頼光四天王


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 頼光四天王(らいこうしてんのう)

源頼光が率いたとされる4人の家臣のこと
四天王自体は史実ではなく説話の中で登場する

Table of Contents

 物語の発展過程

  • 平安時代末の成立と見られている「今昔物語集」で登場している。

       頼光郎等共紫野見物語第二
    今昔、摂津ノ守源ノ頼光ノ朝臣ノ郎等ニテ有ケル平ノ貞道・平ノ季武・□ノ公時ト云フ三人ノ兵有ケリ、皆、見目ヲ鑭々ク、手聞キ魂太ク思量有テ、愚ナル事尤カリケリ、然レハ東ニテモ度々吉キ事共ヲシテ、人ニ被恐タル兵共也ケレハ、摂津ノ守モ此レ等止事无キ者ニシテ、後前ニ立テソ仕ヒケル、
    (今昔物語集 巻28本朝世俗)

    他にも、巻25本朝世俗「依頼信言平貞道切人頭語る第十」、巻27本朝霊鬼「頼光灯籠平季武値産女語第三十三」、巻29本朝惡行「袴垂於關山虚死殺人語第十九」などに登場する。

  • 建暦2年(1212年)~建保3年(1215年)成立の「古事談」には次のように載る。

    頼光朝臣(六孫王満仲男也)遣四天王等打清監之時(清原元輔男)(大宰少監清原致信)、清少納言同宿ニテアリケルカ、依似法師欲殺之間、爲尼之由云エントテ、忽出開云々、

    清原致信は、清原元輔の子で、「枕草子」で知られる清少納言の兄。
     ただし、史実では清原致信は頼光ではなく、頼光の実兄である源頼親(大和源氏祖)に殺害されているので、これ自体は作り話である。源頼光は治安元年(1021年)に死んでいるが、その死後、坂上田村麻呂・藤原利仁・藤原保昌とともに中世の伝説的な武人4人組の1人と紹介されるようになり、やがて源頼光の率いていた郎党のイメージが増幅され四天王として形成されたと見られている。

 渡辺綱

  • 渡辺舎人綱。
  • 羅生門の鬼と戻橋の鬼を退治、「髭切」(鬼切)所持
  • 嵯峨源氏源宛の子で、摂津源氏の源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、摂津渡辺に住す。
  • 養父源敦が源満仲の郎党に推し、満仲の死後は源頼光に仕える。

 坂田公時

  • 坂田靭鞍負公時。
  • 酒田足柄山の金太郎、波切所持
  • 母は足柄山の山姥であったという。
  • 足柄山の金太郎の力を試すために最後に戦った人物。勝負はつかなかった。

 碓井貞光

  • 碓井荒二郎貞光。
  • 一説に平貞道といい、父は平良文(村岡五郎)であるという。

    頼光朝臣の郎等に、平貞道と云ふ武士有りけり

    碓井荒次郎貞光は、また姓を臼井、名を貞道とも記す、卽ち平貞道であつて、これも四天王の一人であるが、その傳は更に知ることが出來ない。前太平記には貞道の祖は事によりて信州碓氷峠に流され貞光の親に至つて子のないのを憂ひ、諏訪明神に祈つて一子を得た。この子が成長すると、自ら碓氷荒次郎貞道と稱したが、良主を得たいと思つて同明神に祈り、霊夢によつて源頼光の上総の館に赴いて、綱及び季武に緣つて頼光に仕へた。頼光よりは、その一字を賜つて貞光と稱した、とあるが、この書の信ずるに足らぬことはいふ迄もない。

  • この碓井貞光の子に平忠通があり、これが三浦氏・鎌倉氏らの先祖になったという。
  • 石切所持
  • 身の丈七尺の大男で、戸隠神社のお告げにより源頼光に仕える。
  • 足柄山の金太郎の力を試すために卜部季武の次に戦った人物

 卜部季武

  • 卜部六郎季武。
  • 平季武。
  • 父は卜部兵庫季国、母は三島の卜部尼公。父は源満仲に仕え、源頼光とその母を救った。その功績で卜部季武は頼光に仕えることとなる。
  • 平家重代の名刀「痣丸」所持。備前吉岡の守恒作という
  • 足柄山の金太郎の力を試すために最初に戦った人物

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