本阿弥光悦
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本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
本阿弥分家、光二系2代
諱は清友
太虚庵、自徳斎
生涯
- 永禄元年(1558年)生まれ、寛永14年(1637年)2月3日没。81歳
- 幼名は次郎三郎。
- 本阿弥本家8代目本阿弥光刹の娘妙得を娶るが、慶長6年に死別し、継室を迎えている。光悦の嫡男徳善が元和9年に夭折したため、片岡垂信入道の子で光悦の従兄弟である次郎左衛門が光悦の養子となり、本阿弥光瑳として後を継ぐ。
- 姉が染色業をしていた尾形道柏に嫁いでおり、その曾孫に尾形光琳・乾山兄弟が出る。また妹の子・光益の次男である灰屋紹益が豪商灰屋(佐野)紹由の養子となっている。→「吉野太夫」の項参照
尾尾形伊春──尾形道柏〔雁金屋〕 ├────尾形宗柏──尾形宗謙─┬尾形光琳 ┌法秀 └尾形乾山 │ │ 本阿弥光二─┼本阿弥光悦━━光瑳 │ │ 本阿弥光瑳 └妙光 ├───本阿弥光甫─┬本阿弥光傳 ├───┬妙山 ├本阿弥光山 本阿弥光徳├本阿弥光室 └本阿弥光通 ├本阿弥光栄 └本阿弥光益─┬本阿弥光務 └本阿弥紹益 〔灰屋〕 ↓ 佐野紹由━━━(佐野)灰屋紹益 │ 吉野太夫
別家
- 光悦の父光二は、元々多賀豊後守高忠の次男(片岡)次大夫宗春の次男に生まれる。子がなかった本阿弥光心の婿養子となった。
- 後に光心に実子(光刹)が生まれたため自ら本家を退き別家を立てたという。
本光の子光心亦はじめ男子なかりしかば、多賀豊後守高忠(片岡家系譜には貞隆となせり)の二男片岡次太夫宗春の子次郎左衛門光二を養子となし長女妙秀をめあはせて家を嗣がしめしに、後光心実子光刹生れしかば光二自ら退きて別に一家をなせり、これ本阿弥分家の嚆矢なり
曽祖父
- 曽祖父多賀高忠は、近江京極氏の重臣であり2度にわたって京都侍所所司代を務めた名臣。高忠は武家故実や和歌・連歌にも通じるなど知識人でもあった。この豊後守高忠の京都侍所所司代配下の目付として骨皮道賢がいたことが知られている。
書物
- 「光悦押形」の著者。「光悦押形」は二種ある
- 山水草木を金銀泥で描いた間に中心の図を書き入れたもの。巻末に光悦の印を押す。明治末には高木復氏が秘蔵した。
- 刀の切先と中心の図に光悦の筆跡で書き入れがあるもの。原本は高野山にあり、広瀬某が模写したものが流布されている。
能書家
- 書を能くし、近衛信尹・松花堂昭乗と共に寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。
鷹ヶ峰
- 家康は、この本阿弥光悦に京都鷹ヶ峰の地を与え、本阿弥一族や町衆、職人などの法華宗徒仲間を率いて移住した。
- 光悦の死後、明暦2年(1656年)光悦の屋敷と法華題目堂は日蓮宗の日慈を開山として整備され寺(大虚山光悦寺、京都市北区鷹峯光悦町)となっている。
- 境内には大虚庵、三巴亭、了寂軒、徳友庵、本阿弥庵、騎牛庵、自得庵の7つの茶室が散在し、さらに庫裏に接して妙秀庵があるが、これらはいずれも大正時代以降の建物である。
関連項目
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