青木来国次


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 青木来国次(あおきらいくにつぐ)

短刀
青木来国次
九寸四分半

  • 享保名物帳所載(ヤケ)

    青木国次 長九寸四分半 代七千貫 御物
    青木紀伊守殿所持文禄の頃なり、其前は阿閉萬五郎所持なり、青木子息より福島左衛門殿求め

  • 「来」の字の下部が目釘孔にかかっており、「次」の字が消えていたが、光徳が来国次と極めた。

 由来

  • 青木紀伊守一矩所持にちなむ。

 来歴

 阿閉貞征

  • 元は阿閉貞征(萬五郎)の所持。父は浅井氏家臣阿閉淡路守長之。阿閉貞征は明智光秀に仕え、山崎合戦で討ち死にする。

 青木一矩

  • その後文禄の頃には越前府中城主であった青木紀伊守一矩が所持していたという。
  • 青木一矩は本阿弥光徳に鑑定を依頼している。子の右衛門佐俊矩に伝えるが関が原の戦いで西軍についたため除封となる。

 福島正則

  • 本刀「青木国次」は福島正則が買い求め、その所有となる。
  • 本阿弥光瑳名物刀記」にも載る。

       福島左衛門大夫殿福島正則
    朱 青木来国次  九寸四分半

 将軍家

  • 寛永元年(1624年)に正則が死去した際に子の正利が幕府の許可無く火葬したため咎めを受け、お家取り潰しの危機に陥る。正利は取りなしを願い、大御所・徳川秀忠に正宗の刀および青木国次の脇差、木亘肩衝を献上している。

    但し正則が遺物とてあふらの茶入、大光忠の刀、大森義光の脇差を献じ、大御所(秀忠)にきのめ肩衝、正宗の刀、青江国次の脇差を捧げ、甲府中納言忠長卿にも切刃貞宗の刀、たゝがう吉光の脇差、修理肩衝を進らせしとぞ

 越前松平家

  • 寛永9年(1632年)の秀忠薨去時に松平忠昌が遺物として拝領。

    正月廿四日 将軍秀忠公薨御ニ付、二月廿六日為御遺物青木国次常ニ御大切ニ思召候方へ可被進上意之旨。果して御遺言ニ而御拝領。御銀五千枚忠昌卿御拝領。正(瑞カ)正宗御腰物、銀三千枚越後少将光長君・銀千枚出羽守直政君・銀五百枚大和守直基君

 将軍家

  • 正保2年(1645年)10月、忠昌の死去により、嫡男・万千代(後の光通)が跡を継ぐ。このとき、父の遺物として青木国次を献上。

    十月廿一日 万千代君御家督御礼被仰上。(略)
    忠昌卿御遺物。将軍家江御刀正宗・御脇指青木国次最前御拝領之御道具御茶入二王。家綱公江、御脇指貞宗・御掛物茂古林墨蹟。最前御拝領。。亀松君江、御脇指来国光。長松君江、御脇指新藤五国光。千代姫君江、古今、後光厳院宸翰・御沈香橘被進ル。


 青木国次

  • 秀忠薨去時の形見分けで、「青木国次」なる刀が登場している。脇指ではなく腰物となっているためおそらく上記短刀とは別物ではないかと思われる。→どうも本来は脇指の誤記のようだ。

      御遺物の次第
    一、会津正宗御脇指・面壁御掛物圓悟讃 尾張大納言
    一、寺沢貞宗御脇指・初祖菩提西王一山 紀伊大納言
    一、切刃貞宗御脇指・俊成定家両筆の掛物 水戸中納言
    一、松井貞宗御腰物 加賀中納言
    一、中川義弘御腰物 同筑前守
    一、国綱御腰物 松平淡路守
    一、加藤二字国次御腰物 松平宮松丸
    一、細川正宗御腰物 越後千千代丸
    一、青木国次御腰物 越後伊予守
    一、長光御腰物 備前宰相


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