清田直


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 清田直(きよたすなお)

肥後熊本藩士、銀行家

  • 愛刀家で知られた。
Table of Contents

 生涯

  • 清田家は肥前熊本藩の二百石取りの家系。維新後は家扶となっている。
              細川忠興
                ├──┬細川立孝  【宇土藩初代】
    一色氏娘     ┌─幾知  │  ├────細川行孝
      ├──凉泉院 │     │慈広院      ├───細川有孝【宇土藩二代】
    清田鎮忠   ├─┴清田石見 │       源立院佐舞
         清田鎮乗      │
                   └細川興孝【細川刑部家】
    
    清田家は、もと大友氏庶流戸次氏の支族とされ、清田鎮忠は大友宗麟に仕え、継室に宗麟の娘ジュスタを迎えている。子供は生まれなかったが、ジュスタが一条兼定との間に設けたマダレイナを養女としている。
     また清田鎮忠は正室の一色氏の娘との間に清田五郎大夫および凉泉院を設けており、この凉泉院は志賀親守の子で清田の養子となった鎮乗と婚姻しており、清田石見および吉(幾知)を産んだという。この幾知はのちに細川忠興に嫁ぎ、細川立孝および興孝を産んでいる。この立孝の遺児である細川行孝は後に宇土藩を立藩している。

    熊本市の指定文化財等 / 熊本市ホームページ(建造物市指定の20番:清田家住宅附細川忠興知行宛行状他9点)「清田家の先祖は、豊後国主大友氏の支族であったが、細川氏豊前国統治時代、初代五郎太夫は忠興の家臣となり、弟寿閑の娘・吉は立孝(宇土支藩祖)、興孝(刑部家祖)を生んだ。近世後期に本家を嗣いだ栄太は、明治維新後城下を離れ、縁故のあったこの地で地主業に転じた。」 ※「弟寿閑」とは清田(志賀)鎮乗のこと。通称は主計で、上記凉泉院と婚姻して吉(幾知)を産んだ。
  • 藩主細川家の代理として十五銀行の常務取締役となる。この時、同役の草野政信、有島武、副支配人の福住英勇、久野昌一らを刀剣の道に誘い込んでいる。
    十五銀行は、昭和2年(1927年)金融恐慌の影響を受け終戦直前に帝国銀行に吸収された。
  • また日本鉄道の理事となっている。
  • 明治32年(1899年)、79歳のころに散歩の途中に心臓麻痺により大往生を遂げた。

 刀剣

 光忠


金象嵌銘 光忠 光徳(花押)
刃長72.48cm(二尺三寸九分二厘)、反り2.39cm(七分九厘)
国宝

辻本直男氏は、本刀こそ「福島光忠」であるとする。※氏だけではなく明治~大正頃の刀剣人数人が同様に指摘している。
 しかし今でもはっきりわかる光徳象嵌が入っておりその時代からわかっていたはずだが、享保名物帳では在銘とするので、矛盾が残る。

  • もとは信長所持。のち家康から水戸頼房に渡る。
  • 【水戸家→連枝宍戸藩松平家】
    • 水戸光圀の弟の松平頼雄は、天和2年(1682年)に宍戸1万石を分与され、宍戸藩を立藩(松平大炊頭家)する。この時にこの光忠も譲られ、その後は宍戸藩の松平大炊頭家に伝来した。
  • 元治元年(1864年)に宍戸藩9代藩主・松平頼徳がこの光忠を佩いて天狗党の鎮圧に出陣している。しかし途中で逆の立場を取るようになってしまい、遂には幕命による追討を受け、水戸藩の支族・松平頼遵(万次郎)邸にて切腹させられた。享年34。

    すると川岸通りから打放つた破烈玉が。天地に轟いて大炊頭の御坐所近くに爆發した。續いて殷々たる轟聲を以つて役所、長屋、厩等に中つて破裂した。裏手には九町目畷から打出す砲聲轟き渡るのであつた。大炊頭今は捨置き難しとあつて。烏帽子に鎧直垂を着し。福島光忠の二尺三寸計りなる銀の太刀。金物作りに虎皮の尻鞘をつけて相州小鍛冶の作つた刀を添へ。小尻下りに佩いた。そして近侍に打物手筒を持たせ。神勢館の表門に出て福地政次郎を呼べと仰せられた。

    この「福地政次郎」は福地桜痴とは別人で水戸藩士の砲術家。
    いっぽう福地桜痴こと福地源一郎は、長崎の儒医・福地苟庵の息子。のち御家人。旗本。

  • 【岩崎家→福地源一郎】
    • その後同家ではこの不名誉な刀を処分することにし、剣客天野が仲介し、これを浅草で刀商をしていた町田平吉へ80金で売却。その後、町田から岩崎男爵家が102金で購入した。
    • ところが同家に入ったところ今村長賀らが「この刀の正作は大村加卜程度のものだ」と否認してしまったと聞き、福地源一郎が岩崎家所有の本刀(光忠)と則房を交換譲渡して入手した。
    • ※ただし福地源一郎側は交換ではなかったようで、この時持ち金が足らず、5人の知己から借金して買ったという。「福地桜痴君が言はれた事がある、いくら女好きでも借金して藝者を引せると云ふ奮發は出ぬが、名刀を見るとどうしても堪らぬ、福島光忠が出た時手元に金が廿五圓しかない、そこで五人の知己より一時借用して刀の代金を拂つた、七とこ借より二ヶ所少いだけが少しましだ」 ※七所借とはあちこちから借り集めることをいう。
      高瀬羽皐は、明治43年(1910年)「刀剣談」で、「福島光忠と云ふ刀がある、福島正則の佩刀で、至極上出來の光忠、尤も在銘ではない。」と記している。
  • 【清田直】
    • その後明治20年(1887年)頃に、網屋が仲介して清田直が福地源一郎から600金で購入した。
    • この話がなぜか宍戸藩側に伝わり、600金という評価を受けて惜しくなったのか、清田に対して「由緒ある刀なので光忠を買い戻したい」という意向が伝えられる。しかし清田は吉岡一文字助光であれば交換すると応ずるが、結局値段の面で折り合いがつかず交渉は打ち切られた。
      この吉岡一文字の左近将監助光は、寛永のころに阿部忠秋が隅田川を騎馬で渡り切ったことを賞され家光より拝領したという刀で、当時は麹町の刀商越又(越前屋又右衛門)の手元にあったという。のち堀部から井田栄三、山本悌二郎、宇佐美莞爾田口儀之助と渡って行った。
  • また旧藩主筋にあたる細川護立氏がこの刀を所望するも、如何にお殿様でもこの刀だけは差し上げかねると断っている。細川護立氏は、それならば清田の光忠以上の光忠を手に入れようと苦心して探した結果、「生駒光忠」を入手したという。護立氏は「どうだ、清田の光忠に負けまいが」と度々自慢したという。
    但し細川護立が「生駒光忠」を購入したのが明治33年(1900年)とされ、清田直はその前年の明治32年(1899年)に没している。のち、この「生駒光忠」および本刀のいずれも後に国宝指定を受けている。また細川護立は明治16年(1883年)の生まれであり、この話は清田の晩年、細川護立の青年期の話である。
  • 清田直氏は明治32年(1899年)死去。子息の清田政人(きよたまさと)氏へと渡った。
    清田政人は清田直の三男。明治17年(1884年)12月生まれ。明治41年(1908年)に慶應理学科を卒業。三菱重工業會社本店、神戸造船所、名古屋航空機製作所、長崎造船所などに勤務し、昭和8年(1933年)日本電池會社に入社。同社支配人。日本輸送機、日電々波工業の監査役。
  • 国指定文化財等データベースでは昭和15年(1940年)5月3日付けで旧国宝指定というが同日指定分には光忠は見当たらない。官報では昭和10年(1935年)4月30日付けの文部省告示第百七十二號で国宝保存法により指定されている。

    刀劔 太刀金象嵌銘光忠光徳花押 小山花ノ木町 清田政人

  • 昭和26年(1951年)6月9日国宝指定。このときも清田政人氏所持

    金象嵌銘光忠光徳(花押) 京都府京都市上京区小山西花池町 清田政人

  • 昭和38年(1963年)「日本古刀史 改訂増補版」では清田政人氏蔵。※但し故人





 守家

太刀
銘 守家造
重要文化財
永青文庫所蔵

  • 守家の太刀はもとは本多家伝来で、金無垢で丸に獅子の彫物のある後藤徳乗の鎺がついていた。細川家蔵。

 景光

 新藤五

短刀
銘 国光
刃長25.0cm
重要文化財
佐野美術館所蔵

 その他

  • 長光太刀来国光の短刀、三原正家の刀(光徳金象嵌)などが重要美術品指定。
  • 元応年記の佐伯則重の短刀。
  • 折返し銘国宗の大太刀(85cm)には梨子地の糸巻き拵えをつけていたが、相撲の吉田追風家(相撲行司の家元)では国技館の行事でこれをしばしば借りだしていたという。

 逸話

  • 刀装の拵えの形状にはうるさい人であったという。

    故人清田直先生は肥後人の数寄者で、三斎公以来の伝統的に刀装の拵えの形状にはやかましい人でありましたが、常にいわれましたことは「金工としての名人は多いが、その多くは彫刻の妙技にのみ捕われて刀装の金具であることを忘れた気味があり、ことに縁頭の形状においてはなはだしく、すなわち柄鞘の反り請けの取れぬものが多いが、彫工で一乗・安親の両人にかぎり、その憂いがなく、いつもこの作の縁頭を用いているが、柄鞘の移りの悪いものはない」といわれたことがあります。

 遺産

  • ある時上記弟子の一同が「せっかく訓導に預かることになった記念に、愛刀の中から一刀をお譲り頂きたい」とお願いしたが、清田は「自分は他人に譲る刀は一本も所持しておらぬ」と断った。草野が「100年後はいかがするおつもりか」と聞くと、「もちろん子孫に遺言して売らせはせぬ」というので、「如何に遺言しても子孫が守るか覚束ないことです」というと「その時は草葉の陰から睨んでおる」と断言したという。
  • 死後、遺産である刀剣類は3人の子に分与された。
  • 長子清田寅はのち事業に失敗し、所蔵品を手放すことになったが、細川侯爵家以外に出ることはなかったという。
  • 次男辰雄は堀部直臣の養子となったため、所蔵品は同じ熊本藩士出身の堀部家に渡った。
  • 三男政人が家を継いだが、所蔵品は戦後大阪の田口家に渡った。

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