童子切安綱


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 童子切安綱(どうじぎりやすつな)

太刀
銘 安綱名物 童子切)
刃長80.0cm、反り2.7cm、元幅2.9cm、先幅1.9cm、鋒の長さ3.1cm
国宝
国立文化財機構所蔵(東京国立博物館保管)

  • 享保名物帳所載

    童子切安綱 在銘長二尺六寸六分 松平越後守殿
    丹波大江山に住す通力自在の山賊を、源頼光太刀にて討ちし故と申伝候。
    秀忠公御物、高田様越前へ御入輿の刻、三位宰相忠直卿江被進、御長男光長卿へ御伝也、極上の出来にて常の安綱に似たるものに非ず、石田と一所に一覧申、格別に正宗をとりたり、同苗一同に同意也、此太刀広小路三郎兵衛宅へ来る朝より、筋違橋辺より狐多く出上野谷中道に行くと、考へに右童子切来る故とか申也云々

Table of Contents

 由来

  • 源頼光が、頼光四天王を引き連れ丹波大江山の酒呑童子の首を切り落とした時の剣という。酒呑童子退治の逸話とともに広く知られている。
  • それによると、頼光が四天王とともに大江山に棲むという鬼を退治するため向かい、途中で三人の翁(熊野、住吉、八幡)に出会う。翁たちは、頼光たちに「神便鬼毒酒(じんべんきどくしゅ)神変奇特酒(しんぺんきどくしゅ)とも)」、「打銚子(うちでうし)」(ながえのてうし)、「星兜(ほしかぶと)」(帽子兜(ぼうしかぶと)とも)を授ける。
  • 「神便鬼毒酒」は、人が飲めば千人力の薬となるが鬼が飲めば飛行自在の神通力を失うという。また「打銚子」は神便鬼毒酒を入れる銚子で、昔神世の時にこの銚子で酒を飲ませることにより鬼を平らげたとするもの。最後の「星兜」は、昔神軍が悪魔を鎮める時に「正八幡大菩薩が召したるもの」であるという。
  • 頼光一行は山道を進み、鬼が城に辿り着き、山伏に化けて酒盛りを開かせ、「神便鬼毒酒」を飲ませ、体を動かなくしたうえで神殿で寝ていた童子の寝首を安綱太刀で掻いたという。首は頼光の兜に食らいつくが、十二枚張りの星兜により一枚だけ残しなんとか無事であったという。外にでると茨木童子が襲い掛かってくるが渡辺綱がこれを倒す。さらに石熊童子や星熊童子、虎熊童子なども退治したという。
  • これよりのち、この安綱太刀は「童子切」と呼ばれることとなった。

 来歴

  • その後足利将軍家に渡り、重代の名刀の一つとして伝える。
  • 15代足利義昭から豊臣秀吉に贈られたが、秀吉は手元に置くことを嫌い本阿弥家に預けたという。
  • その後徳川家康、秀忠と受け継がれた。

 越前北ノ荘藩(越前松平家)

  • 慶長16年(1611年)11月、秀忠の息女勝姫(高田様、天崇院)が越前北ノ荘藩の松平忠直に輿入れする際に越前松平家に渡った

    大御台様(※お江)ゟ高田様へ被進由
    一、童子切刀 太刀拵一通り有  伯耆国安綱

    台徳院様ヨリ高田様へ御守刀ニ進セラル依之越後中将光長公ニ有之也

 松平忠直

  • 子の松平忠直に伝わるが、元和9年(1623年)忠直は将軍より隠居を命じられ、出家して一伯と名乗り、豊後国府内藩に配流となった際、まだ仙千代(光長)が幼少であったため、高田様(天崇院勝姫。徳川秀忠三女)へ預けたのだという。そのため、鞘書きに女の字で文字が入る(御鞘書女筆ト見ヘテ)という。

    表 童子切貳尺六寸五分
    裏 鎺元ニテ壹寸横手下ニテ六分半重厚サ貳分

    童子切御鞘書ノ事前ニモ記スガ如ク、表ニ童子切貳尺六寸五分、裏ニ鎺元ニテ壹寸横手下ニテ六分半重子ノ厚サ貳分ト有之。熟々遂拝見候処、此御鞘書女筆ト見ヘテ男子ノ筆跡ニアラザル歟、疑クハ 高田様御筆ナルニヤ如何ト申スニ御傳來書ニ 高田様に宰相方ゟ守太刀として預ケ被置候ト記サレタリ。是ハ考フルニ 西岸院様豊後府内ノ地へ御事アリシ時 恵照院様元和元己卯年十一月越前北庄ニ御誕生有リ同九癸亥年九歳ノ御時 西岸院様府内ノ地ヘ御移リアリシナリ未ダ御幼稚ノ御事故 高田様ヘ彼童子切御太刀ハ第一ノ御寶器故御守太刀トシテ御預リ御座候様ニト申御事被 仰越候節 高田様御手自御鞘書被成御事ナルベシト推シ考ヘラレ候。余ノ婦人ノ手ニ觸レ申ベキ理ナシ

  • 嗣子光長は当時8歳であり、幕府は越前北ノ荘藩を越後高田藩主であった松平忠昌(忠直弟)に継がしめ、光長は寛永元年(1624年)越後高田藩を立藩することになった。
  • ※ただし作州松平家の「浄光公年譜」によれば、秀康が天正12年(1584年)に秀吉の養子となる際に家康より餞別として贈られたものであるとする。

    東照公餞別トシテ源家累代ノ名器安綱作ノ佩刀并ニ采配ヲ賜ヒ、
    安綱作ノ佩刀ハ、(略)是ヲ童子斬ト称ス

    また同書では、大坂についた秀康が挨拶すると、秀吉は忠光作の佩刀を授けたという。この忠光は出羽守松平直政(出雲国松江藩初代藩主)へと伝わったとする。

 越後高田藩(松平光長

  • 「童子切」は高田様を介して光長に渡ったが、延宝2年(1674年)に光長の嫡子綱賢が男子なく死去。光長も高齢であり、高田藩では後継者をめぐって越後騒動が起こる。将軍後継問題も絡み、延宝8年(1680年)に綱吉が5代将軍に就任すると、綱吉により親裁が行われた結果、延宝9年(1681年)6月高田藩松平家は、お家取り潰し、藩主光長も伊予松山藩主松平定直へお預け(蟄居処分)とされる。

    (延宝九年六月)廿六日松平越後守光長を。井伊掃部頭直該がもとに召て。稻葉美濃守正期上使として仰下さる ゝは。家國鎭撫することあたはず。家士騷動に及ばしむるによて所領を收公せられ。松平隱岐守定直に預けらる。

    光長は、6月23日内命によりニ女・稲子の嫁ぎ先である伊予宇和島藩伊達宗利の青山上屋敷に移っており、6月26日彦根藩屋敷で沙汰を申し受けた。国元では(改易時の作法通り)籠城準備に入るが、6月晦日付けの藩主光長よりの書状「以上意、越後領分被召上候、依之、松平日向守殿、秋元摂津守殿、高田并糸魚川兩域、御受取可有之候間、無相違、可被相渡候、恐々 六月晦日 越後中将光長」を受け開城する。光長はわずかな伴を連れて7月1日に松山に向け出立し、8月1日松山に着。松山城三の丸で蟄居を開始した。光長以下全員が大小すら許されなかったという。翌年には北の丸の蟄居屋敷に移っている。

  • この際に、道具類は天和元年(1681年)10月に溝口信濃守(内、速水一学)と水野隼人正(内、鈴木主馬)により確認されている。

    一、初花肩衝  茶入壱
       袋志ゆかうとんす  ※珠光緞子
    (略)
      本丸広間在之内刀脇差長持一番
    一、稲葉郷  白鞘
    一、切込正宗  同  石田正宗
    一、童子切刀  太刀拵一通有
            伯耆国安綱
    (略)
    右御道具相改不残渡之候以上
      天和元年辛酉年十月
          溝口信濃守内
              速水一学 印
          水野隼人正内
              鈴木主馬 印

  • 同じく高田城請取を命じられた榊原家に残った文書。

        越後高田中将光長御道具
     
        一番
            覺
    一、初花かたつき御茶入  初花肩衝
       出所書有、袋壱ツ、しやかしどんす
    (略)
            御腰物覺
    一、稲葉郷
    一、切込正宗刀  石田正宗
    一、童子切安綱刀 太刀拵一通リ有
    一、氏郷貞宗小脇差
    一、敦賀正宗
    一、貞宗
    一、吉光小脇差
    一、増田吉光小脇差  増田藤四郎
    一、二宗国俊刀 拵え有、笄・小刀共ニ  ※二字国俊
    一、とうよ一文字刀  道誉一文字
    (略)

  • 同様の書上げが宇和島藩伊達家にも残った。こちらは天和元年(1681年)12月の書上。

           目 録
     
    権現様御手自一白(※一伯は忠直)御拝領之由、但、大坂御帰陣之節於二条御城
    一、初花肩衝 袋志ゆかうとんす  茶入  壱ツ  ※珠光緞子
    (略)
    大御台様(※お江)ゟ高田様へ被進由
    一、童子切刀 太刀拵一通り有  伯耆国安綱
    台徳院様ゟ御拝領、但越後様(※光長)御元服之節
    一、敦賀正宗刀  白鞘
    当 公方様(※綱吉)ゟ去年御拝領
    一、来国次脇指  但拵有小柄小刀  代金百枚折紙有之
                             目貫共
    「此御道具質入成ニ付、道誉一文字御刀引替」
    (略)
    関ヶ原御陣之前於瀬田石田治部少(※三成) 中納言様(※秀康)被指越候由、由緒有之由
    一、切込正宗          白鞘  石田正宗
    一、稲葉郷           同
    一、増田吉光脇指        同  増田藤四郎
    一、吉光脇指          同
    一、氏郷貞宗脇指        白鞘
    一、貞宗刀           同
    貞享元極月三日来国光ニ極、金六拾枚折紙有り
    一、二字国俊刀         拵有
    右同日代金百枚折紙極ル
    「質ニ入追而御払ニ成」
    一、道誉一文字刀        白鞘
    一、三条脇指           白鞘金はゝき有
    一、左安吉脇指拵有小柄小刀共  代金拾五枚折紙有之
    「質ニ入」
    一、高木貞宗刀         右同断拵共    代金拾枚折紙有之
    「売払」
    ※「」は付箋

  • しかしこれらを事務処理にあたっていた伊達遠江守(※伊達宗利)家来及び松平出羽守(※松平綱近)家来が受け取り幕府に伺いを立てた所、(伊達・松平に管理が任された38点の物品については)構え無しとなったため、「高松殿二宮様」にこれらの道具を送るよう手配している。
    高田城にあった物のうち、「城附」の物品及び公儀より拝領したものについては幕府に回収されている。それ以外は伊達遠江守及び松平出羽守に管理が任され、さらに「軽キ道具」については高田城在番となる溝口信濃守及び水野隼人正の家来へと下された。
  • この「高松殿二宮様」とは松平光長の姪にあたる人物である。
    結城秀康──松平忠直
            ├───┬松平光長  
          天崇院高田様├鶴姫(九条道房室)
                ├閑(小栗正矩室)
                └亀姫(宝珠院寧子)
       後陽成天皇      ├───┬明子女王(後西天皇女御)
         ├───高松宮好仁親王  └女二宮
       近衛前子   (高松殿)
    
    松平忠直の娘(光長の妹)である亀姫(寧子)は、後陽成天皇の第7皇子である高松宮好仁親王へと嫁いでおり、娘が2人生まれている。姉妹のうち姉である明子女王は後西天皇女御となっている。姉妹の妹が寛永15年(1638年)生まれの「高松殿二宮様」であるが、名前が伝わっていない。
     寛永15年(1638年)6月3日に「高松殿」こと高松宮好仁親王が薨去すると、御息所であった亀姫(寧子)は落飾して宝珠院と号した。娘である女二宮は、母と一緒に承応2年(1653年)に越後高田へと移住している。しかし延宝9年(1681年)1月17日に母・亀姫(寧子)が亡くなり天崇寺(長恩寺)に葬られる。女二宮は江戸に迎えられ、松平出羽守及び伊達遠江守が宮の御用仕えとなった。これが上記の2名により「高松殿二宮様」へと送られた経緯となる。

    天崇寺は、もとは長恩寺。春日山城下で上杉謙信の開基という。松平忠輝が高田城を築城した際に土地を与えられ現在地へと移転した。松平光長の母・天崇院(高田様、松平忠直正室)の遺言により、三回忌である延宝2年(1674年)に長恩寺へ改葬された。また長女で高松宮好仁親王妃となった亀姫もここに葬られている。
     明治16年(1883年)に本堂が焼けたため、同じ謙信の開基という極楽寺と合併して同寺の本堂を移築し、「極楽山 天崇寺」と改称している。
  • 改易で請取確認が行われたのは越後高田城本丸広間で、送られたのは、二宮様が当時居た牛込川田ケ窪の高田様屋敷と思われる。※「女二宮」の項を参照
  • ただし取り込んでいたため、実際の受け渡しは翌天和2年(1682年)3月晦日および4月1日の両日に行われたという。
  • 貞享4年(1687年)松平光長が許され、12月に伊予松山より江戸柳原邸に戻ると、幕府は光長に高松殿二宮様の奉仕を命じたことからこれらの道具類も光長へと返却された。

    越後様諸道具、不殘先年 宮様被遣候所、今度御歸參目出度、營々依之道具共彼方様被進度候

 美作津山藩(津山松平家)

  • その後、元禄10年(1697年)に光長は隠居、翌元禄11年(1698年)に養子長矩(のち宣富)がお家再興を許され美作津山藩10万石に封じられた。

    元禄六癸酉十二月十八日光長養子被仰付
      七  宣富十二月七日長矩備前守ト御改メ
      十一年九月六日登城、去ル六日柳原屋敷内居屋敷替地拝領仰付候、
      同月廿一日登城、於波ノ間老中列座ニ而左之通被仰付渡候。柳原之屋敷、越後守可痛老心御苦労思召候ニ付、金壱万両拝領被仰付候。

    (正月)十四日松平備前守長矩は。美作國津山の城たまはり十万石になる。

  • 元禄11年(1698年)6月21日、武具類について、返却される。※ただし刀剣類は貞享4年(1687年)の模様。

    廿一日先年松平越後守光長か領國沒入のとき收公ありし武具を。其子備前守長矩にかへしたまふ。

  • 津山藩(作州津山松平家)では、この「童子切」と「稲葉郷」、「石田正宗」の3振の名刀を家宝として伝えたという。

一、童子切 一名鬼切 安綱太刀
 長サ弐尺六寸五分 佩表目貫穴之上 安綱ト二字 目貫穴二ツ
  伯耆国会見郡大原住 大原太郎ト号
  孝謙天皇ノ天平勝宝元生 嵯峨天皇ノ弘仁二死 六十三歳
  天平勝宝元ヨリ 文化十一年迄 千六十六年ニ及フ
 御鞘書 童子切 弐尺六寸五分
  御鎺元ニ而壱寸 横手下ニ而六分半 重ネ厚サ弐分
  御白鞘 御袋紺地 金織葵御紋散シ
  紐紫組御袋 御膝纏下 地銅金着 縦篠鑪
  大御切羽 烏金 魚子金ニ而 五三ノ桐御紋ノ置紋
  中御切羽 烏金 縦割 二枚
  小御切羽 金無垢 小割四枚

 昭和以降

  • 昭和8年(1933年)1月23日付けをもって、松平康春子爵名義で国宝旧国宝)第一号に指定。

    昭和八年文部省告示第十五号
    太刀 銘安綱
    附糸巻太刀

  • 昭和15年(1940年)遊就館名刀展覧会出品時も松平康春子爵所持。
  • 終戦後、同家から石黒久呂氏が8万円で引き出し、昭和21年(1946年)8月に玉利三之助氏が10万円で入手する。※届出は前年1月

    太刀 銘安綱 附糸巻太刀拵 一口
    旧所有者 東京都目黒区 松平康春
    新所有者 東京都杉並区阿佐ヶ谷 玉利三之助
    変更の年月日 昭和二十年一月十三日

    玉利三之助は、早稲田大学剣道部の師範を務めていた人物。昭和5年(1930年)5月18日に済寧館で行われた昭和展覧試合にも出場しており、講談社の野間恒と対戦した様子をYoutubeで見ることができる。子息の玉利齊氏は日本ボディビル協会の創立者で、長らく会長職にあった。2017年10月に84歳で死去。

  • 昭和26年(1951年)6月9日、国宝保存法による国宝指定(新国宝)の刀剣第一号となっている。この時も玉利三之助氏所持。

    文化財保護委員会告示第二号
    太刀 銘安綱名物童子切安綱) 一口
    附糸巻太刀拵、梨地葵紋散太刀
    玉利三之助

  • さらに村山寛二氏に譲渡し、昭和26年(1951年)ごろ、村山氏が渡邊三郎氏に借金のカタとして渡したことから後日裁判で争うこととなった。最終的に昭和38年(1963年)3月、文化財保護委員会(文化庁)が2630万円(当時)で買いあげ、うち2000万円を玉利氏、残り600万円を渡辺氏で分けることで決着した。
    戦後に石黒氏が引き出してから国で買い上げるまでの経緯については、後述。


 エピソード

 石田正宗との比較

  • 名物帳に、「石田と一所に云々」とあるのは、この頃に「童子切」と「石田正宗」が本阿弥家に砥に出され両刀を比べた時の話である。童子切は、安綱作で似たものがないほど極上の出来であり、石田正宗が劣っていると一同同意したという。

    極上の出来にて常の安綱に似たるものに非ず、石田と一所に一覧申、格別に正宗をとりたり、同苗一同に同意也

  • さらに続く部分は、当時柳原にあった津山藩の上屋敷から上野広小路にあった本阿弥三郎兵衛の宅に童子切を運ぶ際に、筋違橋(現在の万世橋と昌平橋の間)のあたりにいた狐が出迎えた上で、谷中に移動したのだという。

    太刀広小路三郎兵衛宅へ来る朝より筋違橋辺より狐多く出、上野谷中道に行くと考へに右童子切来る故とか申也云々

    津山藩の柳原上屋敷(元誓願寺前、44百坪)は、貞享4年(1687年)10月9日に拝領したものだが、のち元禄11年(1698年)9月の勅額火事で焼けてしまい、替地として鍛冶橋門のそばに7千坪の屋敷地(鍛冶橋上屋敷)を拝領している。話としては柳原藩邸時代のものと思われるが詳細はわからない。詳細は「美作津山藩松平家の江戸藩邸#元誓願寺前上屋敷」を参照のこと。

 試し切り

  • 元禄年間、津山松平家に入った頃、町田長太夫という試し切りの達人によって試し切りに使われた際には、重ねた六体の死体を切り通し(六つ胴)、さらに下の土壇まで切れ込んだという。

     町田長太夫名刀童子切ヲ様シタル事
    巖有公以來御道具様し御用相勤候者町田長太夫と云浪人なり此者彼御代御重寶童子切と云御太刀を様し候六胴敷腕土壇拂ひにて有りしと、

 首塚大明神

  • 京都府京都市西京区大枝沓掛町の西端、京都縦貫道と交わる辺りに「首塚大明神」がある。
  • むかし酒呑童子を退治した源頼光と四天王が、首を都に持ち帰る途中ここで休憩したという。
  • すると突然、道ばたの子安地蔵が「鬼の首のように不浄なものを都に持ち帰るべからず」としゃべったという。それでも坂田公時が首を持ち上げて持ち帰ろうとすると、首が急に重くなり動かなくなったため、やむなく首塚として埋めた。その場所は、後に酒呑童子を祀る首塚大明神となったという。
    古来酒天童子がいたのは「大江山」であるとされ、これは現在の丹後半島の付け根にある丹後天橋立大江山国定公園に含まれる。この大江山は、小式部内侍の「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天の橋立」という歌に詠まれている。
     しかし一説に、酒呑童子がいたのは「大枝山」だったという説がある。この大枝山は現在は老ノ坂として知られる場所で、京都市と亀岡市の境に位置する。大枝山は、古来平安京の四堺(大枝・山崎・逢坂・和邇)の一つであり、ここまでが都とされた。

 本間順治による拝見話

  • 本間順治は、童子切の管理がどれほど厳重であったかについて、氏は「薫山刀話」で次のように語っている。

     ところでその童子切の拝見談になるのですが、この童子切はだれしも知っている有名なものであるのに、おそらく明治以降だれも拝見したものがないのです。そこでぜひ拝見したい、文部省としてもなんとかして調査したいわけです。そこで非常にむずかしいと聞いているものですから、なにかよい知恵がありませんかと三矢先生に相談しましたよ。よっぽどむずかしいとみえて、松平一族で宮内省の御剣掛でもある松平頼平子爵でも、みたことがないというむずかしさです。みせてくれと頼むと、あれは津山においてあるからといって断わられる。そこで津山へ行ってみせてくれというと、それは東京においてあるということで往復させられるだけで、ついにみられなかった。だからこれは普通ではとうてい無理だというのです。
     子爵で松平慶民さんという人が宮内省におったでしょう(あの当時はまだ式部次長じゃなかったかな、のちに宮内府長官になられた人ですが)。この松平慶民さんは非常に知恵者だから三矢先生が慶民さんに頼んでみようということになりました。そして慶民さんのところへ行って相談したところ、これは私に任せなさいという話になったということでした。その後しばらくたったらみせるそうだという朗報があったのです。
     あとで聞いたことですが、津山の殿様の子爵の松平康春さんですが、このひとは非常に短気なカンカンした殿様のようです。そこで松平慶民さんがこの人にあって、おまえさんのところの童子切はどこで売ったのかといきなり聞いたそうです。そうしたら、だれがそんなことをいったかといってカンカンに怒った。しかし無いそうじゃないか、そんなことはない、ある、いや無い、世間ではもっぱらそういう噂だと押問答の結果、そういう噂を立てられて具合が悪いなら、文部省に国宝の調査をやっている確かな人がいるから、その人にだけそっとみせて、噂の真否を明らかにしたらどうかと、いったらしいんです。ようし、それならみせるということになったわけです。(略)
     箱が出てきて、蓋を開くと、まず糸巻の太刀拵が目にうつった。非常によい拵なんですね。それは慶長にまちがいない、この拵でまず一応ホッとしたのですけれども、いよいよ白鞘入りの中身を拝見すると、ああいうふうにゴリっとした安綱で、同作にあれ以上のものなしという大名刀なんです。感激しましたね。

    松平慶民(まつだいら よしたみ)
     元越前藩主松平慶永の三男。大正・昭和期の宮内官僚。最後の宮内大臣で初代宮内府長官。子爵。松平慶永(春嶽)の三男として生まれ、明治後に分家し子爵に叙せられる。
     明治45年(1912年)侍従、以降一貫して宮内省に奉職する。侍従兼式部官、式部次長兼宗秩寮宗親課長を経て、昭和9年(1934年)に式部長官。昭和20年(1945年)に宗秩寮総裁、昭和21年(1946年)に宮内大臣。昭和22年(1947年)、新憲法により旧宮内省は宮内府となり、初代長官に就任。昭和23年(1948年)宮中改革を進めるGHQの意向により退任。※宮内庁となるのは昭和24年(1949年)の総理府設置法施行後。
     宮内省では珍しい外国通として知られ、昭和天皇のヨーロッパ訪問や秩父宮雍仁親王のイギリス留学の実現、また戦後のGHQとの交渉に手腕を発揮した。皇族や上級華族であろうと、問題が発生すれば、宮内省幹部として遠慮なく問責した。東久邇宮稔彦王の帰国拒否・臣籍降下騒動、不良華族事件など、皇室の権威を損なう事件が頻発した戦前昭和期に、果たした役割は大きかった。その硬骨漢ぶりは、「昭和の殿様」「閻魔大王」と称された。※血はともかくとして、旧福井藩松平慶民も旧津山藩松平康春も、元を辿れば結城秀康の後衛である越前松平家の流れを汲む(厳密には春嶽は田安家出身で紀州家吉宗の流れ)。

 戦後の取り出しの話

  • 松平家から出た経緯について、本間順治氏の「薫山刀話」に詳しく書かれている。少し長くなるが、本間氏が仲介した上での詳細な経緯が明らかになるため引用する。

     中島飛行機の社長の中島喜代一さんが、どうしてもほしくてたまらず、お出入りの刀屋石黒久呂君にぜひ引き出すように頼んでいたということです。もちろんあそこには稲葉江石田正宗もあって、みんなほしいわけです。(略)
     そこで戦前に石黒君は、中島さんのいいつけで津山家へたびたび出入りをして、前には稲葉江と石田正宗を買ったりなどして、家令と懇意なはずなので、石黒君にむこうの家令さんと話し合って、焼けているかいないか、よく確かめてくるようにと頼んだのです。(略)そこはぬけめのない石黒君のことですから、ご不要ならぜひわけていただきたいと申し出たところが、どうしたことか殿様が簡単に分けてもよろしいといわれたそうです。(略)そこでいかほどで頂戴できますかといったところが、それでは十万円で買えといわれたそうです。それではさっそく頂戴します。明日にでもお金を持ってきますからといって、石黒君は引さがってきたようです。
     そして中島飛行機へ飛んでいきました。(略)ところがその中島さんに断られたのです。(略)それに中島さんがA級戦犯容疑でもあり、十万円の金がどうにもならない、多分そんな次第で、非常にほしいけれども、いまは買えないと断られたというのです。
     石黒君は私のところに飛んできて、たいへんなことになったというんだね。天下の石黒が小便しなければならないことになったから、なんとか助けてくださいというんですよ。(略)それからいろいろ考えて、剣道で名高い友人の玉利三之助君に電話で相談して、玉利君から金を借りたのです。
     石黒君がその刀をもってきてたから、玉利君に、せっかく持ってきたのだから、君のところへ少し置いてみなさいといって、預けたんですよ。はじめは遠慮していたがいよいよ預かって抜いてみると、自分のもっている群刀とはだいぶ違うらしいんだね。それからたびたび抜いてみているうちに今度はほしくなって、それで玉利君の方から、石黒君に譲り受けたいといいだしたのです。
     石黒君は童子切を扱ったということだけで、もう刀屋冥利に尽きるわけなので、危うく天下の石黒が小便するのを助けていただいたのだから、私はもう十万円、その通りでけっこうですと、それで玉利君に渡したのです。(略)
     それを日本特殊鋼の社長の渡辺三郎さんがみて、天下の名刀が出たりはいったりというのはみっともない、だから私が預かるということをいいだしたんです。いきさつはこうなんです。出たりはいったりというのは、いわゆる抵当に出たりはいったりということでね。(略)
     そこで渡辺さんが一席もうけて、預かりますということになったんです。そしてお貸ししたお金を返していただければ、私はいつでもお返しします。利息もなんにもいりません。だからこの刀は、自分の刀を入れておく同じ倉に入れておくと、所有欲がおきるといけないから、お預かりした刀は封印をしたままで、別の倉に入れておきますということでした。(略)
     ところがまもなくこれも祟りかどうかわからないが、その渡辺さんが亡くなられた。私は弔問に行って、ご子息に童子切はこういうことになって預けてあるのですから、そのつもりでいてくださいといったところ、よくわかりましたということだったんですよ。
     ところがその後しばらくたって、今度は玉利君のほうでお金を返すから、刀を返してもらいたいと申し出たところで、訴訟問題が起きたんです。私も裁判所に証人に出て、結局は事実の通り、預けたものだということになり、それで玉利君に返ったのです。
     そのときに玉利君に話をして、こういうものはとにかく国に譲りなさい、個人がもっていると、いいことがないから、ということになって、それであれは国が買い上げたのです。

    ただし、官報によればこの童子切が譲渡されたのと同年同月に、中島氏は「稲葉郷」、さらには同年4月に徳川家正氏より「三日月宗近」及び「亀甲貞宗」の譲渡手続きを終えている。恐らく同時期に売買が行われたのではないかと思われ、上記逸話とは若干矛盾があるように感じる。

  • 整理すると次のような経緯となる。(敬称略)
    1. 【戦前】中島喜代一が刀屋の石黒久呂に依頼して津山松平家から複数の刀を買うよう依頼。このときは「稲葉江」と「石田正宗」を買い入れている。
    2. 【昭和21年(1946年)8月ごろ】石黒久呂が津山松平家から「童子切」を10万円で購入する許諾を得る
    3. 【昭和21年(1946年)8月ごろ】中島喜代一が断ったため、石黒は本間順治を頼り、玉利三之助を紹介され、お金を借りて「童子切」を引き出す
    4. 【昭和21年(1946年)8月ごろ】:「童子切」はお金を貸した玉利が「預かる」こととなり、その後所有することとなる
    5. 【戦後】:玉利の商売が思わしくなくなり、「童子切」は借金の抵当に当てられることが複数回あった
    6. 【昭和26年(1951年)以前】渡邊三郎がお金を出して、預かることとなる
    7. 【昭和26年(1951年)1月8日】渡邊三郎が亡くなる
    8. 【裁判】:玉利が、お金を返済するので「童子切」を返却してほしいと申し出たところで裁判沙汰となる。
    9. 【昭和38年(1963年)3月】:裁判の結果、「童子切」は文化財保護委員会(文化庁)が2630万円(当時)で買いあげ、うち2000万円を玉利氏、残り600万円を渡辺氏で分けることで決着

 裁判時に童子切を見た話

  • この頃裁判官をされていた方(第5代最高裁長官)が、裁判の時に童子切を見た話を記している。

     ところが戦争直後、これが津山松平家から売りに出され、その買手T氏(※引用者注:恐らく玉利氏)は経営の事業も隆盛だったのだが、その後次第に事業が傾き始め、やがてこの童子切を以て資金を捻出せねばならぬことになり、有名な刀剣愛好家W氏(※引用者注:恐らく渡邊三郎)から之と引換えに金融を受けてその急場を切り抜けた。しかし愛着断ちがたく、間もなくその金を揃えて刀の返還を求めた。ところがW氏は童子切は自分が買受けたもので所有者は自分であると主張してこれを拒み、かくてT氏は東京地裁に童子切返還の訴を起し、一方、対象物件の転輾することを防ぐため、執行使の保管に移す保全の仮処分を為し、この天下の名刀は執行使の保管に移された。しかしこの様な名刀は何ヶ月に一度は手入れする必要があるので、執行使の責任においてその道の大家X氏に保管を託し、その手入れの際には物件の点検という名目で執行使、当事者代理人らが立会ってきたのである。
     昭和三十二、三年ごろ、私が東京地裁所長のとき、偶然に廊下で出会ったM弁護士から、童子切という天下の名刀を見る気はないかと誘われた。M氏は原告T氏の訴訟代理人だったのである。私はそのような訴訟があることさえ知らなかったが刀剣には多少の興味はあり、得難い機会だと思い、相手方も異存なければということで、その申出に応じることになった。そしてその直後の手入れの日、保管者X方に赴いて、この有名な童子切安綱をこの手に取って、思う存分に鑑賞することができ、そのときの感激はいつまでも忘れることがない。平安の昔から引続き行き届いて鄭重に保管された故であろう。千年近い歳月を経、幾度も血なまぐさい数々の歴史を経て来ているのに、うぶ(、、)、清新、つい最近打出された、宛も処女に接するような感触であった。
     その訴訟自体は双方相譲ることなく、金借か売買かでその後も抗争が続き、その間W氏の関係事業も破綻し、氏自身も世を去って了った由であるが、私も東京地裁を離れ、すっかり忘れて了った。ところがその後この訴訟が芽出たく和解になった由である。享保名物帳には当時の値段を附けられている刀剣が多いが、この童子切は「不知代」としるされている。貴重過ぎて値段は附け難いという趣旨であろう。恐らく現代においても同様であるに違いない。だが世の中も次第に安定し、一般に刀剣類も著しく値上りし出したことが幸いし、昭和四十三年ごろ日本文化財保護委員会が相当多額に之を買上げ、その代金が和解の資に当てられることになり、当事者双方が歩み寄ったわけであろう。天下の名刀童子切安綱は、このようにして、やはり落ち着くべきところに落ち着くことになったのである。もともと、この様な天下の至宝は一個人の私すべきものではあるまい。
     先般、開館百年記念、国立東京博物館所蔵名品展のとき、私の思った通りこの童子切が刀剣の部、第一順位に展示されているのを見て、私も心から嬉しく思った。

    創立100年記念「国立東京博物館所蔵名品展」は昭和48年(1973年)1月6日~2月11日に開催された。

 成相寺

  • 京都府宮津市の成相寺には、「神便鬼毒酒」に用いたという酒徳利と杯が所蔵されている。


 異説

 結城家伝来

  • 結城秀康松平忠直の父)が、結城晴朝の養子になった際に、同家伝来の安綱を譲られたとも言う。
  • また小牧・長久手の戦いの後に講和の条件として結城秀康が秀吉のもとへ養子として差し出されるが、この時に家康より「童子切」の刀と采配を餞別として授けられたという。
  • つまり、結城家に伝来したものを結城秀康から贈られたということになる。ただし現存する童子切には糸巻太刀拵がついており、その金具には五七の桐紋がついている。これは豊臣家から家康に渡ったということを示している。※梨子地の刀箱も残るが、こちらは葵紋が入っている。
  • ※ただし実際には、将軍家から秀忠の息女勝姫(天崇院)を通じて松平忠直(越前松平家)に渡った可能性が高いと思われる。

 摂津家伝来

  • また一説には、室町幕府の評定衆であった摂津家に古くから伝来したともいう。摂津家は衰微すると日野家に仕え、更に都落ちをして摂津与一の時には越前松平忠直に仕えており、高田殿(勝姫)輿入れの際に同家に伝わったとする。
  • 新井白石もこれを実見したという。

    その攝津が家代々伯耆の安綱が童子切と云太刀を傳へ持たりしと也。家の記傳に詳也、京都亂し後はかの攝津が後日野衆の家に所縁有て仕へしが其後又北國へ下りて終に與一が代に越後守殿に仕へし事也、扨かの童子切はいかなる故に公方の御寶と成しにや高田殿の御輿越前に入らせ給ひし時に御聟引出物にはあらずして御輿の内に入られて遣はされしと也、御守り刀との事にや是より越後の家は傳へられたり。二尺七寸反り高く目釘孔二ツ有き、横手の處に疵有、童子の首の喰付し跡など申也。

この摂津氏とは、明法家中原氏のわかれで、元は摂津守に叙任されていたことから氏族の名を摂津へと改めた摂津氏末裔のこと。ただし摂津氏嫡流は足利義輝及び足利義昭に仕えた摂津晴門が元亀2年(1571年)を最後に記録から消え、またその子摂津糸千代丸はそれを遡ること6年前、永禄8年5月(1565年)に義輝と共に討たれたため断絶したとされる。摂津与一がどの系統なのかはわからない。

 異なる押形

  • 本阿弥光悦押形によれば、童子切は雉子股形のなかごになっているがこれは現存刀と大きく異なる。また現存する童子切の目釘孔は瓢箪形になっているが、光悦押形では通常の丸形である。さらに銘の字体やなかごの長さ、目釘孔の位置も異なっているため、光悦押形と現存する童子切とは別物ということになる。
  • 仮に光悦押形が正真の童子切であるとすると、本阿弥家でベタ褒めしたという逸話が嘘、もしくは匹敵するような安綱に入れ替わっているということになる。逆に現存が正真であれば光悦押形が何らかの理由で別物を載せているということになる。本間順治も同様の話をしている。

    おそらくこれはみていないのだと思うんです。みていないで話を聞いて、話で描いた絵じゃないですか。(略)いや、想像して描いたのでしょう。

 宮本武蔵

  • 宮本武蔵が佩いたとも言われるが、二天記によれば(吉岡一門数十人と決闘を行った一乗寺下り松に向かった際に佩いていたのは)安綱ではなく、息子の大原真守であったという。

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