宇都宮三河入道


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 宇都宮三河入道(うつのみやみかわにゅうどう)

足利義満時代の鑑定家

  • 生没年不詳。
    応永年間(1394~1427年)の後半まで生存していたとされる。

 出生

  • 宇都宮三河入道が誰なのかについては、諸説あり判然としない。
  1. 【宇都宮根重】:美濃の南宮神社の社家宇都宮氏、宇都宮藤重の子。
  2. 【宇都宮正藤】:宇都宮根重の従兄弟。
  3. 【宇都宮三河守時綱入道蓮意】:下野宇都宮氏。
  • 以下では、宇都宮根重説に基づく。

 生涯

  • 美濃の南宮神社の社家宇都宮氏の一族で、父は宇都宮二郎藤重という。藤重は「太平記」にも名の出ている美濃将監泰藤の子である。母は宇都宮秀言の娘。

    山崎へは脇屋右衛門佐を大将として、洞院の按察大納言・文観僧正・大友千代松丸・宇都宮美濃将監泰藤・海老名五郎左衛門尉・長九郎左衛門以下七千余騎の勢を向らる。

  • 宇都宮三河入道は、名は根重、通称三河二郎、号は鉄道。
  • 南宮神社の「宇都宮氏系図」に「宇都宮三河二郎、鉄道入道、以鉄造諸器、刀剣尤極其精妙」とある。
    同系図の宇都宮正藤の項に「宇都宮越中守号三河入道、文安二年二月二日卒 年七十九」とあり、こちらが三河入道であるとする説もある。
  • また「新刊秘伝抄」の序には次のように記される。

    剣刀ヲ観察シ利鈍ヲ鑑知スルコト、(あたか)モ掌ヲ指スガ如シ。名越遠江禅門宗喜余流ヲ汲ムト雖モ、水青深藍ノ於氷ニ似テ、名誉古今ニ独歩ノ者也。然而、五冊ノ秘伝抄ヲ製作シ、以テ世ニ問ウ

  • 3代将軍足利義満に、応安元年(1368年)12月より応永元年(1394年)12月まで仕えたという。
    2代義詮のときにも、延文3年(1358年)12月3日の評定の際の席次表で、「宇都宮三河入道々眼」という人物が北座に座っている。(御評定着座次第)
  • 没年は不明だが、生母の没年から推して応永(1394~1427年)の後半まで生存していたとされる。

 生年について

  • 母は宇都宮秀言の娘とされ、応永28年(1421年)5月14日に76歳で没している。
  • 逆算すると正平元年(1346年)の生まれとなり、15歳で三河入道を産んだとすると、三河入道は正平16年(1361年)生まれ、20歳で産んだとすると正平21年(1366年)生まれとなる。
  • いっぽう「上古秘談抄」の奥書には応安2年(1369年)とあり、3代将軍義満には応安元年(1368年)12月から仕えたとするため、やや矛盾があるように感じられる。さらには2代義詮の延文3年(1358年)12月3日の評定の際の席次表で、「宇都宮三河入道々眼」という人物が登場しており、こうなると矛盾どころではない。
  • 一般的には「上古秘談抄」の奥書の年号が間違っており応安2年(1369年)ではなく応永2年(1395年)であるなどとするが、たとえそうであっても足利将軍家に仕えた記録との矛盾が残る。
  • これらのことから、以下の可能性が考えられる。
  1. 生母とされる人物が異なる
  2. 生母の没年齢が異なる
  3. 別人「宇都宮三河入道」がいた(父または叔父などか)

 書物

上古秘談抄
名越遠江入道崇喜が正和3年(1314年)に名越崇喜(篤時)が記したものを、宇都宮三河入道が応安2年(1369年)に写したもの。
秘談抄
名越遠江入道崇喜の「上古秘談抄」を元に宇都宮三河入道が著したもの。五巻。現存しないが「宇都宮銘尽」がその抜粋版と見られている。
可然物
3代将軍足利義満の命により褒美として下賜する太刀に相応しい銘を選定したもの。

 鑑定術

  • 三河入道の鑑定術は、斉藤弾正忠からとも、名越遠江入道崇喜から伝えられたともいう。※崇喜については「上古秘談抄」を参照
  • 著書として、「銘盡」一巻が遺されている。
  • 将軍義満から太刀を遺すのに然る可き物を選んでみよと命じられ、その場で刀工六十工の名を書いて差し出したという。それを”可然物”()と呼ぶ。

    人に御太刀を下さるをば、諸侍重代にもすべきか、然るに物のきれざらんを可被下事、不可然之間、”可然物”を記し申すべし

  • さらに将軍義政にも伺候し、目利きについて問われたという。

    刀の目利の事、東山殿御咄之衆に宇都宮三河入道という人、目利す事を伝えたり、此時兵乱の後にて諸大名、国を多く給いしかば、将軍家の御領多からず、人を賞禄し給うべき地もなし、東山殿彼入道におおせて刀の価を定めさせ、高価は七千五百貫を以てかぎりとし、その価の高下を以て其人物の優劣に応じて賞し給うとて、七千五百貫に至たる功あるには、初めて禄を給りし事なり

 鑑定術系譜

能阿弥
三河入道の鑑定術は、足利幕府の同朋衆能阿弥に伝えられ、そこから幸阿弥、重阿弥へと伝わったとされる。この重阿弥は美濃斎藤氏の被官となっていたことがあるとされる。「能阿弥本銘尽
木本美作入道宗剛
宇都宮三河入道の系統。宗剛の嫡子(正嫡)が左京亮利英となる。
長井利安
左京亮利英の指導の下、長井(斎藤)利安(敬仲元粛)・斎藤利匡(吸江)親子によって、永正13年(1516年)に著されたのが「往昔集」である。
長井(斎藤)利安の叔父が高名な斎藤妙椿、兄が斎藤妙純。長井(斎藤)利匡の子が斎藤利賢、その子が斎藤利三(光秀重臣)であるとする。
【美濃守護代斎藤氏】
斎藤祐具──入道宗円─┬利永─┬利藤
           │   │
           │   ├利国妙純
           │   │
           │   └利安敬仲元粛──利匡──利賢──利三
           │
           │【持是院家】
           └妙椿━利国妙純─┬又四郎
                    └彦四郎
持是院家の斎藤妙純とは、名物ソハヤノツルギ」の「妙純伝持」の妙純であるとされる。
神戸平直滋
斎藤利匡の友人で、「往昔集」を写し「往昔抄」を著した。この経緯は、永正14年(1517年)に土岐頼武(政頼)・頼芸兄弟の間で美濃守護をめぐる合戦が行われた際に「往昔集」を紛失してしまったが、直滋がこれを発見して届けたために書写を許したものという。天文16年(1547年)11月23日に跋文を記している。現在原本の「往昔集」は失われており、この直滋による写本「往昔抄」のみが残る。
尾張竹屋
尾張の竹屋家は、この宇都宮三河入道末裔を称する。三河入道の後裔が竹屋町に住し、竹屋と号したという。天正7年(1579年)、初代と目される竹屋惣左衛門尉理安が「新刊秘伝抄」を著した。その後、二代竹屋雲節忠親(慶長はじめ)、三代竹屋源左衛門忠清、四代竹屋九右衛門道意(元禄16年没)、五代竹屋九右衛門浄玄(享保12年没)と続く。

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