千利休
千利休(せんのりきゅう)
茶人
与四郎
法名 宗易
居士号 利休
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概要
- わび茶(草庵の茶)の完成者として知られ、茶聖とも称せられる。
- また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天下三宗匠と称せられた。
- 「利休」の名は、天正13年(1585年)10月に行われた禁中茶会にあたって、町人の身分では参内できないために同年9月に正親町天皇から勅賜された居士号である。
七日、御茶會、千宗易ニ利休居士ノ號ヲ賜フ、秀吉、御茶ヲ献獻ズ、
御書并居士之儀、忝次第ニ候、如此御兩人蒙仰候へハ、眞の様に罷成候て、一日も忝候、唯今度之一日之かり名、實に罷成候、頓々罷下可申上候、只今夜中に出京仕候間、閣筆、候、此等趣可預御披露候、恐々敬白、
九月廿九日 宗易(花押)
実際には、大徳寺117世の古渓宗陳が選んだものを内奏した上で勅賜するという形式が取られたという。なお、一般に居士号は弟子が大悟した時に師が選ぶものであり、その際には居士号ならびに頌を記したものを与える。しかし利休についてはこの「頌」が残されておらず、その号の意図がよくわかっていない。利休が秀吉に切腹を命じられた後の文禄4年(1595年)8月、利休の養子である千少庵が大徳寺122世の僊嶽宗洞に尋ねたものが「利休号頌」として裏千家に伝わっており、これとは別に慶長10年(1605年)に千道安が大徳寺111世春屋宗園に尋ねたものも記録に残る。いずれも、利休の利とは鋭利の利でありその鋭利が鈍磨した状態を指しており、ちょうど老古錐のことをいったものであるとされている。
利休自身が「唯今度之一日之かり名」と書いているように本来は1日のみの仮の名前ではあったのだが、天正14年(1586年)の8月ごろからこの利休号を日常的に用いるようになった。
生涯
- 利休は、大永2年(1522年)に、田中与兵衛と月岑妙珎の間に生まれた。
千与兵衛と申し而、堺ノ今市町ニテ、商家ニ罷成候。其子ヲ千与四郎と申候而、今市町候て商売仕候所、茶道ヲすき候而、朝夕心ヲ尽シ申し而、後には武野紹鷗弟子ニ相成、剃髪いたし、千宗易ト名乗申候
- 父は田中与兵衛(千与兵衛。一忠了専)。父の代に、氏を「千」へと変えている。
- 堺の商家で屋号は魚屋(ととや)。家業は納屋衆(倉庫業)であったという。
- 祖父は田中千阿弥とする。※同朋衆の項を参照のこと。
- 母の法名は
月岑 妙珎。
- 幼名は与四郎(與四郎)、のち法名を
宗易 、抛筌斎 と号す- 千宗易の妹に宗円(茶道久田流)。
久田流の祖である久田実房は、室町末期の佐々木義実の家臣であったという。宗易の妹の宗円を妻としたという。実房の子は久田新八房政といい、剃髪して宗栄(生々斎)と名乗り、茶人であったと考えられており、これを久田家の初代としている。
- 千宗易の妹に宗円(茶道久田流)。
- 若年より茶の湯に親しみ、17歳で北向道陳、ついで武野紹鴎に師事し、師とともに茶の湯の改革に取り組んだ。
紹鴎皮屋
与四郎殿せん
(念仏差帳日記 開口神社)宗易の物がたり、珠光の弟子、宗陳、宗悟と云人あり。紹鴎はこの二人に茶湯稽古修行ありしなり。宗易の師匠は紹鴎一人にてはなし。(略)また道陳と紹鴎、別して間よかりければ、互に茶の吟味どもありしなり。宗易は与四郎とて十七歳の時より専茶をこのみ、かの道陳にけいこせらる。道陳引合にて紹鴎の弟子になられしなり。
宗陳は、十四屋宗陳。宗悟は十四屋宗悟。道陳は北向道陳のこと。「茶道系譜」の項を参照のこと。
茶頭へ
- 天文9年(1540年)、18歳の時に父の千与兵衛が死んでいる。この頃、「宗易」の法諱を受ける。この頃、武野紹鴎に茶を学ぶ。
- 30代の頃、堺の茶人商人たちのほか、松屋久政、三好実休などと参会している。また三好政康、松永久秀らとも親交を結ぶようになり、堺での名声は高まる。
- そして天正元年(1573年)11月24日、京都妙覚寺において、松井友閑、今井宗久、山上宗二らが招かれた織田信長の茶会に、利休も呼ばれている。
宗易点前也。上様御出座サレ、御茶召上ラレ候
- おなじ天正元年(1573年)、南宗寺の古渓宗陳が大徳寺117世になると、利休は百貫文を寄進している。
この古渓宗陳は、のち織田信長の葬儀では導師を務めており、天正11年(1583年)総見院を開創している。
- 天正2年(1574年)3月24日に相国寺で開かれた茶会では、堺衆10人が参会し、その日、津田宗及、今井宗久、利休の3名は信長に特に呼ばれて千鳥の香炉を拝見している。この3名は信長の茶頭となり、知行3千石を与えられたという。
- さらに3月27日、宗及と利休の2人だけが名物香炉を所持していたために当日截り取った「蘭奢待」を一包頂戴した。
- 天正10年(1582年)の本能寺の変以降、利休は豊臣秀吉の茶頭となる。
- 天正12年(1584年)正月、大坂城の茶室山里丸の座敷開き茶会に招かれたのは、津田宗及と利休であった。
- 天正13年(1585年)10月「利休居士」号を勅賜される。さらに10月7日に行われた禁中茶会が小御所で行われている。正親町天皇と親王、近衛前久、菊亭晴季らには秀吉が自ら茶を立てるが、その後公卿や門跡に台子茶湯の点前をしている。
(10月6日)理休居士堺宗易事也
- 天正13年(1585年)正月、秀吉の有馬温泉下向に付き添った利休は、津田宗及とともに相客を務めている。正客は家康の次男・於義伊(秀康)に付き添ってきた石川数正だった。
- 天正13年(1585年)、大友宗麟が秀吉に誼を通じてきた際には、松井友閑とともに「骨喰藤四郎」献上の手続きを進めている。
- 天正14年(1586年)、大坂城から黄金茶室を運んだ秀吉は、再び小御所にて茶会を催している。
- 天正15年(1587年)北野大茶湯
- 秀吉が建立した東山方広寺大仏の側に立てた茶室で何度か茶会(大仏御会)を開いている。
- 天正16年(1588年)、古渓宗陳が石田三成との衝突をきっかけに博多に配流されており、利休は必死にとりなしをしている。
- 天正17年(1589年)利休の寄進により、大徳寺の山門・金毛閣が完成する。
- 天正18年(1590年)の小田原征伐でも同行し、茶を点てる他、手紙の代筆なども行っている。
最期
- 天正19年(1591年)、利休は秀吉の逆鱗に触れ堺に蟄居を命じられる。
この時に、秀吉の逆鱗に触れることを恐れて弟子の諸大名が見送りを行わなかった中、淀の船着き場で細川三斎と古田織部のみが見送っていたことが、松井康之宛の千利休書状で述べられている。当初は松井康之も見送りをする予定でいたが、当日所用ができたために見送りができず、飛札を贈ったことに対する返礼の書状となっている。天正19年2月14日書状、松井文庫所蔵
- 諸大名である弟子たちが奔走したが助命は適わず、京に呼び戻された利休は2月28日に聚楽屋敷内で切腹を命じられる。享年70。
- 切腹の際に使用したのが「こぶ屋藤四郎」である。
天正19年1月~2月の出来事
- 【1月13日】:茶会、秀吉
- 【1月22日】:豊臣秀長没。導師は古渓宗陳。
- 【閏1月22日】:
・利休木像の件に付き、不謹慎であるとの弾劾が行われる。利休は大徳寺の春屋宗園を訪ねて相談後帰宅する。
・三斎宛書状〔引木鞘の文〕 引木の鞘を贈る。大徳寺より即今、帰宅申し候、困り申し候、先々ふせり申し候、されどもをそなわり申し候間、引木のさや、持たせ進上候、皆々面謝を期し申し候、かしく
壬二十二日
羽与様 人々御中 休 - 【2月4日】:
・聚光院宛書状〔橋立の文〕聚光院様 休
玉床下
此はし立の壺貴院へあつけ申候
御上さま御諚にて候當はんの
参候共御わたしあるましく候
わたさしなおもかけ
うつる人あらは
われにハつけよあまの
はし立
此外のこるつほ別の事
ニて候 以上
二月四日 宗易(花押) - 【2月5日】:
・聚光院宛書状〔横雲の文〕此つほあつけ申候われわれかはん(加判)
にて御さなく候ハゞ、しせん(自然)取ニ参候共
御わたしなさるましく候一日のつほ
三つその分にて御さ候 以上
二月五日 利休(花押)
よこ雲のかすミわたれる
むらさきのふミ
とゞかす
あまのはしたて
聚光院様 利
玉床下 - 【2月14日】:
・堺へ下向。淀の渡しから堺の津へと戻る際に細川忠興(三斎)と古田織部のみが見送る
・その後、松井康之宛書状態々御飛脚 過分至極候
富左殿(富田左近将監知信) 柘左殿(柘植左京亮)御両所 為御使 堺迄可罷下之旨
御諚候条 俄昨夜罷下候 仍淀迄 羽与様(細川忠興) 織部様(古田織部)
御送候て 舟本にて見付申 驚存候
忝由 頼存候 恐惶謹言
二月十四日 利休
松佐様(松井康之) - 【2月15日】:
・芝山監物宛書状返々御詠ながめ 返ししかね候まま 御使を待せ申候
いつもと申候ながら今夜又 宮古の名残旁々に候 宮古出ての淀の川舟と詠み候を 思ひいだすにも猶々涙に候 やがてやがて待申候待申候
ことさらに天気も能成候 かなしく候かなしく候 かしく
御詠に又一入涙斗に候 返し
おもひやれみやこをいでて今夜しも
淀のわたりの月の舟路を
十五日
芝監物殿 参る
尊報 易 - 【2月16日】:
・切腹の申渡し - 【2月25日ごろまで】:※日付は不明
・秀吉より再び上洛命令。この頃大政所や北政所らによる助命嘆願が行われる。謝罪すれば赦されるとの説得に対して利休は固辞したという
・財産譲り状〔末期の文〕問ノ事泉国ある程の分
同佐野問しほ魚座ちん銀百両也、
田地ハ今渡候分もす深井にて候済候、
但、泉州ノ内にても、別ニ名書ゆつり候
分有之、
宗易今ノ家但、我死テ後十二ヶ月ノ間ハ子持アケましき事候
西本家今小路
西之浦すち弥三郎事
こん屋丁地子すこし
才木丁西同すこし、中すちの事也、
但、紹二北となり地子やちん石橋のあね也、
大かた此分了專時より分也、此外家共
今ある分、宗易代ニ、取之分を分候也、
やうきひ金ノ瓶風 壱双
(紹安花押)
古渓和尚様進上候也、
金ノ二枚併風右ノかハり也壱々是ハ紹安也、
桑良屋道珠家質物之代本銭六拾貫文、
惠輝墨蹟是ハ今うり候や、是ハはやわたし候、又覚す候也、(紹安花押)
栢樹子々々
古渓和尚様
此書おきニ不入分、一円不可存候也、(利休花押) - 【2月25日】:
・一条戻り橋たもとに利休木像が磔にされる
・遺偈
・和歌人世七十
力囗希咄
吾這宝剱
祖仏共殺提 る 我得具足の一太刀 今此時ぞ 天に抛 つ
天正十九年仲春
廿五日 利休宗易居士(花押) - 【2月26日】:
・堺から聚楽の葭屋町通元誓願寺下ル町にあった屋敷に戻る - 【2月28日】:
・聚楽屋敷にて切腹
・検使は尼子三郎左衛門、安威摂津守、蒔田淡路守
・介錯は蒔田淡路守(雀部重政)
・同日、利休の首は一条戻り橋の木像の踏みつけにして晒された其の内、蒔田淡路守に利休切腹せば、介錯仕るべしと仰せ付けられる。上杉景勝より番に来り候六頭の内、岩井備中守は先年より利休茶道の弟子たる故に、景勝の指図にて、利休に切腹有るべき旨、内証を告げるにつき、茶の湯の支度して検使を待つ。腹を切るべき脇差の柄を紙撚にてこれを巻き、検使の来たるを待つ。三使を不審庵へ申し入れ、一会して後、切腹いたし、蒔田淡路守は無二の弟子なれば上意にて介錯。
- 聚楽第の利休屋敷は秀吉により取り壊されるが、利休屋敷の一部と伝える書院が細川忠興創建の大徳寺高桐院に遺る。またこの利休屋敷跡地には、細川忠興の廃嫡された長男長岡休無の茶室・能舞屋敷が建てられた。
- 利休七哲
- 千家十職
茶道の系譜
┌─三(石橋良叱) ├─千道安 │ ├────────女 │ 宗雲 ├───万代屋宗賢(高畠重右衛門) ├─女(万代屋宗安)──万代屋宗貫 三好元長─┬三好長慶 ├─女(千紹二) └宝心妙樹 ├─吟(本能寺円乗坊宗円) 道悦─田中与兵衛 ├─────┼─女(魚屋渡辺与兵衛)──魚屋立安 ├───┬─千利休────┼─田中宗慶─┬─宗昧──女 月岑妙珎 │ │ │ │ │ │ ├┬宗林 │ │長次郎─長次郎(楽吉左衛門初代) │ │└宗幻 ├─清蔵主 └─常慶(楽吉左衛門2代)─道入─一入─宗入─左入─長入 │ │ └─亀(長) │ 宗恩(おりき) ├───┬─千宗旦────┬─宗拙 │ │ ├───千少庵 ├─山科宗甫 ├─一翁宗守(官休庵)【武者小路家】 │ │ 宮王三郎三入 └─ねい ├─江岑宗左(不審菴)【表千家】━━随流斉宗左 │ 松永久秀 ├─仙叟宗室(今日庵)【裏千家】 ├─千宗巴──千紹二 └─くれ └─宗円 ├───┬─徳誉斎宗全━━不及斎宗也─┬厚比斎宗玄【両替町久田家】 ├──久田宗栄(房政、生々斎)──久田宗利(常房、受得斎) ├─随流斉宗左 └凉滴斎宗悦【高倉久田家】 久田実房 【久田流】 ├─清兵衛当直 └─市三郎──不及斎宗也 ※利休の子の生母については諸説多い。三、道安、万代屋妻、千紹二妻までは先妻宝心妙樹の実子とされる。 ※後妻宗恩の子についてはいずれも早世。
妻
宝心妙樹(ほうしんみょうじゅ)
- 三好長慶の腹違いの妹で利休に嫁す。
- お稲、亡くなった折に法名「宝心妙樹」を贈られたという。
- 天文11年(1542年)頃に利休に嫁ぎ、長男道安と三人の娘、一男四女をもうけた。
- 長男は千道安。千家の本家である堺千家を起こすが、道安に嫡子がいなかったため断絶した(ただし道安の娘は利休の娘婿である万代屋宗安の息子に嫁いでいる)。
- 長女(名不詳):茶人千紹二に嫁いだ。
- 次女(名不詳):利休の弟子である万代屋宗安に嫁いだ。
- 三(三女):従弟にあたる石橋良叱に嫁いだ。
- 吟(四女):本能寺の僧侶円乗坊宗円(古市宗円・玉堂)に嫁ぐ。
- お亀:後に利休の養子となる少庵を婿とした。少庵との間には宗旦(千宗旦)を儲けている。※お亀の母は諸説あり。
宗恩
- おりき
- 元は能観世流の小鼓の名手、宮王三入の妻。一男(後の少庵。お亀を娶る)をもうけたが天文22年(1553年)頃に夫(宮王三入)に先立たれる。
- 天正6年(1578年)兼ねてより縁のあった利休が前年に妻を亡くしていたため、利休と再婚した。
- 次男宗林:夭折
- 三男宗幻:夭折
不明
- 名、法名不詳。
- 利休との間に、田中宗慶をはじめ五人の子どもが生まれたという。
- 田中宗慶:詳細がわかっていないが、楽焼の楽吉左衛門家の成立に深く関わった人物である。楽吉左衛門家の2代目を嗣いだのは長次郎の子孫ではなく、この宗慶の次男である常慶である。14代樂吉左衛門覚入の統一見解によれば、田中宗慶は樂家初代長次郎の妻の祖父であるとされる。
千宗旦
母はお亀、父は千少庵
表千家3代
元伯宗旦
- 千利休の後妻の連れ子であり、娘婿である千少庵系統の茶道流派を指す。
- 宗旦の出自について諸説ある
- 千利休の実子お亀の子、父は千少庵(少庵は宗恩の連れ子)
- 千道安の子で千少庵の養子となった(少庵は宗恩の連れ子)
- 千少庵は千利休の実子であり、その実子が宗旦
- 本家の堺千家に対して傍系に当たる。宗旦流を興し、現在まで続く三千家の祖となる。※ただし堺千家は初代の千道安に子がなかったため断絶している。
- 長男宗拙を加賀藩前田家に、次男宗守を高松松平家に、三男宗左を紀州徳川家に、四男宗室を加賀藩前田家に仕えさせた。
三千家
- 宗旦の長男を除く3人の息子が興した「武者小路千家」(次男:一翁宗守)、「表千家」(三男:江岑宗左)、「裏千家」(四男:仙叟宗室)が現在まで続いており、「三千家」と呼ばれる。
- 三男江岑宗左が家督を継承し不審菴表千家となり、宗旦の隠居所を四男仙叟宗室が継ぎ今日庵裏千家となり、さらに一度養子に出ていた次男一翁宗守が千家に戻り官休庵武者小路千家を称し、三千家が成立した。
- 表千家7代・如心斎が「千家を名乗るのは表千家・裏千家・武者小路千家(の嫡子)とし、二男三男にはこれを名乗らせない」と定め、他の二家もこれを了承したため、茶道で千家といえば表千家・裏千家・武者小路千家の三家に限定されることとなった。また長男が家元を継ぐと次男以下が改姓する習わしとなっており、現在でも裏千家千玄室大宗匠(鵬雲斎、15代千宗室)の弟 納屋嘉治氏、表千家14代家元の弟 左海祥二郎氏、裏千家16代家元の弟 伊住政和氏などがその通例に従い改姓している。
久田家(ひさだけ)
- 室町末期の久田実房の子は通称新八、「房政」を名乗り、剃髪して宗栄と号す。本姓は岸下。
- 母宗円は田中与兵衛(田中了専)の娘で、千利休の妹に当たる。宗栄の嫡子房政(久田将監)は茶道を千宗易にうけ、豊臣秀吉より京都両替町に邸地を賜ったという。剃髪して宗栄と号す。久田流茶道においては、房政を以てその初代とする。
- 二代は常房、俗名は新兵衛といい、宗利または受得斉と号した。常房は千宗旦の女暮子(くれ)を娶り、二男二女を挙げる。長男は三代徳誉宗全であり、次男は表千家の江岑宗左の後を継いだ随流斉宗左。また弟の清兵衛当直は世に藤村庸軒として知られている。
- 千家との血のつながり故に、以降久田家は表千家裏千家と深いつながりがあり、三千家と久田家の四家は代々縁戚関係にある。
父 田中与兵衛
- 田中了専(一忠了専)
- 与兵衛は堺今市町で貸倉庫業や運輸業などを手広く営み、堺の納屋十人衆の一人となっている。
- 屋号は魚屋(ととや)
- 田中与兵衛が正しい名だが、父千阿弥の一字をとり「千与兵衛」と称した。
- 「田中宗易」
祖父 田中千阿弥
- 利休の家系はもと田中家といい、代々足利公方に仕える。
- 祖父の千阿弥は、室町幕府8代将軍足利義政に仕えて同朋衆を務めた。応仁の乱の際、敵方に内通したとの疑いをかけられて逃亡し、戦災を避けるため、堺へ移住したという。後に京に戻り義尚に使えている。しかし義尚が長享・延徳の乱の中で近江鈎の陣(まがりのじん)で没し、その翌年義政も没すると再び堺に下向した。
- 法名道悦
- ただし、この「利休祖父=千阿弥」説は否定されている。
伯父 千宗休
- 伯父とみられる「千宗休」が利休以前の茶会記に登場する。
関連項目
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