一期一振

一期一振吉光(いちごひとふりよしみつ)  

太刀
額銘吉光
2尺2寸7分
刃長68.8cm、反り2.6cm
御物
山里御文庫 御剣庫蔵(宮内庁管理)

Table of Contents
  • 享保名物帳所載

    一期一振藤四郎 入銘長二尺二寸八分 御物
    焼キ直シ、右ノ寸法ニ磨上リ、入銘ニ成ル
    元ハ二尺八寸三分有之由、樋ハ忠マデ有之

  • 詳註刀剣名物帳

    今村長賀氏曰、此刀根元は乱刄にて出直り直刃になる、今は尾張徳川侯より献上になりて宮内省に有之、地鐵細美にして容易に焼直しとは見へず。云々
    太刀も明暦三年正月の火事にて焼たるを、越前の康継に命じて焼直させ、其時に直刃とはなりしならむ、抑もこの一期一振と名付けし故は粟田口藤四郎吉光の作、短刀又は薙刀のみにして太刀の世に存したる物これより外にはなし、故に一代一刀と云ふ心にて一期一振と後人の名けしなり、此太刀の傳來を考ふるに何等の書にも記せし物なし。「信長公記」に神戸信孝殿へ吉光の刀を進せらると云記事あるを以て此の一期一振ならんと思ふ者あり、されど全く此太刀にはあらず、其仔細は単に刀と呼るものは太刀に限らず脇指、短刀をも押なべて刀と謂たるものなれば、刀とありしとて直に吉光太刀なりと思ふは早計なり、また此太刀の事「毛利家記」に見へたり。
    「毛利家記」に云天正十八年九月十八日殿下様(豊臣秀吉をさす)御成り御進物御太刀吉光(注に一期一振と云赤胴作ツブ桐とあり)御馬(イタヤ鹿毛と云)右御披露小早川前侍従隆景とある、さすれば此太刀毛利家に傳り太閤御物となり其のち徳川家に歸り尾州家へ賜はりしものなるべし、維新後同家より献上、現に御物となる。この刀「埋忠押形」には「上様へ上る尾州大納言様へ御成の節」とあり下に「嵯峨角の倉より出づる」と記せり、其後ち毛利家の物となりしにや。
    「増」三好下野入道口傳に曰、吉光太刀一振もなし一期一振とて越前にありとなす。下野入道罷り越候へも無之とあり、毛利家へいたる前越前にありしにや。

    今村長賀が明治期に拝見しており、焼けて再刃したようには見えないという。明暦の大火で焼けたというが、誤りと思われる。後述。一期一振の由来は下記に記す。神戸信孝に与えたのは「しのぎ藤四郎吉光」とされる。毛利家記は下記に引用。嵯峨の角之倉とは角倉了以のことと思われるが詳細不明。

由来  

  • 額銘に入る吉光とは藤四郎吉光のこと。
    「額銘」とは、元からある銘を切り取っておき磨上げした後に、ちょうど額のように元の銘を嵌め込み戻したもの。入銘とも。
  • 藤四郎吉光は短刀の名手として知られ、太刀は生涯この一刀しか鍛えなかったと言われており、よってこの名があるという。
    ただし実際には「かいきりよし光(京極家、櫂切り)」、「御刀吉光(大坂御物、二尺三寸一分)」など慶長期にもいくつか存在した。太刀を一作しか鍛えなかったという意味ではなく、生涯最高の一作という意味でつけたと思われる。
    同様の言葉として、「一期第一」(いちごだいいち)、「一期一腰」(いちごひとこし)と銘打たれた刀も存在する。

来歴  

秀吉以前  

  • 秀吉に来る前の来歴があいまいで、朝倉家、堺、毛利家の三説がある。
    「天下一振」が一期一振だとすると松永から足利将軍家を経た四説。
  1. 【朝倉家説】:戦国期越前朝倉家の重宝となっていたというが、それ以上は不明である。

    三好下野入道口傳に曰、吉光太刀一振もなし一期一振とて越前にありとなす。
    詳註刀剣名物帳 増補版)

  2. 【堺説】本阿弥祐徳が銀三十枚で堺で購入し、秀吉に金十枚で召し上げられたとする。この金の中には釈迦の像が鋳潰されずに残っていたため京都仏光寺に寄進したという。
  3. 【毛利家説】:天正18年に秀吉が聚楽の毛利邸に臨んだ折りに目に留まり、秀吉がしつこく所望したためやむなく毛利輝元より豊臣秀吉に献上されたという。

    御成日記之事
    天正十八年九月十八日巳之日天晴
    殿下様(秀吉)巳之刻
    御進物
    太刀吉光一期一振也 金具ハ赤胴つふきり 御馬
    右御太刀之披露筑前侍従(小早川隆景
    (毛利家記)

仮に越前朝倉氏にあったとすれば滅亡前に出すとは思えず、同家を出るのは滅亡した天正元年(1573年)以後となる。その時に信長や織田家臣の手に入っていないこと、また毛利側の記録に朝倉家伝来などと書いていないことに疑問がつく。「太閤御物刀絵図」の天正16年「石田本」に記載がないことからも、毛利家から秀吉への来歴が一番有力と思われる。


秀吉:一之箱蔵  

  • 秀吉は、目貫と笄を後藤祐乗作の物に取り替えた上で、「一之箱」に納めて秘蔵した。

    一之箱 いちご一ふり刀(豊臣家御腰物帳

徳川将軍家  

  • その後元和元年の大坂城落城の際に焼けてしまったが、名刀を惜しんだ家康が越前康継に再刃をさせた。
    一説に分捕り品として献上されたともいう。それによれば、献上された際に家康は大いに喜び、「これは秀頼が明石掃部(全登)に与えていた」ものであり、分捕った時の様子を聞きたいと権田五太夫を呼び出すと、明石掃部を知らないため誰だったかわからないと答えたという。ただしこの伝によれば、大坂落城の際に焼けていないことになってしまう。

    本阿弥光徳著「大坂御物名物刀剣押形」ですでに二尺二寸八分になっており、慶安四年(1651年)の尾張徳川家御腰物でも「一期一ふり吉光 大坂焼物」と記載されている。また「明暦三丁酉正月十九日火事ニ致焼失名物御道具之覚」にも記録がないことから大坂の役で焼けたことは間違いない。大坂落城時ではなく明暦3年(1657年)の「明暦の大火」で焼けたとするのは「詳註刀剣名物帳」の誤り。

尾張徳川家  

  • その後尾張徳川家に伝わった。

皇室  

  • 文久三年(1863年)正月29日に権大納言徳川茂徳から孝明帝へと献上された。
    徳川茂徳は高須藩10代藩主松平義建の五男として生まれる。いわゆる「高須四兄弟」の一人で、松平容保や松平定敬は弟にあたる。2人の兄が夭折、次兄慶恕(のちの慶勝)が尾張徳川家、三兄武成が浜田松平家を継いだため、茂徳が高須松平家11代を継ぐ。安政の大獄で次兄の慶恕(のちの慶勝)が隠居謹慎となったため、尾張藩15代藩主となった。井伊直弼が斃れると文久3年(1863年)9月に隠居し、その後慶応2年(1866年)に慶喜に代わって一橋家当主(一橋茂栄)となる。一期一振の献上は尾張藩主隠居前の正月である。



「天下一振」  

  • いくつかの書物に、「天下一振 吉光」という刀が登場する。
  • 永禄11年(1568年)10月松永弾正は、先月足利義昭を奉戴し上洛を果たした織田信長に拝謁し、「九十九髪茄子」を差出し、恭順の意を示したとされる。
  • この時に、足利義昭には「天下一振の吉光」を献上したと記される。

    御手合ニ多聞城ヨリ打テ出テ。芥川城ヘ參リ。公方樣ヘ御禮申サル。 松永ハ天下一振ノ吉光ヲサヽゲ奉ル。則義次ニハ河内國半國ト若江城ヲ添テ給ハリ。半國ニ高屋城ヲバ畠山高政ニ 給ハリケリ。 松永彈正ニハ大和國ヲタマハラバ。 手柄次第切取ベシ。 信長ヨリ加勢可有ト約束アリ。攝津國ハ伊丹。 池田。 和田伊賀守三人ニ 給ハル。
    (足利季世記) ※江戸幕府編纂の「後鑑」にも再録

  • 紀州徳川家伝来の「二ノ谷兜由来書」

    左馬助ハ馬を乗上げ、唐崎の一ツ松の下にて下り立。(略)其身ハ坂本城へ懸入候而、主の光秀妻子、次に自分の妻子を刺殺、左馬助自害、殿主に火を懸終り申候。此時天下の名物代々公方家の寶物、捨子茶壺、蕪なし花入、朝山一軸、不動国行太刀、二字国俊ノ刀、烏丸香爐、青紐釜、薬研藤四郎、乙御前釜、新田肩衝、松花の壺、信貴肩衝、天下一振太刀吉光、虚堂墨跡二幅、骨喰ノ脇差、三好正宗二ッ銘太刀行光正宗。右以上十七色、安土城を攻取候時に坂本城へ取納候を、唐織の宿衣ふとんにつゝ候て、女の尺の帯を繼て、殿守より下へさげ、下之寄手へ申候ハ、明智一類滅亡仕候共、天下の名物失ン事不仁の至と存相渡し候、将軍の若君達へ被指上被下候へと申、寄手へ渡候、(略)其砌二ノ谷の冑、雲龍の白練の羽織を家人に持せ、坂本の西教寺へ遣し、其身の跡の吊を頼候(二ノ谷冑由来書)

    この「二ノ谷冑」は、その後紀州徳川家の所蔵となり、昭和9年(1934年)2月20日、静和園で行われた同家の第二回売立で出品されている。二ノ谷冑由来書はこの冑に附属していた巻物。内容は、明智左馬助が坂本城で自害する際に「不動国行」などと共に「天下一振の太刀」も下げ降ろしたというもの。天下一振=一期一振であるとすれば、信長が所持したことになる。これ自体は信じ難いが、この由来書が書かれた時点でも天下一振という藤四郎吉光作の名が知られていたことがわかる。

  • これらが世に言う一期一振かどうかは明らかではないが、江戸後期に書かれた別の書物でも同様の「天下一振」という吉光が登場する。

    名ある太刀朝廷なるものはたゞ人の委く知べきことにあらず。武家に傳ふるものは源家の鬚切・膝丸、平家に小烏・拔丸・鴉丸、惡源太義平の石切、朝長の薄緑、右大將家の小手丸、北條の鬼丸、畠山が鬼切丸、利家の篠作り・二銘・大博多、鎌倉の足利家の大倉牛・目貫廣・股寄、大内家の初櫻・千鳥・荒波・若楓鷹匠切・大蛇切、武田家の鉈丸、上杉家の五虎、筒井家の筒井丸、小笠原家の甲破、今川家の八々王など名高く聞へしものなり。天下一振の吉光、影の吉光・米澤立花吉光・淸水吉光・藥研藤四郞・鎬藤四郞・あつ藤四郞・北野藤四郞・豐後藤四郞・太みや正宗三好正宗・佐々木正宗・本莊正宗一名左馬頭正宗といふ。すぐれたるものにて、正宗の中に第一とす)・切刃貞宗・高木貞宗安宅貞宗・會津貞宗・寺澤貞宗・蜂屋郷・鍋島郷・靑木郷・中川郷・三好郷・太郞坊兼光竹俣兼光・波游兼光・不動國行・荒身國行・面影國行・大般若長光宇佐美長光・取替國次・三齊國次、其餘名ある太刀短刀ども猶言盡しがたし。されども兵災火難等にかゝりてうせにしものは多く、殘れるものはすくなかるべし。
    (春湊浪話)

  • ここに登場しない吉光の掘り出された時期などを勘案すると、これだけの名刀の中で該当する吉光作といえば一期一振しか思い当たるものはないため、この時代には、一期一振はあるいは「天下一振」とも呼ばれていたものと思われる。なお骨喰藤四郎もここにはでていないが、少し前の段でわざわざ骨食(こつしょく)と骨喰(ほねばみ)について論じているため異なる。
    余談ではあるが、この本では最初に武家伝の名刀を並べた後、刀工ごとに「藤四郎吉光」、「五郎入道正宗」と続き、貞宗」を挟んだ後に郷義弘」、以下兼光、国行、長光、國次と続いており、享保名物帳名物三作とは異なる並べ方となっている。著者の土肥経平は岡山藩士で有職故実家。当時の一般的な考え方であったと思われる。


山内首藤氏  

  • 足利義昭が、山内隆通に対して吉光太刀を献上したことへ礼状を出している。

    足利義昭御内書
    就召加供衆、爲祝儀太刀一振吉光、刀一腰盛光、馬一疋河原毛、幷青銅五万疋到来、目出候、猶昭光可申候也、
      (年不詳)六月三日  (義昭花押)
         山内新左衛門尉とのへ
    (山内首藤家文書 二五六)

    なお山内家文書二五七の真木島昭光副状にも同様の文言「御祝儀太刀一振り吉光」が登場する。文中に登場する”昭光”とは、使者を務めた足利義昭の側近真木島昭光のことを指す。本姓は一色氏で、父一色信濃守輝元が槇島城を与えられ槇島(真木島)を名乗る。

  • この書状は、「吉光作の太刀」がここにも存在し、備後国人の山内首藤氏より足利義昭に献上されたことを示す。
  • 足利義昭は、信長と対立するようになり遂に元亀4年(1573年)7月槇島城に篭って挙兵するが、やがて降伏し京都から追放される。その後、堺、紀州を経て天正4年(1576年)2月には備後鞆に移る。
  • いっぽう山内隆通は備後国人山内(山内首藤)氏で、天文22年(1553年)ごろ毛利家に臣従した。天正14年(1586年)10月没。つまり山内隆通から義昭への献上は、天正4年(1576年)~天正14年(1586年)の間ごろの可能性が高い。
  • なお毛利家説を採る場合、名物「一期一振」が毛利家から秀吉に献上されたのは天正18年(1590年)9月であり、その間に毛利氏に移ったと考えれば一応無理なくつながることになる。仮にその場合は、「山内首藤氏」→「足利義昭」→「毛利氏」→「秀吉」という流れになるが、詳細は不明。
  1. 【山内首藤氏】:山内首藤氏がいつごろ入手したのかは不明
  2. 【足利義昭】:備後鞆に移ったのは天正4年(1576年)2月で、山内隆通は天正14年(1586年)10月没。
    山内家首藤文書二五四の足利義昭御内書では、年は不明ながら3月28日付で山内隆通を伴衆に加える沙汰が出されている。2月に鞆に着いた義昭に対して近づいた山内隆通は、3月末には伴衆として伺候するようになり、さらに上記二五六の6月3日付御内書が出されたと考えることもできる。
  3. 【毛利家】:いつごろ入手したのかは不明
  4. 【秀吉】:天正18年(1590年)9月18日に毛利家より献上

備後山内氏の祖である山内俊通の妻山内尼が源頼朝の乳母となっており、その子山内首藤経俊は頼朝の乳兄弟となっている。様々な経緯があったのち山内氏は備後地毗庄の地頭となり、室町期には山名氏の配下で備後の守護代を務め、山名氏が衰退すると独立し、甲山城主として国人領主になっている。
 なお山内首藤氏は地元帝釈山で「備後砂」が産出するため裕福であった。備後砂は室町時代にさかんとなった盆栽や枯山水に用いられ珍重されていた。山内隆通は足利義輝に対して太刀や馬とともにこの備後砂も献上しており、この礼として義輝から「白笠袋」及び「毛氈鞍覆」を免許されている。この2つは守護のみに許された七免許に含まれるものである。

戦国期に毛利氏に臣従した山内隆通は、永禄7年(1564年)の尼子氏との戦いの前に日吉神社(庄原市)で戦勝祈願しており、見事戦勝したために家宝である八幡太郎着用という鎧を奉納している。この鎧は昭和45年(1970年)5月25日に、国の重要文化財に指定されている。またこの故事に基づき、いまも同神社の「山王さん祭」では早駈馬神事が行われる。後に土佐藩主となった土佐山内氏は、この山内首藤氏の庶流を称している。


刀剣本での記述  

  • 一期一振は、複数の刀剣本に所載されており、その遍歴がわかる。
時期長さ
1588年:天正16年「石田本」一期一振の記載なし
1590年:天正18年毛利家から秀吉に
1594年:文禄3年「毛利本」2尺8寸3分生ぶ
1595年:文禄4年「大友本」2尺8寸3分生ぶ
秀吉による磨上?不明
1598年:慶長3年8月秀吉薨去
1615年:慶長20年大坂の役焼き直し磨上越前康継による焼き直し
大坂御物名物刀剣押形2尺2寸8分吉光(慶長)
1651年:慶安4年
「尾張徳川家御腰物」
一期一ふり吉光 大坂焼物
1657年:明暦3年明暦の大火
1719年:享保4年「享保名物帳2尺2寸8分額銘(享保)
現在2尺2寸7分額銘
  • 天正16年の石田本には、これほどの名刀が記載されておらず、天正18年まで毛利家にあった話の裏付けにもなっている。
  • 次に「太閤御物刀絵図」のうち、文禄三年の「毛利本」、文禄四年の「大友本」には生ぶの姿が描かれているが、その後元和元年の「埋忠寿斎本」や、「大坂御物名物刀剣押形」には、磨上げて額銘になったものが載っている。
  • これにより文禄四年(の本阿弥家での押形記録)までは磨上をしていなかったことがわかる。
    当然ながら一般論として押形記録と現物の状態がずれていることは十分考えられる。ただし一期一振ほどの刀を磨上る際に、本阿弥が押形を含め記録を取らないとは到底考えづらいうえ、本阿弥埋忠)以外に磨上を命じたとも考えづらい。そのため、現物の状態と本阿弥家保管押形にずれはないと考えられる。
  • また大坂の役で焼けたことは、明暦3年以前にまとめられた「大坂御物名物刀剣押形」や「尾張徳川家御腰物」など複数の書物でわかっている。

秀吉磨上の有無  

  • 一般に、小柄な秀吉が体格に合わせて磨上たとされる。

    小柄な体格であった秀吉は、自分の体格に合わせて、刃長が2尺8寸3分(約86cm)あった一期一振を、2尺2寸7分(約69cm)に磨上げた。
    その後、明暦の大火により一期一振は焼身となるも、徳川家は越前康継(年代的に二代目、もしくは三代目)に打ち直させた。こうして蘇った一期一振は尾張徳川家に伝えられた。
    (一期一振 - Wikipedia)

    「2尺2寸7分(約69cm)」は現代の寸法であり、誤り。上述の通り、明暦の大火で焼けたという記述も誤り。なお同様の記述はWikipediaに限定されず各所で見ることができる。

  • しかし享保名物帳の記述によれば、大坂の役で罹災した直後に越前康継が焼き直しを行い、その際に二尺八寸三分(約86cm)あったものを二尺二寸八分(約69cm)に5寸ほど(16.6cm)切り詰めて入銘(額銘)にしたとされる。
  • また天正18年に毛利家から移った5年後の文禄4年の大友本でもまだ生ぶのままであり、その3年後、慶長3年8月に死んだ秀吉がいつごろ何寸に磨上したのかはわからないが、再刃の際に吉光の銘がそのままであった(だからこそ額銘にできた)ことを考えると、磨上されていなかったのではないかと思われる。
  • そもそも磨上するのであれば金具を後藤祐乗のものに取り替えさせた時に磨上も指示したはずで、その時に記録がない以上、秀吉による磨上はないと思われる。





Wikipediaでは、他にも秀吉を貶し家康を褒め称える記事が散見される。"神祖"であった江戸時代の書物の影響を脱しきれていないのか、または周辺国の影響か、この二者が関連する記事は正確ではないことが多い。秀吉生前に2尺2寸7分に磨上たとすれば、享保に2尺2寸8分へと伸びたことになる。そもそも諸文献の記録を総合すると秀吉が磨上たという説自体が疑われる。

仮に、秀吉が一期一振を二尺二寸八分に磨上させたとしても、家康が関ヶ原で指したという「菖蒲正宗」は二尺三寸であり、二度の大坂の役で指したという「本庄正宗」も二尺一寸五分半である。また最期の時を迎え、わざわざ試し斬りをさせ自分でも何度か振って試した上で墓所に納めさせた三池典太(ソハヤノツルギウツスナリ)も二尺二寸三分であり、小柄であるはずの秀吉と何ら変わりはない。

それだけではなく、信長が分捕った上で磨上させた義元左文字は二尺二寸三分、三尺三寸から大磨上させた篭手切正宗でさえ二尺二寸六分半と、家康・信長の磨上させたいずれの刀もほぼこの時代の定寸(二尺二寸~三寸)に収まっており、「秀吉が小柄な自分に合わせて磨上させた」という記述が単なる印象操作に過ぎないことがわかる。

  • 細川幽斎も刀の長さについて次のように述べている。

    陣刀は二尺二寸三寸の間可然候、常ハちと長く候てもぬけ安く候へ共具足の上にからみさし候得ばぬけざる物にて候、又脇指は一尺二寸三寸の間長きハ上り坂にてけさんを押候て悪敷物にて候、陣刀ハたとへ名作にてなく共切さへ知候ハゞ幾腰も拵もたせ参度事にて候、合戦に及候ても手に不合候得バ各別に候、手にさへ合候へバ所をきらはず切候故ことの外損する物にて候間其心得可有候事

    打刀は二尺二寸~三寸、脇差は一尺二寸~三寸がよく、たとえ名作であっても手に合わなければ磨上るのがいいといっている。幽斎は宇都宮三河入道流で当時一流の目利きとされた、三好下野入道から伝授を受けた鑑刀の達人。

    むしろ山鳥毛を二尺六寸五分、典厩割や、短いために姫が付く姫鶴一文字ですら二尺三寸以上で佩用した謙信が、当時としてはかなりの長身であったことがわかる。信長も当時としてはやや長身であったようだが、佩用刀のサイズは定寸を好んだものと思われる。

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