中島喜代一


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 中島喜代一(なかじまきよいち)

日本の実業家
中島飛行機の2代目社長

同名で、京象嵌で著名な中嶋喜代一氏がいるが、ここでは扱わない。

Table of Contents

 生涯

  • 兄は中島飛行機の創業者中島知久平。
           夫人
    中島粂吉    ├───┬中島源太郎─┬長男
     ├───┬中島知久平 └娘     └中島洋次郎
    いつ   │
         ├中島喜代一
         ├中島門吉───中島昭吉
         ├中島乙未平
         └中島忠平
    
    中島知久平(なかじま ちくへい)
    中島知久平は明治17年(1884年)1月、太田市新田郡押切村に生まれた。父の中島粂吉は農業を生業としながら尾島町議会議員や尾島町長を務めた人物。
     知久平は明治35年(1902年)8月、18歳の時に藍玉売上金100余園を失敬して出奔、東京で勉学に勤しみ明治36年(1903年)10月に海軍機関学校に合格。同年12月より横須賀軍港内の海軍機関学校に15期生として入校した。明治40年(1907年)4月海軍機関学校を卒業後、明治41年1月に海軍機関少尉、明治42年10月に同中尉、明治44年12月に同大尉と昇進。海軍を退役後にのちの中島飛行機を設立した。
     昭和5年(1930年)には第17回衆議院議員選挙に当選し衆議院議員となる。以降は昭和20年(1945年)10月まで議員として活動し、豊富な資金を元に立憲政友会で派閥を形成。第1次近衛内閣の鉄道大臣、東久邇宮内閣で軍需大臣のち商工大臣を歴任する。昭和9年(1934年)3月には政友会顧問、総和12年2月には鳩山一郎らと共に政友会の4人制の総裁代行委員、昭和14年(1939年)には政友会の第8代総裁となっている。昭和20年(1945年)10月に正三位に昇叙されるも、同年12月にはGHQよりA級戦犯に指定されるが、2年後の昭和22年9月に解除。
     昭和24年(1949年)10月29日、昼食後の雑談中に脳出血を起こし泰山荘(後述)にて死去。享年65。葬儀は11月4日西本願寺。法名「知空院久遠成道大居士」。墓所は下多磨霊園で、尾島町押切の徳性寺にも分骨された。嗣子は中島源太郎、さらに娘の久代がいた。
     知久平が両親のために建てた旧中島家住宅は、昭和28年(1953年)に「旧中島家住宅」として国の重要文化財(建造物)に指定された。現在建物の一部(車寄部)が「太田市中島知久平邸地域交流センター」として公開されている。

    中島飛行機
    中島飛行機株式会社は、大正6年(1917年)~昭和20年(1945年)まで存在した日本の航空機・航空エンジンメーカー。創業者は中島知久平。エンジンや機体の開発を独自に行う能力と、自社での一貫生産を可能とする高い技術力を備え、第二次世界大戦終戦までは東洋最大、世界有数の航空機メーカーであった。創業以来、第二次大戦終了までに製作した機体は、陸軍機40種、海軍機65種、民間機21種の合計126種で、総生産機数は2万5935機に及んだ。また従業員数も25万人に達したという。
     第二次大戦後に同社は富士産業株式会社と改称する。のちGHQによって航空機の生産はもとより研究も禁止され、また軍需産業に進出できないよう中島飛行機は12社に解体された。後に中島飛行機系の主要企業の統合により富士重工業が設立され、2017年に株式会社SUBARUへと商号変更した。

    泰山荘(たいざんそう)は、日産財閥(日産コンツェルン)の重役であった実業家・山田敬亮が築いた別荘で、昭和14年(1939年)に完成披露の茶会が大々的に催されている(泰山荘之記)。しかし翌昭和15年(1940年)には中島飛行機の中島知久平に周辺の土地を含めて売却され(中島飛行機三鷹研究所が置かれた)、知久平は泰山荘を住居として使っており、その最期の地となった。
     昭和25年(1950年)に別荘を含む周辺の土地が学校法人国際基督教大学の所有となり、現在も東京都三鷹の同校キャンパス内に残されている。平成11年(1999年)、国の登録有形文化財に指定。
    ICU TAIZANSO TOP
    なぜ、国の登録有形文化財である泰山荘がキャンパス内にあるのか?|国際基督教大学(ICU)
    国際基督教大学泰山荘高風居|国指定文化財等データベース
     中島飛行機が買収した敷地面積は62万坪とも言われる。しかし、現状の国際基督教大学の敷地が約46万坪、富士重工業東京事業所(旧、三鷹製作所)が5万坪であり、一致しない部分がある。中島飛行機三鷹研究所の資料はすべて焼却処分されたとされており、その詳細はわかっていない。
  • 父の中島粂吉は農業を生業としていたが、一方で漢学を修めた教養人で、明治34年(1901年)には36歳で第1回尾島町議会議員に当選し、明治40年(1907年)には尾島町長に選ばれている。大正9年(1920年)再選。
    農業においても大々的な養蚕や、大量の鶏雛飼育、さらに副業に藍玉仲買、さらに道楽で歌舞伎芝居の座長をやるなど派手なことをやっていたため、地元では”無茶な、向こう見ずな”を意味する「のて」を付けて「のて粂」さんなどと呼ばれたという。
  • 兄弟の整理。独禁法の対象となった際の姓名と財産の一覧。
    姓名続柄性別年令所有有価証券役員となりたる会社數
    中島知久平戸主6434,3217
    中島喜代一知久平の弟5813.39112
    中島門吉知久平の弟5511,2449
    中島乙未平知久平の弟5310,88310
    中島忠平知久平の弟511,8123
    知久平の後に男子が生まれたがまもなく死亡したため名前も付けられていない。このため、書籍によっては喜代一を三男としている場合がある。

 中島飛行機

  • 中島喜代一は明治23年(1890年)3月生まれ。
  • 大正5年(1916年)度、高等商船学校航海科卒業。※つまり大正6年(1917年)3月卒業
  • 民間会社の船長となっていたという。
  • 大正9年(1920年)3月に中島飛行機に入所。
    中島兄弟では最も遅い入社で、まず次弟・門吉が中島飛行機創業時から経理担当として入社。三弟・乙未平は大正9年(1920年)2月入社でのち副社長。なお末弟・忠平は家業の農業を継いでいる。
  • この頃、中島飛行機の機体はほとんどが木製であったため、兄・知久平の命を受け、北米に出張して木材の大量買付を行っている。喜代一は汽船をチャーターし木材を満載して帰国した。
  • また大正13年(1924年)9月から翌年2月にかけて、アメリカ、イギリス、ドイツ、フランスの航空業界を視察し、同時に工作機械を買い入れている。
  • さらに大正15年(1926年)にも欧米7ヶ国を視察するとともに、当時世界最高と目されていたイギリス・ブリストル社のジュピター式六型の図面類を購入している。
  • 昭和元年(1926年)、それまで輸入に頼っていた発動機からの製造を目指して設立された東京工場長となる。
    ジュピター式六型エンジンは昭和5年(1930年)までに150基製作され、海軍の三式艦戦などに採用された。さらに昭和6年(1931年)から同エンジンを改良した中島式ジュピター七型の製造を開始し、このエンジンは陸軍の九一式戦闘機に最も多く採用され、昭和9年(1934年)末頃まで生産された。昭和6年(1931年)には自社設計による国産第1号エンジンである「寿(ことぶき)」が完成。これは海軍による命名で、高い評価を受け改良型を含めて昭和18年(1943年)までに陸海軍および民間調達で約7000基を製造した。
  • 昭和5年(1930年)2月に長兄・知久平が第17回衆議院議員総選挙に立候補して当選したのを受けて、翌昭和6年(1931年)1月から喜代一が中島飛行機製作所の社長となる。
    昭和6年(1931年)4月には秩父宮殿下の、さらに昭和9年(1934年)11月には陸軍特別大演習後の巡幸中に昭和天皇の行幸啓を受けている。
  • 昭和20年(1945年)4月1日には第一軍需工廠となり事実上国営化される。
    昭和17年(1942年)のミッドウェー海戦で大敗した日本は、航空機の増産に望みを託し、昭和18年(1943年)11月に軍需省(初代軍需大臣は東條英機)を設立、翌昭和19年12月には軍需会社法を施行し決戦体制の確立を目指す。昭和20年3月には「航空機事業の国営に関する件」を閣議決定し、これに基づき中島飛行機を国営化第一弾として指定した。同年8月2日には川西航空機が第二軍需工廠に指定されている。さらに川崎航空機、立川航空機が指定されている。
  • 8月17日、終戦とともに全工場の返還を受け、中島飛行機は「富士産業株式会社」と改称する。同年8月22日、弟の中島乙未平が社長に就任し事業整理にあたっている。
    昭和21年(1946年)4月には労働組合が結成され、また7月2日に「富士産業整理案に関する覚書」がGHQ渉外局から出されて中島飛行機の解体をGHQが直接行うこととなり、7月10日には中島乙未平社長以下全役員が辞任し野村清臣が取締役社長に就任している。

 赤羽刀

  • 終戦後商工大臣であった兄の知久平から、「日本刀は武器とみなされ一般命令第一号により日本に進駐してきたGHQによって没収される」という話が漏れ伝わる。
  • 中島喜代一はそれを本間順治らに連絡している。これが元となっていわゆる日本刀を美術品としてみなし保存する動きが始まる。※詳細は「赤羽刀」の項参照

     中島さんに関連する戦後の裏話をしよう。当時令兄の中島知久平氏が大臣をしておられたが、閣議の席で進駐軍の方針として刀剣は武器として全部没収することになっているという報告があった。この話がさっそく愛刀家である令弟(喜代一氏)の耳に入ったので、私(本間順治)のところに飛んでこられて「たいへんなことになった。どうしよう」とのことであった。私も天下の一大事に呻吟したが、結局は日本政府からGHQに陳情する他に手がないと思い、総理の東久邇宮(稔彦王、第43代内閣総理大臣)と親友であり私とも親交があった西洋美術史の東大教授である児島喜久雄先生に同道願って、東久邇邸にうかがった。
     たしかミズリー号調印の朝で、宮さまは「今日は僕は暇だよ」と苦笑されたことを記憶する。「鑑賞する刀は武器ではない」旨を繰り返し説明して、先方への陳情をお願いしたが、宮さまは「よくわかった。このことを近衛(近衛文麿)にも話してほしい」とのことであったので、秘書である細川護貞(第2次近衛内閣で首相秘書官。近衛文麿の次女温子の夫でもある)さんから近衛さんによく話していただいた。先方への陳情は万事近衛さんがしてくださったようである。思えば中島兄弟のナイショ話が、日本の刀を救ってくれたことにもなる。

  • 昭和21年(1946年)1月、それまで太田製作所内に設置していた「太田製作所付属太田病院」を改組し、新太田病院(現、SUBARU健康保険組合 太田記念病院)を設立している。
  • また従業員の福利施設であった「中島倶楽部」は米軍に接収されていたが、返還後は太田市社会教育総合センターとなっている。
  • 中島喜代一は、昭和22年(1947年)に死去。50代であったという。
    明治23年(1890年)生まれだと数えで57歳ということになる。しかし上記独禁法の対象となった際の表では58歳と記述されている。

 富士重工業からSUBARUへ

  • 富士産業株式会社は、昭和25年(1950年)に財閥解体される。しかし昭和27年(1952年)4月サンフランシスコ講和条約が発効後に富士重工業株式会社となった。2017年4月に株式会社SUBARUへ改称。

 刀剣

  • 中島喜代一は昭和初期の頃から刀剣蒐集を行っている。
  • のち本間順治石黒久呂につき国宝級の名刀を集めた。

 逸話

 観和会での話

  • 昭和十二・十三年ごろ、本間順治氏を囲んで講義を聞く観和会というものを開いていた。ここに中島氏も参加しており、あるとき赤坂山王にあった星ヶ丘茶寮で開催したという。
    本間順治氏は「思い出の刀剣人」ではこの会の名称を”親和会”としているが、どうも観和会が正解のようだ。
  • ここで参加者が口々に中島氏を攻撃し始め、「このごろは君がみんなわれわれのほしい刀を買い占めてしまうから、われわれの手にはいらん、だから少し遠慮してくれ」といったところ、中島氏は「私は何もそういうつもりで買っているのではない。自分は忙しくてよそへ行って勉強できないから、自分の家に帰ってきた時にそばに刀をおいてそれで勉強したい、そのために買うんだ」と答えたという。
  • そこで、参加者であった渡辺氏(渡邊三郎)が「それじゃ勉強がすんだら手放してもいいんじゃないか」というと、中島氏は「勉強のすんだものだけは手放してもけっこうですよ」といってしまう。さらに別の参加者が「それじゃ勉強のすんだものは、あなたが先に見たことだからその料金を割引してわれわれに譲ってくれてもいいんじゃないか」と迫ったため、中島氏は「それでけっこうです。それじゃ私の買った値段の一割を引いて差上げます」と言わされてしまったという。
  • そこで後日、井の頭線の富士見丘にあった中島邸に押しかけ、蔵刀全部を並べさせて「これはまだ勉強がすまないんですか?」とか「これはもうすんだでしょう」としつこく問いただし、中島氏も正直に「これはすんだものです」などというとその場で大分ぶん取られたという。
    三日月宗近」、「亀甲貞宗」などが、のちに渡邊三郎氏所持となったが、おそらくこういった経緯であったものと思われる。
  • 「思い出の刀剣人」でも同様の話が載っており、あまりの気前の良さに心配した本間氏が声をかけるくだりがある。

    そして、新年早々に親和会の連中が久我山の中島邸におしかけて、蔵刀を拝見し「わしはこれを」「わしはこれを」と譲り受けた。篠原さんは守次・助次の大小を分捕ってたいへんなご機嫌であった。私は中島さんが気の毒になって「ほんとうにそれでよいのですか」と聞いたら、「約束したことだから……腹にはしわがよるかもしれませんが顔にはしわをよせません」とのことであった。まったくえらいと感服せざるを得なかった。

 太閤さん

  • 佐藤寒山の「武将と名刀」に出てくる話。

    戦争前から戦争後にかけて、飛行機王と呼ばれた故中島喜代一氏は、これまた非常な愛刀家で、いろいろ名刀の数々を蒐集されたが、常に口にすることは、何とかして、せめて太閤さんの何分の一かの名刀を集めたいというのが念願であり、自分で「これ」と思えば、如何なる犠牲を払っても、その刀を手に入れるという有様であった。それで、当時、刀剣会や愛刀家の間では「太閤さん」という呼び方があった

  • 同様の話が「思い出の刀剣人」にある。

    昭和八・九年頃であったろうか。中島飛行機の社長である中島喜代一さんのところへお出入りしていた刀屋?の秋山さんが、ある日私(本間順治)をたずねてみえて、「中島さんの刀を見てあげてください」といったので杉並区久我山のお宅にうかがったが、当時は名刀があまりなかった。といっても無銘の菊作二代と思われる国宗など、重美級のものが二・三あった。その後、石黒君(石黒久呂)がお出入りしてよいものをすすめたのと、私が岩波書店から出した「国宝刀剣図譜」を座右において、私の解説を読み、特に優品と思われるものに印をつけて、石黒君がうかがうと「これを買ってこい」といいつけられたので、本格的蒐集の出発は篠原さん、斉藤さんにおくれていたが、やがて轡を並べることになった。

    「篠原さん、斉藤さん」:篠原三千郞氏と斎藤茂一郎氏のこと。中島氏と併せて戦前の三大コレクターと呼ばれた人物。本間順治氏が刀剣協会(財団法人日本美術刀剣保存協会)設立時に最初に声をかけたのがこの3名であったという。

 所持刀剣

三日月宗近
徳川家旧蔵、のち渡邊三郎氏所持となっている。天下五剣国宝東京国立博物館所蔵
所有者変更:昭和20年(1945年)4月27日
亀甲貞宗
徳川家旧蔵、のち渡邊三郎氏所持となっている。国宝東京国立博物館所蔵
所有者変更:昭和20年(1945年)4月27日
稲葉郷
作州津山松平家伝来。国宝。個人蔵
所有者変更:昭和20年(1945年)1月13日
石田正宗
作州津山松平家伝来。重要文化財東京国立博物館所蔵
村雲江
将軍家から柳沢家、伊藤悌治旧蔵。昭和9年(1934年)12月二〇日重要美術品指定。昭和27年(1952年)重要文化財指定。個人蔵
薙刀
銘「備前国長船住人長光造」、旧蔵松平康春子爵。昭和16年(1941年)1月30日。
  • これら名物以外にも多数の刀を所持した。
太刀
太刀 銘 助次。昭和8年(1933年)10月三一日重要美術品指定。小倉陽吉旧蔵。
太刀
銘 行秀。昭和10年(1935年)5月10日重要美術品指定。島田利三氏旧蔵。
太刀
無銘 傳包平。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品指定。子爵松平忠正旧蔵。
無銘 傳菊御作。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品指定。子爵松平忠正旧蔵。
太刀
銘 国宗。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品指定。富山県近郷重孝氏旧蔵。
太刀
銘 備前國長船兼光/延文元年十二月日。昭和10年(1935年)8月3日重要美術品指定。兵庫県河瀬虎三郎旧蔵。
太刀
銘 包永。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品指定。兵庫県河瀬虎三郎旧蔵。
太刀
銘 則房。昭和14年(1939年)2月22日重要美術品指定。東京府子爵松平康春旧蔵。
金象嵌銘則重 本阿(花押)。昭和15年(1940年)2月23日重要美術品指定。東京府子爵松平康春旧蔵。
太刀
銘 国宗。昭和15年(1940年)2月23日重要美術品指定。東京府子爵松平康春旧蔵。
太刀
銘 眞恒。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定。東京府子爵松平康春旧蔵。
無銘 傳 兼永。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品指定。東京府小倉陽吉旧蔵。
太刀
銘 定利。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品指定。
無銘伝来国光。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品指定。
太刀
銘 正恒。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品指定。
太刀
銘 吉房。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品指定。
銘 日州之住国広作/天正四年二月 日。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品指定。
太刀
銘 守次。昭和9年(1934年)旧国宝指定。昭和14年(1939年)12月2日。所有者変更(木挽町小倉陽吉旧蔵)。
短刀
銘 光包/延慶二年二月日。昭和6年(1931年)旧国宝指定。昭和14年(1939年)11月10日所有者変更(兵庫県河瀬澄之助旧蔵)。
太刀
銘 貞次。昭和10年(1935年)旧国宝指定(文部省告示第270號)、昭和15年(1940年)9月18日所有者変更(伊東正治伯爵旧蔵)。
無銘傳則重。昭和13年(1938年)旧国宝指定(文部省告示第256號)、昭和15年(1940年)9月18日所有者変更(伊東正治伯爵旧蔵)。
  • 子爵松平康春は、美作津山藩主松平康民の子。「童子切安綱」「稲葉郷」など多くの刀剣が伝わったが、中島喜代一を経てこの多くが渡邊三郎氏所持となり、渡邉氏の死後子息から東京国立博物館に寄贈された。
  • 中島氏をめぐる名物刀の移動
  1. 稲葉江
    松平康春(旧津山藩主家)
    →中島喜代一 〔昭和20年(1945年)1月13日〕
    →中島タマ 〔昭和22年(1947年)〕
    →所在不明→個人蔵→カシワバラ・コーポレーション
  2. 三日月宗近
    徳川家正(徳川宗家)
    →中島喜代一 〔昭和20年(1945年)4月27日〕
    →中島タマ 〔昭和22年(1947年)〕
    →高橋金雄 〔昭和24年(1949年)12月13日〕
    →渡邉三郎 〔昭和25年(1950年)?〕
    →東博 〔平成4年(1992年)〕
  3. 亀甲貞宗
    徳川家正(徳川宗家)
    →中島喜代一 〔昭和20年(1945年)4月27日〕
    →中島タマ 〔昭和22年(1947年)〕
    →高橋金雄 〔昭和24年(1949年)12月13日〕
    →渡邉三郎 〔昭和25年(1950年)?〕
    →東博 〔平成4年(1992年)〕
  • ※なお、これらの刀剣と同時期に「中島昭吉」「中島タマ」という名前が登場するが、これらは中島喜代一氏の親族である。中島昭吉氏は、中島知久平の三弟中島門吉の次男。中島タマ氏は不明だが、恐らく喜代一氏の未亡人ではないかと思われる。
  • また、「中島正崇」名義についても中島知久平・喜代一兄弟の出身地と同所であり、恐らくこれも同様に親族の名義を借りただけのものではないかと思われる。さらに「関角芳雄」については、中島喜代一氏の親族であり秘書である。のち昭和24年(1949年)12月の譲渡時の関角氏の住所は、中島タマ氏と同住所となっている。

 関連項目


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