長曽祢虎徹(刀工)
虎徹(こてつ)
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虎徹
- 「虎徹」とは、刀工長曽禰興里の入道名であり、作刀した刀剣の銘である。
- 世上名高い初代「虎徹」は、刀工名としては「興里」、あるいは「長曽禰興里」と表記することが最も望ましく、刀剣書などでは興里と表記することも多い。
- 銘字は「虎」の異体字である「乕」を用いて「乕徹」とも書き、「虎徹」に比べ「乕徹」と名乗った期間が長いこと、「乕徹」銘の方が後期作であること、刀剣書などでは「乕徹」と表記されることも多いことを考えると、「虎徹」よりは「乕徹」とするほうが妥当とも考えられるが、一般には「虎徹」で広く膾炙する。
概要
- 長曽禰興里(ながそねおきさと)は、江戸時代の刀工であり甲冑師。
- 興里はもとは甲冑師であったため、刀剣の他に籠手、兜、鍔などの遺作もある。50歳を超えてから刀工に転じ、老いるほどに輝きを増した異色の刀工である。
生涯
- 慶長10年(1605年)ごろに佐和山城下(滋賀県彦根市)に生まれる。幼少期に関ヶ原の戦いがあり、佐和山城が落城したため福井から金沢に逃れた。
長曽根とは元は地名で、現在の彦根城の西側、琵琶湖沿い善利川(芹川 )までの地域を指す(現在のベイシア彦根と国道を挟んで隣接する南西側のエリア)。関ヶ原の戦い後に彦根の地に井伊家が封じられると、この地域の住民は強制的に立ち退かされた。
- 金沢では甲冑の名工として知られた。
- しかし太平の世となって甲冑の需要が減ったためか、50歳を超えてから江戸に移り住み、刀鍛冶に商売替えしている。
- 兜や古釘など古い鉄を溶かして刀を作り、その古鉄の処理に関する自信からか初めは"古鉄入道"と名乗っていたが、その後中国の故事により、"虎徹"と改めたという。
- 虎徹は歳とともに急激な成長を遂げ、寛文の終わり頃から延宝の始めが絶頂期であった。作刀上の師は諸説あるが和泉守兼重とされる。
- 没年については定かではないが、「乕徹の研究」では延宝6年(1678年)6月24日に没したとされる。50歳で刀工に転身後、15年ほどで200振り以上の日本刀を鍛えたという。
銘
- 銘は、はじめ「長曽弥興里」。
- 【略興】:「弥」は作りを"ノ"の下に"小"と書く。また「興」は中を×と略体で切るが、万治初期の頃の略した興を「略興」と呼ぶ。
- 虎徹
- 【古鉄から虎徹】:はじめ「古鉄」としたものがあり、万治以後は「虎徹」銘を切り始める。
- 【跳ね虎】:「虎徹」の虎もはじめ最期の画を上に長く蛇行させており、これを「跳ね虎(ハネ虎)」と呼ぶ。江戸時代に珍重された。
- 【角虎】:さらに寛文4年8月から虎を"乕"と略体で書いたものを「角虎」(ハコ虎)と呼ぶ。
- 【虎徹入道】:晩年になると入道を加えた入道銘を入れ始める。
- 銘の位置
- 承応~明暦3年:目釘孔の左下から「長」の字を切り始める。
- 万治3年~:「長」の第六画が目釘孔に浅くかかる。
- 寛文4年秋頃~:「長」の字の左中央部を孔にかけるものが多い。
評価
- 国の重要文化財に指定された刀をはじめ、文化財に指定されているものが多い。また、当時から人気が高く、江戸後期には世間一般的に言う大名道具、大名差しといわれる代物となっていた。土佐山内氏、尾張徳川家、奥平氏伝来の品、江戸幕府の大老・井伊直弼の差料であった脇差などを見ても分かるように、大名などの上流階級が所蔵する品であった。
- その人気ゆえ、刀剣業界には「虎徹を見たら偽物と思え」という鉄則がある。虎徹は贋作が非常に多いことで有名であり、在銘品(虎徹と銘のある品)のほぼ100%が偽物とさえいわれる。興里の銘は偽銘が切りやすかったのか巧妙な偽名が多く、「虎徹を見たら偽物と思え」とさえいわれたという。
- 寛政11年(1799年)の若水東水の「新刀問答」でも、刀屋に置いてあるのはだいたい偽物とまで書かれている。
當時虎徹が作特の外賞翫す、儥貴きが故に僞物多し、商家に扱ふものは大軆僞物也
(新刀問答)直光(鍛冶平)の當時、法成寺正弘銘の刀が二兩とすれば、虎徹銘の刀は十兩したと云ふ、其處で直光は先づ虎徹の僞銘研究に取り掛かつたのであらうが、夫れも自發的に取掛つたのではない、刀屋からの依頼を受けたので、夫れではと云ふことになつたのである、左様な僞作依頼の刀屋の主なる者の中には神田柳原の尾張屋新助、日本橋の萬六等々があつた。夫等の刀は江戸法成寺物、上総介兼重、出雲大掾吉武、大和守安定、仙臺の安倫等の在銘品を持込んで、先生どうか一つ虎徹に頼みますぜ……と云ふ工合に頼み込んだのである。従つて直光の僞作した虎徹は、銘を潰して切直したものが多い。
(かぢ平真偽押形)
長曽祢虎徹興里著名作
重要文化財
- 刀
- 銘「長曾禰興里入道虎徹」 徳川頼宣所用。紀州徳川家第16代当主徳川頼貞による寄進。昭和3年(1928年)4月4日重要文化財指定。寄進状が附く。紀州東照宮所蔵
- 刀
- 銘「長曾祢興里入道乕徹」 長76.3cm、反り2.1cm。延宝二年作。奥平家伝来。昭和24年(1949年)2月18日重要文化財指定。岡山県個人蔵
- 刀
- 銘「住東叡山忍岡辺長曾禰虎入道/寛文拾一年二月吉祥日」 昭和27年(1952年)3月29日重要文化財指定。森記念秋水美術館所蔵(富山県リードケミカル株式会社所旧蔵品)
重要美術品
- 刀
- 銘「長曾禰興里入道虎徹」昭和16年9月24日重要美術品指定、木村貞造氏所持
- 刀
- 銘「長曾禰興里入道虎徹」昭和14年9月6日重要美術品指定、対馬惣平氏所持
- 刀
- 銘「長曾禰興里入道虎徹/寛文元年山野勘十郎ノ截断銘アリ」。昭和17年(1942年)12月16日重要美術品指定。中野喜唉氏所持。
その他指定品
- 刀
- 銘「長曽祢興里入道乕徹/本国越前住人至半百居住 武州之江戸鍛冶之工精尽」長70.6cm。福井県指定の有形文化財。福井県歴史博物館所蔵
- 刀
- 銘「長曾禰興里入道乕徹」長71cm、反り1.7cm。もと尾張犬山城主成瀬家に伝来したもの。昭和35年4月26日岡山県指定重要文化財。岡山市・個人蔵
- 刀
- 銘「長曽弥興里入道虎徹」 昭和36年(1961年)3月28日静岡県指定文化財。個人蔵
- 短刀
- 銘「乕徹入道興里/彫物同作」。昭和16年(1941年)9月24日重要美術品認定。東京北品川上大崎中丸の金子堅次郎氏蔵 ※三井物産取締役
その他
- 「浦島虎徹」
- 脇差 銘「長曽弥興里/萬治三年十二月日 同作彫之」 長一尺一寸二分。表に浦島太郎、裏は蓮華の上に草の倶利伽羅龍の彫物。因州鳥取藩池田家伝来
- 「石灯籠切虎徹」
- 刀 銘「長曽根興里入道乕徹/石灯篭切」 磨上二尺一寸二分。明治期には細川子爵家の所有
- 「蜂須賀虎徹」
- 刀 銘「長曽弥興里入道虎徹/金象嵌 寛文五年乙巳霜月十一日 弐ツ胴截断 山野加右衛門永久(花押)」 長二尺二寸八分(69.1cm)。阿波徳島藩主蜂須賀家伝来。個人蔵
- 「蓬莱山虎徹」
- 「風雷神虎徹」
- 風神雷神の彫物がある脇差。
- 稲葉虎徹
- 刀 銘「住東叡山忍岡辺/長曽祢虎入道彫物同作」。号は越前福井藩家老の稲葉家所蔵にちなむ。「虎入道」銘は寛文11年(1671年)~延宝5年(1677年)に僅かに見られる。戦後高橋経美氏所持、現在個人蔵
- 刀
- 銘「長曽祢虎徹入道興里/(金象嵌銘)四胴 山野加右衛門六十八歳ニテ截断 于時寛文五年二月廿五日」長70.9cm、反り0.9cm。表に腰樋、裏護摩箸。明治28年(1895年)2月25日山梨県風間伴七献上、旧御物。東京国立博物館所蔵
- 脇指
- 銘「長曽祢興里入道乕徹」長54.2cm、反り0.7cm。彦根藩主13代井伊直弼の差料。粟田口一竿子忠綱の太刀の小刀として指したという。彦根城博物館所蔵
- 刀
- 銘「長曽祢興里入道乕徹」 刃長77.3cm、反り1.3cm。なかご入山形、先切、目釘孔2個。鞘書「長曽祢興里入道乕徹 寛文六年頃 昭和三十三年仲秋再見 寒山再誌 刃長二尺五寸五分余有之」。香川県立ミュージアム所蔵
- 脇差
- 銘「同作彫之長曽祢興里虎徹入道」 万治4年。長47.8cm、反り1.0cm。幕府首切役人の山野加右衛門が二体を両断したという金象嵌裏銘が入る。高松藩家老家に伝来。香川県立ミュージアム所蔵
- 脇指
- 銘「長曽禰興里入道乕徹」 刃長59.2cm、反り0.8cm。栗尻、目釘孔1個。鞘書「長曽祢興里入道乕徹 刃長一尺九寸五分 昭和甲午初夏寒山誌」。香川県立ミュージアム所蔵
- 太刀
- 銘「住東叡山忍岡辺 長曾祢興里作/延宝二年六月吉祥日」日本美術刀剣保存協会所蔵
- 脇差
- 貞享元年(1684年)に若年寄の稲葉正休が大老堀田正俊を刃傷した際に用いた刀。初代虎徹。日蓮宗報恩山宗延寺所蔵(寺宝)
ただし伝承によれば正休は美濃関兼房を使ったとされている。事件の際に正休を斃した功により秋元家(秋元喬知か)が長曽根與重入道虎徹を拝領しており、これが伝わったのではないかと思われる。
- 脇差
- 銘「同作彫之 長曽祢興里/寛文八年十二月吉日」目釘孔1個。
- 脇指
- 銘「長曽根興里/真鍛作」刃長一尺七寸。津軽義孝伯爵所持
- 「弘化三年十二月六日乳割土壇払」一尺六寸八分
- 金象嵌「一三重二つ胴土段迄、山野加右衛門永久」二尺三寸
- 金象嵌「寛文五年二月廿五日四つ胴截断山野加右衛門六十八歳永久花押」二尺三寸三分
- 金象嵌「万治二年亥十月廿三日二つ胴切落山野加右衛門永久花押」一尺五寸
- 金象嵌「寛文五年三月六日二つ胴并両車截断山野加右衛門永久花押」二尺二寸九分、昇龍、降龍
- 金象嵌「延宝二年八月廿九日二つ胴截断山野勘十郎久英花押」二尺三寸六分
- 金象嵌「万治四年卯月十九日三つ胴切落山野勘十郎成久」二尺三寸五分
- 金象嵌「寛文五年十二月廿二日脇毛二つ胴切落重所三、寛文七年三月廿六日三つ胴切落 山野勘十郎久英花押」二尺三寸五分
- 金象嵌「四胴山野加飢右衛門六十八歳ニテ截断永久(花押) 于時寛文五年二月廿五日」
- 「弘化三年十月日固山備前介宗次摺上之/同年十二月六日乳割土壇払山田五三郎試之」一尺六寸八分半
- 「寛文九年四月十一日二つ胴落、人見伝兵衛重次花押」
系譜
長曽禰
- 「ながそね」は、長曽根、長曾根、長曽禰、長曾禰などと表記されることも多いが、虎徹や他の長曽禰一族も「長曽祢」と銘している。
- 長曽禰の一族は近江にルーツを持つ、主に甲冑などを作る鍛冶集団であった。室町時代から記録が散見されるが、江戸中期以降は優れた者がいなかったためか、長曽禰の名を冠する者はいないと言う。
- 日光東照宮に長曽禰一族が作った金具があることから、東照宮建立当時はそれなりの知名度があったとされる。一門には、長曽禰才一、長曽禰興寛、長曽禰三右衛門利光、長曽禰播一山、長曽禰助七などがおり、興里もその一人である。また一説には、門人の興正は興里の甲冑師時代からの助手であったと言う。
- 甲冑師であった長曽禰興里が江戸に移住後刀鍛冶に転職し一門を旗揚げする。開祖長曽禰興里をはじめ、二代目長曽禰興正、興久、興直。また、大坂に長曽禰長広なる刀鍛冶がいる。
- 「懐宝剣尺」では、初代、二代が最上大業物14工に入っている。
長曽祢興正
二代虎徹興正
新刀最上作にして最上業物
- 通称庄兵衛。
- 長曽祢虎徹興里の門人で後に養子となり、虎徹の名を継いで二代目となる。
- 銘「長曽祢興正」、「長曽祢虎徹興正」
- 刀
- 銘「長曽祢興正」。昭和17年(1942年)12月16日、重要美術品指定。子爵土屋伊直所持。
長曽祢興久
- 門弟とされる
- 金象嵌「寛文六年十二月廿一日二つ胴截断、山野加右衛門六十九歳永久花押」一尺八寸七分
長曽祢興直
- 門弟とされる
- 在銘作が皆無に近い
関連項目
逸話
近藤勇
- 作家子母沢寛の「新選組異聞」では、以下の三説をあげている。
- 子母沢はこれ以外に、近藤勇が徳川家から贈られたという刀を、金子堅太郎(政治家・枢密感顧問を歴任)が所持していたが関東大震災で焼けた、という話も載せている。これによれば、上記三説と合わせて4つの入手経路となる。
- 最初のものが偽物、後二者は真の虎徹ということになるが、近藤は江戸の刀屋萬六で買った刀を愛用したようだ。※萬六は山浦清麿の刀に鍛冶平に虎徹の銘を入れさせて金五十両で納めたという。
- いずれにしろ近藤本人は虎徹であると信じきっていたようで、池田屋事件の後、養父宛てに次のように書き送っている。
永倉(新八)の刀は折れ、沖田(総司)の刀は帽子折れ、藤堂(平助)の刃は刃切(はさき)さゝらの如く、枠周平は槍を斬り折られ、下拙刀は虎徹故に候哉、無事に御座候
- 金子堅太郎は昭和16年(1941年)刊の自著「日本に還る」でこの近藤の虎徹について語っている。金子は、虎徹の拝観を求める客には近藤が将軍家から拝領したものだと語っていたようだが、新選組側にはそれを裏付ける資料は出ていないという。
私のところに面白い因縁の絡んだ二口の刀がある。
一つは維新の先駆、生野の義擧の盟首として京都六角の牢に斬られた平野國臣の愛刀青江下坂、もう一つは近藤勇の差した長曽根虎徹。二尺八寸の大業物だ。
「今宵虎徹は血に飢えてゐる……」と、大衆小説に出て來る刀だ。(略)
虎徹の方は近藤が二京(※京都のこと)守護の幕命で新撰組の大將で暴れてゐた頃、將軍家から賜つたもの、何かに無銘だと書いてあつたが、あれは違ふ、打つた年まで彫つてある。伏見、鳥羽の戰ひから逃げて歸つた近藤が中村源兵衛といふ──この人の娘さんがいま川崎市長をしてゐる村井八郎夫人です──品川の本陣に泊つて何かの抵當にそれをこの家に置いたままになつて了つたのを手に入れたのだ。(※平野の青江、混同の虎徹)ニつながら、大震災で焼け、灰の中から拾い出したが、とてももうだめだといふので永いこと焼身のまゝで置いたが、友人がしきりに再生を勧めるので先頃、打直させて見て驚いた。兩方とも焼ける前とちつとも變らない立派な銘刀に生れかはつた。一つは勤王の志、一つは徳川に殉じた近藤の魂、一對にしてもつてゐるところに別な面白さがあらうぢやないか。
- つまり近藤が鳥羽・伏見の戦いの後に品川の中村源兵衛方になにかの抵当で残した虎徹を入手した。関東大震災で焼けて灰の中から拾い上げ長期間放置していたが、友人の勧めで打ち直ししたところ見事蘇ったのだという。
- なお金子は子母澤寛の問い合わせに次のように回答しているが、この問い合わせは修復前ということになる。
私は、ある人から贈られたのであるが虎徹は在銘で、其の友人の処に此の刀の来歴所があり、これによって近藤勇の所持ということが確かである。近藤が京都において活動中、徳川氏より頂戴したものだとのことである。私のところへ来た時はすでに拵はなく、棒鞘となっていた。大正十二年九月の大震災に焼かれ焼身になってしまった。
- さらに2019年7月に、この金子所持の虎徹とされる刀がオークションに出品され話題となった。それによれば、長曽祢虎徹興正(二代虎徹)の作(但し偽銘とのこと)で、鞘には金子の筆と見られる字で神奈川宿の中村家に渡したものを当主の源兵衛から入手した経緯が記されている。
- ※「二京」とは古くは中国で東京(洛陽)と西京(長安)とを指す言葉であったが、日本では明治維新後に江戸城を皇居と定めた頃から現在の京都を「西京」あるいは東西の「二京」と並び呼んだようである。参考)あくまで東西二京の建て前から、京都と江戸をそれぞれ東西の二京として。その後昭和に入る頃には、東京が一の京、京都を二京と呼んでいたのだろうと思われ、ここでの金子は明らかに京都守護のことを「二京守護」と記している。
- なお上記四口のうちのどれに該当するか(あるいは別物なのか)は不明だが、大國魂神社(東京都府中市)には伝近藤勇所持という脇差が少なくとも昭和初年より所蔵されている。
故事
- "虎徹"と改めることになった中国の故事とは、中国前漢時代の将軍李広にちなむ故事のことを指す。
- 将軍李広は武勇に優れ、匈奴と互角に戦い匈奴から「飛将軍」と怖れられた。
飛将軍または飛将とは、「行動が素早く、勇敢な将兵」を意味する言葉。
- この後、武勇に優れた武将の事を李広になぞらえ飛将軍と呼ぶことがある。後漢末期(三国時代)の呂布が飛将軍とよばれたのも李広にちなむ。
水滸伝に登場する弓の名手である花榮も、この逸話になぞらえ「小李広」と呼ばれる。
- この飛将軍こと李広には、「虎と見て石に立つ矢のためしあり」という逸話がある。
- ある時李広の母親が虎に襲われ、李広が駆けつけるまもなく命を落としてしまう。その後李広は凄まじい復讐心で虎を追い、数日後ついに虎を発見し矢を放つ。渾身の一撃ではなった矢は見事命中し、羽ぶくら(矢羽根)近くまで深々と突き刺さったという。
- 李広が虎のそばに寄ってみると、それは虎ではなく虎によく似た石であった。試しに何本かの矢を放ってみるがすべて跳ね返されてしまったという。
- ある人がこのことを揚子雲(揚雄)に話したところ、子雲は「至誠ナレバ則チ金石、為ニ開ク(至誠則金石為開)」といったという(「西京雑記」巻五)。すなわち、誠心誠意で物事を行えば金石をも貫き通すことができるという意味である。
- 虎徹は、この故事にあやかり、「古鉄」を改め「虎徹」と名乗った。
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