新撰組
新選組(しんせんぐみ)
江戸時代末の幕府組織
はじめ松平肥後守(容保)お預り、のち幕臣に取り立てられた
- ※この項では成立過程である壬生浪士についても説明する。
- 新選組の名称については「新撰組」とも書かれるが、ここでは新選組としておく。
新撰組は「撰」の字が正しいか「選」の字が正しいかについて、彼等の物語を書く時には、常に悩まされる問題であるが、煎じ詰めればどちらでもいゝといふ事になる。篠原(泰之進)の手記泰林親日記、同履歴表は、鈴木三樹三郎が篠原と相談しながら書いたといふが、この中に、或は選と書き或は撰と書いて一定してゐない。永倉翁のものは多く撰の字になつてゐるが、伊東武明(甲子太郎)のものには選の字が随所にある。
それよりも第一、組の所属であつた松平肥後守(松平容保)が組へ出した感状に選の字があつたり撰の字があつたりしてゐる。全く同一筆跡で、引つゞいて二度出したものに、前のは選とあり後のは撰とある。新選組の「選」の字が、選を用うるべきか、撰を用うるべきかについては、私はどちらでもいいと解釈した。肝心の近藤でさえが、時に選を用い、時に撰を用いている。組の総代として公式に会津侯へ差出した書面には撰の字を用いてあるのが多いが、その会津侯が組へ賜る諸書状は、大てい選の字が使ってある。この時代のこうした生活の人達はただ音便に当嵌めて、自分の書きやすい便利な字を書いたようなところがある。
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結成
「浪士組」
- 文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集する。※新選組・新徴組の前身組織。
- 翌文久3年(1863年)2月5日、鵜殿は浪士組参加者を伝通院に召集して諸注意・道中編制を発表した。浪士取締役には、松平上総介、鵜殿鳩翁、窪田鎮勝、山岡鉄太郎、松岡萬、中條金之助、佐々木只三郎らが任じられた。
幕府、浪士取締役鵜殿長鋭「鵜殿鳩翁・元民部少輔」をあらためて同取扱に任じ、浪士取締役山岡鉄太郎「山岡高歩」・同松岡万等と共に、清川八郎「清川正明・庄内人」の浪士組を率いて京に上らしむ。
ただし2月4日に松平上総介は取締役を辞任、後任には鵜殿鳩翁がついた。また取締役のうち中条と窪田は江戸に残り、遅れて応募してくる浪士たちに対応することとなった。
- 2月12日、集まった200名余りの浪士たちは将軍上洛に先がけて「浪士組」として一団を成し、中山道を西上した。
- この時、後に壬生浪士組となる近藤らは三番隊にわけられている。
- 三番隊1 - 芹沢鴨・近藤勇・山南敬助・土方歳三・永倉新八・沖田総司・原田左之助・藤堂平助・平山五郎・野口健司・平間重助ほか ※のち六番隊
- 三番隊2 - 新見錦・阿比類鋭三郎・井上源三郎・沖田林太郎ほか
なお浪士組全体では七番隊までの計234名と膨れ上がった。またこの編制発表後、何らかの理由で近藤勇は先回りして浪士達の宿割りをする役目(道中先番宿割)に、芹沢鴨は上洛途中で浪士取締役付きに、また芹沢が伍長となっていた三番隊は六番隊になっている。
- 2月23日、京都壬生村に到着。各隊ごとに壬生村会所や寺、郷士宅に分宿する。この時、近藤ら10人は壬生の八木家に宿泊することとなった。
幕府の浪士組、京に入る。明日、隊士清川八郎等百十八人、書を学習院に上り、闕下守護・尊攘遂行の志願を陳ず。
- しかし壬生に着いた翌日から、清河八郎は同志とともに図り、浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷(学習院)へ提出する。これに驚いた幕府から3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが2度延期され、3月13日に清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かった。
「壬生浪士組」
- なお清河に反対した芹沢・近藤らは京都守護職を務めていた会津藩預かりとなってそのまま京都に残り、「壬生浪士組」を名乗る(後の新選組)。
- のち京都守護職会津藩預かりとなっていた「壬生浪士組」は、八月十八日の政変に出動し、堺町御門を警護している。
江戸へ帰還した清川らであったが、4月13日に幕臣の佐々木只三郎・窪田泉太郎ほか4名によって麻布一ノ橋で斬殺され、清河の同志達も次々と捕縛される。これにより浪士組は組織目的を失い、幕府では浪士組を新たに「新徴組」と名付け、江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。
- この後大坂へ下り、同士を募っている。
壬生浪士組組織
- 局長
- 芹沢鴨*、近藤勇、新見錦*
- 副長
- 山南敬助、土方歳三
- 副長助勤
- 沖田総司、永倉新八、原田左之助、藤堂平助、井上源三郎、平山五郎*、野口健司*、平間重助*、斎藤一、尾形俊太郎、山崎烝、谷三十郎、松原忠司、安藤早太郎
- 諸士調役兼監察
- 島田魁、川島勝司、林信太郎
「新選組」発足
- 文久3年(1863年)に起きた八月十八日の政変後、芹沢・近藤らによる「壬生浪士組」の活躍が認められ、後に「新選組」の名を賜り、新選組が発足する。
- その後近藤らは、文久3年(1863年)9月に新見錦を切腹に追い込み、芹沢鴨や平山五郎などを自らの手で暗殺する。平間重助は逐電、野口健司は同年12月に切腹。
- これにより権力を握った近藤が新選組局長に就任し、歳三は副長となる。試衛館仲間であった副長の山南敬助は総長に就任する。
- 局長
- 近藤勇(天然理心流 試衛館)
- 総長
- 山南敬助(天然理心流 試衛館)
- 副長
- 土方歳三(天然理心流 試衛館)
- この頃、近藤勇が佐藤彦五郎宛に送った手紙に、差料のことなどが書かれている。
土方氏(歳三)も無事罷在候。殊に刀は和泉守兼定二尺八寸、脇差は一尺九寸五分堀川國廣。扨(さて)、脇差長き程、宜く御座候。下拙儀も当時脇差二尺三寸五分御座候。実地場に至り候ては、必定刀損じ申す可く候。万一折れ申候節には長きに限り申す可く候。
特に荒木又右衛門は桜井切掛候節、刀折れ、其節脇差二尺二寸五分有之候ゆへ、尤脇差働と存じ奉り候。折れ申候刀は伊賀守金道、二尺八寸五分有之候。先頃荒木家にて一覧仕候。殊の外美事の品に御座候得共、右の脇差の事に御座候間、必小は長きに限り申す可く候。- 後半は、江戸初期の「鍵屋の辻の決闘」(日本三大仇討のひとつ)で活躍した荒木又右衛門の例を上げ、打刀が折れた時のことを考慮し脇差は長いほど良いという話をしている。
池田屋事件
- 翌元治元年(1864年)6月5日、史上名高い池田屋事件が起こる。
八月十八日の政変後も、尊王攘夷派は勢力挽回を試み活動を継続する。四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)方において武器や長州藩との書簡等を発見したことからこれを捕縛し、拷問により自白させる。
自白により得られた計画内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ動座させる(連れ去る)」というもので、この情報に基づいた探索により、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋(丹虎)に於いて行われる事を突き止める。
- 当日亥の刻(22時頃)すぎ、近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見し、数名で突入する。20数名の尊攘派に対し当初踏み込んだのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で、残りは屋外を固めた。途中沖田は労咳の発作で吐血し離脱、また藤堂も鉢金を取ったところを額を割られ、こちらも離脱する。
- 一方、土方歳三は半隊を率いて長州藩士・土佐藩士らが頻繁に出入りしていた四国屋(丹虎)方面を探索して廻ったが、こちらは誰もいなかった。すぐに近藤・沖田らが担当していた池田屋に向かう。
- 新選組側は一時は近藤・永倉の2人となるが土方隊の到着により戦局は新選組に有利に傾き、方針を「斬り捨て」から「捕縛」に変更。9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。
- 池田屋に到着した土方は直ちに突入せずに池田屋の周りを固め、後から駆けつけた会津藩・桑名藩の兵が池田屋に侵入するのを阻み、新選組の手柄を守る行動をとっている。この結果、池田屋事件の恩賞は破格のものとなり、天下に新選組の勇名が轟いた。
- この池田屋の変ののち、近藤勇が養父近藤周斎宛に送った手紙にこの時の状況が書かれている。
兼て徒党の多勢を相手に、火花を散らして一時余の間、戦闘に及び候処、永倉(新八)の刀は折れ、沖田(総司)の刀は帽子折れ、藤堂(平助)の刀は刃切(はさき)さゝらの如く、枠周平は槍を斬り折られ、下拙刀は虎徹故に候哉、無事に御座候
- その後、8月には禁門の変の鎮圧に参加している。
最盛期
- 第二次隊士募集を行い、さらに近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させたことで、200名を超える集団へと成長を遂げた。この時、隊士を収容するために壬生屯所から西本願寺へ本拠を移転している。
元治元年(1864年)12月編成
- 一番組頭
- 沖田総司(天然理心流 試衛館)
- 二番組頭
- 伊東甲子太郎(常陸志筑藩士の子、神道無念流)
- 三番組頭
- 井上源三郎(天然理心流 試衛館)
- 四番組頭
- 斎藤一(天然理心流 試衛館食客)
- 五番組頭
- 尾形俊太郎
- 六番組頭
- 武田観柳斎(出雲国母里藩士の子)
- 七番組頭
- 松原忠司(大坂浪人)
- 八番組頭
- 谷三十郎(備中松山藩士の子)
山南の脱走
- この後、新選組内部では近藤一派による粛清が行われる。
- 居場所がなくなった山南敬助が元治2年(1865年)2月に脱走し、後を追った沖田総司に大津で追いつかれ捕縛。新選組に連れ戻され切腹となっている。介錯は沖田総司。
元治二年(1865年)4月編成
- 一番隊組長
- 沖田総司(天然理心流 試衛館)
- 二番隊組長
- 永倉新八(天然理心流 試衛館食客)
- 三番隊組長
- 斎藤一(天然理心流 試衛館食客)
- 四番隊組長
- 松原忠司(大坂浪人)
- 五番隊組長
- 武田観柳斎(出雲国母里藩士の子)
- 六番隊組長
- 井上源三郎(天然理心流 試衛館)
- 七番隊組長
- 谷三十郎(備中松山藩士の子)
- 八番隊組長
- 藤堂平助(天然理心流 試衛館食客)
- 九番隊組長
- 鈴木三樹三郎(甲子太郎の実弟)
- 十番隊組長
- 原田左之助(天然理心流 試衛館食客)
- 監察方
- 山崎烝、篠原泰之進、新井忠雄、服部武雄、芦屋昇、吉村貫一郎、尾形俊太郎
- 撃剣師範
- 沖田総司、池田小三郎、永倉新八、田中寅三、新井忠雄、斎藤一、吉村貫一郎
- 柔術師範
- 篠原泰之進、梁田佐太郎、松原忠司
- 文学師範
- 伊東甲子太郎、武田観柳斎、司馬良作、尾形俊太郎、毛内有之助
- 砲術師範
- 清原清、阿部十郎
- 馬術師範
- 安富才助
- 槍術師範
- 谷三十郎
元治二年(1865年)12月編成時組長
- 一番組
- 沖田総司
- 二番組
- 永倉新八
- 三番組
- 斎藤一
- 四番組
- 井上源三郎
- 五番組
- 谷三十郎
- 六番組
- 藤堂平助
- 七番組
- 原田左之助
- その後も河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎らを切腹あるいは斬殺させている。※谷三十郎については諸説あり。
油小路事件
- 慶応3年(1867年)3月には伊東甲子太郎が「御陵衛士」を作り新選組を離脱。伊東三木三郎、篠原泰之進、藤堂平助、服部武雄ら15名が分離する。
- しかしこれも11月に近藤の七条の妾宅に伊東を招いて酒宴を張り、帰路に新選組隊士の大石鍬次郎らが待ち伏せて槍を以って伊東を暗殺した。その後伊東の死骸を油小路七条の辻に伊東の遺骸を放置して同志をおびき出し、藤堂平助・篠原泰之進・鈴木三樹三郎・服部武雄らを惨殺している(油小路事件)。
大政奉還~鳥羽・伏見の戦い
- 慶応2年(1866年)第二次長州征討の最中に14代将軍徳川家茂が大坂城で急死、5ヶ月後に徳川慶喜が15代将軍を継ぐが、同月に孝明天皇が崩御する。第二次長州征討と兵庫開港をめぐって四侯会議を招集し議論することになる。
- 慶喜側の粘りにより、兵庫開港許可および長州寛典論は明治天皇の勅許を得、四侯会議を主導した薩摩の思惑は大きく外れることとなる。ここにいたり、西郷・大久保らは武力倒幕へと大きく舵を切る事になる。
- 薩摩藩は岩倉具視と組み、倒幕の密勅降命に向け工作を行うが、その機先を制し、慶応3年(1867年)10月14日徳川慶喜は大政奉還を奏上し、翌日勅許された。
- 続いて将軍職の辞任も申し出るが、これについては列侯会議の招集までとの期限付きで延期される中、12月9日雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)による朝廷内でのクーデターが起こり、王政復古の大号令により幕府廃止と新体制樹立を宣言した。
- 薩摩藩主導により、慶喜に対し内大臣職辞職と幕府領地の朝廷への返納を決定し(辞官納地)、禁門の変以来京都を追われていた長州藩の復権を認めた。慶喜は辞官納地を拒否しつつ大坂城に移動するが、12月23日には江戸城西ノ丸が焼失、江戸薩摩藩邸の焼討事件などが起こると会津・桑名両藩兵は京都へ向けて行軍を開始する。
- そして慶応4年(1868年)1月2日、幕府軍艦により兵庫沖に停泊していた薩摩藩軍艦に対する砲撃が開始され、これを契機に戊辰戦争の緒戦、鳥羽・伏見の戦いが始まる。
- 新選組もこれに参加するが、井上源三郎ほか14名が戦死し、その後1月10日には軍艦富士山丸と順動丸で江戸へ回送される。
解散
- この後、近藤は「大久保大和」、歳三は「内藤隼人」と変名を名乗って甲斐国に向かう。しかし3月6日の甲州勝沼の戦いで敗戦する。12日には永倉新八、原田左之助らが靖兵隊を結成し離隊する。
永倉らは、永倉と同じ松前藩の脱藩で神道無念流の同門芳賀宜道を隊長として靖兵隊 を結成。江戸城明け渡しが決定した後に江戸を脱出する。
永倉は北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められている。明治後は小樽などに住み、大正4年(1915年)死去。享年77。 一方の原田は江戸に戻って彰義隊に加入、上野戦争の際に負傷し、その傷がもとで慶応4年1868年7月6日に死亡したという。享年29。
- その後流山で再起を図っていたが、4月3日新政府軍に包囲された後、近藤勇が投降、4月25日に板橋刑場において処刑される。
沖田総司はこの前から体調が悪化(肺結核)しており、途中で落伍し千駄ヶ谷の植木屋に匿われ近藤の斬首から2ヶ月後に病死している。
- 4月11日に江戸開城が成立すると土方らは江戸を脱出し、下館・下妻を経て宇都宮城の戦いに勝利、宇都宮城を陥落させる。この際に土方歳三は足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなった。会津では約3ヶ月間の療養生活を送っている。
- 戦線復帰後、母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化し、土方歳三は援軍を求めて庄内藩、次いで仙台へ向かう。この頃、会津城下に残った山口二郎(斎藤一)達と、仙台へ天寧寺から離脱した隊士達とに新選組は分裂する。
- 土方歳三は仙台で榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流、新選組生き残り隊士に桑名藩士らを加えて太江丸に乗船し、榎本らと共に10月12日仙台折浜を出航し、蝦夷地に渡った。
- 二股口の戦い等で活躍するも、すでに新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた隊士たちを助けようと土方ら数名が助けに向かうが、土方が銃弾に当たり戦死し、食料や水も尽きてきたため、新選組は降伏する。
- 榎本武揚らは新政府軍に降伏し、これにより鳥羽・伏見の戦いから始まった戊辰戦争は終結した。
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