菖蒲正宗
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菖蒲正宗(しょうぶまさむね)
刀
2尺3寸磨上
- 二筋樋を中心尻近くまでかき通す、目釘孔1個。
由来
- 菖蒲造りであることにちなむ。
来歴
- 野中何がしという微賤の者が献上したものであるとされ、代わりに永代知行を与えたという。※埜田(のだ)某という浪人とも。
菖蒲正宗と號せしも野中何がしといふ微賤の者の獻りしにて二尺三寸あり。
(徳川実紀)
- 埋忠明寿・寿斎に磨上させている。
- 家康は、この菖蒲正宗と宗三左文字(義元左文字)を特に愛し、替鞘をいくつも作らせておき常に帯びていたという。
絕ず御差料の寳刀ども數多かりし中にも。宗三左文字と名付しは。織田右府が桶挾間にて今川義元を討し時。義元がはきてありしなり。長さ貳尺六寸あり。菖蒲正宗と號せしも。(略)この二振は殊に御祕愛にて。替鞘をあまた作らせ置て。御身さらず帶しめしなり。
- 関ヶ原の戦いの際にはこの菖蒲正宗を、また大坂の役では宗三左文字を佩用した。
關原のときは菖蒲。大坂には宗三をはかせられしとか。
- 承応元年(1652年)、保科正之が紅葉山御宮に家綱の代参をした際に佩用している。
十七日紅葉山御宮に保科肥後守正之代參す。また二丸の御宮に御參あり。諸老臣。近習の輩のみ供奉す。かくて御塵所にて。神祖の御甲冑并に御傳家の菖蒲正宗の御刀。信國の御わきざしを拜戴し給ふ。こは何れも慶長五年關原軍のとき着御のものとぞ聞えし。
(厳有院殿御実紀)- かつて神祖家康が関ヶ原の際に着用した道具と伝える。
- 明暦の大火で焼けるが、再刃させている。
- 幕末まで将軍家伝来。
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