山田浅右衛門


 山田浅右衛門(やまだあさえもん)

江戸時代の御様御用を務めた山田家当主の名乗り
首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門

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 概要

  • 江戸時代の役職である「御様御用(おためしごよう)」という刀剣の試し斬り役を務めていた山田家の当主は、代々「浅右衛門」を名乗りとした。
  • 死刑執行人を兼ね、首切り浅右衛門、人斬り浅右衛門とも呼ばれた。
  • 名刀では「大典太光世」、「小竜景光」などと関わりがあり、五代吉睦による刀剣書「懐宝剣尺」が”業物”などの評価基準を定着させた書としてつとに有名である。ただし両刀剣書は柘植平助(水野大和守家臣)の著作であり、山田浅右衛門は部分的に関わったというのが実用だと指摘されている。

    水野大和守御家臣にて柘植平助殿と申され候仁にて鍜冶備考と申銘盡十巻物出來候、是は山田淺右衛門と申者の名前にて藏板に御座候云々
    古今鍛冶備考

    須藤五太夫睦濟、山田淺右衛門吉睦輯
    懐宝剣尺

  • 代々江戸麹町平河町一丁目に住した。

 経緯

  • 「御様御用」としては、江戸初期「試刀術」(試剣術)の名手として、谷衛好-衛友親子の弟子で幕府旗本であった中川重良の弟子・山野永久が知られていた。
  • 永久の子・勘十郎久英は1685年(貞享4年)に「御ためし御用」役として正式な幕臣となり、この頃から試し斬りだけでなく、(当時は名誉の役とされた)処刑の際の首切りの役目をも拝命するようになったという。しかし久英の子、吉左衛門久豊の跡継ぎであった弟に技量がなく山野家は御様御用の役目を解かれた。
  • その後山野家の弟子たちが「御様御用」を務めるが、その中の一人が当時浪人だった初代当主山田浅右衛門貞武であり、その技と役目は子の吉時に伝えられ代々「浅右衛門」を名乗るようになった。「御様御用」の役目自体は、腰物奉行の支配下にあった幕府の役目だが、山田家は浪人身分のままで据え置かれた。

 系譜

【山田浅右衛門家】

角蔵貞武──朝五郎吉時──角蔵吉継─┬源蔵吉寛━━吉睦
                  └娘ナヲ
                   ├──┬長男
                 三輪源八 └文三郎吉睦━┳源五郎吉寧──幸
               湯長谷藩士         ┃       ├──┬長男浅雄吉豊
                             ┗源八郎吉昌━━吉利 ├次男徳蔵佐吉
                                        └三男五三郎吉亮
    (6代吉昌)
       幕臣
       遠藤次郎兵衛──源八郎吉昌

    (7代吉利)
       新見藩士
       後藤五左衛門──次男五三郎吉利

 初代:浅右衛門貞武

  • 通称角蔵、浅五郎、浅右衛門。
  • 父は貞俊。「幼にして倜儻、凡ならず、その行を檀にす」だったため僧侶にしようかと相談した所、母(土井大炊頭家中、井上新左衛門娘)が嘆き悲しんだために辞めたという。長じて武芸を能くし、当時流行していた六方組(江戸期の侠客団)に入るが、前田宮内少輔利広(上野七日市藩3代藩主。加賀前田の分かれ)に促され脱退したという。
  • その後、据物斬の名人であった山野勘十郎久英に師事して試し切りを修行し名人となる。
  • 宝永3年(1706年)8月26日に永井伊賀守尚俊(永井直敬、若年寄)の浜町別邸において将軍家佩用の脇差長吉の御様があったとき、山野勘十郎は門人の名前を書き上げて松平弾正忠に差し出し、貞武も現場へ臨んでいる。切手は勘十郎高弟の松本長太夫が務めた。
  • 宝永6年(1709年)8月25日には久世大和守重之の別荘にて脇指左弘安の様があり、この時も山野は門人を連れて出場しており、切手は前回同様に松本長太夫。
  • 明暦3年(1657年)生まれ、享保元年(1716年)12月18日没60歳
    • 明暦2年(1656年)、享保2年(1717年)
  • 法名は弧峻院冬雲常雪居士。亡骸は池袋の祥雲寺の末寺・浄福寺に葬られた。同寺が明治初年に廃寺となり、墓碑は現存せず。

 二代:浅右衛門吉時

  • 朝五郎、浅右衛門を襲名。
  • 幕府のお刀試し役と、死刑囚の首切り役を仰せつかる。
  • 享保元年(1716年)に父の跡を継ぐ。
  • 享保5年(1720年)5月2日康継作の刀二腰、脇差一腰、武蔵太郎安国作の刀一腰脇差一腰の御様御用があり、切手となったのが勘十郎の門人・倉持安左衛門(戸田山城守家臣)と二代浅右衛門吉時であった。この時は伝馬町の牢屋敷で試したため、大岡越前守忠相と中山出雲守時春が立ち会っている。浅右衛門吉時は武蔵太郎の刀、ついで康継の脇差で御用を務めた。
  • 浅右衛門吉時は当時前田利理(七日市藩6代藩主)に仕え、山野勘十郎について据物斬を学んでいる。弟子も多かったという。
    山野勘十郎家は、初代のあと長男・吉左衛門が継ぎ十人扶持を賜ったが、やがて眼病となり、やむなく弟子の養子を願い出るが却下となってしまう。山野吉左衛門は享保6年(1721年)7月に小普請組に入り、この時点で御様御用を務めるものは松本長太夫、倉持安左衛門、二代目浅右衛門吉時の3人になったという。「享保四年八月十一日左ノ通近江守殿(石川総茂)申上候 御腰物奉行支配 勘十郎倅 山野吉左衛門 一拾人扶持 右吉左衛門儀一ヶ年御道具御様仕候共眼惡敷御様不士候、」
     その後、松本長太夫は享保7年(1722年)5月に御様御用を辞退したため、2人になってしまう。さらに享保11年(1726年)9月には相役であった倉持安左衛門が死んだため、御様御用は山田浅右衛門吉時一人となってしまう。
  • 試した死体の肝(胆嚢)から「天寿慶心丸」という秘薬を作って販売した。

      牢屋ヶ原と人膽丸
    世間でよく傳馬町の牢屋と云ひますが、これは大傳馬町ではありません、小傳馬町一丁目の北裏にあつたそうです、此牢屋の普請は栂材を用ひてあつたので、江戸時代には栂を嫌つて檜普請が多かつたといふ事です。
    大傳馬町の川喜田の店で此牢屋で刑に行はれた罪人の肝から採つた「人膽丸」と云ふ藥を賣つて居まして、虚弱な者、病後衰弱した者には力付くと云ふので中々全國的に知られたものです。私の本宅でも江戸の店から幸便の度に取寄せて置くのを傳へ聞く地方の人が譲受けたいとチョイ/\來るので、明治になつて賣藥税の規則が出來てからは宅でも看板迄掛けさせられ今尚其看板も殘つて居ます。尤も人膽丸は穏かでないとあつて、天壽慶心丸(、、、、、)と改名されてゐました。

  • 生年不明、延亨元年(1744年)4月19日没
  • 法名は慈仙院即住直心居士。亡骸は初代と同じ浄福寺に葬られたが、墓碑は現存せず。

 三代:浅右衛門吉継

  • 角蔵、源蔵。浅右衛門襲名
  • 当時麹町八丁目に住んでいたが、隣家から出荷して焼け出されたため、麹町三丁目に移っている。病気で臥せっていたこともあり、手元不如意になったことから幕府に御救金を願い出ている。
  • 宝永2年(1705年)生まれ、明和7年(1770年)5月22日没、66歳
  • 法名は恵空院竹庵巖松居士。亡骸は浄福寺に葬られたが、墓碑は現存しない。
  • 俳号を恵竹庵巌松と号し、辞世の句は「一ふりの枕刀やほとゝぎす」

 四代:浅右衛門吉寛

  • 源蔵、浅右衛門襲名。
  • 元文3年(1738年)生まれ、天明7年(1787年)9月17日没、49歳
    • ※天明6年(1786年)とも
  • 俳号を鐵丸舎寛子と号し、辞世の句は「ひぐらしや地獄をめぐる油皿」

 (稔公)

  • 吉安ヵ
  • 4代吉寛に嗣子がなく、紀州藩家臣・瀬尾甚右(左)衛門の次男・源蔵を養子に仕立てておき、死を幕府に届けた。
  • 翌7年(1787年)2(3)月病気を理由に離縁したという。

 五代:朝右衛門吉睦

  • 三代目吉継の娘「なを」が奥州湯長谷の藩主・内藤政広の家臣・三輪源八の妻であったため、その次男・文三郎吉睦を養子に迎える。
    内藤雅之進政広は陸奥国湯長谷藩7代藩主。磐城平藩7万石の支藩。
     磐城平藩祖・内藤政長は内藤家長の子。内藤家長は関ヶ原前哨戦である伏見城の攻防戦で戦死した。
     本藩である磐城平藩は延享4年(1747年)に日向延岡に転封され幕末で続くが、湯長谷藩の内藤家はそのまま領地を保ち、幕末まで存続した。湯長谷藩は養子相続が続いており、政広の父で湯長谷5代藩主貞幹も紀州藩徳川宗直の六男であった。
  • 三代吉継の娘・なをの次男(三輪源八の子)
  • 宝暦13年(1763年)江戸生まれ、文政12年(1829年)没、67歳
  • 源五郎。「浅右衛門」と改名するが、幕府の許可がおりなかったため晩年は「朝右衛門」と称す。
  • 初代以来の名人で多くの門人を育てた。また釣胴、払胴なども初代以来絶えてできないのが続いたが、この五代吉睦はそれも25歳で会得していたという。

    源五郎(吉睦)初而釣胴、拂胴傳受いたし候に付、早朝より五太夫(ページ冒頭須藤五太夫)殿と仕懸致方なども被致云々。初代山田淺右衛門様の時分不殘拂落し御座候也、其後は皆拂落申候儀は御座なく候よし、源五郎仕合と皆拂落兩様共に無滞いたし候由皆々致感心候。

  • 「相馬大作」を斬ったのもこの五代吉睦だという。
    • 大作こと秀之進は、吉睦に対してその刀は誰の作か?と尋ね、吉睦が「無銘には候えども相州伝の中古物にて拙者秘蔵の刀に候」と答えると「それにて安心仕候」といったという。さらに吉睦が「拙者は、山田源五郎と申し、南部家には浅からぬ御縁もあるものにて、今日、貴殿御介錯いたす事不思議の関係と存じ、何か御申置の事候へば、拙者に一言可然く云々」と語ったという。これにより最期の様子が実家に伝わったのだという。
      文政4年(1821年)に、盛岡藩士・下斗米秀之進(しもとまい ひでのしん)を首謀者とする数人が、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた弘前藩主・津軽寧親を襲撃しようと企図した事件。秀之進の用いた別名である「相馬大作」が事件名の由来となっている。
    • ただし、後年明治44年(1911年)の史談会で発表された話によれば、実はくだんの藩主・津軽越中守寧親の差料の延寿國時であったのだという。それを江戸家老の笠原八郎兵衛が自分の刀だといって手を回して介錯刀とさせたのだという。
      なお南部家と縁が浅くない云々といういのは吉睦の養子・吉隆(権之助)が南部大膳大夫家臣であることによる。
  • さらに肥前唐津藩の柘植平助が編纂した「古今鍛冶備考」の出版も行っている。
  • 俳号を凌宵堂寛州と号し、辞世の句は「蓮の露あつまれば影やどるべし」
  • 養子など
    • 吉隆:権之助。南部大膳大夫家臣・小松原甚兵衛次男。文化9年(1812年)5月28日死。34歳
    • 吉寧:源五郎。京極加賀守家臣・青木彦右衛門次男。文政3年(1820年)7月6日死。24歳
    • 吉貞:源六。文政11年(1828年)12月に「不埒有リテ里方ニ戻ス」。離縁。
    • 6代吉昌。文政12年(1829年)に養子。

 六代:朝右衛門吉昌

  • 天明7年(1787年)7月18日に江戸城内紅葉山御霊屋掃除役(十三俵一人扶持の御抱席)・遠藤次郎兵衛の子として生まれたという。
    • ※寛政3年(1791年)生まれで、酒井雅楽頭家来、出渕伊惣次の子だともいう。
  • 源八郎。
  • 五代吉睦が三輪家から山田家に養子に行っており、その後釜で三輪源八の養子になっていたが、さらに文政12年(1829年)に山田家の養子になった。
  • 朝右衛門を襲名。
  • 売薬の実入りがあり裕福だったのか、楠正成佩用という「覗き竜景光小竜景光)」を購入している。
  • 「山田家譜」を著している。
  • また、いまは池袋祥雲寺にある供養塔を建てたという。これは首を斬った際に髻を切ってきてこの供養塔に納めたものだという。幅二尺、長さ一間あまり。
    • 表に「南無阿彌陀佛」、下に「菩薩淸凉月遊於畢竟空、衆生心水浄菩提影現中」とある。右脇に「山田氏六世好源吉昌建焉」、左脇に「銘曰、生死海中無頼客、漂流随浪幾沈淪、幾沈淪又靡心出、十界依正不着塵」、背面に「時天保第三歳次壬辰三月十七日現住靈?活謹識」と書かれている。
      作家綱淵謙錠氏は、著書「斬」の中で「菩薩淸凉の月は畢竟(ひっきょう)(くう)に遊び、衆生の心、水浄ければ菩提の影は中に現ず。銘に曰く、生死海中無頼の客、流に漂い、浪に随って幾沈淪し、幾沈淪せば又靡心出でん、十界(じっかい)依正(えしょう)は塵を着めず」と訓じている(一部現代様に改変した)。
      「依正」は仏教用語で、依正二報を略したもの。依報(えほう)と正報(しょうほう)を指しており、過去の業の報いとして受ける環境とそれをよりどころとする身体を指すという。
  • またそれまでためし切りの際には足を肩幅くらいに広げていたのを、6代吉昌は工夫を加えて「六三の曲尺」へと改めたという。

    ためし切足踏、昔は足間をひろく踏みしを、近頃山田浅右衛門吉昌工夫して、六三の曲尺といふことを定めて、足踏を替へしといふ、いかにも六三の曲尺にて腰詰よき也

  • 号 松翁
  • 嘉永元年(1848年)6月17日没、62歳 ※嘉永5年(1852年)とも
  • 墓所は勝興寺(新宿区須賀町8番地)
  • 俳号を龜峯館屋松と号し、辞世の句は「怠らぬ日頃見えけり大矢數」

 七代:朝右衛門吉利

  • 門人である備中新見藩士・後藤五左衛門利次の次男。
  • 文化11年(1814年)生まれ、明治17年(1884年)12月29日没、72歳
  • はじめ五三郎、のち朝右衛門。
  • 吉年とも。始め「利」で、後から「年」へと改めた。
  • 吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎、飯泉喜内ら志士の首をはねた。
    • 中でも手こずったのは盗賊・稲葉小僧と吉原女郎・大坂屋花鳥(おおさかやかちょう)だったと山岡鉄舟に語ったという。彼らは心中に一点のわだかまりも無かったためだという。逆に頼三樹三郎の場合には、死ぬのは無念だとして怒っていたために切りやすかったのだという。
  • 父・吉昌より受け継いだ景光小竜景光)を、明治6年(1873年)に大久保一翁を通じて宮内省に献上しており、明治天皇の佩刀(御物)となった。

       備前國長船住景光 長二尺四寸五分
          元享二年五月 日
    右ハ楠正成卿帯品小龍ト稱、井伊家傳來ノ處有、故父松翁時ヨリ所藏仕居私譲受候品ニ付蒙御高恩候爲、冥加可成ハ獻上仕度、此段宜奉願候以上
      明治六年三月十四日      山田和水
        東 京 府
              御 中

  • 号 和水
  • 晩年は平河町の本宅から清水谷に移り刀の鑑定をしていたという。昼間でも蝋燭の灯で刀身を仔細に照らし、じっと見つめる鑑定法だったという。それを朝から晩まで、死ぬ日の2・3分前まで鑑定していたのだという。この七代吉利の家には、山岡鉄舟、勝海舟、黒田清隆らが出入りしたという。
  • 娘の「いさ」によれば、晩年は仏の様になったという。

    父は、世間から兎角云はれるのと、まるで大違ひの仁で、晩年は、佛教信者になつて、慈悲善根の人物となつてしまひ、まるで佛さまみたいになり、綿服で、乗物嫌ひ、佛参を缺かさず、諸方の御寺へ<大慈悲>の額を寄附したり、モト/\堀部安兵衛武庸の劍法を傳へ、業の上で山田家へ養子となつた人なんですから、泉岳寺へ毎月お詣りして、安兵衛さんのお墓へ香華を絶しませんでした、ソレモよいんですが、乞食でも何でも、無闇に救つてやり、果は乞食をつれて宅へ來るなど、これには母親も困つてゐました。父の晩年──明治十九年(註明治十七年の誤)になくなりましたけれど、ソノ晩年は一ヶ年に一度御小言が出たら、アラ珍しい、阿父さまのお小言だといひました、ですから、毎朝、鼠と雀とに粉米をやりますんで、縁の下の鼠と軒先の雀とがすつかり來馴染んでしまひまして、父が掌を叩きますと、雀はたくさん飛んでくる鼠はチョユツ/\出て來て、鼠なんかは父の膝の上に、登つたり降りたり、よく馴れたものですた。ソレを喜んで視て、自分もお茶をおいしさうに呑んでゐました。

  • 明治3年(1870年)に本妻が亡くなると、妾を後妻に直している。彼女は「素伝(そで)」といい旧幕臣勝田鋼吉の旧臣渡辺正義の妹だという。※「いさ」はこのそでとの間に生まれた娘
  • 吉利の墓は勝興寺(新宿区須賀町8番地)と正源寺(港区白金2丁目7番19号)とにある。これは吉利が養子であり、遺言で葬式は勝興寺、屍は正源寺としたためである。正源寺は実家の後藤家の菩提寺であった。勝興寺の墓誌には「明治十七年十二月二十九日、天寿院慶心和水居士、第七世山田朝右衛門吉年、行年七十有二歳」とある。
  • 俳号を芝生園和水と号し、辞世の句は「風のある内ばかりなり奴凧」
  • 長男・吉豊、次男・在吉、三男・吉亮がいた。
  • 吉利の次男・徳蔵佐吉、三男・五三郎吉亮(十代)も家業を助けた。

 八代:山田浅右衛門吉豊

  • 七代・五三郎吉利の子。
  • 源蔵。浅雄。
  • 天保10年(1839年)5月15日生まれ、明治15年(1882年)8月13日死。44歳
    • ※実子に家を継がせた唯一の例である。
  • 明治新政府では東京府囚獄掛斬役となっている。明治12年(1879年)隠居。
  • 松次郎、又次郎、元三郎の3人の子がいた。
  • 墓所は池袋祥雲寺(豊島区池袋三丁目。元は文京区白山二丁目[旧町名:小石川戸崎町]にあったという)。ただし墓石はないという。住職の言うには、代々の墓は立派なものが建っていたが、度々他所の人が墓石を倒して行くことがあり、七代吉利の娘から聞いた話では、本家の遺族が微禄したため墓石を売ってしまったという。
    山田家々譜には「小石川戸崎町常福寺に葬る」とあるが、その隣にあった祥雲寺と明治20年(1887年)頃に併合され、その後祥雲寺が池袋に移転したのだという。

 九代:山田吉顕

  • 八代吉豊の子?
  • 松次郎。
  • 文久3年(1863年)8月1日生まれ、昭和4年(1929年)7月死。67歳
  • 父の隠居に伴い、明治14年(1881年)10月16日に相続をし、明治18年(1885年)9月1日に「浅右衛門」の家名を継ぐ。
  • ただし首斬の業は継いでおらず、七代吉利の三男・山田吉亮が斬っていたのだという。
  • 俳号を松風軒誠雅と号した。

 十代:山田吉亮

  • ※九代は首斬をしておらず、この吉亮が実際の山田浅右衛門九代ということになる。
  • 七代吉利の三男で、八代吉豊の実弟。
  • 五三郎。
  • 試し斬りの技に長け、12歳のときから父吉利について見習として刑場へ連れて行かれたという。
  • 大久保利通暗殺犯の島田一郎らや、高橋お伝を処刑するなど、八代に代わる働きをした。※福永酔剣は閏8代、篠田鉱造も8世とする。
  • 吉亮は雲井竜雄、島田一郎、夜嵐お絹らも斬ったという。
  • 明治維新後も公務は引き継がれ、明治12年(1879年)には高橋お伝の処刑も執行したという。
  • 明治3年(1870年)に雲井龍雄を斬った時には、刀の柄に手をかけ、右手の人差し指を下す時に「諸行無常」、中指を下す時に「是生滅法」、薬指を下す時に「生滅滅爲」、小指を下す時に「寂滅為楽」と唱えるや否や一閃して首を切ったという。
  • 明治5年(1872年)2月20日には原田キヌ(夜嵐お絹)を斬っている。
  • 明治7年(1874年)7月9日には岩倉具視暗殺未遂事件(喰違の変)では、武市熊吉以下9名を一人で斬っており「九人斬り」と評判になったという。
  • 明治10年(1877年)士族・町田ろく方に「入夫」となっているが、その後離縁されている。その後四谷舟町の村上菊松氏の長屋に入れてもらっていたが、身上が修まらないため明治26年(1893年)に追い出されたという。長屋でも藁人形を斬っていたという。
  • 明治14年(1881年)7月24日に斬首刑は廃止される。同年8月22日、山田吉亮は市ヶ谷監獄署書紀を拝命しており、翌年12月15日に依願免職となっている。
  • 明治21年(1888年)、長船の刀を祖師堂へと奉納している。

    麹町區平川町貳丁目の山田吉亮は、彼の首切浅右衛門の家筋にて、同家に傳來の備前長船の刀は長さ貳尺三寸五分鎺元一寸、中心六寸七分、重ね二分、反五寸にて、先年和泉屋治郎吉事鼠小僧を斷罪に處せられしときに用ひ、また一口の拵附新刀は高橋おでんの首を切りたるものゝ由なるが、同人は今度此二口の刀を、日本橋區小傳馬町舊牢敷跡の祖師堂へ奉納すると云ふ。

  • 明治31年(1898年)に村上氏宅に現れたが同氏が不在だったため帰されると、その翌年には大磯で死んだという。
  • 安政元年(1854年)9月26日生まれ、明治33年(1900年)死。47歳
    • ※明治44年(1911年)没、58歳とも


 

  • 山田浅右衛門家が比較的金回りが良かったのは、御様御用の給金や、諸大名からの道具試用の礼金、さらには仕置人の肝や脳みそを薬として売った売上、刀剣の鑑定などの礼金などがあったためという。
  • このうち薬は屋敷内に肝蔵(きもぐら)があり、そこで肝臓や脳みそが干されており、それを原料として薬にして販売していたとされる。
  • 明治初年、本宅が平河町にあったころ隣家に住んでいた三平作太郎氏は、次のように語ったという。
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    子供の時分、肝藏(きもぐら)へ入つたさうです。これは、誰も入ることは出來ぬのだが、淺右衛門の二男徳藏が遊び友達なので、入つてゆくことが出來た。三間に二間半ぐらゐの藏で、中には柱が少しか建つてゐなかつた、三つの大きな甕があつて、その上に網を引き廻し、それに丁度、茄子の干からびたような變なものがぶら下つてある、七八分から一寸ぐらゐあつて、細長くて、開か黑くて、一寸靑味を帯びた實際茄子の腐つたやうな形で、それに一々紙片がついてゐた、子供だからよめなかつたさうです、甕の中には、腦味噌が一パイ詰つてあつた、これは油のドロ/\したやうな、油ぎつた、薄鼠色で、甘ずつぱいやうな氣味のわるい匂がした、藏の中には、外に何もない、こゝに一人藏番の爺さんがゐた丈であります。これがいろ/\な藥となつて、随分高價に取引されたのです、値段は、ハツキリしませんが、事實、利き目があつたので、みな高い藥代をはらつたらしい、ところが、明治三年四月十五日『刑政ノ死骸ニテ刀劍を試シ、人膽、靈天蓋等、密賣嚴禁』の布告が出て居りますので、表向には賣ることが出來なかつたのは勿論であります。

    なおこの種の行為は、現在となってはカニバリズムと称され厳に忌避される行為となっているが、特に明治から大正頃にかけては全国で同様の行為が行われていたことが新聞記事などでもわかる。決して山田浅右衛門家だけで行われていたわけではない。
  • 布告とは明治3年(1870年)四月十五日付の辯官御触(第二百九十四)を指す。

    辯官達  明治三年四月十五日、從前刑餘ノ骸ヲ以テ刀劍ノ利鈍ヲ試來候、右ハ殘酷ノ事ニ候間嚴禁取締可候、其他人膽或ハ靈天蓋(脳髄)陰莖等密賣致ス哉ニ候處、其効驗無之事ニ付是亦嚴禁取締可致候事

  • ただしその後も販売されていたようで、明治24年(1891年)の「日本全国商工人名録」の商工人名之部の「賣藥營業」には素伝の名前で「天寿慶心丸」が販売されている。

    天壽慶心丸本舗
    神田區西小川町一ノ八 龜峯館 山田 素伝

  • また正岡子規の随筆「墨汁一滴」にも登場する。明治34年(1901年)に新聞「日本」に連載したもの。

    諸方より手紙被下候諸氏へ一度に御返事申上候。小生の病氣につきいろ/\御注意被下、或は深山にある何やらの草の根を煎じて飲めば病立處に直るといはるゝもあり、或は人膽丸は萬病に利く故チヤン/\の膽もて煉りたる人膽丸をやらうかといはるゝもあり、或は何がしの神を信ずれば病氣平癒疑なしといはるゝもあり、或は此病に利く奇體の灸點あり、幸に其灸師只今田舎より上京中なれば來てもらふては如何などいはるゝもあり、或は某醫師は尋常の醫師に非ず、從つて其療法も亦尋常療法に非ず、某将軍深く之を信ず、君此人に診察させては如何などいはるゝもあり、或は某醫師の養生法は山師流の養生法に非ず、我家族の一人は現に此法を用ゐて十年の痼疾頓に癒えたる例あり君も試みては如何などいはるゝもあり、中には見ず識らずの人も多きにわざ/\書を寄せられて、とかくの御配慮に預る事誠に難有次第とそゞろ感涙に沈み申候。
    (四月二十日)
    正岡子規 墨汁一滴
    ※青空文庫は現代仮名遣いに直されたもので、引用は別書籍から行った。

    なお明治34年(1901年)の時期の「人膽丸」の原料については諸説あり、必ずしも人体由来ではないという指摘もある。

 刀劔押形

  • 福永酔剣著「首斬り浅右衛門刀剣押形」
    • 山田家「刀剣押形」から抜粋した130口を掲載。試し斬りの依頼人、年月日、成績などを記したものに解説を付けている。

 関連項目


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