山本達雄


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 山本達雄(やまもとたつお)

日本の銀行家・政治家
第5代日銀総裁、大蔵大臣、農商務大臣、内務大臣
男爵

 生涯

  • 安政3年(1856年)3月3日、豊後国臼杵藩士・山本確の次男として現在の大分県臼杵市に生まれる。

 苦学生

  • 藩校学古館に学び文武に秀で13歳で宗家の養嗣子となるが、実家・養家ともに貧しく、内職で家計を支えた。
  • 17歳で大阪に出て3年間小学校教師をしながら学資を稼ぎ、東京に出て慶應義塾で福澤諭吉に学ぶが、月謝を払うことが出来なかったため慶應義塾で学んだ期間は短かった。
  • そこで当時三菱財閥が経営していた明治義塾(三菱商業学校)に転校し、助教を務めながら学資を稼ぎ、かろうじて卒業した。

 郵船から日銀、日銀総裁へ

  • その後、転々とした後1883年(明治16年)に郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)に入社、そこで川田小一郎(第3代日本銀行総裁)から才能を認められて幹部候補生となり、各地の支店の副支配人を歴任する。
  • 1890年(明治23年)、当時日銀総裁であった川田の要請によって35歳で日本銀行に入行する。1895年(明治28年)には、川田の命により横浜正金銀行の取締役に送り込まれた。更に1896年(明治29年)4月には金本位制実施のための準備のためにロンドンに派遣され、更に翌年にはロンドン滞在中のまま、日本銀行理事に任命された。
  • ところが、1898年(明治31年)10月に第4代日銀総裁の岩崎弥之助が辞任すると、山本は突如日本に呼び戻され第5代日銀総裁に任じられた。日本銀行に入ってから8年目の43歳のことであった。

 政治家

  • 任期切れとなる1903年(明治36年)まで日銀総裁を務めた後、退任後の1903年11月20日に貴族院で勅撰議員となり、1909年(明治42年)には日本勧業銀行総裁に就任した。
  • 1911年(明治44年)に成立した第2次西園寺内閣において、西園寺に乞われ、初めての財界出身者の大蔵大臣として入閣した。
  • 健全財政主義を奉じて日露戦争後の財政立て直しを持論としていた山本は、当時の軍部による軍拡に批判的であり、二個師団増設問題を巡って陸軍と衝突して内閣総辞職の原因を作った。
  • 西園寺の立憲政友会との関係を強め、大正政変後の第1次山本内閣では政友会の推挙で農商務大臣に就任、山本の2代後の第7代日銀総裁であった高橋是清大蔵大臣とともに財政再建にあたるが、シーメンス事件で志半ばで挫折する。
  • 政友会に入党し、政友会による本格的な政党内閣である原内閣(第19代内閣総理大臣)においても再度農商務大臣を務める。ところがこの頃より積極財政主義の高橋と、健全財政主義の山本の間で意見対立が目立つようになる。大正10年(1921年)11月4日に原敬が暗殺され、閣僚はそのままで高橋が政友会総裁として高橋内閣(第20代内閣総理大臣)を率いるようになってから一層拍車をかけることとなった。
  • その後は政界再編の波に揉まれ、政友本党、立憲民政党を経て大政翼賛会へと、激動の時代を政治家として過ごした。
  • 太平洋戦争敗戦とそれに続く日本国憲法公布に伴う貴族院と爵位の廃止といった流れを「政界の長老」として眺めるだけとなり、貴族院議員の地位を失った半年後に、92歳で死亡した。

 刀剣

  • 鶯丸友成」を千五百圓で購入し、のち皇室に献上している。
  • また現在東博で所蔵する銘「備前国友成造」(昭和27年3月29日国宝指定)についても同氏が所蔵し、後に養子となった孫の山本達郎氏より寄贈されたものである。
  • その他
太刀
銘國宗。昭和8年(1933年)7月25日重要美術品認定。男爵山本達雄所持。

 系譜

 子:松村真一郎

  • この山本達雄の子が農林官僚から貴族院議員、参議院議員となった松村真一郎である。
  • 明治13年(1880年)大阪道修町で生まれる。明治39年東京帝大法科大学英法科。
  • 中央競馬会長(昭和21年)、全国農業共済協会長(昭和24年)、中央選挙管理委員会委員長などを歴任した。
  • 昭和38年(1963年)没。

 孫(養子):山本達郎

  • 松村真一郎の次男(山本達雄の孫)が東京大学名誉教授であった山本達郎である。
  • 明治43年(1910年)東京生まれ。
  • 祖父の山本達雄男爵の養子となる。東京帝国大学卒業後、東京帝国大学助教授、東大文学部東洋史学科教授を務めた。
  • 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御されると、新元号として山本達郎氏が提案していた「平成」が最終的に採用されることとなった。
    • 決定過程などについては、「諡号」の項を参照
  • 平成13年(2001年)死去。

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