がなされ、検使・曲渕治左衛門と広瀬作之助が現れ、詮議の上で源八は奉行所に連行され、町奉行・中山出雲守の取調べを受けることになった。すると源八は鹿を殺して通仙に難儀を掛けたほか、京でも数々の悪事を働き、道中の強盗となって江尻で小野田久之進を殺し、金子四百両その他刀以下の諸品を奪い取ったなどという事一切を白状したことから、鈴ヶ森刑場で晒し首の刑に処された。
中山出雲守時春。北町奉行は正徳4年(1714年)-享保8年(1723年)。 - 瀬川(たか)については、長年の本望を達し、大罪人が判明したことで傾城奉公は御免除とされた。いっぽう松葉屋は、知らなかったとはいえ盗賊に宿を提供したことが不届きとされ、瀬川の前借金百二十両のうち、本日以後の分は損失ということにするとされた。なお盗賊が所持していた金子二百両については、元々は内藤豊前守の用金ではあったが盗賊の事を公儀に届け出ていなかったため、公儀お取り上げとなったうえで改めて若松屋金七へとくだされたという。
瀬川は本名を大森たか女といふ。父大森右膳(通仙)は奈良の人也、若黨源八の爲めに神鹿殺害の疑を蒙り、流浪して窮死す。その後たか女は小野田久之進に嫁し、母も共に在りしが、享保三年久之進は主命に依り用金四百五十兩を帯して旅行中、江尻にて盗賊に襲はれて死す、たか女窮迫の餘り江戸に出でゝ吉原松葉屋の遊女となり瀬川と稱す。偶享保七年四月登樓せる客が亡夫の印形・脇差を所持せるを見て、其源八なるを知り、不意に起ちて之を刺す。源八は重傷のまゝ公儀に引渡され鈴ヶ森にて斬られ、瀬川は重賞を受けたり
- 瀬川こと「たか」は、そののち幡随院の弟子となり、剃髪して自貞と名乗り、浅草再法庵に住して和歌を詠んで暮らしたという。
- 直木三十五 傾城買虎之巻-あおぞら文庫
- ※ただし享保7年(1722年)正月の細見に瀬川の名がないとの指摘もある。
- また享保13年(1728年)7月の細見に名前が見える瀬川が享保14年(1729年)に仇討ちを行ったともいう。ただしこうなると中山出雲守や内藤豊前守がそれぞれ役を終えてしまっているという矛盾もある。数々の指摘がなされるように、話としては非常にうまくできている。
三代目瀬川
- ※三代目については異説がありよくわかっていない。
- 享保17年(1732年)の「新吉原絵図」に登場する瀬川。
- 享保20年(1735年)12月3日22歳にして自害。
- ※宝暦8年(1758年)3月25日19歳ともいう(續談海)
- 19歳の暮に名跡を継いだ。
- 三田村玄龍こと三田村鳶魚の「瀨川の世次」は、二代目までは合致するが、三代目四代目で話が混乱しており、五代目以降は現在の四代目を述べるなどひとつずつずれている。※三田村の世次では鳥山瀬川が六代目になっている
四代目瀬川
- 下総小見川の生まれ。小さい時に松葉屋に抱えられたという。
- 三味線・浄瑠璃・茶の湯・俳諧・碁・双六・蹴鞠・笛・鼓・諷・舞踊など多くの才能を持ち、広沢烏石に学んで文徴明風の書をよくし、絵は池大雅、俳諧は岩本乾什・岡田米仲、卜筮は平沢左内の弟子となり、女郎や待客を占ってやっていたという。
今の
瀬川 といふは、器量甚だ勝 れて、此里 随一 の美人、王昭君 ・西施 も面を恥ぢ、衣通姫・小町も顔を覆ふ姿なり。其生 は、下總國小見川 の輕き民の娘たり。幼少 にて松葉屋半左衛門へ抱へられ、よく訓 へけるに、自然と女の藝一通り、三味線 淨瑠璃は更なり、茶の湯、誹諧 、碁、雙六、鞠などまで上手になり、其外鼓 、笛、諷 、舞も能くして、其上能書にて、然も俗筆をはなれ、廣澤烏石 が流儀 、文徴明の墨跡に眼をさらし、唐詩選を取廻し、歴々の儒者蘭亭にも爪をくはへさせ、繪も上手にて、京下 の秋平 が弟子となりて畫工にくはし。誹諧も能く致し、曲尾乾什米仲 が引付に入つて普 く人の知る處なり。且其上易通 占 にくはしく心を用ひ、平澤左内が弟子と成つて卜筮 を學びけり。平生 己が座敷にて蓍木 を紫の服紗 に包み、さん木を蒔絵の小箱に入れて置き、はうばい 女郎の願事 或は待人等の事、客の徃來 首尾吉凶、相性善惡等、毎日々々是を占ひて樂 とするなり。不思議千萬の女なり。
岩本乾什(いわもとけんじゅう)は江戸中期の俳人。江戸新吉原の妓楼天満屋(あるいは雁金屋)の主人という。
岡田米仲も江戸中期の俳人。前田青峨の門弟。
- 寛保3年(1743年)および延享年間(1744-1748)の細見に名が載る。
- 宝暦5年(1755年)の春に日頃から親しくしていた丁子屋の雛鶴(初代、宝暦雛鶴)という遊女が田所町の山崎斗仙に身請けされた際に送った文の文面が残っている。
きゝまいらせ候處、此里の火宅を
けふ しはな れられて、凉しき都へ御根引の花、めづらしき御新枕御浦山敷事はものかは、殊に殿は木、そもじ樣は土、一陰陽を起し陽は養にして御一生やしなふと云字の卦、萬人を養育し萬人にかしづかるゝと賴母敷もめて度 御仲と、ちよつとうらなゐ まいらせ候、穴賢
てふ
雛さま御もとへ
まつ
瀬より
- 宝暦5年(1755年)末に江市屋宗助に身請けされたという。しかしこれは表向きのことで、実はある大名の家老が薬研堀村松町で囲っていたという。
江市ガ松葉屋ノ瀬川ヲ根引ノ折モ口入トナリ、又是ハ女郎ヨリ謝礼ノ金ヲ取リ、己レガ賄トスル。
去年寶暦五年の暮、江市屋宗助請出して、郭を
根引 す、實は去太守の御家老 根引なれども、表向は江市屋なり、去ゆゑ去年十二月、江市屋が女房まで來て郭を連立出でて、藥研堀村松町浮 ふしんこ屋 裏に借座敷して今にそかりけり
近古文芸温知叢書 第10編 - 国立国会図書館デジタルコレクションなお江市屋は佐竹家の出入り業者であるため、同家家老ではないかと書いているものもある。ただし米問屋狩谷家を通じて弘前藩(津軽家)ともつながりがある。
江市屋は材木商から口入屋として財を成した商人。元禄(1688-1704)頃の江市屋宗助は、「江市屋格子(えいちゃごうし)」を考案したという。三角の浅材をわずかな隙間をとって横に並べることで、内側から外を覗くことができるが外から内は見えない。「江市屋宗助といふ商人元禄中両度の大火に竹木等の請ひをはしめ又護持院の石垣受領等にて多くの利を得又今年日本橋通川渡辺の事を承りて次第に仕合よく大分限となり米沢町に住せりこれか工夫せる格子を江市屋格子といふ宗助五十才計りにして子供に世をゆづり落髪して百葉といへりと云々」
- 28歳で死んだという。
- 宝暦の頃というので、この頃の瀬川により作られた源氏物語から取った隠語が松葉屋では用いられたという。(当世武野俗談)
- 帚木(ははきぎ):
間夫 のこと。「ありとは見へて逢はぬ君かな」 ※第2帖の名。坂上是則の歌より - 篝火(かがりび):やり手をいう。「心の火を焚き物思はせる」 ※第27帖の名。
- 蓬生(よもぎう):煙草のこと。 ※第15帖の名。
- 夕顔(ゆうがお):裏に来る客のこと。「ほのぼの見ゆる花の夕顔」 ※第4帖の名。
- 朝顔(あさがお):後の朝
- 雲かくれ:久しく顔を見せぬ客のこと ※巻名のみが伝えられ内容は伝存しない
- 唐衣(からころも):きのしや(仕立屋)のこと
- 葵:銭をいう。 ※第9帖の名。
- 帚木(ははきぎ):
五代目瀬川(鳥山瀬川)
- 「鳥山瀬川」、安永の瀬川
- ※後述するように宝暦年間を最後に太夫や揚屋は消滅し、散茶女郎が最上位となっていたため、散茶女郎であったと思われる。
- 一説に、袖留の頃に深川材木問屋の一色某が引き受けた袖留の費用が工面できず贋金弐百両封じて六十両で質入れしたが、贋金の為に入牢ののち江戸を追放されたという。
下記「契情買虎之巻」で登場する「五郷」は、この一色某をモデルにしているとされる。
- 安永4年(1775年)の暮に鳥山検校に千五百両で身請けされた。※身請け料については異説多し。八百両に諸費用を加えて支払ったともいう。
安永四年乙未
十二月
又吉原松葉屋瀬川といへる妓を鳥山検校うけ出せしといふ事当年の是沙汰なり。
(半日閑話 大田南畝)
- 「契情買虎之巻」
- この五代目瀬川と鳥山検校をモデルにした
田螺金魚 の「契情買虎之巻 」が安永7年(1778年)に書かれている。そこでは五代目瀬川は幼名を「おやえ」といい、千石の家に生まれたという。のち二千石の家の末息子の生駒幸次郎と駆け落ちするも、幸次郎が病になってしまい、松田屋(松葉屋)へ三年年季の六十両で身売りしてしまう。この金で幸次郎を医者にかけるがまもなく若死にしてしまったという。 - その後、幸次郎に似た客・五郷(ごきょう)という色男と馴染みとなる。しかし五郷の家では吉原通いを止めさせるために座敷牢に閉じ込めてしまった。この頃に現れたのが桐山大尽(鳥山検校)で、五郷を想う瀬川を強引に口説き、落籍させてしまう。しまし五郷への想いを断ち切れず、桐山の子分の軍次という男に手引して貰い逢おうとするがそれが嘘で、その軍次も瀬川に惚れていたため手を出しただけの男だったが、この時軍次の「五郷はもう死んでいる」という嘘を真に受けた瀬川は(五郷の)男児を産み落としてショック死したという。
- ※もちろんフィクションである
これ以外にも様々なネタに使われており、いわゆる「鳥山瀬川物」として成立している。安永5年(1776年)2月23日新太夫座の新浄瑠璃「色揚瀬川染 」や、安永7年(1778年)には田螺金魚「當世虎之巻」などがある。さらに後には安政3年(1856年)4月中村座の「藪椿誰輾寢 」、切浄瑠璃「淺緑露玉川 」が出ている。
- この五代目瀬川と鳥山検校をモデルにした
- 実在の鳥山検校(ほか検校含む)の検挙。
安永七年是年
幕府、貸金に高利を貪りたる鳥山検校等三十五人を罪し、鳥山・名古屋二検校を惣録に引渡し、其家を藉没す、其他、遠島追放の刑に處す、- 安永8年(1779年)7月晦日に旗本・森忠右衛門(Wikipedia)夫婦が倅・虎太郎(寛政重脩諸家譜では震太郎)夫婦と4人で突如家出して姿を消した。8月4日にこれが発覚して大騒ぎとなり、8月6日に奉行所へ届け出たためすぐに調査が行われた。同月24日に当人たちが支配頭のところに罷り出でたため調べた所、盲人及び浪人の不当な高利貸問題が発覚し、鳥山検校(鳥山玉一)ほか、関係の検校・勾当及び弟子・家主など多数が検挙された。
- 同年12月25日に、老中・板倉佐渡守勝清の指図を受け、南町奉行・牧野大隅守成賢より江戸追放処分がくだされた。
(日本橋)瀬戸物町 家持
鳥山検校(三十五才)
右之者、前々検校勾当座頭共官金之内所々江貸付、証文ニハ通例之利金ニ取引致シ其外ニモ礼金ト名付、用立金子之内ニテ引取、其上不法之及催促不埒ニ付度々御触惣録ヘモ申渡等有之候所、相背三両一分五両一分之高利金貸出、殊ニ五分七分礼金取三ヶ月限四ヶ月限証文書替、其度々月踊先利ニ引取、其上盲人之身ニテ遊所ヘ罷越、大金差出遊女等請出候始末、不届之至ニテ座法可申付申渡惣録ヘ引渡ス
(以下ほか検校ら略)一、家財の外、有金二十萬両、貸金壹萬五千両、所持の町屋敷一ヶ所、鳥山検校
(略)
このうち鳥山わきて名高く聞へしは、遊女を身請けせし事にて、噂高かりしなり。遠島に當つた者は、告文装束を取上げ、缺官不座を申付け、江戸十里四方竝に武藏、大和、和泉、攝津、生國、惡事を働いた國を構ひ追放、たヾ當人名前の田畑家屋敷家財闕所
なお「近世作者部類」には、この鳥山の旧宅に平賀源内が住んだという話が書かれている(「神田邊(當作馬喰町是傳聞の失なり)に賣居の巨宅あり、此家の前主は某と云盲人也、高利の金を貸すを以て暴富になりたる者なれば、非理の事露顯して終りをよくせざりしとぞ、然るに此盲人死後に其霊毎夜宅内にあらはれて…」)が、年月的にやや矛盾がある。それによれば、鳥山の旧宅に亡霊が出て家賃が安くなったため、それを聞いた源内が住んだが、発狂して人を殺めたために獄死したという。
源内は安永8年(1779年)11月20日に門人・久五郎と友人・丈右衛門が止宿していたが、明け方に口論になり抜刀した源内は2人に手傷を追わせてしまう。翌21日に投獄され、12月18日に破傷風で獄死。享年52。一方鳥山検校は処分から12年後の寛政3年(1791年)に赦免されて復官しているため、源内獄死の頃はまだ死んでいない。かつ、源内の最後については異説があり、殺害したのは大工の棟梁2名だとも、あるいは田沼意次もしくは旧主高松松平家を頼って故郷で天寿を全うしたとも伝える。※ただし意次は天明8年(1788年)江戸で死去している。
なおこの源内が移り住んだ家は鳥山検校の旧宅ではなく、同時に処断された神山検校の旧宅であり、馬喰町や橋本町ではなく、神田久右衛門町一丁目代地であるという。 - 鳥山検校こと鳥山玉一は京都に移され、京都職屋敷の座法により、梅浦さつ一、神山秀一、川西しんの一らと共に闕官、不座(除名)、追放の処分に付された。※「当道座」については「平家物語#語り本系」の項を参照のこと。
京都職屋敷とは当道職屋敷のことで、当道座の本拠地。当道職屋敷は、京都四条烏丸南東にある京都市立洛央小学校の位置にあった。琵琶法師・明石覚一が整備した当道座は、明石覚一の屋敷を職屋敷と呼び、ここで盲人の技芸試験、裁判や売官などが行われた。明治維新後に当道座は廃止され、当道職屋敷も明治3年(1870年)に明治新政府に没収された。 - ただし天明6年(1786年)9月の將軍家治薨去により葬儀及び法要が営まれた際にいずれも赦免され、鳥居丹後守の指図により復官している。※鳥山検校の復官は寛政3年(1791年)正月24日。
一、妙観派寛政三亥年正月二十四日歸官 鳥山玉一
- 瀬川のその後はよくわかっていないが、一説には武士(深川六間堀の飯沼某)の妻となり2人の子をもうけたという。さらに後に大工・結城屋八五郎と再婚し、身を隠すため髪を下ろした(尼になったとも)という。子のうち1人は家督相続し、もう1人は養子に行ったが放蕩で追い出され八五郎の元に来て髪結になったのだという。(喜多村筠庭「筠庭雑考」による)
喜多村筠庭は喜多村信節。通称彦助。字は長岐。筠庭,静舎などと号する。この喜多村信節が暫く住んでいた本所埋堀に大久保家の町屋敷があり、その家守と大工をやっていたのが八五郎なのだという。
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」で描かれるような、鳥山瀬川と蔦重こと実在の蔦屋重三郎との繋がりについてはそれを示す資料はない。しかし同時代に新吉原(三町四方)という相当限定された同じ場所で生きていた人間であり、なおかつ蔦重がやっていた貸本屋であったり細見の製作について吉原内をくまなく歩いていた事は想像に難くない。少なくとも空間移動などを駆使したファンタジー的な脚本に批判の多かった「江〜姫たちの戦国〜」以降の大河作品群に比べると、こうした歴史的事実を無理なく相当うまく脚本化したものといえる。
例えば第10話「『青楼美人』の見る夢は」で描かれた「青楼美人合姿鏡 」(安永5年正月刊)に瀬川が本を読む姿で描かれているのは事実である。青楼美人合姿鏡 上 - 国立国会図書館デジタルコレクション(4コマ目松葉屋の右端に瀬川が居る)。同書には女郎達の詠んだ歌も載せられており、五代目瀬川の歌は「うくいすや寝ぬ眼を覚す朝朗 」(左ページ中央)
その後の史実の蔦重は、錦絵や富本正本、さらには黄表紙本と積極的に業態を広げていき、天明3年(1783年)には遂に吉原を離れ通油町(日本橋大伝馬町)の丸屋小兵衛店を買い取って書肆耕書堂(グーグルマップ)を開く。大河ドラマでは、互いにかつ密かに想い人であった瀬川の身請けとほぼ時を同じくして、蔦重も吉原を出て江戸へと大きく羽ばたいていく姿が描かれる。
六代目瀬川
- 天明2年(1782年)4月1日に名跡を継ぎ、つき出し。
松葉屋瀬川を鳥山検校は請出せしより後、天明二年四月朔日つき出し出來たり。
- 翌天明3年(1783年)秋に弓弦御用達岸本大隅こと浅田栄次郎に落籍されたという。身値千両とも千五百両ともいう。
この「浅田栄次郎」とは三河屋久七という両替屋の番頭・浅田八郎次の息子という。三河屋久七は後に塗師御用達・栗源兵庫となり、また文才があり戯作を好み浄瑠璃本を出した。また板元として「明和妓鑑」という本を出したことから公儀の咎めを受け、遠島を命じられる(明和武鑑をもじって役者評判記を出した)。この遠島を身代わりとして受けたのが番頭・浅田八郎次で、その恩に報いるためにその子・浅田栄次郎に弓弦御用達岸本大隅の株を求めて贈ったのだという。国学者の岸本由豆流(ゆづる)は、この栄次郎の子という。- ※これを契機に、落籍料は寛政年間に五百両に制限されたという。
- 越後屋の手代に落籍されたともいう。
七代目瀬川
- 「このも」という禿だったという。
- ※異説あり。瀬川でなく松野だともいう。
- 天明の「仮宅細見」に載る。
- 天明4年(1784年)4月1日に襲名。天明8年(1788年)3月に松前公子文喬(文京)に身請けされたという。
天明申年瀬川うけ出さる。主は松前公子文喬也。五百兩と云。
※この「松前公子」とは、「志摩守次男松前百助」とされ、松前藩8代藩主・松前道広の弟・松前頼完(よりさだ)だという。初名 資清。筆名 松前文京、狂号 笹葉鈴成の名で文芸の支援者となっている。山東京伝と親しく、その「通言総籬」、「吉原楊子」、「郭大帳」、「会通己恍惚照子 」に序を記し、「傾城買四十八手」に句を寄せている。安永8年(1779年)22歳時に旗本・池田織部直好の養嗣子。翌年家督。天保8年(1837年)8月10日、80歳で死去。「池田織部の嗣子となり、百助と称す」
なお「通言総籬」で艶二郎の相方・「松田屋おす川」のモデルは松葉屋の瀬川であり、本作刊行の翌年に身請けしている。また序で「猿人卿と共に、京傳を愛の一曲を唱て、糸巻をチひねるごと爾。」と結んでいるが、この「猿人卿」とは酒井抱一の名で知られる姫路藩2代藩主・酒井忠以の弟・酒井忠因の事。
「おす川」の”おす”とはあります・ございますを意味する松葉屋の通言であり、”おす川”とは「松葉屋の川」という意味になる。それは七代目瀬川を指す。
八代目瀬川
- さらに天明8年(1788年)4月に「瀬川」という名跡が継がれたという。
- 寛政2年(1790年)頃に郭を出、その後暫く瀬川を継ぐものはなかったという。
九代目瀬川
- 享和元年(1801年)の細見に名があるという。享和3年(1803年)には見えなくなっている。
瀬川菊之丞 (2代目)
- 大河ドラマ「べらぼう」でも登場する瀬川菊之丞。※松葉屋瀬川とは無関係。
- 寛延から安政期に活躍した江戸の女形役者。屋号は濱村屋、俳名は路考。通称「王子路考」。
- 江戸が生んだ最初の若女形と評される。
※江戸期の女形では中村富十郎 (初代)がまず挙げられるが大坂生まれの上方の歌舞伎役者である。
当時の江戸の女性に大変な人気となり、彼の好みが江戸の流行の源泉となって様々なものに影響を与えた。結髪では路考髷、路考鬢、また帯の結び方は路考結び、着物の色を路考茶、髪道具にも路考櫛などがあった。 - 男色家であった平賀源内との仲が有名。
- 寛保元年(1741年)江戸郊外の武州・王子の富農・清水半六の子として生まれ、幼名は徳次。
- 5歳で初代瀬川菊之丞の養子となって瀬川権次郎を名乗る。寛延3年(1750年)9月に二代目瀬川吉次を名乗り、中村座で養父一周忌追善として石橋の所作を演じたのが初舞台を踏む。
- 宝暦6年(1756年)11月の市村座顔見世で、初代菊之丞が演じた『百千鳥娘道成寺』(ももちどりむすめどうじょうじ)を披露し二代目瀬川菊之丞を襲名、翌宝暦7年には若女形の筆頭に置かれる。
- 平賀源内は宝暦13年(1763年)に最初の小説「根南志具佐(ねなしぐさ)」を書いており、そこでは閻魔大王が瀬川菊之丞に惚れ、菊之丞を地獄へ連れてくるように竜王に命じるという筋書きとなっている。
- 安永2年(1773年)閏3月13日没。享年33。
※なお現在も瀬川菊之丞の名跡は受け継がれており、当代は七代目。
六代菊之丞の姪である日本舞踊岩井流宗家の五代岩井紫若が名跡預り人であったが、六代目の遺志を継がせたいと申し出たことから、平成13年(2001年)5月に七代目菊之丞を襲名した。本名は外村実。もとトヨタ自動車で社会人野球をしていた人物。2年目に肩を負傷し、劇団前進座付属養成所(9期生)で学び、俳優に転じた。
関連項目
Amazonプライム会員無料体験