冑割り兼定
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冑割り兼定(かぶとわり)
脇差
冑割り
切付銘 主安藤伝十 此作和泉守 埋忠上之
磨上 一尺七寸四分五厘
- 「頭割」
- 坂崎出羽守から安藤伝十郎、庄内藩酒井家を経て西郷隆盛の所持。
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来歴
坂崎出羽守
- もとは坂崎出羽守の所持。
- 坂崎出羽守直盛とは、宇喜多忠家の長男で宇喜多直家の甥。
- 東軍に与して石見浜田2万石を与えられるが、「宇喜多」の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり改めた。
- 大坂落城の際に「千姫を助けだしたものに千姫を与える」という家康の言葉を受け、大坂城から千姫を助けだすが、千姫はのち本多忠刻との縁組が決まる。坂崎は、悔しさのあまり片手で甲を割ったという。
- 元和2年(1616年)、坂崎が千姫を強奪するとの風聞が流れて屋敷を取り囲まれ、自害したという。
- 坂崎家は改易された。
安藤伝十郎
- その後、旗本の安藤伝十郎定智が入手し、埋忠に依頼して磨上げた。
主安藤伝十 此作和泉守 埋忠上之
安藤伝十郎定智は1700石取りの旗本。二代将軍秀忠に仕え奏者番を務めた。寛永13年(1636年)51歳で没。「四海波兼光」にも金象嵌を残している。
酒井忠勝(出羽庄内藩主)
- のち旗本多賀左近を経て、出羽国庄内藩主酒井忠勝が金二百両と脇差一腰で買い上げている。
今御家に有之片切刄和泉守の御脇指ハ長サ一尺餘大巾物極てダビラなりわざ物にて坂崎(坂崎直盛)片手打に人の頭を打破る仍之世上に坂崎か頭割と名付て其頃の沙汰有し御道具の由出羽守滅亡の後御旗本多賀左近殿所持有しを無理に御留置れ酒井宮内大輔忠勝ノ時金二百兩と御脇指一腰被遣御買被成たる由なり
多賀左近
旗本多賀左近についてはよくわからない。2000石取りの旗本に多賀左近常長がいる。祖父の多賀新左衛門常則(伊予守)及び父の多賀吉左衛門常直は、大和大納言豊臣秀長に仕えて2000石を与えられている。多賀常直はのち家康に仕え大和高市の本領を安堵されている。元和3年(1617年)76歳で没。
多賀左近常長は、早くから家康に仕えて使番となっている。寛永21年(1644年)に姫路藩の松平忠明が没すると嫡子鶴松丸(後の忠弘。山形、宇津宮、白川へと転封)の国政を補佐している。明暦3年(1657年)に讃岐丸亀3代藩主山崎治頼が没し無嗣断絶となったため収公されることになり、3月19日に多賀左近常長が派遣されるが、7月20日同地で没した。66歳。家督は、嫡子の吉左衛門常良が継いだ。
多賀左近は茶人として知られ、桑山宗仙こと桑山貞晴(桑山重晴の三男。千利休の長男千道安に学んだ)に師事している。多賀常則──常直─┬常長──常良──常之──常房──髙但──髙當──髙安 ├常貞──光吉──某 ├常勝──常方─┬常尚─┬常昭──髙補──髙賢 │ └常房 └多賀常政 └常次─┬常往 └某───政常──正武──直耕──直之
多賀常勝の弟・常長の三代孫である多賀常政(1707-93)は、通称三太夫。清水徳川家に仕えた人物。有職故実家の伊勢貞丈の著作に登場するなど関係が伺える。
- その後、酒井家代々に相伝する。
なお庄内藩初代藩主の酒井忠勝(宮内大輔)は、正保4年(1647年)に死去。それまでに酒井家に伝わっていたことになる。
酒井忠篤
- 出羽庄内藩11代藩主の
酒井忠篤 は、慶応4年(1868年)からの戊辰戦争において幕府軍が敗れた後も奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と戦っている。秋田藩・新庄藩などを破るが周辺の幕府派の藩が次々と降伏する事態を受け、ほぼ無敗のまま9月25日に降伏し、9月27日に開城して謹慎を命じられた。 - 明治2年(1869年)9月23日に罪を赦されると、庄内藩に対して比較的寛大な処置が下された裏に西郷の思惑があったことを知る。翌明治3年(1870年)9月、酒井忠篤は薩摩遊学を決意し、同年11月に藩士76名を引き連れて翌年3月まで薩摩に滞在している。この時、西郷に接した庄内藩士が取りまとめたのが「西郷南洲遺訓集」である。
西郷隆盛
- この薩摩滞在時に、酒井忠篤が西郷隆盛(吉之助隆盛、大西郷)に贈ったのが「冑割り」 であるという。
- 西郷はこの刀を城山で最期まで指した。
- 西郷の死後、嫡男の侯爵西郷寅太郎に、さらに嫡孫の西郷吉之助へと伝わる。
- 「祖父南洲遺愛刀台帳」所載、甲第弐拾号。
鎬造り 大切先 方先刃 表に太き樋あり 矢筈乱れ 杢目 磨上 表樋の内に 主安藤伝十 裏に作和泉守 埋忠上之とあり。
- 第二次大戦後、隆盛の孫にあたる西郷吉之助は、第2次佐藤内閣で法務大臣を歴任した。この頃から手形を乱発し、負債総額は4億円(当時)まで膨らんだという。
- この負債整理を行うために祖父隆盛の遺産を処分したため、同家を出た。
右は祖父南洲遺愛の刀剣にて、明治維新后、勝海舟先生より祖父に贈られたる、由緒深き刀剣にて、祖父の最も大切にせし遺愛の脇差である。
昭和四十三年十二月
西郷吉之助(印)売立時の目録では勝海舟よりとなっているが、勝が贈ったのはこの脇差ではなく別の刀であるとされる。庄内藩主酒井家の記録によれば、明治2年(1869年)に鹿児島を訪問した際に旧藩主酒井忠篤が贈ったものとする。
西郷吉之助(大西郷の孫)
西郷吉之助は西郷隆盛の嫡男である西郷寅太郎の三男。明治39年(1906年)生まれ。西郷吉之助の前妻は尾張徳川家19代徳川義親の次女春子。西郷吉之助は、銀行員を経て貴族院議員(1936-1947年)、自由民主党参議院議員(4期)。第2次佐藤内閣で法務大臣。のち尾崎清光とつながり、議員会館内で恐喝事件を起こしたため自由民主党を離党。平成9年(1997年)没。
園田実徳
西郷吉之助の母は園田ノブで、その父園田実徳はJRA騎手である武豊・武幸四郎らの曾祖父・武彦七の兄にあたる。園田実徳も薩摩の人で、西南戦争では鎮台兵陸軍大尉心得として出兵している。北海道開拓使出仕を命じられた関係で北海道開拓に深く関わる。函館船渠(現・函館どつく)、函館電燈所(現・北海道電力)および北海道銀行(1944年に北海道拓殖銀行と合併)の創業者となる。
のち畜産にも乗り出し、北海道庁から桔梗牧場を貸し下げられると園田牧場と名付け牧畜を業としている。目黒競馬場の建設にも関わっており、公認競馬会のひとつである日本競馬会の会長も務めた。この園田実徳や武彦七の一族はその後も競馬界への関わりが深く、代々騎手や調教師を輩出している。┌武幸四郎 ┌武彦七───武芳彦────武邦彦──┴武豊 └園田実徳──園田信子 ├────西郷吉之助 西郷隆盛──西郷寅太郎 │ 徳川義親────春子
- 「西郷隆盛の刀」の項を参照のこと。
他の甲割り
- 「甲割り」の項を参照のこと。
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