仙台伊達家の江戸藩邸
仙台伊達家の江戸藩邸
- 仙台藩、伊達家の江戸屋敷の成り立ちと贈答品のまとめ。
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外桜田上屋敷
外桜田
坪数不明
慶長8年(1603年)~寛文元年(1661年)
- 現在の日比谷公園。東西が公園内の庭球場東端~心字池西岸まで、南北は日比谷掘沿いから野外小音楽堂付近まで。
- 政宗が最初に拝領した邸地で、寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。
【初代伊達政宗】
- 政宗が最初に拝領した邸地。
- 慶長6年(1601年)8月24日、伏見に上る。江戸へ寄った際に、秀忠より榊原康政を上使として旅宿に渡御あり。久国の刀を拝領。9月10日に江戸を発ち京へ向かう。
- 慶長6年(1601年)10月上旬、政宗藩邸地を賜い、江戸へ下向する。この時屋敷が一部出来ていたため、和田倉の館へ入った。
岩出山城主伊達越前守「伊達政宗」、邸地を江戸に賜ふ、
大神君ヨリ諸大名ヘ各歸國ノ御暇ヲ賜フ。然レドモ公(政宗)ヘハ其義ナシ。故ニ伏見ニ御在留ナリ。伏見ニ於テ、大神君(家康)ヨリ公ヘ、江戸ニ御屋敷ヲ賜ハルベキノ旨、仰出サル。
大神君此間十二日ニ江戸御下向トシテ伏見御發駕ナリ。御屋敷ヲ賜ハル事、十二日以前ナリ。
9月18日に神田橋を通りかかった時に橋が崩れ、騎乗の士が十人あまり落水したといい、秀忠より見舞いが届き石川玄蕃康長屋敷を宿にするよう勧められるが、政宗は奇特屋喜左衛門の邸に入ったという。そのため9月には自邸がなかったとする。さらに12日に伏見を発った際にはすでに屋敷を拝領している。
- 慶長7年(1602年)9月26日、秀宗を江戸証人として江戸へ送る。
仙台城主伊達政宗、子秀宗を江戸に証人たらしめ、是日伝大和田筑後「大和田忠清」に掟書を与ふ、
陸奥岩手山の伊達政宗の長子秀宗、始めて徳川家康に山城伏見城に謁し、尋で、人質と爲りて江戸に行く、
- 慶長8年(1603年)正月、忠宗伏見において家康に拝謁する。同月江戸において秀忠に拝謁する。
(忠宗)東照宮より信国の御刀、左安吉の御短刀をたまふ。この月江戸へまゐりて台徳院殿に拝謁し、また守家の御刀、真長の御短刀をたまふ。
- 慶長8年(1603年)2月家康への征夷大将軍宣下。
- 慶長8年(1603年)8月政宗、猪苗代兼如に同行して鎌倉を観光する。
伊達政宗鎌倉に遊び、尋で江戸より仙台に還る、
猪苗代兼如は安土桃山~江戸時代の連歌師。猪苗代兼裁の子で、号は是斎。里村紹巴に学ぶ。本能寺の変の直前に光秀が催し、「ときは今 あめが下しる 五月かな」と読んだことで有名な「愛宕百韻」にも参加している。
- 慶長9年(1604年)10月13日、政宗江戸に参覲す。
伊達政宗、江戸に参覲す、
- 慶長10年(1605年)秀忠への征夷大将軍宣下。
- 慶長11年(1606年)秀忠御成。
秀忠、藤堂高虎及び伊達政宗の第に臨む、
此年、公御屋形に於て、公方台徳院殿を饗し奉らる。御数寄屋に於て御茶進上し玉ふ。公方より公(政宗)へ御腰物長光を賜ひ、嗣君(忠宗)へ御腰物大原真守、御脇指来国俊を賜ふ。
- 慶長11年(1606年)、桜田藩邸地を賜う。
仙台城主伊達越前守「伊達政宗」、江戸に邸地を賜ふ、
- 慶長11年(1606年)3月3日常陸信太、筑波、河内三郡で1万石を賜う。
- 慶長11年(1606年)12月24日、政宗娘五郎八姫が家康の六男松平忠輝(越後高田藩初代藩主)と婚姻。
- 慶長12年(1607年)2月8日家康御成、18日秀忠御成。
家康、伊達政宗の第に臨む、
- 御相伴衆(家康)
- 本多佐渡
- 御相伴衆(秀忠)
- 浅野長政、加藤嘉明
- 慶長12年(1607年)10月18日、政宗は家康の西の丸での茶会に参加。
家康、茗醼を張り秀忠を饗す、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣等之に陪す、尋で秀忠、家康を饗す、
- 御相伴衆
- (客)秀忠、長尾景勝(上杉)、伊達政宗、佐竹義宣
- 慶長13年(1608年)正月下旬仙台に帰国。※仙台着は2月上旬とも。
- 慶長15年(1610年)3月江戸。5月23日駿府で家康に拝謁して「山井茶入(樋口肩衝)」を拝領する。
是より先き、上杉景勝、伊達政宗、江戸に抵り、将軍秀忠に謁し、また、駿府に候す、是日、家康、二人を饗す、尋で、景勝等江戸に還る
山岡志摩守より献上されたもの。のち家光に遺物として献上している。その後さらに寛永17年(1640年)に忠宗帰国の際に拝領。
- 慶長16年(1611年)5月仙台に帰国。
- 慶長16年(1611年)12月13日、虎菊丸(総次郎)元服し、秀忠より一字拝領して忠宗を名乗る。正五位・下美作守に叙任される。三原正家の刀を拝領。
秀忠、伊達政宗の次子虎菊を召して元服せしめ、偏諱を賜うて忠宗と曰ふ、
十二月十三日、政宗か嫡子江戸に在り、召に依て江城に登り、台徳院殿の御前にて元服す。御諱の字を賜て忠宗と號す。時に御腰物三原正家を忠宗に賜る
- 慶長17年(1612年)2月27日駿府で家康に拝謁し茶会。
伊達政宗江戸に参覲す、
- 慶長18年(1613年)3月28日、将軍秀忠、御成。
将軍秀忠、佐竹義宣の邸に荏む、尋いで、伊達政宗の邸に荏む、
- 御相伴衆
- 石川玄蕃頭康長、延壽院玄朔(2代曲直瀬道三)
- 大坂の陣。
- 10月15日:陸奥仙台城主伊達政宗、兵を率いて居城を発し、是日、下野小山に着す、豊臣秀頼の使者和久宗友、政宗の旅営に至り、秀頼の言を致し、政宗をして調停を計らしめんとす、政宗、之を秀忠に具申す、
- 10月17日:伊達政宗、軍を率いて江戸に抵る、是日、秀忠に謁す、
- 10月20日:秀忠。伊達政宗、上杉景勝に先鋒を命ず、是日、政宗、景勝、江戸を発す、
- 11月5日:伊達政宗、大津に着し、滞留す、
- 11月11日:伊達政宗、二条城に抵り、家康に謁し、宇治に赴く、
- 11月18日:伊達政宗牧岡を経て、是日、八尾付近に陣す、尋で、木津に進む、
- 11月28日:伊達政宗平野に抵り、秀忠に謁す
- 12月17日:松平忠直、藤堂高虎、伊達政宗、茶臼山に抵り、家康に謁す、
- 元和元年1月24日:秀忠、伏見より二条城に入る、大坂城壊平の功略々竣るを以て、前田利光、伊達政宗、上杉景勝等諸大名に命じて、各、其封地に就かしむ、
- 3月17日:政宗駿府で家康に拝謁、21日江戸着。
- 4月7日:江戸を発ち、京都へ。20日京都着。
- 4月30日:東軍大和口の将松平忠輝、本多忠政、松平忠明、水野勝成等進みて奈良に陣す、伊達政宗もまた木津に陣す、尋で政宗奈良に進む
- 5月5日:東軍大和口の先鋒水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗等、進んで、河内国分に陣す、
- 5月6日:黎明、水野勝成、本多忠政、松平忠明、伊達政宗等、大坂の将真田幸村、後藤基次、薄田兼相等と、片山道明寺附近に戦ふ、大坂の軍敗れ、基次、兼相等之に死す、
- 5月9日:秀忠。安藤重信、青山忠俊、阿部正次等を留めて、大坂城中金銀を点■せしめ、伏見に凱旋す、徳川義利「義直、」同頼将「頼宣、」伊達政宗、藤堂高虎、上杉景勝等また入京す、
- 元和元年(1615年)9月5日、政宗仙台。
- 元和元年(1615年)9月11日、桜田邸類焼。※伊達、鍋島、島津と焼けている。
九月廿一日、夜、江戸に於て、長門侍従秀就朝臣の屋敷より出火、公の兩御屋敷類火焼亡す。
- 元和2年(1616年)2月5日、家康不予の報を聞き、10日仙台発、18日江戸、19日江戸を発ち、22日駿府着。清拙正澄の墨跡を拝領する。
- 元和2年(1616年)5月4日政宗江戸を発ち、11日に仙台着。
伊達政宗、江戸を発して、国に帰る、
- 元和2年(1616年)10月2日、世子忠宗は従四位下に昇叙し、侍従兼任。
- 元和3年(1617年)5月16日仙台発つ、24日江戸参覲。26日登城。29日江戸城で秀忠の饗応を受ける。
陸奥仙台城主伊達政宗、江戸に参覲す、
- 元和3年(1617年)12月13日政宗の嫡子忠宗のもとに、秀忠養女振姫(姫路藩主池田輝政の娘、孝勝院。母は徳川家康の次女督姫)が輿入れした。18日にお礼言上で登城すると、政宗に「別所貞宗」の脇差。忠宗に長光の刀と「太鼓鐘貞宗」の短刀を賜った。
秀忠、家康の養女振姫を養ひて、陸奥仙台城主伊達政宗の嗣子忠宗に妻す、
同十八日、公御脇差別所貞宗を松平陸奥守政宗に賜る
十八日松平陸奧守政宗。美作守忠宗父子まうのぼり。姫君降嫁を謝し奉り。(略)政宗へ別所貞宗の御脇差たまひ。忠宗に長光の御刀。貞宗御脇差(太鼓磬と稱す)を賜ひ。その家司伊達安房成實。伊達安藝定宗も拜謁し時服を下さる。
- 元和4年(1618年)3月22日秀忠の御成。
秀忠、伊達政宗の第に臨む、
- 元和4年(1618年)閏3月朔日暇を与えられ、26日江戸発、4月3日白石城。4日仙台城。
- 元和5年(1619年)3月18仙台発、25日江戸着。
陸奥仙台城主伊達政宗、亦参勤す、
- 同年同月、秀忠の御成。忠宗は包永の御刀を拝領する。
秀忠、伊達政宗の第に莅み、猿楽を観る
- 元和6年(1620年)正月19日江戸城にて秀忠の饗応を受ける。
秀忠、伊達政宗を江戸城中に饗す、
- 元和6年(1620年)4月2日暇を賜う。虫気で滞在し、16日江戸を発つ、21日郡山、24日仙台着。
幕府、陸奥仙台城主伊達政宗、出羽久保田城主佐竹義宣に暇を給す、尋で、政宗、義宣、江戸を発して、国に帰る、
- 元和6年(1620年)6月30日宇和島藩にて和霊騒動起こる。
伊予板島「宇和島」城主伊達秀宗、其老臣山家公頼等を殺す、尋で、秀宗の父陸奥仙台城主伊達政宗、之を怒りて、秀宗を勘当す、
- 元和7年(1621年)正月24日類焼。
尾張名古屋城主徳川義利「義直、」の江戸の新亭火く、陸奥仙台城主伊達政宗・出羽米沢城主上杉景勝・長門萩城主毛利秀就・肥前佐賀城主鍋倉勝茂・薩摩鹿児島城主島津家久等諸大名の亭、災に罹るもの多し、
公の兩御屋敷御上屋敷、御本屋敷共に焼亡す。御上屋敷は公政宗御座し、御本屋敷は嗣君忠宗御座す。
- 元和7年(1621年)8月20日、政宗仙台を発つ。28日江戸着。火事のため、下屋敷に滞在する。
- 元和7年(1621年)9月12日江戸城にて猿楽。
江戸城、猿楽あり、秀忠、出羽米沢城主上杉景勝・陸奥仙台城主伊達政宗・出羽久保田城主佐竹義宣等を饗す、
- 元和7年(1621年)10月14日秀忠の茶会に参加。
秀忠、口切茶会を催し、出羽米沢城主上杉景勝・陸奥仙台城主伊達政宗・出羽久保田城主佐竹義宣及び日野唯心「輝資、」を饗す、
- 元和8年(1622年)10月5日暇を賜い、16日江戸を発つ白坂と白川の間で永井直勝(下総古河)の城に寄っている。24日仙台着。暇を賜う時に池田輝政献上の虎堂の墨跡を拝領する。
- 元和9年(1623年)世子忠宗、江戸に移徙?
- 元和9年(1623年)正月11日、秀忠亭主の茶会。12日
- 御相伴衆(11日)
- 尾張中納言義直、細川三斎、水戸宰相頼房、京極若狭守忠高、藤堂高虎
- 御相伴衆(12日晩)
- 松平長門守毛利秀就、細川越中守忠利、松平美作守伊達忠宗、上杉喜平次定勝、甲斐守毛利秀元、有馬豊氏
- 御相伴衆(13日朝)
- 浅野但馬守長晟、加藤忠広、宗対馬守、黒田忠之、鍋島勝茂、寺沢広高
- 元和9年(1623年)4月17日仙台発、上野小山で逗留し、25日江戸着。
- 元和9年(1623年)6月政宗、秀忠・家光の上洛に扈従し、上洛。政宗、院より香及び屏風を賜う。この時、保春院義姫の喪中であったため参内はしていない。
陸奥仙台城主伊達政宗、上洛せるに依り、中務少輔土御門泰重を遣し、新彫皇朝類苑を賜ふ、
陸奥仙台城主伊達政宗、中務少輔土御門泰重に就きて、禁中及び中和門院御所に物を献ず、
陸奥仙台城主伊達政宗、乗馬を叡覧に供す
- 元和9年(1623年)11月21日大御所秀忠の御成。新築の数寄屋で点茶を献ず。※寛政重脩諸家譜では12月10日。
秀忠、陸奥仙台城主伊達政宗の江戸の亭に臨む、
- 寛永元年(1624年)2月17日将軍家光、初めての御成。
家光、陸奥仙台城主伊達政宗の江戸の亭に臨む、
- 寛永元年(1624年)6月23日、世子忠宗は越前守に転任。侍従如元。
廿三日松平美作守忠宗に。外にも美作を稱する者數多あれば。越前守に改むべしとの仰有て忠宗に御刀を給ふ。父宰相政宗是れを謝して料紙六匣献じ。 大御所御内書を給ふ。
- 寛永2年(1625年)4月11日、政宗仙台発つ。
- 寛永2年(1625年)4月24日、世子忠宗仙台に初入部。秀忠より貞宗の脇指、家光より保昌五郎の御刀賜う。
幕府、陸奥仙台城主伊達政宗の嗣子忠宗に、初めて入国の暇を与ふ、
- 寛永2年(1625年)5月22日、政宗は日光東照宮参拝。
陸奥仙台城主伊達政宗、下野日光山東照社に参詣す、
- 寛永2年(1625年)9月20日、これより前に常陸龍ケ崎に赴き、江戸に向かっている時、鉄砲で雁を二羽撃ち、将軍に献上した所、一羽を賜った。
- 寛永2年(1625年)10月10日江戸城西の丸で茶会。
秀忠、陸奥仙台城主伊達政宗を江戸城西丸に召し、之を饗す、
- 寛永2年(1625年)11月15日、江戸城西の丸に登り、しばらく密議あり。酒井雅楽頭忠世、土井利勝も加えられる。のち放鷹すべしと鷹三居を賜い、久喜に赴く。
- 寛永3年(1626年)7月6日秀忠・家光の上洛に扈従し上洛する。
陸奥仙台城主伊達政宗、京都に滞在す、是日、中務少輔土御門泰重に頼りて物を献ず、
(7月20日)勅使権大納言転法輪三条公広を遣し、陸奥仙台城主伊達政宗に掛香を賜ふ、
(7月24日)陸奥仙台城主伊達政宗、京都の旅亭に関白近衛信尋等を饗す、十炮香あり、
(8月10日)八条宮智仁親王、陸奥仙台城主伊達政宗の京都の旅館に臨ませらる、
(8月27日)陸奥仙台城主伊達政宗、中務少輔土御門泰重に頼りて、古今和歌集及び和漢朗詠集を叡覧に供す、是日、泰重を遣し、之に御物古筆手鑑・伏見天皇宸翰琵琶引等を拝見せしめらる、
(10月10日)陸奥仙台城主伊達政宗、京都の旅館に、関白近衛信尋を饗す、
- 寛永3年(1626年)8月19日、政宗は従三位・権中納言に叙任。世子忠宗は従四位下に叙され、左近衛権少将に転任。越前守如元。
駿河駿府城主権中納言従三位徳川忠長・尾張名古屋城主同徳川義直・紀伊和歌山城主同徳川頼宣を並に権大納言に任じ、従二位に叙し、常陸水戸城主参議徳川頼房・加賀金沢城主同前田利光「利常」・陸奥仙台城主同伊達政宗・薩摩鹿児島城主同島津家久を並に権中納言に任じ、従三位に叙し、越前北荘城主侍従松平忠昌・備前岡山城主同池田忠雄・陸奥会津若松城主同蒲生忠郷を並に参議に任じ、正四位下に叙す、其他諸大名の任叙、差あり、
- 寛永4年(1627年)2月23日若林への屋敷普請の許可が出る。
幕府、陸奥仙台城主伊達政宗の、同城附近若林に屋敷を普請せんとするを許す、
- 寛永4年(1627年)4月8日、萬助(亀千代・万千代。後の光宗。早世)誕生。
- 寛永4年(1627年)12月14日、政宗江戸へ発つ。
- 寛永5年(1628年)正月19日江戸城西の丸で点茶を賜う。
- 寛永5年(1628年)3月12日大御所秀忠御成、26日将軍家光の御成。
家光、陸奥仙台城主伊達政宗の江戸の亭に臨む、
- 寛永5年(1628年)10月25日帰国の暇を賜う。
幕府、陸奥仙台城主伊達政宗・出羽米沢城主上杉定勝に、帰国の暇を与ふ、
- 寛永6年(1629年)2月家光疱瘡の患いと聞き21日仙台発。郡山まで来た所、すでに快癒と聞き、仙台へ戻る。
- 寛永7年(1630年)4月6日、将軍家光御成。11日に大御所秀忠御成。
家光、陸奥仙台城主伊達政宗の江戸の亭に臨む、
- 寛永7年(1630年)4月9日大御所秀忠、江戸城西の丸で茶会。14日も。
(4月9日)秀忠、家光を江戸城西丸に招きて、茶宴を饗す、尋で、陸奥仙台城主伊達政宗・薩摩鹿児島城主島津家久等を招く、
(4月14日)秀忠、江戸城西丸に陸奥仙台城主伊達政宗・薩摩鹿児島城主島津家久・出羽久保田城主佐竹義宣・同国米沢城主上杉定勝等を招き茶を饗す、明日、又、諸大名を招く、
- 寛永7年(1630年)4月11日、大御所秀忠御成。
秀忠、陸奥仙台城主伊達政宗の江戸の亭に臨む、
- 寛永7年(1630年)10月3日大御所秀忠、江戸城西の丸で茶会。
秀忠、家光を江戸城西丸に招き、口切の茶会を設く、尋で、陸奥仙台城主伊達政宗・薩摩鹿児島城主島津家久等を招く、
- 寛永7年(1630年)11月13日、政宗に帰国の暇を賜う。
- 寛永8年(1631年)8月、秀忠不予の報を聞き、21日仙台を発ち喜連川まで来たところで全快の報を聞き仙台へ戻る。
- 寛永9年(1632年)2月13日、世子忠宗仙台に入部。10月1日仙台を発つ。
幕府、陸奥仙台城主伊達政宗の嗣子忠宗に、帰国の暇を与ふ、尋で、忠宗、江戸を発す、
陸奥仙台城主伊達政宗の嗣子忠宗、江戸に参覲せんとし、発足す、
- 寛永9年(1632年)10月1日忠宗、仙台を発つ。
陸奥仙台城主伊達政宗の嗣子忠宗、江戸に参覲せんとし、発足す、
- 寛永11年(1634年)4月3日、将軍家光より立花宗茂と共に召されて点茶を賜う。
- 寛永11年(1634年)6月家光上洛に供奉して上洛。7月18日参内。
- 寛永11年(1634年)8月2日近江國蒲生・野洲二郡のうち五千石を拝領。4日陸奥で60万石、常陸近江両国で1万5千石、あわせて61万石の領地判物を拝領する。先の新恩地とあわせて62万石。
- 寛永11年(1634年)8月19日京都を発ち、9月4日江戸着。
- 寛永12年(1635年)正月16日政宗、家光に伽羅木柴舟を献上。28日茶会。
(1月16日)陸奥仙台城主伊達政宗、家光に、伽羅木柴舟を進む、
(1月28日)陸奥仙台城主伊達政宗、請ふて、茶会を江戸城二ノ丸数寄屋に設け、家光を饗す、家光、為めに猿楽を張り、又、政宗の小性の演ずる舞踏を覧る、
- 寛永12年(1635年)正月28日江戸城西の丸にて茶を賜う。丹羽長重、毛利秀元、道三法印ら陪席。侘助肩付を拝領する。政宗も久国の脇指を献上する。
- 寛永12年(1635年)3月13日、政宗公家衆を招く。
- 寛永12年(1635年)6月27日、政宗に帰国の暇を賜う。当麻の刀を拝領。
幕府、陸奥仙台城主伊達政宗に、帰国の暇を給し、物を与ふ、
- 寛永12年(1635年)7月12日類焼。
薩摩鹿児島城主島津家久の江戸の亭、火を失し、日比谷門及び陸奥仙台城主伊達政宗の亭以下に延焼す、
- 寛永13年(1636年)4月18日、政宗は仙台にて経ヶ峰に杖を立て、「死後はここに埋葬せよ」と言ったという。現在瑞鳳殿が建つ。19日茂庭岩見綱元宅。20日江戸参覲すべく若林を発駕。21日福島。22日郡山。23日矢吹の原。24日船生。25日今市。日光参拝。26日梅宮。27日久喜。28日江戸着。※火事以後、新邸初めての移徙。
- 寛永13年(1636年)5月1日登城。2日家光は侍医半井成近をして政宗を見舞わせている。3日~7日まで半井驢庵の薬を服用する。8日武田道安の薬を服用する。13日酒井忠勝、柳生宗矩を上使として見舞い。16日今大路道三の薬を服用する。20日土井利勝、酒井忠勝の見舞い。明日の家光御成について相談。21日家光、政宗邸に見舞いに訪れる。
是日、家光品川別殿に遊ひ遂に親しく其邸に臨て病を視る
未刻比御成り有るべしと御内意に付て、午刻比又御行水、御髪を結せらる。昨夜より御気を遣はせらるに就て御□れも彌見へ玉ふ故に、醫師等皆御行水も止させらるへき由、申上けれとも、用ひ玉はす、御髪なと殊に念を入るへき旨仰付けられ、浅葱の御袴の上に、御帷子御上下を召され、待居玉ふ。午下刻公方御成り、御座間へ御入り、二重畳に御着座、古川侍従利勝朝臣、柳生但馬守殿公の左右の御手をひかせられ、若狭侍従殿は御背より御抱ありて、稍く御前へ御出、御目見あり、公方御座を立ち玉ひ、公の側近く寄せられ、病体聞召し及はれしよりは能く思召さる、養生肝要なり、頗て本復たるべし、祝儀の数寄に入らせらるへし、何にても用事有らは、申上へきの由御懇の上意なり、何やらん問せらるゝ御事共稍程ありて家老の者を召せ小十郎は無きかと御諚あれは石母田大膳宗頼、中島監物貞成、片倉小十郎重綱、佐々若狭元綱罷り出つ、何れも気詰めたるへし、養生唯今安陽の旨上意あり、(略)
還御の時は右の輩御門外へ罷出伺候す。因て御駕の時より家老者者共欤、養生肝要なるの旨上意あり
【2代伊達忠宗】
- 寛永13年(1636年)5月24日、父政宗の死去にともない、忠宗が家督を相続する。26日封地賜る旨の伝達。
陸奥仙台城主権中納言従三位伊達政宗薨ず、子忠宗嗣ぐ、家臣十五人、殉死す、
- 寛永13年(1636年)8月10日、忠宗藩主として初めての帰国の暇を賜う。守家の太刀拝領。仙台に初入部。
- 寛永15年(1638年)12月6日、家光茶会を催し、諸大名を迎える。
家光、越前福井城主松平忠昌・越後高田城主松平光長・出羽米沢城主上杉定勝・陸奥会津若松城主加藤明成・越前大野城主松平直基を、江戸城二ノ丸に召して、茶会を与ふ、明日、亦、陸奥仙台城主伊達忠宗、・薩摩鹿児島城主島津光久等を召し、茶会を与ふ、
- 寛永16年(1639年)4月14日、忠宗は陸奥守を兼任、越前守任替。また光宗元服し、従五位下・越前守に叙任され、将軍家光より偏諱を賜って光宗を名乗る。※光宗は、家光とは従兄弟にあたる。
家光、陸奥仙台城主伊達忠宗の子万助に、偏諱を与へ光宗と称せしめ、忠宗を陸奥守に、光宗を越前守に任ず、
- 寛永17年(1640年)8月8日、巳之介(後の3代綱宗)誕生。
- 寛永20年(1643年)、光宗は官位を従四位下、侍従に進められた。
- 正保元年(1644年)10月、光宗、仙台に初入部。
- 正保2年(1645年)2月、光宗は日光に参詣した上で江戸参覲。
- 正保2年(1645年)9月、光宗死去。享年19。これにより綱宗が世子となる。
- 承応3年(1654年)12月22日、藤十郎(後の綱宗)元服し偏諱を賜い綱宗と称す。従四位下・侍従に叙任され、美作守を兼任する。備前正恒を拝領する。
朝、御下屋敷に於て嗣君御元服にて公御髪をはさみ進せられ、(略)公より御腰物景秀を進せらる、嗣君より御腰物無銘進上し玉ふ。(略)巳刻父子君御登城、公方へ御目見、御一字の御折紙御頂戴、御諱綱宗と称せられ、従四位下侍従兼美作守に任叙玉ふ時に御年十五歳なり。御腰物備前正恒を賜ふ。嗣君より御太刀吉家馬代白銀五百枚時服二十御献上、公より太刀馬代綿二百把献上し玉ふ。
戊寅、家綱、仙臺城主伊達忠宗の子藤十郎を召て、首服を加へ、偏諱及松平氏を賜ふ、
吉宗の御太刀献之 ※誤字か
銀子五百枚 献上松平美作守
御小袖廿
御太刀吉家代十五枚 献上松平陸奥守廿七日、水戸中納言殿頼房卿、同御子中将殿光圀卿御同道御見廻あり、饗せらる嗣君へ御腰物を進せらる
- 万治元年(1658年)7月12日忠宗死去。享年60。
丁未、仙臺城主伊達忠宗、卒す、子綱宗嗣く、
【3代伊達綱宗】
- 万治元年(1658年)7月、父の死に伴い、綱宗が家督を継ぐ。従四位下。左近衛権少将。陸奥守。美作守。
- 万治2年(1659年)6月後西天皇より、「陸奥新藤五」を賜る。
内旨、仙臺城主伊達綱宗に刀剱及ひ黄金を賜ひ、其就封を慶す、
去月禁中より公へ下し賜る處の御太刀新藤五國光、御馬代黄金十両御目録相副持参差上げ御目録左に載す
御太刀國光 一腰
御馬黄金十両 一匹萬治二年六月
後西院天皇賜伊達綱宗御太刀御馬目録
御太刀國光 一腰
御馬黄金十両 一疋
已上
これは、2代藩主伊達忠宗の側室で伊達綱宗母である貝姫の実姉が櫛笥隆子であり、その隆子が後西天皇の生母逢春門院という関係(つまり従兄弟にあたる)で贈られたもの。
後西天皇の諡号は、第53代淳和天皇の異称「西院帝」に倣って「後西院」と追号されたもの(加後号)。明治に入ってから院号で呼ばれていた天皇に天皇号を贈ることになり、「後西院天皇」とされた。さらに後、大正14年(1925年)には「~天皇」「~院天皇」と一定していなかった追号から一律に院の字を廃することとなり「後西天皇」となった。
- 万治2年(1659年)3月8日に綱宗の嫡男亀千代丸(後の4代綱村)誕生。
- 万治3年(1660年)7月18日、綱宗21歳で隠居となる。
【4代伊達綱村】
- 万治3年(1660年)、父の隠居に伴い家督を継ぐ。
- 万治4年(1661年)2月4日、家光のころに家光三男の甲府中納言綱重へ与えられることとなり、愛宕下の藩邸地を拝領した。※寛文への改元は4月25日
仙台城主伊達亀千代の桜田邸を転換して、松平綱重に与へ、
一、松平亀千代綱村上屋敷被召上之代地ハ追て可被下之、先作事料銀千貫目被下之旨被仰出候趣、伊達兵部大輔宗勝と田村右京亮宗良に老中傳之
甲府家は綱重、綱豊の2代続いたが、のち綱豊が6代将軍家宣となったため、屋敷地は上地とされた。
- 伊達家では麻布を代地とした。
仙台城主伊達亀千代桜田邸の代地を麻布に賜ふ。外に是日、邸地の転換給賜あり。
- しかし麻布は遠かったため、伊達家では芝口屋敷(汐留)を本邸とした。
- 明暦の大火では、桜田、麻布白金、濱、愛宕下の4ヶ所が焼けたという。
明治後
- 現在の日比谷公園の北東エリアで、東西が公園内の庭球場東端~心字池西岸まで、南北は日比谷掘沿いから野外小音楽堂付近まで。
- 2016年、仙台市により公園の東に「伊達政宗終焉の地」の説明サインが設置された。
ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。
(略)
政宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。
愛宕下中屋敷
芝愛宕下
1万842坪
万治4年(1661年)~
- 本屋敷。
- 万治4年(1661年)2月4日、外桜田の替地として拝領。
元中屋敷ナリ。寛延以降貞享迄各武鑑上屋敷ニ作ル。元禄以来再ビ中屋敷ニ復ス。
- 延宝3年(1675年)9月1日、伊達騒動後に伊達宗勝は土佐に流され、その屋敷は綱村が拝領した。
仙台城主伊達綱村に、伊達宗勝元屋鋪を賜ふ
- この後、芝口(汐留)を本邸とした。
明治後
- 明治2年(1869年)に一橋家へと下賜されている。
二年正月廿ニ日
愛宕下伊達陸奥上邸ヲ一橋大納言ニ下賜ス。
一橋大納言へ達
愛宕下伊達陸奥上ヶ屋敷家作共下賜候事。東官。
- 廃藩置県後、東京在住を命じられると、願い出て拝領している。
邸拝領願之事
愛宕下邸壱万八百四拾弐坪之内五千坪私邸トシテ下賜、残五千八百拾弐坪、藏地面トシテ拝借相済候間、相当之地代可致上納旨、当未明治四年三月御達ニ御座候所、同所之儀ハ従前三方表長屋ニテ一纏ニ相成居、区分仕候テハ都合不宜、尤、今般華族引續定府仕候ニ付、追々家作造営永住之見込ニ御座候間、別紙絵図面略朱引之分、第二大区小三区兵隊屯所弐百拾壱坪弐分五厘ヲ除之外、五千六百三拾坪七分五厘之所、私邸ニ拝領被仰付候様奉願候。前々懇願仕置候趣フモ御洞察、出格之御詮議ヲ以、如願被下度奉存候。以上。
第二大区小三区華族非役
従五位 伊達宗基
辛未明治四年十二月廿三日
東京府御中
- 翌5年正月に、願いどおり拝領地となった。
- 現在その面影はないが、元屋敷地の北側には関東大震災復興後に伊達興宗伯爵が400坪の土地を寄付してできた塩釜公園がある。公園の奥には、新橋鹽竈神社が残る。
- 港区公式ホームページ/塩釜公園
公園の沿革
新橋の人々に親しまれているこの公園は、昭和5年東京で唯一の町立公園として開園しました。それまでは仙台藩伊達家の所有でしたが、関東大震災復興後、町民が憩える公園をつくろうという計画を伊達興宗伯が聞き約400坪の敷地を愛宕下町会に寄付したものです。その後、昭和47年に区立公園となりました。
- 港区公式ホームページ/塩釜公園
山下門内中屋敷
山下門内
7836坪
~明暦3年(1657年)
- 中屋敷
- 拝領年月不明。
- 寛永ごろ松平越後守邸、承応ごろ松平陸奥守中屋敷。
- 明暦3年(1657年)5月14日上地。
- 上地後、本多越前守、土岐山城守に被下。
芝口上屋敷
汐留(芝口3丁目)海手
2万5819坪
寛永18年(1641年)~
- 濱屋敷。
- 当初下屋敷、延宝4年(1676年)以後は上屋敷となる。
- 寛永18年(1641年)5月25日、増上寺火災を受け、当地を拝領し移転してきた。
増上寺安国殿警火のため、伊達陸奥守「伊達忠宗」・鍋島信濃守「鍋島勝茂」の別業、及び邑主久留島丹波守「久留島通春」邸を外に移す、
寛永十八年五月廿六日、江戸に於て阿部対馬守殿重次宅へ久世久左衛門を召し出され、公の御下屋敷召上らるの旨、仰渡さる。
- 明暦の大火後に上屋敷となり、幕末まで続いた。
明治後
- 収公され、新橋停車場となる。東京駅開業後は汐留駅。
- 現在は日本テレビ放送網株式会社の本社ビル敷地(汐留シオサイト)となっており、日本テレビタワー北玄関およびゼロスタ広場に仙台市による標識板が設置されている。
「江戸時代の仙台藩上屋敷表門跡」
ここは、汐留遺跡の発掘調査によって、仙台藩上屋敷の表門の遺構が発見された場所である。
寛永十八年(一六四一)に設けた屋敷は、当初下屋敷として用いられたが、延宝四年(一六七六)には上屋敷となり、以後幕末まで仙台藩の江戸における拠点となった。
仙台市
日本テレビ
高輪台下屋敷
高輪台
- 明暦3年(1657年)5月14日、山下門内中屋敷の代地として拝領。
麻布下屋敷
麻布
2万6千坪
- 麻布白金邸
- 万治4年(1661年)3月5日外桜田上屋敷邸の替地として麻布を拝領。
仙台城主伊達亀千代桜田邸の代地を麻布に賜ふ。外に是日、邸地の転換給賜あり。
一、 松平亀千代
右屋敷之代り、於麻布貳萬六千坪被下宗、伊達兵部少輔、田村右京亮に傳之
- 4代綱村は隠居後この麻布屋敷に住んだ。
明治後
- 現在は駐日韓国大使館。
品川下屋敷
品川大井
2134坪
- 品川別業、大井下屋敷
- 現在の品川区東大井4丁目。
【2代伊達忠宗】
- 2代藩主伊達忠宗の時、万治元年(1658年)に麻布の屋敷地を返上し、代わりにこの地の2万坪を拝領した。
- 明暦4年(1658年)5月16日、
仙台城主伊達忠宗・福井城主松平光通・和歌山城主徳川頼宣子松平頼純、其他邸宅を賜ふ
十六日、屋敷地拝領面々、
品川クヌキ林 松平陸奥守内、伊達忠宗は、麻布下屋敷藥園に近く、一朝火を失せむ乎延焼するの處有るより、請ふて荏原郡大井村に替地したる也
萬治元年四月十三日、最前御拝領の浅府御屋敷、御藥園へ近きに就て、遠慮し玉ひ指上られ、代りの御屋敷に品川のクヌキ林の臺後に品川近所樟原、大井ともありを賜りたき旨、久世大和守広之・太田備中守資宗に託す。五月十九日嗣君綱村へ御返書進せらる。其略に曰く、去十六日申の下刻之次樋百朔十八日丑之中刻参着、然者、浅府下屋敷之爲替地品川近所樟原拝領申之由忝仕合候云々。
忠宗
松平美作守殿綱宗
【3代伊達綱宗】
- 同年7月12日に忠宗は死去、享年60。家督は伊達綱宗が継いだ。
- 万治3年(1660年)2月1日綱宗、江戸城の堀の拡張を命じられる。
仙台城主伊達綱宗をして牛込和泉橋間の舟入堀を拡鑿せしむ。普請奉行永井直元・喜多見重俊・城朝茂・本郷長泰、之を監す
- 万治3年(1660年)7月18日、綱宗逼塞を命じられる。家督は嫡子亀千代(綱村)が継いだ。
幕府仙台城主伊達綱宗の素行修らさるを責めて逼塞せしむ
(8月25日)戊申、幕府、仙臺城主伊達綱宗に致仕を命し、其子綱村をして襲封し、親族伊達宗勝・田村宗良、之を輔けしむ、仍りて其封地六万石を割き、宗勝・宗良に各三万石を賜ひ、使番津田正重・柘植正直を遣して之を監せしむ、
- 隠居した綱宗は、この品川屋敷に永蟄居処分となり、その後正徳元年(1711年)6月4日に72歳で亡くなるまで、この品川屋敷にて50年余りを過ごし、正徳元年(1711年)に死去。
- 寛文元年(1661年)8月25日、次男鶴千代(後の伊達村和)誕生。
寛文11年(1671年)には伯父で岩沼藩初代藩主田村宗良を烏帽子親として元服し、田村顕孝と名乗っている。のち水沢伊達氏5代から中津山藩主。
- 元禄16年(1703年)8月25日、綱村隠居。養嗣子で従弟の吉村が跡を継いだ。
戊戌、伊達綱村、致仕す
- 享保4年(1719年)6月20日綱村死去、享年61。
- 宝永4年(1707年)7月6日拡張。
仙台城主伊達吉村(松平陸奥守)用邸、後背の地を還上し、品川別墅接続地に賜ふ
- 正徳元年(1711年)6月4日、綱宗死去。遺体は仙台に運ばれ、政宗・忠宗の眠る経ヶ峯に葬られた。
- 5代藩主伊達吉村の時、大井村の下屋敷の一部1万6千坪余りと、上大崎村の越前鯖江藩間部家の所有していた下屋敷「大崎屋敷」との交換(切坪相対替)が行われた。
- 仙台藩では品川屋敷地の残りの土地を物資の集積所として利用しており、後に味噌醸造施設を設け、藩士の食用とした他、一部を仙台味噌として売り出した。
明治後
- 明治維新後に収公。一部が伊達伯爵邸として第二次大戦後まで残り、その後昭和26年(1951年)に仙台育英会が東京都より借り受け奨学金事業を行った。昭和59年(1984年)返還。
- 伊達家では味噌醸造のほか質業を営んでいたが、このうち質業は遠藤敬止及び佐藤三之助に、また味噌醸造は八木家に移譲される。味噌醸造を継いだ八木家は、明治35年(1902年)7月に「八木合名会社仙台味噌醸造所」となり現在に至る。
- 「仙台坂のタブノキ」が品川区の指定天然記念物となっている。平成23年5月31日指定。
大崎下屋敷
大崎袖ヶ崎
1万6680坪+抱屋敷5990坪
- 袖ケ崎屋敷。
- のち旧島津公爵邸。現在清泉女子大学本館。
- 5代藩主伊達吉村の時、元文2年(1737年)に切坪相対替により入手した屋敷地。間部若狭守下大崎拝領屋敷。
- 寛保3年(1743年)に吉村が62歳で隠居した際には、屋敷の続き地約6千坪を得て2万2千坪を超える広さとなっていた。
家督は伊達宗村が継いでいる。伊達吉村は宝暦元年(1751年)72歳で没。
明治後
- 明治維新後には島津公爵家島津忠重の屋敷となる。さらに昭和37年(1962年)には清泉女子大学のキャンパスとなっている。島津公爵邸があったことにちなみ、この一帯の高台は島津山と呼ばれている。
- 当初島津公爵家では伊達藩邸の屋敷を使用していたが、老朽化したため大正4年(1915年)にイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計の建物に改築された。大正6年(1917年)完成。この島津家本邸は2012年3月に「旧島津公爵家袖ヶ崎本邸洋館」として東京都指定有形文化財(建造物)に指定され、旧事務棟(現3号館)は、設計施工が同時期と推察され、コンドルの邸宅以外の建物として貴重であることから附指定されていた。
- 清泉女子大学の本館は、この島津公爵邸時代に建て替えられたイタリア・ルネサンス様式の洋館が使われている。
- またキャンパスの奥庭には、幹周りおよそ3メートル、高さ20メートル、樹齢およそ250年と推定されるフウの木(楓)が植栽されている。これは旧仙台藩の藩邸時代から島津公爵邸の時代を経て今日に至るもので、品川区指定天然記念物。
- 2019年12月27日、清泉女子大学の本館および3号館が、「旧島津家本邸 本館及び事務所」として国の重要文化財に指定された。
旧島津家本邸 本館・事務所
附・塀(本館附)
その他
- 深川
- 蔵屋敷。5396坪。10万俵分もの米倉を設置していた。元禄11年(1698年)から。政宗以来、仙台藩では積極的に新田開発を続けたことにより、表高62万石のところ江戸中期には実高100万石を越えた。仙台藩の米は「本穀米」(本石米)と呼ばれ、一説に江戸の米消費量の1/4~1/3を賄ったという。
- 千住小塚原
- 下屋敷。安政5年(1858年)3月15日に、曲渕美濃守屋敷地2400坪を相対替で入手。
- 麻布竹谷
- 下屋敷。寛文元年(1661年)3月5日6000坪拝領。外桜田上屋敷の代地。享保8年(1723年)5月に一部上地、安政5年(1858年)3月15日に切坪相対替。殘坪2万1193坪。
- 木挽町
- 下屋敷。天保11年(1840年)6月19日相対替で入手。本多豊前守下屋敷。2025坪。
- 宇田川町
- 陸奥一関藩の藩主伊達宗勝(伊達兵部)の下屋敷。2500坪。伊達騒動後に土佐に流されたため、仙台藩下屋敷となった。のち麻布六本木屋敷と相対替。
- 麻布六本木
- 下屋敷。元禄8年(1695年)6月に綱村弟の伊達村和の分封の許しが出た際に拝領した屋敷。のち深川屋敷と相対替。のち1700坪は三枝土佐守、4316坪は酒井下野守へと渡った。
幕府、仙台城主伊達綱村弟村和分封を允許す
元禄八年乙亥年七月二日麻布六本木下屋敷六千坪餘、芝生田川町仙臺侯御屋敷二千五百坪ト相対替願済。
伊達村和は、はじめ陸奥国仙台藩一門第三席・水沢伊達氏5代(留守氏22代)当主伊達顕孝となり、ついで新設された陸奥国中津山藩主伊達村任となるも、わずか4年で改易された。
- 今戸町
- 明治初期に伊達宗城邸があり、明治6年(1873年)12月19日に三條別邸行幸の途次、臨御の上で御製を賜わったという。現在隅田公園。
※三条実美邸「対鴎荘」は今戸町橋場(現、台東区橋場2丁目1)にあった。この時期三条は、征韓論で板挟みとなり人事不省状態で療養中であった。対鴎荘は昭和3年(1928年)に多摩聖蹟記念館へと移築されたが現存しない。いつみてもあかぬけしきは隅田川 なみちの花は冬も咲きつゝ
宇和島木挽町屋敷
- 天和元年(1681年)10月25日宇和島藩主の伊達宗利は、松平光長の木挽町の屋敷地を拝領する。旧上屋敷は松平豊前守信庸へ下賜された。
宇和島城主伊達宗利・前高田城主松平光長、木挽町邸を賜ひ、篠山城主松平信庸、宗利邸を賜ふ。信庸邸は之を上収す
関連項目
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