玉堂肩衝


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 玉堂肩衝(ぎょくどうかたつき)

漢作肩衝茶入
大名物
銘 玉堂
徳川ミュージアム所蔵

Table of Contents

 由来

  • 玉堂宗条所持にちなむ。
  • 玉堂宗条は、大徳寺92世。文明12年(1480年)美濃の生まれで、休翁宗万の法を継いで大徳寺住持となる。永禄4年(1561年)示寂。

 来歴

  • 来歴概略
    大内義隆─玉堂宗条─針屋宗和─豊臣秀吉─浅野長政────┐
                                │
    ┌───────────────────────────┘
    │
    └徳川家康─浅野長晟─浅野光晟─徳川家綱─徳川綱吉─水戸綱條
  • 元は大内義隆の所持。
  • のちこの肩衝を周防龍福寺に寄贈する。

 玉堂宗条

  • 玉堂宗条は、大内義隆の招きにより周防龍福寺に移っている。しかし天文20年(1551年)大内義隆が自刃した際に、この肩衝をもって豊後大友氏の元に逃れている。
    周防龍福寺は、もと建永年間に大内満盛が開基した臨済宗瑞雲寺に始まるという。のち享徳3年(1454年)大内教弘が開基となり、曹洞宗龍福寺へ改めている。天文20年に焼けるが、弘治3年(1557年)後奈良天皇の綸旨を受け、毛利隆元の開基によって現在地である大内氏館の跡地に移され、自害した義隆の菩提寺として復興した。明治14年(1881年)に山門など一部を残し全焼するも、大内氏の氏寺である氷上山興隆寺の釈迦堂を移築し本堂とした。この本堂は昭和29年(1954年)に重要文化財指定。
  • 一時、万代屋宗安(もずや そうあん)の元にあったともいう。

    玉堂 珠光所持、万代屋宗安に有之、松平安芸守、此壺へラメ四つ、面に一つ上下おしこみ、ヘラメあり、其内なだれ有之
    (古名物記)

    宗安は堺の万代屋宗二の子で、利休の弟子。号 竹渓、一咄斎。千利休の娘婿。秀吉の茶頭八人衆の一人、御伽衆を務めた。名物「抛頭巾茶入」、九重茶壺、牧渓の布袋絵などを所持したという。

 針屋

  • のち京都に上り、立売の豪商針屋宗和に譲渡する。このため人は玉堂にあらず、欲堂であると噂したという。

    玉堂肩衝 京針屋宗和にあり、此壺も口、當世へむきたる壺なり
    (山上宗二記)

    玉堂肩衝 京都の分、針屋紹珍所持
    (天正名物記)

    紹珍は針屋宗和の子。

  • 津田宗及茶湯日記及宗湛日記に登場する。

    天正五年十一月十九日朝 京のはりや宗和會
      人数 宗久 宗納 後に曲庵被参候
    (略)
    茶過て、玉堂かたつき四方盆にすへて持出て、袋にんほの金襴小紋、緒つがり浅黄、肩衝床へ及上げ申候、中通に置。
    (津田宗及茶湯日記)

    天正十五年正月二十九日朝、上京たちうり針屋宗和御會
        宗久老  宗湛
    (宗湛日記)

    天正十五年十月朔日北野大茶湯出品
     針屋紹珍所持 一茄子繪月山筆 一肩衝圓座 一肩衝玉堂
    (北野神社所蔵北野大茶湯會圖)

 秀吉

  • のち秀吉が入手する。
  • 天正18年(1590年)小田原の陣で、この肩衝を飾って将士を鼓舞したという話が伝わる。

    其後御陣中に御茶屋をしつらへ、橋立の御壺、玉堂の御茶入を飾り、御客は駿河殿徳川家康、御相伴は細川玄旨(幽斎)、由己法橋、利休居士、御取持には前波半入
    (真書太閤記)

 浅野家・将軍家

  • 秀吉はこれを浅野長政へ与えている。
  • 宗湛日記に記録が残る。

    慶長二年三月廿三日朝 伏見にて
        浅野弾正殿御會 宗湛 鵜薪右
    肩衝は玉堂なり
    (宗湛日記)

この後、幾度か浅野家・将軍家を往復する。

  • 長政はこれを幕府に献上する。
  • 元和2年(1616年)、浅野長晟が病気の家康を見舞いに駿府城に訪れると、この「玉堂肩衝」を拝領する。

    元和二年四月五日浅野但馬守長晟にも玉堂の茶入を賜ふ、これは先に父弾正少弼長政が献ぜし所とぞ
    (徳川実紀)

    浅野長晟田道間守 實は長政が二男 天正十四年若狭小浜に生る、慶長十八年兄幸松沒して嗣なく、其遺領を襲ふ、元和二年三月十八日、母の喪に籠る時、精進を解くべき旨仰せありて鵜を賜ふ、後東照宮不豫につき、頒布に伺候し、玉堂の茶入をたまふ、これ長晟が家の寶器にして、先に奉りし所なり、寛永九年九月三日沒す、年四十七、室は東照宮の御娘、振姫君、法名正法院
    (寛政重修諸家譜)

    紀伊和歌山藩2代藩主、のち安芸広島藩の初代藩主。拝領した頃は紀伊藩主。

  • 寛永9年(1632年)11月朔日、長晟の子である浅野光晟が襲封の際にこれを献上。
  • 翌日、将軍家光よりあらためてこの「玉堂肩衝」を拝領している。

    浅野光晟安芸守致仕紀伊守 母は東照宮の娘 元和三年和歌山に生る、寛永九年十一月朔日襲封を謝する時、父(長晟)の遺物正宗の脇指、玉堂の茶入を献ず、二日領知の内五万石を庶兄長治に頒つ、是時先に献ぜし玉堂の茶入を拝領す、寛文十二年四月十八日致仕し、五月十八日得物正宗の短刀及玉堂の茶入を奉る、元禄六年四月廿三日広島に沒す、年七十七
    (寛政重修諸家譜)

    ぎょくたう 唐物肩衝 松平安芸守殿
    (玩貨名物記) ※万治3年(1660年)

  • 寛文12年(1672年)5月18日、浅野光晟は将軍家綱に献上。
  • その後しばらくは将軍家にあった。
  • 延宝6年(1678年)将軍家で行われた茶会に使用されている。

 水戸家

  • 元禄13年(1700年)9月25日、将軍綱吉が水戸邸に御成になった際に、この「玉堂肩衝」を水戸綱條に贈っている。

    元禄十三庚辰九月二十五日、水戸宰相殿へ御成、已の上刻還御申之中刻
     公方様より宰相様へ
      一眞御太刀代金十枚 国宗  一白銀二千枚
      一時服百領      一縮緬百巻
      一繻紾五十巻
     御盃之時
      一御腰物代千貫 長光   一御脇指代金三百枚 吉光
      一茶入玉堂
    (戸田茂睡著御当代記)

  • 以後、水戸徳川家に伝来。
  • 大正7年(1918年)9月2日に高橋義雄(箒庵)が実見している。この時も水戸徳川家13代当主徳川圀順侯爵の所持となっている。
  • 入札では親引きとなった。
  • 現在は水戸徳川家ゆかりの徳川ミュージアム所蔵となっている。

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