結城秀康


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 結城秀康(ゆうきひでやす)

戦国期の武将
徳川家康の次男
越前国北ノ庄藩(福井藩)初代藩主
越前松平家の開祖
従五位下 侍従 三河守、従四位下 左近衛権少将、従三位 権中納言、正三位
越前卿、越前黄門、越前宰相、結城少将

Table of Contents

 生まれ

  • 母は家康の側室の於万の方(長勝院、永見氏。築山殿の奥女中)で、正室築山殿の勘気を恐れた家康により、浜松城下で生まれたという。

    天正二年 甲戌
    二月八日辰ノ刻、公遠江国敷智郡宇布見村ノ郷士中村源左衛門ノ家ニ生ル、初メ母儀永見氏妊娠ノ後、故アリテ夫人関口氏ノ妬忌ニ因テナリ、浜松城ヲ出テ中村氏ニ寓ス

  • 幼名於義伊(於義丸・義伊丸とも)

    伯兄信康主始テ相見テ公ノ面黄顙和名義々ニ似タリトテ、戯レニ呼テオキイ丸トナス、伯氏ノ呼ハレシ名ナレハ、是ヨリ遂ニ更メテ於義丸ト云フ

  • 家康に疎まれ3歳になるまで対面を許さなかった。のち家康長男の兄松平信康による取り成しにより、ようやく対面を果たしたという。

    初メ東照公如何ナル思召ニヤ、表向ニテハ公ヲ御子トモ為サレサリシヲ、伯兄信康主岡崎城ニ在テ、如何ニモシテ父上ノ見参ニ入レバヤト思ハレケルニ、(略)東照公早ク之ヲ悟リ御座ヲ立テ避ントシ玉フ処ヲ、信康主イラッツテ御袖ヲ扣ヘ、信康カ弟既ニ三歳ニ及ヘリ、今日見参ニ入候ハヤト宣フ、東照公其気色御覧アリテ再度御座ニ就セ玉ヘハ、ヤカテ公ノ手ヲ引テ参ラレ、近フ渡リ候ヘト有テ御膝ノ上ニカキスエラレ、始テ父子ノ対顔アリテ、来国光作ノ小脇指、身ノ長六寸九歩縁頭赤銅葵紋唐草目貫地赤銅均ニテ葵紋二ツ繁打タルヲソ賜ヒケル

 双子説

  • 秀康は双子で生まれたとの説があり、「柳営婦女伝系」にも記載されている。

    於万の方懐妊の時、築山殿嫉妬深き故、於万の方を赤裸にして、浜松城の曲輪樹木の間に捨置きしに、其比本多作左衛門御留守在城し、夜中女の啼き声聞ゆるを怪しみ尋得て、彼女の縛など解て様子を聞届、夫より作左衛門方にて、天正弐年 甲戌二月八日遠州引間郡浜松城下有富見(ウブミ)村に於て出産あり、孿子(フタゴ)にて御壱人ハ其節死去、御壱人は於義丸殿、後に秀康君の御事也
    (柳営婦女伝系 巻之三 長勝院殿之伝系)

    この説では双子のうち一人は生まれてすぐ亡くなったとするが、異説では男子が育っておりのち永見貞愛と名乗り、叔父の永見貞親から知立神社(旧称:池鯉鮒大明神。愛知県知立市西町)の神職を譲られたとする。慶長9年(1604年)11月16日没、享年31。晩年には足が不自由であったという。
     ”本多作左衛門”は鬼作左と呼ばれた本多重次のことで、子の本多成重は後に越前丸岡藩主となり、はじめは越前松平家を補佐し、後に譜代大名に取り立てられた。
  • 柳営婦女伝叢 - 国立国会図書館デジタルコレクション ※上記引用文は別の刊本を参考にしましたが、念のためにデジコレリンクを張っておきます。
  • 双子説関係系図
          松平広忠
            ├───徳川家康
         ┌於大の方    ├──┬於義丸(結城秀康)
    水野忠政─┴──娘  ┌於万の方 └永見貞愛↓
            ├──┴永見貞親━━永見貞愛
    永見守重─┬永見貞英
         │
         └永見貞近
     
    知立神社神主永見氏
    28代永見守重─29代貞英─30代貞親─31代貞愛
    

 秀吉養子

  • 天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いの後、講和条件として秀吉のもとへ養子として差し出される。
    当初家康は、異父弟にあたる松平定勝(於大の方と久松俊勝の子)を送ろうとするが、於大の方の反対により秀康(於義伊)が選ばれた。過去に於大の方の子である松平康俊を武田方に人質に出したことがあり、元亀元年(1570年)に逃げ帰ってきたものの両足の指を凍傷で失うという目に遭っていた。
  • このとき、家康から「童子切安綱」と采配とを餞別として授けられたという。

    東照公餞別トシテ源家累代ノ名器安綱作ノ佩刀并ニ采配ヲ賜ヒ、
    安綱作ノ佩刀ハ、(略)是ヲ童子斬ト称ス

    しかし実際には、「童子切」は秀忠が娘・勝姫(天崇院)を松平忠直へ嫁がせる際に守り刀として持たせたものであるという。
     作州松平家の「浄光公年譜」によれば、大坂についた秀康が挨拶すると秀吉は忠光作の佩刀を授けたという。この忠光は出羽守直政(出雲国松江藩初代藩主)へと伝わったとする。天正7年(1579年)に松平信康は家康の命により切腹しており、年長の男子であったため。これにより松平家の後継者は異母弟の秀忠となる。

  • ※結局、越前松平(後裔)で大事にされた三刀つまり「童子切安綱」、「稲葉郷」、「石田正宗(切込正宗)」のうち、前二者の逸話が、特に越前家での記録で混乱している。これは1.秀吉に養子として入った時、2.関ヶ原前に残った時のタイミングが混じってしまっているのだと思われる。
    • 恐らく関ヶ原前の小山で拝領したのが「稲葉郷」であり、「童子切安綱」は高田様(秀忠三女、天崇院)の守り刀として越前家に入ったのが正しいと思われる。だから忠直配流時にも高田様預かりとなったと考えると繋がりが良い。「石田正宗」は逸話通り佐和山護送時。「駿府御分物刀剣元帳」にも記載がないということは、それ以前に秀忠あるいは高田様に譲渡されていた可能性が高い。
  • 同年12月12日に浜松城を発し、26日に大坂へと到着している。

    十二月二十五日、民部卿法印(前田玄以)へ為歳暮罷向、今朝三州徳川人質を召具坂本へ下向、淀まで送に被出也、自門外直に皈宅
    (兼見卿記)

    この時に、石川数正の次男勝千代と、本多作左衛門の子の仙千代(本多成重)が小姓として付き従った。のち天正13年(1585年)に本多仙千代は三河に戻り、家康の御前で元服している。

  • 天正13年ごろ元服し、7月11日に従四位下・侍従・左近衛少将・三河守に叙任される。元服時に、家康と秀吉、双方の親から一字ずつとり「羽柴秀康」を名乗ったと見られている。

    明くる十三年七月十一日、みづから関白し給ふとき、秀康朝臣御年十二歳なるを、四位の少将兼三河守になさる

  • 同年10月6日に昇殿の衆10人とともに参内している。1番が美濃守豊臣秀長、2番は兵衛少将秀次、3番が侍従羽柴秀康、宇喜多八郎侍従秀家、丹羽長重、長岡忠興(細川忠興)、織田信秀(信長六男、三吉(さんきち)侍従)、津川義冬(武衛侍従)、毛利秀頼、蜂屋頼隆。

    天正十三年十月六日、殿下御参内之間、自早々出京、於上乗院著衣冠参内(略)、午刻殿下御参内、今度内昇殿之衆十人被召具、御礼申入、依此儀今日御参内云々、直に殿下儀仗所へ御参、主上・親王御方・若宮御方御対面也、次十人昇殿之衆御対面、一番美濃守中将、御太刀折紙持参、御三御所御太刀於儀仗所進上之、御対面等同前、次ニ兵衛少将、殿下の甥、御対面御礼之儀同前、次徳川息侍従、次うき田八郎侍従、次五郎左衛門尉侍従、次越中守侍従、次三吉信長御息侍従、次武衛侍従、次毛利河内守侍従、次蜂屋侍従、各御対面終而

 羽柴秀康

  • 我が子のなかった秀吉は、覇気のある爽やかな青年に育った秀康を愛した。秀康を人質として軽んじた羽柴家中に対して、秀康が無礼を働いたものは討ち果たすと宣言すると、これを聞いた秀吉は、人質ではないという旨を示すため家紋及び熊皮抛鞘の槍を与えている。
  • 九州征伐や小田原合戦、朝鮮出兵などにも参加させる。

 結城家の養子

  • 天正17年(1589年)5月に秀吉に世継ぎ鶴松が誕生したこともあり、結城晴朝より水谷勝俊を使いとして養子を願い出てくると、家康とも相談の上で、秀康を養子に出すことを決めている。
  • 天正18年(1590年)8月6日、小田原にも従っていた秀康は、下総国結城の大名結城晴朝の姪と婚姻して養子となり、翌年結城氏の家督と結城領11万1千石を継いだ。
    結城晴朝の妹が江戸重通に嫁いでおり、その娘が鶴姫。江戸氏は小田原征伐に参陣せず、結果常陸54万石が佐竹氏支配となり江戸氏は妻の縁を頼って結城氏の許に落ち延びた。
    結城晴朝には跡継ぎがなく、水谷勝俊(水谷氏には「源来国次」が伝来)を通じて秀吉に養子の紹介を受け、(羽柴)秀康が候補に上がった。そこで結城晴朝は、姪にあたる江戸重通の娘鶴姫を自らの養女として秀康に娶らせ、結城氏を継がしめた。
    なお秀康の死後、鶴姫は「古今伝授の太刀」のエピソードで登場する烏丸光広に嫁いでいる。
  • 以降秀康は「結城秀康」を名乗ることになる。※一時的に「秀朝」を名乗るが、半年ほどで秀康に戻したことが発給文書からわかっている。
  • このとき、結城晴朝から天下三名槍の一つ「御手杵」を譲られたという。(御手杵はこののち上州前橋松平家に伝来する)
  • 続く奥州仕置で大崎・葛西両家は領地召し上げとなり、その旧領30万石は木村吉清父子へと与えられ、蒲生氏郷の与力とした。しかし木村には領地経営の経験がなかったためじきに領民の反発を招き、10月には葛西大崎一揆が起こる。
  • 蒲生氏郷はこれを鎮圧するために出兵しており、連絡を受けた家康は、秀康を大将として榊原康政を加えて援軍を派遣しており、秀康は白河に着陣したという。

 羽柴結城少将

  • 羽柴姓を贈られ、官位から「羽柴結城少将」と呼ばれた。
  • その後、慶長2年(1597年)に参議(宰相)。三河守は慶長(1600年)5年9月ごろまで使用。
  • 石田三成と親交があり、三成失脚時に三成の領地である佐和山まで護送した礼として、五郎正宗を譲り受けた。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家で代々伝わった。

 越前移封

  • 慶長5年(1600年)、結城秀康は上杉景勝征伐に参戦し、三成挙兵後は留守居として対上杉の守りを務める。

    東照公仰セラルヽハ、今度御身能コヽニ留ツテ我カ為ニ関東ヲ鎮メメナハ、我兵力ヲ専ラニシ上方ニ向テ勝軍セント思フハ如何ニト宣ヒケレハ、公気色ヲ変シテ、秀康イカテ御跡ニ残リ候ヘキ、只何所迄モ御先ヲコソ駆候ヘシト宣ヘハ、上方ノ軍勢ハ皆国々ノ娶リ勢、何百万騎アリトテモ何程ノ事カ有ヘキ、抑上杉カ家ハ累代坂東ノ大将ニテ、中ニモ故輝虎入道ニ至テハ弓矢取テ天下ニ肩ヲ並フルモノナシ、其子トシテ景勝幼弱ノ昔ヨリ軍ノ中ニ生長シテ年既ニフケヌ、当時彼ニ向テ容易ニ軍センモノ多カラス、天晴御身カ為ニハ好キ敵ナリ、上方ニ向ヒ打込の軍センヨリ、一人爰ニ留テ軍シタラニハ弓矢取テ面目、且西上ノ軍勢皆妻子ヲ東国ニ留ムレハ、今ニモ景勝攻襲フヘキカト暫モ安堵ノ思ヲ為サス、御身宇都宮ニ在テ彼ヲ圧ヘハ、麾下ノ諸士悉ク安堵シ、総軍一致ニ敵ヲ伐ヘシ、此大任ニ当ラン者天下誰人カ御身ニ如ンヤト仰セケレハ、良アリテ秀康、未軍ニハ習ハス候ヘトモ、景勝一人カ勢ト戦ンニ何程ノ事カ有ヘキ、アハレ大将ヲタニ御許シアランニハ、此所ニ止マリ御威光ヲ以テ鎮圧致スヘシト宣ヒシカハ、正信(本多)聞モアヘス、イミシウモ仰候モノカナ、吾君ハヨキ御子ヲ御持ナサレシ事、イカ成ヨキ御果報ソヤ、関東ヲ鎮メ玉ハンニハ、大将御参ラセアラン事仰ニヤ及フヘキ、扨ソノ大事アラン時、変ニ応スル御軍略ハ様々アルヘキ事ナレハ、我ニ承ルヘキ様モナシ、惟御見込ノ大旨ヲ承リ候ハント望ケレハ、秀康此所ニ留リ居ンニハ、景勝討テ出ルモノナラハ死力ヲ竭シテ防戦シ、江戸ヨリ西ヘ一歩モ出サス誓テ是ヲ打取ヘシ、上方御軍ノ捷音ヲコソ待申スヘシト仰セケレハ、東照公御感斜ナラス、頬ニ御涙ヲ流サレ、ヤカテ御鎧取出サレ、抑此鎧ハ家康カ若カリシヨリ身ニ着テ、終ニ一度モ不覚ヲトラス、父カ嘉例ニ準ヘテ今度奥方ノ大将トナリ、善キ軍シテ天下ニ名ヲ揚クヘシトテ、手自是ヲ参ラセラレ、又数々ノ物ヲ賜リテ、奥州押ヘノ大将軍トセラレ、
      此時賜フ所ノ目左ノ如シ、
      兜鍪一頭赤唐ノ頭
      鎧一領小札啄木糸ノ威
      采配一把白紙串樫木々地銀カナモノ
      佩刀一把吉房
      旗十旒白生絹二幅引両ノ下葵紋一
      大牀几一脚黒塗金葵紋カナ物銀滅金
    蒲生秀行ヲ副将軍として共ニ宇都宮城ノ本丸ニ在リ、二ノ丸ハ小笠原兵部大輔秀政、三ノ丸ニハ里見安房守義康ヲ居カレ、其外ニハ黒羽城ニ岡部内膳正長盛・服部半蔵正成、伊賀・甲賀ノ同心二百人ヲ率ヒ、佐野ノ城主佐野修理大夫信吉、都合ソノ勢二万五千人上杉景勝ニ備フ、

  • 関ヶ原戦後、同年年末までに一躍越前北庄67万石に加増移封され、下総国結城郡とあわせ75万石となる。越前宰相。
  • 翌年正月を宇都宮で迎え、5月上旬には伏見を発ち、入国する。

    十一月十五日、奥州押ヘノ功労ヲ賞シ、封国ヲ改メ越前ノ国七十五万石ヲ賜フ、越前ノ国六十八ママン二百石、外若狭・信濃ノ内合セテ本数ノ如シ、公東国ニ在テ遥ニ命ヲ拝シ、

    50万石を超える加封は徳川一門を含めた諸侯の中で秀康が唯一で、当時加賀前田氏に継ぐ大領となった。外様最大の前田氏に備える形で越前に秀康、若狭には京極、彦根に井伊を配置している。

 家康の将軍宣下と秀忠への承継

  • 慶長8年(1603年)2月、家康は右大臣、征夷大将軍を宣下され、征夷大将軍となる。同時に源氏長者を宣下さる。
  • 将軍位を得て正式に幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、同慶長8年4月16日に任命されている。いっぽうの秀康は、慶長8年(1603年)1月に参議を辞し2月には従三位となっている。
  • 慶長9年(1604年)4月、江戸に参覲している。この時は江戸城二の丸に入り、のち大久保相模守忠常(忠隣の長男)の屋敷に泊まっている。
  • 慶長10年(1605年)4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。以降家康は大御所を称す。秀康は同年7月に権中納言に任ぜられる。同年9月10日長吉丸(忠直)元服。秀忠偏諱を与え「忠直」と改める。従四位下侍従・三河守に叙任。刀来国次拝領。

 薨去

  • 慶長11年(1606年)には江戸城普請手伝いを命じられ、翌慶長12年には駿府城改築の助役を命じられている。正三位に叙任される。
  • 慶長12年(1607年)3月1日、病が重くなり京都を発って帰国するが、閏4月8日に34歳で薨去。梅毒が原因とされる。

    閏四月八日巳の下刻、公北荘城ニ薨ス、(略)老臣等相儀シ、僧俗来聚テ曹洞宗孝顕寺ニ火葬シ、孝顕寺殿吹毛月珊大居士ト追号シ、三日ノ法会ヲ執行フ、

  • しかし葬儀大概を聞いた家康は浄土宗で改葬を命じたため、京都から知恩院満誉上人を招いた上で、5月11日に改葬、改めて「浄光院殿森巌道誉運正大居士」を追号している。

    大御所遥ニ公葬式ノ大概ヲ聞シ召シ、秀康ハ豊臣家ニ移リ、一旦結城家ヲ継ト雖、我改テ越前ニ封シ我宗族ニ帰セシ上ハ、吾家世々帰依スル所ノ浄土宗ニ依ルヘキモノヲト宣ヒシ由聞ヘシカハ、国中ノ諸士大ニ驚キ、改葬ノ評議起テ俄ニ新地ヲトシ、京都ヨリ知恩院満誉上人ヲ招下シテ導師トシ、五月十一日世子、公ノ遺骨ヲ新地ニ改葬シ、法号ヲ改テ浄光院殿森巌道誉運正大居士ト云ヒ、七日ノ法会ヲ設ケ、世子至性ノ孝情ヲ尽サレ、殉死ノ両氏及ヒ其家僕ニ至ル迄、哀傷ノ恩遇具サニ至リ、僧侶ヘ施物最厚シ、新ニ一宇ヲ開テ運正寺浄光院ト名ツケ、更ニ遺骨ヲ分ツテ高野山ニ納メ、宝塔ヲ建祠堂ヲ經營セリ、

  • 越前松平家は御三家などの序列とは別格の制外の家とされた。

    七年八月廿九日少將東山道筋より江戸に赴かんとして、鐵砲百挺を持たしめ、上州碓氷峠の關所を通行せしに、番人共鐵砲は公儀の御禁制の由を申し、押止めければ、少將却て番人共の無禮を責め、之を追ひ拂ひて入府す、此後少將出府歸府の節は、特に將軍より命じて沿道を警め送迎の如きも他の諸侯と異なれりといふ、かゝりしかば、世人越前を制外の御家門と稱して、他の大名と分てり、

  • 越前松平家は、嫡男の松平忠直が継ぐ。忠直が「不行跡」を理由に配流処分となり、弟にあたる松平忠昌が越前福井藩主となった。
  • 結城家の家督は、遺言により慶長12年(1607年)秀康五男の直基が継いでいる。寛永3年(1626年)からは御一門が「松平氏」に改称したため結城の名字を称する大名はなくなった。しかし直基の子孫は家紋は結城家の家紋(結城巴、太閤桐)を使い続けた。
  • その死後、遺物として左文字の刀、貞宗の刀を献上している。

    卿の遺物として大御所に左文字の刀。京極黄門定家卿筆の古今集をさゝげられ。御所に貞宗の刀。五條三位入道筆の伊勢物語を奉られしとぞ。

 系譜

             本多成重の娘
長寿院奈和          │
├──────松平直良──松平直明───松平直常【明石藩2代】
│ 【木本→勝山→大野藩】【大野→明石藩】
│
│ 徳川秀忠──勝姫
│ 清涼院岡山  ├──┬松平光長【越後高田藩】
│  ├─┬─松平忠直 ├永見長頼──松平綱国
│  │ │      ├亀姫(高松宮好仁親王妃)
│  │ │      ├鶴姫(九条道房室)
│  │ │      └閑(小栗正矩室)
│  │ │
│  │ │      【越前松岡藩初代】
│  │ └─松平忠昌─┬松平光通【福井藩4代】
│  │        ├松平昌親【福井藩5代・7代】
│  │        └松平昌勝───松平綱昌【福井藩6代】
│  │  
結城秀康   【信濃松本→出雲松江藩初代】
│  ├───松平直政─┬松平綱隆【出雲松江藩2代】
│ 月照院       ├松平近栄【出雲広瀬藩】
│           ├松平隆政【出雲母里藩初代】
│           └松平直丘【出雲母里藩2代】
│
│    (結城家)   【越後村上→姫路→豊後日田→山形→白河藩】
├──────松平直基──松平直矩──┬松平基知【陸奥白河藩2代】
品量院                │【美作津山藩初代】
                   ├松平長矩(松平宣富)──松平浅五郎━━松平長煕
                   └松平知清──松平長煕


※越前松平家:結城秀康→松平忠直→松平光長→松平忠昌→松平光通
※結城家:結城秀康→結城直基(松平)

 子:松平忠直

越前北ノ庄→配流
  • 母は清涼院岡山。
  • 慶長12年(1607年)、結城秀康が死ぬと越前北ノ庄を継ぐ。
  • しかし二度も騒動が起きたため、豊後に配流となっている。
  • 家督は子の松平光長が継ぐが、幼少を理由に越後高田藩へと移っている。越前北ノ庄へは同母弟(光長叔父)の松平忠昌が入った。

 子:松平忠昌

→越前福井藩
  • はじめ上総姉ヶ崎藩1万石、大坂の役ののち常陸下妻藩3万石へ加増移封。翌年の元和2年(1616年)には松平忠輝改易の跡、信濃松代藩12万石へ、元和4年(1618年)には越後高田藩25万石へと加増移封された。
  • 同母兄の忠直が配流された後、越前北ノ庄は忠昌が継ぐこととなった。この家系は、途中減封されながらも明治維新まで存続した。

 子:松平直政

→出雲松江藩
  • 生母は月照院(三谷氏)。越前移封を命じられ入国する際に生まれている。

    五月上旬公伏見ヲ発シ、木津・坂本ヨリシテ初テ新封ノ越前国ニ入、途中江州中河内ト云所ニテ侍女三谷氏男子ヲ産ス、地名ヲ取テ河内丸ト名ケ、入国ノ後改テ国松丸ト呼、カ々ル折柄コノ嘉瑞アル事ヲ表セラレシナリ、後年出雲松江ノ城出羽守直政是ナリ、

  • 大坂の役では真田幸村を討ち取る功をあげ、兄忠直より1万石を与えられる。のち幕府より上総姉ヶ崎藩1万石を与えられ大名となる。
  • 異母兄の忠直の配流後、寛永元年(1624年)6月、越前大野藩5万石に加増移封される。寛永10年(1633年)には信濃松本7万石へ加増移封、寛永15年(1638年)2月11日、出雲松江18万6千石(及び隠岐1万4千石を代理統治)へ加増移封され、国持大名となっている。「亀甲貞宗」、「上部当麻」所持。
  • この家系は明治維新まで存続した。
  • なおこの直政の直系子孫に茶人大名松平不昧がいる。
    結城秀康─┬松平忠直──松平光長
         ├松平直政
         │  ├───松平綱隆─┬松平綱近 
         │久姫慶泰院      └松平吉透
         │              ├──松平宣維  伊達宗村──方子
         └松平忠昌──松平昌勝──清寿院   │           │
                            ├──松平宗衍──松平治郷不昧──松平斉恒
                   伏見宮邦永親王──光子
    
    
    
  • 慶長9年(1604年)正月28日にも三谷氏に男児が生まれている。吉松丸と名付けられ、本多富正の養子とされるが、6歳で夭折している。

 子:松平直基(結城直基)

→前橋(川越)藩
→美作津山藩
  • 慶長9年(1604年)3月25日生。
  • 生母は三好長虎の娘、品量院とされている。※三好長虎は三好三人衆・三好長逸の子
  • 養祖父・結城晴朝に養育され、のち結城家の家督を継いでいる。
  • 慶長19年(1614年)に結城晴朝が死ぬと5千石を相続、寛永3年(1626年)には松平姓に復している。
    これにより結城家が廃絶したが、直基の子孫は家紋は結城家の家紋(巴紋・桐紋)を使い続けた。
  • 寛永元年(1624年)に越前勝山藩3万石、寛永12年(1635年)越前大野藩5万石に加増移封され、正保元年(1644年)には山形藩15万石と漸次加増を受ける。
  • 慶安元年(1648年)姫路藩に国替えを命じられたが、そのわずか2ヶ月後、封地に赴く途上で死去した。
  • 子の松平直矩は、幼少であったために越後村上藩へと国替えとなり、成人後に姫路藩へと移る。越後高田藩の騒動に際して調整を行うが不手際を指摘され、半分の7万石へと減封されてしまう。のち豊後日田、出羽山形を経て陸奥白河藩主となる。
    • この家系は、松平明矩の代に寛保元年(1741年)に姫路へ国替えとなり、その子の松平朝矩の代に上野前橋藩主を経て川越藩となる。幕末には再び前橋藩主となって明治維新を迎えた。
    • 陸奥白河藩の時代、松平基知は「式部正宗」を2729両3分2朱という高額で入手した記録が残る。
  • 孫の松平長矩(宣富)は、越後高田藩の松平光長の養子となり、のち元禄10年(1697年)に美作津山藩主となっている。この津山藩は明治維新まで存続し、結城秀康の所持した刀剣類の多くが伝わった。

 子:松平直良

→播磨明石藩
  • 生母は奈和(長寿院、津田信益の娘)※津田信益は犬山城主であった織田信清の子。
  • 元和9年(1623年)、忠直が配流とされると、異母兄の忠昌が相続するが、その際に兄弟に分知され、直良も越前木本藩主となり2万5千石を知行した。
  • 寛永12年(1635年)に兄の直基が越前大野藩へ転封後には、越前勝山3万5千石。寛永21年(1644年)に兄の直基が出羽山形藩に転封した後を受けて越前大野藩5万石へと加増される。
  • 家督は子の松平直明が継ぎ、天和2年(1682年)に6万石で播磨明石藩へと転封される。この家系は、明治維新まで存続した。
  • この松平家に伝来したのが「明石国行」である。

 江戸藩邸

  • 慶長10年(1605年)、秀康公、於東武山ノ手御屋敷御拝領。
    • 慶長10年(1605年)江戸ノ山手ニ於テ邸第ノ地ヲ賜フ。(略)公ハ斯邸ニ入ニ及ハスシテ薨去シ給ヒ、其後伏見ノ邸宅ヲ移シテ経営シ、二世公(忠直)三世公(光長)ハ居住シ給フ。世ニ麹町屋敷ト云フ。
  • 死後、忠直に継がれた。
    • 子長吉丸(三河守忠直)嗣テ邸宅ヲ経営ス。福井松平家譜慶長12年(1607年)賜邸ト云フハ、之ヲ指ス者ナル可シ。後忠直ノ子光長之ニ居ル。
    • ※高田様勝姫は忠直配流後、寛永元年(1624年)8月に北之庄を脱して江戸に付き、寛永3年(1626年)頃まで江戸城本丸で過ごしており、その後仙千代は高田藩麹町邸へ、また勝姫は牛込川田ケ窪の屋敷に移り住んでいる。高田に入ったのは11年後であったという。
    • また慶安3年(1650年)に忠直(一伯)が死んだ後も「高田様」(高田の御方)と呼ばれ、院号などで呼ばれなかった。寛文12年(1672年)牛込川田ケ窪の屋敷で死去、享年72。墓所は東京都港区の西久保天徳寺。戒名は天崇院穏誉泰安豊寿大善女人。
  • さらに高田屋敷が加えられる。
    • 其後仙千代(光長)年稍成長候て、糀町之居邸に移住申候。高田殿(勝姫)ニも後年於牛込居邸従公儀之御普請ニて住居。則當時之高田屋敷ニて御座候。
    • この高田屋敷は高田藩改易後は高松殿二宮御殿となり、さらに津山藩へと受け継がれた。
    • 高田様屋敷(牛込川田ケ窪邸)の項を参照
  • 光長の麹町邸について。
    • 中将光長糀町之居邸、門扉甚大ニて、開闢之響御城中に聞、且亦御天守ゟ被遊御覧候節抔、仙千代方に客來有之間、参致世話候様ニと、上意之由ニて、毎度御側衆抔被遣候。光長代迄も、客來之節、二本道具格之外も、大門開不申候。登城之節も、當時之松平加賀守・同姓越前守等罷在候處所、光長部屋ニて御座候。下座等之義も三家方ニ准候御取扱ニて御座候。
    • 寛永3年(1626年)、公命ヲ奉シテ、城中ヨリ麹町ノ舊邸ニ移ル。麹町邸表門ノ扉至テ大ニシテ、開閉ノ音遠ク響テ常ニ城中ニ聞ヘシカハ、大御所(秀忠)御聴アリテ、仙千代方ヘ来客アルニ付、参テ世話致スヘキ旨ヲ命シ、御側衆抔ヲ遣ハサルヽコト時々有之、此頃ハ二本道具ヲ持セラル大名ノ外ハ、大門ヲ開カズ。登城ノ節城内下座等、悉ク三家ニ准フ。太夫人ノ邸地ヲ牛込川田ヶ窪ニ卜シ、居宅ヲ造営シテ之ヲ賜フ。

 関連項目


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