諡号
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諡号(しごう)
- 諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。
- 日本の天皇の崩御後の称号には、諡号と追号の別があり、諡号は高貴な人や高徳の人の死後におくる美称であり、追号は宮号や陵名などを用いる。諡号として国風諡号・漢風諡号の2種類がある。このうち、国風諡号は日本特有のもので、和風諡号・国語諡・本朝様諡等の別称がある。
和風諡号
- 和風諡号(国風諡号)を奉る制度は、記録に残る限り、41代持統天皇以来、先帝の崩御後に行われる葬送儀礼=殯(もがり)の一環として行われてきた。
- その殯の場では、先帝の血筋が正しく継承されたものであることやその正統性を称揚するとともに、併せて先帝に和風諡号を贈った。持統天皇から平安時代前期の54代仁明天皇まで追贈された。
途中、当時は廃帝とされた47代淳仁天皇と唐風文化を愛した52代嵯峨天皇には和風諡号らしきものはない。46代孝謙天皇(重祚して48代称徳天皇)は、「高野姫天皇」「倭根子天皇」と呼ばれた例はあるが、いずれも和風諡号ではない。 - 初代神武天皇「神日本磐余彦」(かむやまといわれひこ)から40代天武天皇「天渟中原瀛真人」(あめのぬなはらおきのまひと)までの名も、慣例的に和風諡号と呼んでいるが、必ずしも実際に諡号だったわけではない。特に15代応神天皇から26代継体天皇までの名は、22代清寧天皇を除き多くの研究者により諱(いみな=実名)と考えられている。したがって和風諡号の制度ができたのは、その後である(制度として確実なのは持統天皇が最初である。それより前、27代安閑天皇以降、29代欽明天皇の崩御時と考える説もある)。
漢風諡号
- 8世紀半ばに成立した『釈日本紀』に引用された「私記」に、「師説」として初代神武以下の諡号は淡海三船の撰とある。
私記曰、師説、神武等諡名者、淡海御船奉勅撰也
(釈日本紀)
- そのため、神武天皇から41代持統天皇まで(当時天皇に数えられていなかった大友皇子=39代弘文天皇を除く)、及び43代元明・44代元正天皇の諡号は、淡海三船によって天平宝字6年(762年)~同8年(764年)に一括撰進されたと想像されているが、天平勝宝3年(752年)の『懐風藻』には「文武天皇」(42代)と見えており、また天平宝字2年(758年)に「聖武天皇」(45代)に「勝宝感神聖武皇帝」、孝謙天皇(46・48代)に「宝字称徳孝謙皇帝」を諡した事例があるなど、別の基準もあったことがわかっている。
- 「弘文天皇」は天皇と認められた明治3年(1870年)の撰進である。
- 漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。
いずれも怨霊を恐れられたゆえに「徳」の字を奉られた。なお、讃岐院、隠岐院、佐渡院はもちろん諡号ではない。 - 江戸時代後期の光格天皇の時に漢風諡号が復活し、仁孝天皇、孝明天皇の3代を数えた。また明治時代には、淡路廃帝を47代淳仁天皇、九条廃帝を85代仲恭天皇とし、大友皇子を即位したものとして39代弘文天皇とし(→大友皇子即位説)、さらに大正時代には、南朝の寛成親王の即位の事実が判明したとして98代長慶天皇とした。
追号
- 国風諡号・漢風諡号が帝王に奉られなくなった後、代わって死後の称号として主流となった追号(ついごう)も、諡の一形態に属するが、厳密に言って正式な諡号ではない。追号には褒貶の義はなく、単なる通称の域を出ない。
- 追号の命名法は、大別すると、地名、皇居の宮名、後院(譲位後の御在所)の名もしくは出家した寺の庵号をもって呼ばれる場合、山陵の名を宛てる場合、加後号といって「後」某院と称する場合、先代の2つの漢風諡号から1字ずつを取って追号とする場合とがある。
院号
- 更に漢風諡号が奉られなくなって以後も、追号に天皇号を用いる慣例はしばらく続いてきたが、冷泉院(正確には先に没した円融院が初例となる)以後は、没後の天皇の追号は院号とされた。これは特に諡号が贈られた安徳天皇を例外として院号が贈られ続けた。
- 「院号」は天皇以外の者でも没後に用いることが出来る称号であるため、江戸時代後期には中井竹山(『草茅危言』)や徳川斉昭によって批判され、諡号復活論へと導かれることとなる。
遺諡
- 遺詔によって自ら決める追号を遺諡と言い、大治4年(1129年)7月の白河院を初めとして後嵯峨・後深草・亀山・後宇多・後伏見・花園・後醍醐・光厳・光明・崇光・後光厳・後円融・後小松・後水尾・霊元の諸帝がいる。
- 遺詔ではなく生前より追号を称した後三条院等の場合もある。
諡号の区分
区分 | 小区分 | 天皇 |
諡号 | 国風諡号 | |
漢風諡号 | ||
追号 | 在所号 | 平城、嵯峨、淳和、清和、陽成、宇多、朱雀、冷泉、円融、花山、一条、三条、白河(遺諡)、堀河、鳥羽、近衛、二条、六条、高倉、土御門、四条、亀山(遺諡)、伏見、花園(遺諡)、長慶、光厳(遺諡)、光明(遺諡)、崇光(遺諡)、正親町、中御門、桜町 |
山稜号 | 醍醐、村上、東山 | |
加後号 | 後一条、後朱雀、後冷泉、後三条(生前より称す)、後白河、後鳥羽、後堀河、後嵯峨(遺諡)、後深草(遺諡・仁明帝異称)、後宇多(遺諡)、後伏見(遺諡)、後二条、後醍醐(遺諡・諡号)、後村上、後亀山、後光厳(遺諡)、後円融(遺諡)、後小松(遺諡・光孝帝異称)、後花園、後土御門、後柏原(桓武帝異称)、後奈良(平城帝異称)、後陽成、後水尾(遺諡・清和帝異称)、後光明、後西(淳和帝異称)、後桜町、後桃園 | |
先代天皇号 | 称光(称徳・光仁)、明正(元明・元正)、霊元(遺諡 孝霊・孝元) | |
元号 | 明治、大正、昭和 |
在所号
- 在所号は、次のように区別することができる
- 地名によるもの…平城
- 在位中の皇居の宮名によるもの…一条・堀河・近衛・二条
- 譲位後の在所によるもの…嵯峨・淳和・清和・陽成・宇多・朱雀・冷泉・三条・白河・鳥羽・六条・高倉・土御門・亀山・伏見・花園・桜町
- 葬家の邸宅を在所に擬したもの…四条
- 在所二條殿の面する町名によるもの…正親町
- 在所に近い宮門によるもの…中御門
- 寺号によるもの…円融・花山・光厳・光明
加後号
- 加後号とは、以前の天皇の諡号に「後」を加えたもので、たとえば後一条天皇は一条天皇から採られている。
- 一部わかりづらいものがあり、後深草の"深草"については深草天皇は存在しないが、これは仁明天皇の異称である深草帝(深草陵にちなむ)から採られたものである。同様に、後小松の"小松"は光孝帝の異称、後柏原の"柏原"は桓武帝の異称、後奈良の"奈良"は平城帝の異称、後水尾の"水尾"は清和帝の異称、後西の"西"は淳和帝の異称(西院)からそれぞれ採られたものである。
参考
- 1.帝謚考 - 国立国会図書館デジタルコレクション インターネット閲覧可能
- 2.帝謚考 - 国立国会図書館デジタルコレクション 送信限定。見やすい
上記1は巻末に「大正辛酉圖書寮付工印止一百本是爲第六拾壱本」となっており、いっぽう2は同「四拾九」となっている。これは大正10年(1921年)に発行した一百本の通し番号とされ、実際にはいずれも大正10年(1921年)刊行ということになる。
歴代天皇以外の天皇・院
追尊天皇
- 薨去の後に天皇の尊号を諡された者である。崇道天皇を除き、薨後にその子が天皇に即位したことによる。
- 岡宮天皇 - 草壁皇子。40代天武天皇の皇太子で、42代文武天皇・44代元正天皇の父。即位前に病没し、「岡宮御宇天皇(おかみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「長岡天皇」とも。
- 崇道尽敬皇帝 - 舎人親王。47代淳仁天皇の父。子の即位により「崇道尽敬皇帝」を追尊。単に「尽敬天皇」とも。
- 春日宮天皇 - 志貴皇子。49代光仁天皇の父。子の即位により「春日宮御宇天皇(かすがのみやにあめのしたしろしめすすめらみこと)」を追尊。「田原天皇」とも。
- 崇道天皇 - 早良親王。50代桓武天皇の弟で廃太子(785年(延暦4年)薨去)。800年(延暦19年)、「崇道天皇」の尊号を受ける。
- 陽光院太上天皇 - 誠仁親王。106代正親町天皇の東宮。即位前に没。太上天皇、院号「陽光院」を追尊。「陽光天皇」とも。
- 慶光天皇 - 閑院宮典仁親王。119代光格天皇の父。1884年(明治17年)、贈太上天皇、諡号「慶光天皇」を追尊。
皇位に就かなかった太上天皇
- 後高倉院 - 守貞親王。86代後堀河天皇の父。皇位を経ずして太上法皇となり院政を執る。皇統譜では「後高倉天皇」。
- 後崇光院 - 伏見宮貞成親王。102代後花園天皇の父。生前に太上天皇尊号宣下、院号「後崇光院」。皇統譜では「後崇光天皇」。
天皇に準ずる立場にあった者
- 蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿 - 大臣。邸宅は「宮門(みかど)」と呼ばれ、子は親王に準じた扱いを受けた。
- 聖徳太子 - 『日本書紀』では「豊聡耳法大王」、「法主王」と記す例がある。『隋書』に記述された俀王多利思比孤は聖徳太子を指すとする説もある。
- 間人皇女 - 34代舒明天皇の皇女、36代孝徳天皇の皇后。37代斉明天皇の崩御後、38代天智天皇即位までの間即位していたとする説がある。『万葉集』の「中皇命(なかつすめらみこと)」は間人皇女のこととされる。
- 敦明親王(小一条院) - 67代三条天皇皇子。1016年(長和5年)、東宮。翌1017年(寛仁元年)東宮を退くも、院号宣下を受け太上天皇に准ずる。
天皇またはそれに准ずる立場を称した者・擁立された者
- 塩焼王 - 天武天皇の孫で、新田部親王の子。天平宝字8年(764年)、恵美押勝の乱で、恵美押勝から「今帝」として擁立される。しかし、朝廷軍の前に恵美押勝軍は敗北、逃走中に捕縛され斬殺される。
- 平将門 - 桓武天皇5世孫。940年(天慶3年)、関東に独立勢力を築き上げ、八幡神の託宣により「新皇」に即位するも同年敗死。
- 恒良親王 - 96代後醍醐天皇の皇子。後醍醐が吉野へ逃れる際に一時的に皇位を譲られるが、南朝の成立により無意味となる。
- 懐良親王 - 後醍醐天皇の皇子。南朝方の征西将軍として九州に勢力を張り、明から倭寇の取り締まりを求められ「日本国王」の冊封を受ける。
- 足利義満 - 室町幕府3代将軍。准三宮(三宮(皇后・皇太后・太皇太后)に準じた待遇)を受ける。以降の将軍も含め、明より「日本国王」の冊封を受ける。没後、太上天皇の宣下を受けるが幕府はこれを辞退する。院号「鹿苑院」。
- 金蔵主(中興天皇) - 後南朝の初代天皇とされる。99代後亀山天皇の孫、小倉宮実仁親王の皇子。諱は尊義。嘉吉3年10月に即位したという。吉野北山に崩御(※ ただしこのことは同時代史料では確認できず、後世の付会である。小倉宮「実仁」なる人物も、101代称光天皇の実名と混同したもので、実際には存在しない)。
- 自天王(尊秀王) - 後南朝の2代天皇。後亀山天皇の曾孫、中興天皇の一宮。諱は尊秀。奥吉野川上にて即位。長禄元年12月、赤松氏の遺臣により暗殺される(※ 長禄の変で南朝の宮と称する兄弟が討たれたのは事実だが、系譜、実名ともに不明であり、ここに書いてあることは後世史料によるもので、信ずるに足りない。但し南帝を称した事は確かである)。
- 南天皇 - 後南朝の3代天皇。後亀山天皇の孫、小倉宮実仁親王の皇子。諱は尊雅。長禄2年8月、赤松家の遺臣により斬られ、その傷が元で熊野の光福寺にて崩ず(※ これもまた後世の伝説によるもので、同時代史料とはあわず、史実ではない)。
- 西陣南帝 - 応仁の乱の際、山名宗全により擁立された南朝皇胤。名は不明。
- 北白川宮能久親王 - 日光輪王寺門跡時代の1868年(明治元年)、奥羽越列藩同盟により「東武皇帝」に推戴されたとの説がある。アメリカ公使が本国に報告しているほか、当時の新聞に同様の記事がある。
明治以降の追号
- 明治以降は、「諡号」ではなく「追号」が贈られる。
- 「明治以降の改元」も参照のこと
明治天皇
- 1912年(明治45年)7月30日に崩御。一時的に「大行天皇(たいこうてんのう)」と呼ばれ、のち「明治天皇」と追号された。
大行天皇ノ追號左ノ通仰出サル
明治天皇
大正元年八月二十七日
宮内大臣 伯爵渡邉千秋
内閣総理大臣 侯爵西園寺公望
(大正元年 告示)追號奉告ノ儀
今二十七日午前九時殯宮ニ於テ追號奉告ノ儀ヲ行ハセラレタリ
(大正元年 大喪彙報)
「大行天皇」とは、崩御した後、追号するまでの一時的な呼称。崩御→皇嗣による践祚→次の天皇による追号の順となるため。
大正天皇
- 大正15年(1926年)12月25日に崩御。一時的に「大行天皇」と呼ばれ、のち「大正天皇」と追号された。
昭和二年一月十九日
大行天皇ノ追號左ノ通勅定アラセラル
大正天皇
昭和二年一月二十日
宮内大臣 一木喜徳郎
内閣総理大臣 若槻禮次郎
(昭和二年 告示)
昭和天皇
- 1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御すると一時的に大行天皇と呼ばれ、その後1月31日追号奉告の儀が執り行われる。その中で「御誄(弔辞)」によって追号が定められた。
明仁謹んで
御父大行天皇の御霊に申し上げます。
大行天皇には、御即位にあたり、国民の安寧と世界の平和を祈念されて昭和と改元され、爾来、皇位におわしますこと六十有余年、ひたすらその実現に御心をお尽くしになりました。
ここに、追号して昭和天皇と申し上げます。
(平成元年1月31日追号奉告の儀 御誄)
平成
- 第125代天皇は、2019年(令和元年)5月1日以降については、天皇の退位等に関する皇室典範特例法第三条にもとづき「上皇(Emperor Emeritus)」の称号を以て呼ばれる。敬称は「上皇陛下(His Majesty the Emperor Emeritus)」。
(上皇)
第三条 前条の規定により退位した天皇は、上皇とする。
2 上皇の敬称は、陛下とする。
3 上皇の身分に関する事項の登録、喪儀及び陵墓については、天皇の例による。
4 上皇に関しては、前二項に規定する事項を除き、皇室典範(第2条、第28条第2項及び第3項並びに第30条第2項を除く。)に定める事項については、皇族の例による。
(天皇の退位等に関する皇室典範特例法第三条)
退位後の称号
- なお過去の歴代上皇の「上皇」が「太上天皇」の略称であるのに対して、第125代天皇の退位後の称号「上皇」は正式な称号である。語源は太上天皇。
- 同日以降の皇后陛下については、「上皇后陛下(Her Majesty the Empress Emerita)」の呼称で呼ばれる。
(上皇后)
第四条 上皇の后は、上皇后とする。
2 上皇后に関しては、皇室典範に定める事項については、皇太后の例による。
儀式・陵墓
- 喪儀及び陵墓の格式については天皇と同様としている。上皇の崩御に当たっては大喪の礼が執行され、天皇陵が造営される。
- その他の事項については皇族の例に倣うとし、皇族の位置付けではあるがその一方、皇位継承権や皇室会議の議員就任権は認められていない。
- 上記特例法第三条4項の除外項目
- 第2条:皇位継承資格
- 第28条第2項及び第3項並びに第30条第2項:皇室会議の議員資格
令和以降の称号について
- 特例法により、令和元年(2019年)5月1日以降の第125代天皇に対する称号は「上皇」、敬称は「陛下」と定められている。つまり通常、上皇お一人を指す場合には、「上皇陛下」(あるいは上皇さま)と記述すれば用は足りる。
- ただし文献などにおいて歴史上の他の上皇と区別する必要がある場合には、「上皇明仁」と記述することが望ましいとされ、「平成」の号については用いないのが一般的である。
元号と追号の関係
- 明治以降の追号について、現在まで三代(明治・大正・昭和)に渡って元号が追号とされてきた歴史がある。
- しかしこの関係性は法的な根拠などがあるわけではないと内閣が回答している。
国務大臣(大平正芳君) 天皇の追号と元号との関係につきましては、制度上は元号が天皇の追号となるというようなルールはないわけでございます。追号は天皇が先帝に対して贈られるものと承知しております。
第87回国会 参議院内閣委員会会議録第14号 22ページ2段目、発言番号148
なおこの見解は大平総理(当時)個人のものではなく、それまでも内閣委員会などで何度も議論になった経緯があり、いわば周知の見解である。
- 実際にはその薨後に現天皇(今上天皇)が前の天皇に元号を追号することで定まる。これには法的なルールなどがあるわけではなく、あくまで現天皇(今上天皇)が前の天皇に贈るものである。
- そのため、生前に元号を付けて呼称することは適当ではなく、避けるべきである。
関連項目
- 「明治以降の改元」
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