桑山元晴
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桑山元晴(くわやまもとはる)
江戸初期の武将
大和御所初代藩主
従五位下、伊賀守
長兵衛、直晴
概要
- 桑山家は、もとは尾張海東郡桑山ノ庄の出というが、諸説あり判然としない。一説には、桑山ではなく芝山の出で、もとは芝山氏を称したがのち桑山と改姓したともいう。
父:桑山重晴
桑山重晴─┬一重浄久─┬小藤太一晴【大和新庄藩初代】 │ └一直─┬一玄──一尹(改易) │ └一慶 │ │【大和御所藩】 ├元晴─┬清晴 │ ├主殿貞晴【御所藩2代】 │ └榮晴──直晴【旗本】 │ │ └小傳次貞晴宗仙─┬貞頼 ├貞利 ├貞勝(松平土佐守家臣) └貞寄
- 元晴の父、桑山重晴は丹羽長秀の与力として仕え、姉川などで活躍する。
- のち丹羽家から羽柴家に移っており、天正8年(1580年)には但馬国竹田城主となって1万石を与えられている。天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも活躍し2万石に加増。
- 天正13年(1585年)の紀州討伐後に豊臣秀長が紀伊・和泉などで64万石を領すると、家老としてその配下に組み入れられ、和歌山城代となっている。慶長元年(1596年)に出家、家督を嫡孫の桑山一晴に譲り、一晴に2万石、さらに二男の桑山元晴に1万石を分与している。
桑山元晴
- 元晴は大和豊臣家に使えるが、文禄3年(1594年)秀長の跡を継いだ秀保が没して大和豊臣家が断絶すると、豊臣秀吉に直仕する。
- 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東軍に与して武功を挙げ、戦後に大和葛上郡において2000石を加増され御所藩(1万2000石、のち父に2000石を移譲し1万石)の初代藩主となる。
- 慶長11年(1606年)の父の重晴の死の際に6000石を受け継ぐ。
- 慶長14年(1609年)に長男の清晴が改易されると、その所領であった和泉谷川藩領1万石も与えられて、最終的に2万6000石を領する大名となった。大坂の陣においても武功を挙げている。
- 元和6年(1620年)7月20日、死去。享年58。
子:桑山主殿貞晴
- 跡を次男の主殿貞晴が継いだ。元和9年(1623年)に従五位下・加賀守に叙任される。
- ただし、御所藩2代の貞晴が寛永6年(1629年)9月29日に急死すると、末期養子が認められず改易となり、御所藩は廃藩となり幕府領に組み入れられた。
- 桑山貞晴の子孫は名跡相続のみ認められ、のち1000石の旗本として存続した。
刀剣
茶道系譜
- 父桑山重晴の茶の湯は、弟の桑山小傳次貞晴 (桑山宗仙、従五位下・左近大夫)が継ぐ。小傳次貞晴は千道安から茶の湯について学び、晩年は宗仙と名乗り茶の湯を伝えた。
元晴の子にも御所藩2代の貞晴(主殿。従五位下・加賀守)がいるが、別人。
- この桑山宗仙に学んだのが片桐石州であり、その流派はのちに「石州流」と呼ばれるようになった。
石州は片桐貞昌。父の片桐貞隆は片桐且元の弟で、兄とともに秀吉に仕えて播磨1万石を領す。いわゆる方広寺鐘銘問題ののち、兄とともに豊臣氏を去って家康に仕え、大坂夏の陣の後、大和小泉藩の初代藩主となった。石州こと片桐貞昌はこの貞隆の嫡男で、寛永4年(1627年)に父の死により家督を継ぎ大和小泉藩2代藩主となった。
- この片桐石州の門下に3代将軍徳川家光の異母弟にあたる保科正之がおり、その推挙により片桐石州は4代将軍家綱の茶道指南役となったことで、以後江戸時代を通じて石州流が幕府の茶道として広がっていくことになった。
その他の門人
- 徳川光圀(水戸藩2代)
- 野村休盛(→秋田藩佐竹家→【成瀬派、林泉寺派、古閑堂派】)
- 大徳寺253世の怡渓宗悦【怡渓派】 →越後新発田藩溝口家
- 保科正之 →会津藩
- 堯然法親王(後陽成天皇の第6皇子)
- 松浦鎮信(平戸藩4代藩主) →【鎮信流】、茶堂豊田家
- 宝井其角(芭蕉門人) →【其角堂派】
- 松平不昧(松江藩7代藩主)
- 井伊直弼(石州流を学ぶ)
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