渡辺綱
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渡辺綱(わたなべのつな)
頼光四天王の一人
源宛の子
渡辺氏の祖
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嵯峨源氏
- 本姓は嵯峨源氏で河原左大臣源融の子孫。
- 正式な名のりは源綱(みなもとのつな)、渡辺源次とも。
- 渡辺氏の嫡流や松浦氏の嫡流は「源次」の通称を名乗る。
嵯峨天皇──源融(12男)──源昇───源仕──源宛(箕田源次)─源綱(渡辺綱) 河原左大臣 河原大納言 足立郡箕田郷に土着
- 【父・源宛】:父・仕の任地である武蔵国の箕田村で生まれたことから、箕田源次を名乗る。秩父平氏の平良文と一騎打したという。
- 【祖父・源仕】:武蔵権介源仕
- 【曽祖父・源昇】:河原大納言源昇(嵯峨天皇皇孫、光源氏のモデルともいわれる)
渡辺氏
- 通称は渡辺源次。
- 官位は内舎人。あるいは正五位下・丹後守に叙任されたともいう。
- 摂津源氏である源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国西成郡
渡辺 に住し、渡辺綱を名乗る。- 大阪市北区の梅田界隈には高祖父・源融ゆかりの太融寺があり、その近くにある露天神社(つゆのてんじんしゃ、『曽根崎心中』で有名な「お初天神」)の宮司家や、渡辺姓発祥の神社とされる坐摩神社の宮司家も渡辺綱の子孫である。
渡辺党
- 子孫は渡辺党と呼ばれ、内裏警護に従事する滝口武者として、また摂津国の武士団として住吉の海を本拠地として瀬戸内海の水軍を統轄した。
説話上の渡辺綱
- 渡辺綱は、まず鎌管時代成立の「古今著聞集」巻9武勇12に説話上の人物として登場する。そこでは源頼光を狙う鬼同丸を討つ人物として描かれている。
- その後「平家物語」剣巻においては京都一条戻橋で鬼に変じた美女を源氏の名剣髭切で腕を斬ったという。この話は「太平記」巻32「直冬上洛附鬼丸鬼切事」にも登場するがそこでは大和國宇陀郡の大森に変わっている。
- その後室町時代に入ると、洞院公定による「尊卑分脈」において、渡辺氏などの祖として登場する。ここでは「頼光朝臣郎等四天其一」、「頼光四天」などと書かれているが、この間すでに綱の死後400年近くを経ている。
- また埼玉県箕田にある氷川八幡神社の箕田碑によれば、寛仁4年(1020年)に主君である源頼光が正四位下・摂津守に叙された時、綱も正五位下・丹後守に叙されたのだという。
- 結局、歴史上の人物としての渡辺綱の事績はほとんど明らかになっておらず、主に説話上の人物として人々に親しまれている。
頼光四天王
松浦党
- 源頼光が正暦元年(990年)肥前守に任ぜられ、綱を同伴して松浦郡に下向し筒井村に住した。正暦五年(995年)に帰洛している。
- この間に綱は奈古屋で授(源次授、渡辺授)という男子をもうけ、地名から奈古屋授と名づけた。これが松浦氏の祖が肥前国と関係をもつことになった初めである。
- 授の子・瀧口泰の子に松浦久がいる。
渡辺綱──奈古屋授──瀧口泰──松浦久(松浦氏の祖)
- 延久元年(1069年)、泰の子・久(渡辺綱の曾孫)は松浦郡宇野御厨の荘官となり、松浦、彼杵郡及び壱岐の田およそ2230町を領有して梶谷に住み、「松浦久」と名乗り、次いで検非違使に補され、従五位に叙された。久は「源太夫判官」と称して松浦郡、彼杵郡の一部及び壱岐郡を治め、ここに肥前松浦党の歴史が始まる。
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