敦賀正宗


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 敦賀正宗(つるがまさむね)


無銘(名物 敦賀正宗)
刃長二尺三寸三分

  • 相州正宗作の刀。
  • 享保名物帳所載

    敦賀正宗 磨上長二尺三寸三分 代七千貫 松平薩摩守殿
    昔敦賀を領す大谷形部所持、是は関ヶ原時分なり、其以後は敦賀は家康公御領也

  • 本阿弥の七千貫の折紙付き。
  • 鎺から二寸ほど上から乱れは大きくなるが、先ではまた小振りになる。鋩子はすぐ、尖り心の小丸。
  • 中心大磨上、無銘。目釘孔2個
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 由来

  • 越前敦賀城主であった大谷刑部少輔吉継が所持していたためこう呼ばれる。

 来歴

 大谷吉継

 結城秀康

  • 吉継の関ヶ原での死後、結城秀康が越前国北ノ庄67万石に加増移封され、ここで敦賀正宗を入手する。
    関ヶ原ののち、大谷吉継の居城敦賀城は家臣蜂屋将監によって東軍に引き渡され、結城秀康から受け取りの代官が派遣されている。この時に渡ったものと思われる。
  • ※下記伊達家での記録によれば、「越後」が元服の際に台徳院(大御所秀忠)より拝領したのだとする。これは寛永6年(1629年)のことになる。その場合、大谷吉継→将軍家?→松平光長となり、結城秀康は経由しない可能性がある。※経由する可能性=献上、再拝領の可能性もなくはない。ただし、徳川実紀によれば、元服の際に一字拝領して光長と称し、その時に拝領したのは将軍家光が中川江、大御所が観世正宗となっている。

 松平光長

  • その後秀康嫡孫の松平光長(越後国高田藩26万石)に受け継がれる。
  • 光長が蟄居処分となった際に、高田城請取を命じられた榊原家に残った文書。

        越後高田中将光長御道具
     
        一番
            覺
    一、初花かたつき御茶入  初花肩衝
       出所書有、袋壱ツ、しやかしどんす
    (略)
            御腰物覺
    一、稲葉郷
    一、切込正宗
    一、童子切安綱刀 太刀拵一通リ有
    一、氏郷貞宗小脇差
    一、敦賀正宗刀
    一、貞宗
    一、吉光小脇差
    一、増田吉光小脇差  増田藤四郎
    一、二宗国俊刀 拵え有、笄・小刀共ニ  ※二字国俊
    一、とうよ一文字刀  道誉一文字
    (略)

  • 同様の書上げが宇和島藩伊達家にも残った。こちらは天和元年(1681年)12月の書上。

           目 録
    (略)
    台徳院様ゟ御拝領、但越後様(※光長)御元服之節
    一、敦賀正宗刀  白鞘

  • のち大村加卜がこれを拝見している。

    此押形ツルガ正宗ナリ、観世正宗ニ多ク不劣モノナリ、去ナガラ油ノヨリノ玉ナシ、是劣ナリ、然ドモニエハ観世正宗ヨリ多シ、是も越後光長公ノ家ニアリ、スリ上ゲ物ナリ

  • 延宝2年(1674年)に光長嫡子の綱賢の死去に伴い「越後騒動」が起こり、延宝9年(1681年)に将軍綱吉による親裁が行われた結果光長は改易、この時に「敦賀正宗」を手放している。
    この間の経緯は「松平光長」項を参照のこと。なお光長は貞享4年(1687年)には赦免され年末に江戸に戻っている。島津家に渡った時期までが長すぎるため、もしかすると改易決定時ではなく、江戸に戻った後に手放したのかも知れない。光長はのち、元禄6年(1693年)には松平直矩の子・源之助(のち長矩、松平宣富)を養子に願い出てこれが許可され、元禄10年(1697年)に隠居を願い出て許されている。

 島津家

  • 元禄15年(1702年)に薩摩藩の島津綱貴が買い上げ、以降薩摩島津家に伝来した。買い上げ時期は元禄10年とも。
  • 島津家「御納戸御道具之事」

    御腰物
    一腰 無銘、敦賀正宗作、長弐尺三寸壱部
    但綱貴公御腰物

  • 昭和3年(1928年)5月、公爵島津家の蔵品として売立され、3,600圓で落札された後、行方がわからない。

    一、名物敦賀正宗 無銘長二尺三寸三分 鎬造鳥居反り 鎺元よりニ寸程上より大きな亂刄にて先は小亂刄 地鐵付地がね板目に柾交り地割れ等あり。金三千六百圓

    この時に落札された兼光(光徳花押)が1,780円、琉球兼光が618円、名物茶器では「松屋肩衝茶入」(現、根津美術館所蔵)が129,000円、「柳藤四郎茶入」が70,600円などとなっている。







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