山本悌二郎


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 山本悌二郎(やまもとていじろう)

実業家、政治家、愛刀家
農林大臣
号 二峯(二峰)、澄懐堂

たとえば山本悌二郎先生顕彰会による「山本悌二郎先生」では"二峯"としており、二峰先生小傳編纂會による「山本二峰先生小傳」では会の名前自体が"二峰"である。「先生は二峯という雅号があった。これは郷里佐渡ヶ島には、大佐渡山脈と小佐渡山脈の二つの峯のあることと、「悌二郎」の「二」をとったものと思われる。」
 山本自身が用いた所蔵印を見ると、山偏の入った"峰"のほうが多いが、山冠の"峯"も使っている。自ら書いたという墓碑銘は「二峰山本悌二郎墓」と刻む。

Table of Contents

 生涯

  • 明治3年(1870年)1月10日、新潟県佐渡の漢方医山本桂の次男として生まれる。
    祖母が多治見氏で、母は島倉氏。この母の実家・島倉家は佐渡では知られた名家で、三男までは幼い頃にこの島倉家に預けられ祖母の教育を受けたという。
     医師・言語学者として知られた司馬凌海(島倉伊之助、のち島をもじった司馬氏に改姓)もこの島倉氏の出で、作家司馬遼太郎の「胡蝶の夢」の主人公の一人として描かれた。凌海息子の司馬亨太郎は東宮御用掛、学習院教授。凌海娘の文子は女流棋士。のち能楽師で喜多流14代家元の喜多六平太に嫁いだ。夢野久作の著作に伝記「近世快人伝」があり、「喜多文子」は未完である。
    山本桂──山本桂─┬山本一郎━━━山本九郎──山本純太郎
    (蜀水) (訥斎)├山本悌二郎──山本義次──山本寅蔵
             ├原鉄三郎(王子製紙)
             ├山本四郎(早世)
             ├多治見五郎(多治見は祖母の実家)
             ├山本六郎(早世)
             ├山本菊子(佐野喜平次と結婚)
             ├有田八郎(外務大臣など歴任)
             ├山本九郎(医学博士)
             ├山本雪子(井上元成と結婚)
             └山本茂(早世)
    
    第一次近衛内閣・平沼内閣・米内内閣で外務大臣として入閣した有田八郎は実弟。有田は山本家に生まれ、有田家の養子となった。三島由紀夫の「宴のあと」にモデルとして描かれ、有田はこれに対して法定で争っている。この事件は日本初のプライバシー侵害裁判として話題となった。宴のあと - Wikipedia 「宴のあと」事件 第一審
  • 明治15年(1882年)上京、一時期二松学舎に在籍した後、獨逸学協会学校(現・獨協中学・高等学校)に転校しドイツ語を学ぶ。
  • 明治19年(1886年)に同校を卒業後、宮内省給費生としてドイツに留学し、経済学・農芸化学を学ぶ。ライプツィヒ大学の提出論文は「獨逸に於ける牛の蓄養助成に對する國家的慮置と公共的調整に就て」
  • 明治27年(1894年)に帰国。宮内省御料局嘱託、第二高等学校教授、日本勧業銀行鑑定課長を経て、明治33年(1900年)台湾製糖(三井製糖の前身企業の一つ)の設立に参画し常務取締役支配人となる。大正10年(1921年)社長に就任する。
    台湾製糖株式会社は日本統治時代の台湾に創立され、台湾最初の新式製糖工場を建設した製糖会社。井上馨の政治的勢力の後援のもと三井財閥(三井物産の主導)、毛利その他株主数95名をもって1900年(明治33年)12月に設立された。設立当初の資本金は100万円で、発起人に鈴木藤三郎(初代社長)、山本悌二郎(支配人)、ロバート・W・アーウィン(相談役)、益田孝、田島信夫、上田安三郎(三井創業時からの社員)、武智直道(4代目社長。アーウィンの身内)、長尾三十郎。
     山本は、明治34年(1901年)2月2日に同社支配人、明治37年(1904年)8月20日に取締役、明治38年(1905年)3月23日に同社常務取締役、明治43年(1910年)7月29日に専務取締役(別本では8月)、大正10年(1921年)10月28日に同社取締役会長兼取締役、大正14年(1925年)10月28日同社社長、昭和2年(1927年)4月20日に社長辞任。同日農業大臣就任。

    なお台灣の屏東県来義郷には大正12年(1923年)に竣工したという地下ダム「二峰圳(にほうしゅう)」がある。これは台湾製糖に勤務していた鳥居信平が計画したもので、台湾製糖の社長であった山本悌二郎の雅号「二峰」にちなんで命名されている。近年二峰圳は河床が下がって頻繁に浚渫が行われたために地下堰が損傷したり、水路が砂礫などで閉塞して給水に影響が出るようになっていた。台湾政府はこれを修復し、2022年7月23日、二峰圳のある喜楽発発吾森林公園において、蔡英文総統を始めとした台湾政府などの要職者が出席して100年記念式典が行われた。
  • 明治37年(1904年)、第9回衆議院議員総選挙に立憲政友会から旧新潟1区にて立候補し当選する。以後当選11回。政友会内で重鎮として重きをなし、10名程度の派閥を率いていた。
    • 当選回数11回、在任期間:1904年3月2日 - 1937年4月30日
  • 昭和2年(1927年)に田中義一内閣および、昭和6年(1931年)に犬養内閣で、それぞれ農林大臣として入閣している。
  1. 第5代 農林大臣:田中義一内閣。在任期間 1927年4月20日 - 1929年7月2日
  2. 第7代 農林大臣:犬養内閣。在任期間 1931年12月13日 - 1932年5月26日
  • 昭和12年(1937年)12月14日、会頭を務める大東文化協会で、理事会を終えて午前11時に廊下に出た時に脳溢血のため倒れる。同日、同協会の応接室にて午後7時40分薨去、満67歳。

 中国書画蒐集

  • 中国書画の蒐集でも知られ、その数は「澄懐堂書画目録」全12巻に載ったものが1176件、録外のものが約二千点あったという。

     二峰先生が亡くなられたのは、昭和十二年(一九三七年)六十七歳のときであった。それまで二峰先生は、俗に”五本木”といわれる東京・上目黒の、面積二万三千坪に及ぶ山本邸の書斎で、書画を相手に自適されていた。
     書斎といっても、これは、ドイツ式の洋館で、建坪は、優に二百坪はある。日本家屋の母屋(四百坪)とは、赤いジュウタンを敷いた百五十メートルの廊下で結び、冬はこの廊下だけで、石炭ストーブ二基が焚かれていた。二峰先生は、山本邸の玄関に翁同龢の書額「澄懐堂」を懸げ、この書斎を「澄懐堂」と名づけ、中国美術、なかでも宋・元・明・清の書画に埋もれて生活していたわけだ。

    澄懐堂(ちょうかいどう)とは山本の号の一つであり、「張彦遠歴代名画記」の「宗炳伝」の「唯当澄懐観道臥以遊之」から取ったものという。山本が蒐集した多くの美術品は、側近で実業家であった猪熊信行氏により受け継がれ、現在は三重県四日市市の澄懐堂美術館所蔵となっている。

  • 作家・志賀直哉が芥川龍之介と共に所蔵画を見せてもらいにいった話が「沓掛にて-芥川君のこと-」に残る。

    目黒の山本悌二郎氏の家に、支那畫を見せて貰ひに行つた時、どういふ繪を見るか、目録から芥川君にそれを選んで貰つた。寫眞は前から決めてゐた物きり撮らなかつたが、芥川君は支那畫に精しく、選んでくれた物は大體いゝものだつた。山本氏も氣輕に色々見せて呉れた。晝になり吾々はひる飯の御馳走になつたが山本氏は用事で出掛けねばならぬと洋服に着かへ、再び出て來て吾々の食事をしてゐる傍で話し込んでゐた。

    志賀直哉のいう「目録」とは恐らく「澄懐堂書画目録」だと思われる。

  • 記者・文芸評論家の青野季吉は、彼の蒐集画を評して次のように述べている。

     私は「澄懐堂書画目録」十二巻、「宋元明清書画名賢詳伝」十六巻の大著を残した氏を、特に尊敬と興味をもって眺めている。
     これは政治家の余技、趣味家の好事とするには、余りにも巨きな仕事で、むしろ優れた学者のライフ・ウワークの重量を具へてゐる。この探究と徹底の心熱はいったい何処から来たのか。私は、実業の成功や政治の達成では、たうてい満たされない夢をそれに託したのだと、観察しないではをれない。情熱の人としての氏の夢が、実業や政治の限界にとどまってゐることが出来ないのは当然であり、それらの大著は、情熱の奏でる夢の深さ、精神の飢餓の底の知れ無さを物語る以外のものではない。

    青野季吉の息子に小説家・元多摩美大教授の青野聰がいる。

 刀剣

  • 山本は、大正から昭和初期にかけて関東屈指の蒐集量を誇った刀剣家として知られる。

     刀劍に對する山本さんの趣味と蒐藏とは、支那書画と同様、實に天下の偉觀であつた。僕と山本さんとを連結せしめたのは、此の刀劍に對する理解が、大に手傳つて居るのであるから、特に詳細に記すが、一時が古備前正恒以下壹千刀に及んだ。
     此等は松平頼平、小倉惣右衛門、齋藤榮寛、本阿彌光遜等の斯道の達人によつて、鑑査購入せられたるものであつたから、悉く同好の研究資料たらざるものはなく、其の上山本さんが上述せし通り、神品秘寶を全國各地に貸出して、同好の士を喜ばしたから、今日我が國刀劍趣味の横溢、世上鑑識眼の向上に資したることは、非常なるものである。これは實に山本さんの賜のである。

  • のち中央刀剣会の第5代会頭を務めている。

     大正九年頃と記臆するが、推されて中央刀劍會の會長となり、更に一層斯道普及向上の爲めに畫されたのである。豫備海軍少佐末岡武俊君を聘して。同會の専任幹事として、同會の庶務一切を擔任させ、同君には毎月百五十圓の給料を支給し、此等は一切氏の私費を以て支辯した。爾来中央刀劍會に於て、死藏せる積立金を以て、土屋押形埋忠押形、光山押形古今鍛冶備考、肥後金工録、國廣考、忠吉等の等の書籍を發行せしめて、同好の士に頒布した。又自費を投じて虎徹會、國廣會、忠吉會等の特殊の銘刀陳列會を催し、斯界の研究に特別の示唆を與へ、或は自家所藏の銘刀を預けて陳列し、都下の愛刀家を招待する等、殆んど凡人の企て及ばざることを決行した。中央刀劍會の死藏金を以て、上述の諸書籍を發行した爲めに、約六千圓ばかりの消費をなしたのであるが、同會に相當の金額を寄附して、本會々長を引受けた時と同じ狀態にして、退却したいと云ふことを、常に表示して居られたが、夫の國體明徴問題で奔走等多忙の爲に、如此公的性質を帯ふる會に關係することは、遠慮すべきであることは、遠慮すべきであるとして、遽に其職を辭せられ、平素の言責を果すことが出來なかつた當時山本さんの云はるゝのには、何時かは自分の言責を果す積りであるが、若し間違つて言責を果し得ざる時は、君の手にて果して呉れと、僕が其の遺嘱を受けて居るのである。然るに僕も爾来碌々、今以て此遺嘱を果し得ないのは、誠に申譯なき次第である。
     中央刀劍會は九段の遊就館に附屬し、同館長は常に同會の副會頭に就任するが慣例であつて、會頭は刀劍に十分の趣味と、鑑識力とある名士から選任することになつて居り、毎年 畏くも宮内省より壹千圓宛の御下賜金を賜はる慣例となつて居る。山本さんが會長に就任するまでは、役員の選任等も頗る官僚的であつたが、氏は小倉惣右衛門、本阿彌光遜、平井千葉等の諸氏を役員中に加へ從來尠からず輕視された職業人の向上を計られたのは、斯界の爲めに感謝す可きことである。

    國體明徴問題=国体明徴問題とは、美濃部達吉のいわゆる天皇機関説に端を発した一連の政治問題のこと。この問題を契機として思想統制が一段と強化されることとなっていく。

徳善院貞宗
信忠から三法師、秀吉。歿後、前田徳善院に形見分け。家康、紀州徳川家。大正13年(1924年)の売立で山本が入手。のち三井家が購入し、現在は三井記念美術館蔵所蔵
加藤国広
加藤清正所持。娘八十姫(瑤林院)が紀州徳川頼宣へ輿入れした際に持参させ紀州徳川家に。吉宗が将軍家に持込み、田安家に移る。昭和のはじめに売りに出されたのを山本が購入している。のち三井八郎右衛門11代三井高公氏が購入した。現在は三井記念美術館所蔵。
左近将監助光
阿部忠秋が隅田川を騎馬で渡り切ったことを賞され家光より拝領したという刀。堀部直臣から井田栄三と渡った後に山本が入手。その後は宇佐美莞爾田口儀之助と渡って行った。
  • 「僕の見たる山本悌二郎先生」で紹介されている刀剣。
古備前正恒
成瀬子爵伝来
一文字則宗
前橋松平子爵伝来
一文字吉房
四国揚家旧蔵
光忠
一橋家伝来
光忠
五月雨と号す。杉山茂丸旧蔵
国宗
揚家旧蔵
雲次
前田公爵家伝来
景光
揚家旧蔵
兼光
富田鐵之助氏旧蔵 ※第2代日銀総裁
長義
因州池田公爵家伝来
義光
伊豫西條松平家伝来
粟田口国吉
西條松平家伝来
吉光
因州池田家家老 荒尾志摩伝来
綾小路定吉
 
日向正宗
紀伊徳川公爵家伝来
徳善院貞宗
西條松平家伝来
包永
西條松平家伝来
則長
揚家旧蔵
左安吉
西條松平家伝来
直綱
揚家旧蔵
加藤国広
田安子爵家伝来
皆切虎徹
 
天和裏銘助広
 
井上真改
 
用恵国包
 
慶長裏銘兼若
 
肥前忠吉
 
康継
徳川家康駿府差料

 その他

  • 関東大震災でも、当時網屋に預けていた多数の刀剣を焼失している。
    網屋」は江戸から続いた刀商。小倉惣右衛門。
  • 来国行

    長約二尺三寸五分 因州池田家伝来

  • 一文字則房刀

    長二尺二寸 折返し銘 号見かへり

  • 村正

    長二尺三寸五分 銘勢州桑名住村正 福地源一郎舊蔵

  • 左安吉短刀、来光包短刀
  • 備前長船兼光短刀

    號蓮華 讃州揚家伝来

 売立

  • 入閣などの際に入り用だったのか、昭和4年(1929年)10月3日に東京美術倶楽部にて売立を行っている。主なものは次の通り。

    昭和四年當時刀剣会長の山本悌二郎氏が秘藏の刀劍百數十振を賣り立てたことがあるが、その總額僅に二萬七千圓、一番高價に賣れた無銘助太刀拵でさへ八百五十圓といふ値であつた。

    山本さんが、その後半生を政黨政治家として、政友會の爲めに盡悴した事は、僕が今更ら述べなくても、何人にも知悉せられる所である。殊に横田千之助氏の沒後、田中義一氏を擁して奮闘した事は、政友會に取つて、忘る可からざる恩人である。田中氏が入黨した野黨當時の事は、已に委曲を盡したが大命拝受後と雖も、氏は田中氏の爲めに財的に努力した。僕の記憶に依ると、百六萬圓の黨費を作つて、田中氏を助けたのである。田中氏沒後犬養氏を擁立し、其の野黨當時には五十萬を犬養内閣の當時には貳百萬圓を、其選擧に際して調達したる事を記憶する。之等は事金銭に關する事であり、國士を以て任ずる彼は、之等の事實を口外するを甚しく嫌つたのであるが、今日は最早、田中氏も犬養氏も瞑目されて居るのであるから、茲に當時の記憶を述懐する次第である。

 著作

 犬好き

  • 山本は犬好きで知られ、ハチ公の話を聞いて感激し「忠狗行」という漢詩を贈っている。昭和9年(1934年)に澁谷の初代ハチ公の像(安藤照による作)が作られた際、この漢詩が題詩として鋳刻された。
    この初代銅像は戦時中に金属類回収令が施行され金属供出の対象となった。保存運動が起こったため一時的に保管という形で移動することになったが、玉音放送の前日に8月14日に鉄道省浜松工機部で溶解されてしまい、機関車の部品となったという。

 関連項目


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